――愚かなバルド。お前は最も信用してはならない雄に、この雌を託した。




   Forbidden affair





 
藍閃の街に入り、夜の裏通りの様子にライは眉をひそめた。
 いくら失躯の発症がなくなったからといって、いまだ雄に釣り合うほど雌の数が増えた訳でもない。つまるところ、発情期の街では目を背けるような惨事があちらこちらで発生していた。

 己には関係ない事と思えど、確かに身体は微妙なだるさを感じ始めている。
 寄ってくる鬱陶しい雄どもを脅し時には斬りつけ、ライは宿屋の前に辿り着いた。そこにいるはずのつがいを思い、扉を押し開ける。


「いらっしゃいませー。……あ、ライ!」

 ――だが宿にいたのは、ひとのものとなった雌一匹だけだった。





「……お前だけか。あいつはどうした」

「んー、ちょっと出掛けてて。それより元気そうね」

「……まあな」


 立ち上がった雌猫―― は、フードを被っていた。この猫がこの格好をするという事はその夫たる猫が宿にいない事を示す。分かりきった事を確認したライは、小さく顔をしかめた。
 ……何故こんな日に を一匹で置いていっているのか。


「……ごめん。今満室で、まだ部屋に入れないの。もう少ししたら出るって言われたんだけど……連絡してくれたのに、悪いわね」

「構わん。しばらく食堂ででも待っている」

 フードの下から が申し訳なさそうに告げる。ライはぞんざいに答えると、ふと の様子に気付き目を眇めた。
 カウンターの奥に収まった顔が、薄暗い中でもはっきり分かるほど紅潮している。……発熱しているのだろうか。


「おいお前、調子でも悪いのか。――っ」

「…ッ!」

 何気なく触れた指先に、痺れるような衝撃が走り抜けた。






「…………」

「……あ……」

 わずかな名残の残る指先を、ライは呆然として見つめた。次いで の顔に目をやる。 は気まずげに目を逸らし、俯いてしまった。

「お前、まさか――」

「…………」

 何も語らない雌猫の様子に、疑惑が確信に変わる。ライは衝動的にカウンターに手をつくと、身を乗り出して叫んだ。


「あいつはどうした! お前を置いて、どこに行っている?」

「…………。刹羅に」

 ぽつりと呟かれた言葉にライは目を見張った。 はライを見ないまま、弱い苦笑を浮かべて呟く。

「……少し前に、お義母さんが倒れたって連絡があって……大事無いって書いてあったんだけど、やっぱり気になるみたいだから帰ってるのよ」


 ――倒れた。あの母親が? ライは一瞬信じがたいと思ったが、続く の言葉に得心した。
 大事無いはずだ。そんなタマではなかったのだから。だが――


「……発情期だと、分かっていたのにか?」

 切り返した問いに、 は一瞬言葉に詰まった。だがまた全てを受け入れたような吐息をつき、声を重ねる。

「……今回はね、バルドの方が早かったのよ。だから、アイツの衝動を解消して……そしたらきっと私も終わったって早とちりしちゃったみたいね。そのまま飛んでいっちゃった。……アイツのあんなに慌てた顔、久し振りに見たわ」

 クスクスと が苦笑を漏らす。バルドの様子を思い出しているのだろう。
 だがその顔は徐々に赤みを増し、息が苦しげに上がってきている。……何故そこで笑えるのかライには全く理解できなかった。


