Forgiven affair




 夜も更けた頃、 は厨房の椅子に腰掛け、何をするともなくぼんやりしていた。
 既に夕食の後片付けも明日の仕込みも終わってしまった。それならさっさと自室に引き上げればいいのだが、すぐに眠りにつけるとも思えない。何より、バルドの匂いが染み付いた寝台に戻る気にはなれなかった。

「はぁ……」

  は何度目とも知れぬ溜息をつくと、額を押さえて項垂れた。



 昨夜、ライに抱かれた。発情期の衝動を散らすため……だけではなかった。最初はそうだったが、その後も夜が明けるまで はライの腕の中にいた。

 ライは昼過ぎになって宿を出て行った。信頼できる近所の猫が何匹か見回りに来てくれて、これで心配ないと判断したのだろうか。それともバルドが帰ってくる前に姿を消そうと思ったのだろうか。
 そのどちらなのかは には判別がつかなかったが、静かに扉をくぐる雄猫の背中を はいつも通りの表情で送り出した。……いつもの顔が、できていたと思う。

  が部屋を出た後は、ふたりとも明け方までの行為については一切口にしなかった。まるで何事もなかったかのように、自然に視線を交わし、そして見送る。
 ……錯覚してしまいそうになった。本当に何もなかったのではないかと。

(……そんなはずがない。全てなかった事になんて、出来る訳がないじゃない……)


 夕食後、厨房に入り鍵を閉めた は愕然とした。なぜ最初からこうしなかったのかと。
 少し考えれば分かる事だ。ひとりで部屋を閉め切っていれば、身体は多少だるくともなんとか乗り切れると。……けれど、あの時はそれができなかった。
 苦しくて苦しくて、ライの手に縋ってしまった。判断力が落ちていたとはいえ、今ならばはっきりと自覚できる。……甘えていたのだと。

 もしも他の猫に同じ提案をされたのなら、受け入れただろうか。――答えはおそらく、否だ。
 求められていると思った。発情だけではなく、別の感情でも。……それならばいいと、心のどこかで思ってはいなかっただろうか。


「……最低……」

  は吐き捨てるように呟くと、己の身体をきつく抱きしめた。


 この身体を、ライは何度も抱いた。バルドの代わりだなどと思えるわけがなかった。あれは確かにライだった。何もかも違う。
 鼻腔を満たす香りも、肌をなぞる手付きも、唇の感触も。……埋められた雄の形や脈動も、打ち付けられる強さすら……バルドとは違っていた。

「……っ……」

 不意にぞくりとした衝動を感じて は顔を上げた。
 体じゅうがライを覚えている。それは数日前にバルドに触れられた事が霞むほど、鮮明な記憶だった。

 バルドだけを知っていた頃とは違う。新たな刺激は、確かに を悦ばせた。


 ライを一度ならず、何度も受け入れたのは何故だろう。
 衝動を解消するなら一度だけで良かった。……いや、受け入れる必要すら本当はなかった。それは置いておいても、 が抗ったらライは多分一度でやめてくれただろうと思う。

(でも……)

 あの強く抱きしめた腕を振り払って本当に一度の行為だけで事を済ませてしまうのは、あまりに自分勝手で卑怯な気がしたのだ。
 衝動を解消する『道具』としてライを受け入れた訳ではない。言葉にされる事のなかったライの感情が叩き付けられるようで、どうしても拒むことができなかった。

「……はっ……」

 そこまで考えて は自嘲に唇を歪めた。……それこそが欺瞞だと言うのに。
 情にほだされて流された。求められていい気になった。そう言われてしまえば一つも反論できない事を、 は痛感していた。
 

「バルド……」

 早く帰ってきて欲しい。抱きしめて、満たして教え込んで欲しい。自分がバルドのつがいだと。
 そう思うのと同時に、バルドが帰ってくるのがとても恐ろしい。

(絶対に……バレちゃいけない……)

 この身体はバルドを裏切った。この上さらに心まで裏切りを重ねる事は許されない。
 何事もなかったようにバルドを受け入れる。絶対に悟らせないように、心の奥底に封じ込めて。
 それだけがバルドに対して唯一できる懺悔だと、 は思った。


『――ただいまー。……と、おい。 、いないのか?』

「……!」


 愛しいつがいが帰ってきた。 はごくりと唾を呑み込むと、静かに厨房の扉を押し開けた。







「……お帰り。お疲れ様」

「おう。なんだ厨房にいたのか。遅くまで悪かったな」

「ううん。今片付けが終わって、寝ようかと思ってたところ」


 バルドが宿に帰り着くと、厨房から が出迎えてくれた。
 つがいの元気そうな姿に心底ホッとする。発情期の街が気になって、これでも急いで帰ってきたのだ。予定よりも遅くなってはしまったが。


「そうか。……何日も空けて悪かった。大丈夫だったか?」

「うん、全然。それよりお義母さんはどうだった?」

「元気も元気。便りを寄越した奴に『なんで手紙なんか出したんだ』って怒ってたよ。ありゃ当分くたばりそうにないな。……それよりもなんかあるか? 昼から何も食べてないんだよ」

「またそんなこと言って。……夕食、残しておいたわ。そうじゃないかと思って」

「おお、さすが敏腕女将」


 クスクスと笑った が再び厨房に戻っていく。その背に手を伸ばし後ろから抱きしめようとすると、スッと身体がかわされた。

(……ん?)