「お前は何も言わなかったのか。自分はまだだと。……第一、お前たちが終わったとしても発情期中は危険に違いないだろう。それを奴は考えなかったのか?」

  が目を見張る。スッと視線を伏せて一瞬考え込むと、次にその瞳はライを真っ直ぐに見上げた。

「――私が言ったの。行ってって。……バルドは心配してくれたわ。だけど大丈夫だからって、私が送り出した。アイツが行かなきゃ私が行ってたわ」


 澱みなく告げられた言葉に、何かがジリ、と煽られた。
 こんな状況にあってもなお雄猫をかばう の姿に、何故だか苛立ちが湧いてくる。


「どこが大丈夫だ。現に――」

「……アンタが来る事が、分かってたから。バルドも安心したんだと思う。……大丈夫。明日の夜には帰ってくるし――」

 知れず漏れた声を遮り、 が告げた。その後に安堵したような笑みを向けられ、頭の中で何かが焼き切れた。



「――来い」

「え……? ――あっ! ちょっと、なに…!?」


 細い手首を掴み、雌猫を立ち上がらせる。そのまま強引にカウンターから引き出すと、ライは を引いて歩き出した。





 ――そんな目で見るな。そんな、信頼しきったような目で俺を見るな。

 全てを忘れた訳ではない。全てを諦めた訳ではない。

 求め、かつえ、欲しながらも手が届かなかった存在が、いま喉元を晒している。
 そこに付け入るはずがないと考えた時点で、あいつは俺を見誤っていた。




 
 廊下を大股で歩き、ライは片付けの済んだ食堂に を放り込むと後ろ手に鍵を下ろした。

「ライッ! 一体なに――、ッ!」

「……分からないか?」

 勢いでテーブルに手をついた が、キッと振り返る。その正面に立ち雌猫を囲い込むと、 の目に驚愕が浮かんだ。


「な……に言って――」

「分からない訳は……ないな。――本当に大丈夫だと、そう思っているのか。それなら相当めでたい事だな。……明日には街じゅうで最も波が高まる。今夜の裏通りがどんな状況だったか教えてやろうか?」

「……っ」

 畳み掛けるように告げると、 の喉が薄く鳴った。惨状を想像してか、それとも何かを予感してか。
 ライがやって来てから目に見えて具合が悪くなっているように見えるのは、多分思い上がりではない。現にライ自身、抗いがたい疼きがここに来て強まってきた。

「でも…っ」

「フードを被ったところで、お前が雌だと知っている宿泊客だっているだろう。奴がいない事に気付く輩もいる。だがお前は仕事をしなければならない。……そんな中で、本当に身を守りきれるか? 発情期に襲われたらどうなるか、お前だって分かっているはずだ」

「…………」


  が悔しげに目を伏せる。だがテーブルについたその指は、不調を示すように細かく震えていた。――金の指輪をはめた、細い指が。


「ライ……。もう……」

  がかぶりを振る。垂れた金糸をかき分けて顎を掴むと、ライはその顔を上げさせた。


「……苦しいんだろう。だったら俺が楽にしてやる。……深く考える必要はない」

「……そんな……」

 触れる刺激が身を苛むのか。顎を掴まれたまま、 は視線を逸らした。だが抵抗は弱々しく、手を振り払おうとはしない。
 ――あと一言。ライは己の狡さを自覚しながら、 の耳に唇を寄せて呟いた。


「目を瞑っていろ。すぐに終わる。……黙っていれば、気付かれはしない」

「……っ」


  が大きく胸を波立たせる。その目が迷うように揺れ、ライの胸元で止まった。
 そして逡巡した末に雌猫はライへと手を伸ばすと――縋るように服を握り締めた。





 ――愚かなバルド。お前の愛しいつがいは陥落し、今夜だけ俺のものになる。






 テーブルに雌猫を押し付け、自然に仰け反った身体を組み敷く。細い背が硬い木の表面につくと、腰から下だけが中途半端に宙に浮いた。

 『ここで…?』と は問うた。それに対し『だったら私室に行くか』と返すと、 は猛然と抵抗した。奴の気配が色濃く染み付いた場所は、さすがに耐え難いらしい。ライとしてはそれもいいかもしれないなどと自虐的に思っていたのだが。



「……っ、う……」

 首筋に口付けると、 の身体は固く強張った。……緊張している。
 もう何回、何十回。あいつを受け入れたのだろう。抱かれる事に慣れているはずの身体は、ライを拒むように張り詰めた。それに安堵すると同時に、相反する焦燥を感じる。

 だが抵抗などなんの意味も持たない。半開きの唇に己のそれを重ねると、 はわずかに震えたあと従順にライの舌を受け入れた。


「ふ……っん、ン……。ふ……」

 何かを割り切ったのか。それとも襲う熱に抗いきれなくなったのか。 はライの首に手を回すと、自ら舌を絡めてきた。
 陶酔するような、滑らかな動き。それはあの香に煽られて口付けた頃とは格段に違っていて、行為を教え込んだ雄猫の顔が浮かび、ライはいっそう深く唇を重ねた。


 ――目を隠そうかと思った。この猫が自分を見ないように、考えないように。
 だが口付けながら薄く開かれた緑の目を見て、その考えは霧散した。

 ――そうだ、自分を見ろ。この行為を見ろ。目を逸らすな。
 誰に抱かれているのかを……その目に焼き付けろ。



 強張りが解け、徐々に の身体が柔らかくなっていく。元々発情期は理性よりも欲望の力の方が勝り、判断力も鈍る。一度心が陥落すれば、身体を従わせるのは容易かった。
 潤み始めた瞳を見下ろしながら紫の下衣を落とすと、細い脚が宙を掻いた。

「――閉じるな」

「あっ……」

 反射的に閉じようとした脚の間に身体を割り込ませ、浮いた肩を押さえ付ける。膝頭から太腿の表面を撫で上げると、 は熱い息を漏らして眉をひそめた。


 ――見た事のない表情。朱に染まった唇は薄く開かれ、白い牙が覗いている。
 そろそろと手が上がると、吐息をこらえるように甲が口に押し当てられた。
 扇情的なその様子に、発情の衝動とはまた違う雄の欲が煽られる。



「……っ、ふ……、ん……ッ」

 片手は口に当てながらも、 はもう一方の手をライの肩に置き、遠慮がちに首筋などを愛撫した。
 時折ひやりと当たる金属に、その心が誰のものであるかを思い知らされる。だが、外させようとは思わなかった。


 滑らかな肌の感触を堪能し、ライは唇を重ねながら の上着に手を掛けた。
 だがそれを押し上げようとした瞬間、 はハッとしたようにその手を押さえ付けた。


「……ごめん。こっちは……」

 服を掴み、拒絶の視線をライに向けてくる。その指を見つめ、ライは再び手に力を込めた。

「――ちょっと、駄目だってば! これは脱がなくても大丈夫でしょ!?」

「知らん。……俺を受け入れている時点で、抗う事に意味などないと思うが」

「……っ!」


 抵抗する を押さえ込み、上着を引き上げていく。 は今までにないほど強く抗った。……何かを隠している。


 ――やめろ、知るべきではない。そう理性が囁くが、隠されれば逆に暴きたくなるのが猫のさがだ。
 ……見たい。この猫の全てを。あいつと揃いの衣装ではない、まっさらなこいつを。



「……っ」

 そしてライは後悔した。見るべきではなかったと。

「だから……やだって言ったのに……」

 瀟洒な下着に包まれた白い肌に散った、赤い所有の証など。



 ――バルドの方が先に波が来たと は言った。その後すぐに旅立ったのだと。
 つまりは昨日か一昨日か、この身体の上には……あの猫がいた。

 奴はどうこの猫を抱いたのだろう。鳴かせ、喘がせ、妻の身体に思うさま痕を残して果てたのか。
 生々しい雄の痕跡に知らず唸りが込み上げる。手を振り払って再び服を下ろそうとした の手を押さえつけ、ライは下着を剥ぎ取った。ついでとばかりに薄い下穿きも脚から引き抜く。



「ライ…!?」

「黙れ」

「あっ! ――ちょっと、待ってよ…っ」
 

 驚愕し身を起こそうとした を組み敷き、片足を抱え上げる。ライの眼下に白い裸体が晒された。
 隠されていた場所に触れると、そこは既に熱く潤んでいた。蜜を零す亀裂に指をもぐらせると、 がこらえきれぬ高い喘ぎを漏らす。

「ンッ…! ……っ、う……、アッ……! ――ッ……」

 膨れた芽を断続的にこすり上げ、舌で乳房を嬲る。すると は身を捩って急速に昂ぶっていった。
 だがふと思い出したように口に手を当て、漏れ出る吐息をこらえる。それが無性にもどかしく、ライは の手をのけて自分の指をそこに押し当てた。


「ん……っ……、んぁ……」

 唾液にまみれた舌に指を絡ませる。行き場を失った熱を発散するように、 は目を細めるとライの指を緩く噛んだ。
 牙が喰い込み、ざらついた舌が強く指腹を嬲る。何かを必死に訴えるようなその動きに、愛撫の手が強まった。



 上気する肌、涙ぐむ顔、深く指を受け入れた亀裂。
 トロトロと粘液を零すそこはわずかに震え、雌猫の限界を伝えていた。

 交わらずとも、情を交わす事はできる。だが――欲せずにはいられない。




「……ライ!? 待っ――、あっ!」

 性急に下衣をくつろげると、ライは屹立した熱を亀裂に押し当てた。
  がハッとしてそこに手を伸ばす。その手を取って頭上に押し付けると、腕輪がテーブルに当たり硬い金属音を響かせた。


「ん……、ッあ――!」

 両膝を割り、ライは の中へと押し入った。 





 ――熱い。最初にそう思った。
 抵抗のない体内を押し進み、先端が当たるまで一息に貫いた。雌の中は待ち焦がれた雄を欲するように、柔らかくうねっている。根元まで埋め込み息をつくと、 は目を眇めてライを見上げた。

 ――なんで? ……そう言われているような気がした。


 それでも目を開いている の心境が理解できない。目を閉じていれば、錯覚したまま終われただろうに。
 目を閉じていろという思いと、目を逸らすなという思い。矛盾する願望が思考を澱ませる。
 ライは咄嗟に の両目を手のひらで塞ぐと、強く腰を揺すり始めた。



「……ふ、あ……。あ……ッア……、ん…!」

 目の代わりに口を解放された が、押し出されるような喘ぎを上げた。既に口を覆うことも意識にないのか、開いた口からは甘い吐息が漏れ続ける。
 ライは の視界を奪いながら、本能のままに雌を貪った。 の腰が動きを合わせるように揺れ始める。蕩けるような甘い熱が沸き、欲望が満たされていく。



 ――そうだ。何も考えなければいい。錯覚していればいい。
 欲を感じた雌が、同じく欲を感じた雄を求めただけの事。俺を認識する必要はない。

 奴の名を呼べ。奴の代わりにしろ。
 そうすれば――そうすれば欲望のまま抱き潰して、何も感じずお前から離れられる。

 ただ一言。『バルド』――と。





 だが の行動はいつの時も、ライの望みとは微妙に重なり合わないのだ。

「……っ……」

 目を覆った手に の指が重ねられた。そのまま時折震えながらも、指は滑るようにライの腕を辿っていく。雌猫を押さえている肩に触れ、白銀の髪に触れると―― は掠れた吐息と共に呟いた。


「ライ……。……ッ、ライ。――ん、あ、アッ……ライ…っ!」

「――く……っ……、馬鹿が……!」






 本当に、お前は癪に障る猫だ。離れようとしても、麻薬のように俺を引き止める。
 残酷な猫。卑怯な猫。身勝手な猫。

 腹立たしくてならない。こんなにも――お前に執着している俺が。







 目を覆う手を外し、浮いた腰に差し入れる。そのまま抉るように腰を叩きつけると、首に腕が回され引き寄せられた。
 掠れた喘ぎを零す唇を塞ぐ。快楽に細められた目を見据えたまま、ライは を追い上げた。


「ん…、あ……、――ッ!!」

「く……、……っ……」


 細い裸体が固く張り詰める。背筋が反り返り、ライの肩を掴んだまま は達した。
 その身体が弛緩するよりも早く熱を引き抜き、呻き声を上げてライも熱を解き放った。



 ……一瞬、このまま最後まで中で果てようかと思った。この猫との消えない罪の証を残すように。
 だがそんな事をして何になる。余韻の荒い息に紛らわせて、ライは自嘲の苦笑を零した。



  の太腿に散った白濁が、跡を残して床へと伝い落ちていく。ぐったりとした の身体に覆い被さり赤い痣の上を舐めた後、ライは一度だけ白い皮膚を吸い上げた。

 何も残せないのなら――せめて、痣の一つくらいは。






  が胡乱な視線を向ける。ゆっくりとその瞳が伏せられ、胸を覆って起き上がった。

「……ライ。ありが――」

 静かな瞳がライの隻眼を探し、切ないような笑みを形作ろうとした瞬間――ライは を抱きすくめ、再びテーブルへと組み敷いた。



「ライ!?」

「…………」

  が驚愕に目を見開く。強すぎる情動に苦しむ表情が消えても、その顔にはまだ快楽の名残が残っている。



 礼など言う必要はない。この猫を抱いたのは、決して発情を解消するためなどではなかったのだから。

 救ってやろうなどと、思える訳がなかった。
 ただ欲望のためだけに、ただ己の渇きを癒すためだけに――抱いた。


 ライは雌猫の口を封じると、何かを埋めるかのように今一度 を求めていった。





 どれほど身体を重ねても、どれほど抱き尽くしても、己のものにはならない心。
 それを選んだのは であり、また自分自身でもあった。
 後悔はしていない。ただ――与えられた隙を見逃すほど、割り切れた訳でもなかった。








 部屋を変え、白々と夜が明けるまでライは雌猫の身体を貪った。
 抵抗しなかったのは重ねた行為で気力が削がれたからか。それとも憐れんだか。
 ……どちらでもいい。そんな事は、聞きたくもない。


 短い眠りの後、朝食の準備のために雌猫が立ち上がる。
 ややふらつく足取りで扉を押し開けたその背に向かい、ライは問い掛けた。



「……お前は、奴を愛しているか」


 その言葉に今しがたまでこの腕の中にいた猫はゆっくりと振り向いた。目を細め、眉を下げて微笑する。


「……愛しているわ」



 そして名残だけを残して、残酷な雌は扉の奥へと消えた。










 
その身を案じながらも、自分を信じて妻を託していった雄猫と。

 危険を知りながらも夫を送り出し、他の雄を受け入れてまで己の使命を全うした雌猫と。

 ……そしてその雌を貪った自分と。



 本当に愚かなのは誰なのか。


 ――それは、誰にも分からない。



  








END







 (2007.10.18)


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