 気のせいだろうか。意図的に避けられたような気がした。

「そういやライはどうした? 来たのか?」

 そう何気なく問い掛けると、 は一瞬動きを止めて皿を並べ始めた。

「……来たわよ。昼過ぎに出て行っちゃったけど」

「なんだよ、すれ違いだったのか。俺が帰るまで待っててくれてもいいのに……って、そんな事はねえか」

「さあねぇ」

  が苦笑を浮かべる。それはあまりにもいつも通りの笑顔で、気のせいかとバルドは先程の違和感を片付けると、ようやく我が家の食卓にありついたのだった。




 食事が終わり、 が皿を片付ける。その背に向かい、バルドは背後から手を伸ばした。

「……っ」

「……片付けはいいからよ。寝室……行かないか」

  の身体がビクリと竦む。突然背後から抱きつかれ、驚いたのだろう。だがいつもなら『後ろから抱きつくのは禁止!』などと睨み付ける眼差しが飛んでこない。


「……先、寝てていいわよ。後はやっとくから」

「そうじゃなくてよ。……分かるだろ? 通る村じゅう発情期で、なんか嫌な感じがしたんだよ。……早く帰って、あんたとしたかった」

「…………」

 そう耳元で囁いても、 は振り向かなかった。代わりに耳を下げて緩く身体をひねり、バルドの腕から逃れようとする。


「……ごめん、バルド。今日はちょっと疲れてて……」

「じゃあ一緒に寝るだけでいい。……お、今日サボン使ったのか。いい匂いすんな」

「……バルド、危ないから……」

  はなおもバルドから身体を遠ざける。その髪に強引に鼻を埋め込み、バルドはくんと吸い上げた。金糸からサボンの葉の良い香りが漂って――


(……ん?)

 そこで違和感を覚えてバルドは目を見張った。サボンと 自身の匂いの中にかすかに混じる、異質な香り。これは……雄の匂いだ。しかもどこか知っているような――

(…………。……ライ――?)

 妻の中に見知った猫の匂いを感じ取り、バルドは目を見開いた。



(どういう事だ……? あいつ、また に手を出したのか……?)

  を抱きしめたまま、バルドは呆然と瞬いた。
 他の雄の匂いならきっと気付かなかった。気のせいだ、で済ませられた。けれどかすかに残る気配は、否応なく旧知の雄の顔を思い起こさせた。そして のこの拒絶。

  はライに触れられたのだろうか。……いや、身体を洗ってもこれだけ匂いが残るという事は、もっと深く――

「…………」

 そのときに駆け抜けた黒い衝動を、バルドは抑えきる事ができなかった。





「……バルド……?」

 バルドに抱きしめられたまま、 は恐る恐る背後の雄に向かって問い掛けた。
 無言で押し黙ってしまった様子が気になる。それでも反応を見せず、また解放してもくれないのに焦れて再び口を開こうとすると、 は強く肩を掴まれた。

「……来いよ」

「いっ……。――ッ!」

 振り向かされて引き寄せられると、 は厨房の壁に押し付けられた。


「バルド、なに――、…ッ!!」

 ドン、と顔の横に腕が突き立てられる。壁にぶつかった衝撃はさほどでもなかったが、耳の側で上がった壁を叩く音と、何よりバルドの底冷えするような眼差しに は鋭く息を呑んだ。尾が膨らむ。


「……なによ」

「…………」

 それでも振り払えば何かあったと明言するようなものだ。 は怯えを隠し、わずかな怒りだけを滲ませてバルドを見上げた。だが次に耳元で囁かれた言葉に の身体は凍り付いた。

「……雄の匂いがするな」



「……なに…言って――、…ッ!」

 吹き込んだ低い吐息もそのままに、ぬめった舌が耳の繊毛を舐めた。
 怖気の走る感触に が頭を強く振ると、バルドは の顎を掴んで正面を向かせた。


「……言えよ、何があったか。今すぐ答えれば許してやる。――こんだけ残り香させといて、何もなかった……はないよな?」

「…………」

 
 ――バレた。しつこいほどに身体を洗って確認したのに、一発でバレた。
  が甘かったのか、バルドが敏いのかは分からない。けれどかつてライもバルドの匂いを嗅ぎ分けた事があった。そんな繋がりが、今この時ばかりは を窮地に陥れていた。

 ……けれど、絶対に肯定はできない。 は目を眇めると、じっとバルドを睨み付けた。


「……なんのこと。――放して。痛い」

「…………」

 スッとバルドの目が細まり、急速に温度が下がる。顎を掴む手を振り払おうとしたその時、両手が一つに纏め上げられて頭上へと押し付けられた。


「あッ! ……つぅ…! ――ちょっと!」

 無理に捻られ、苦痛に顔が歪む。今度こそ本気で怒りを見せた の頬を、バルドはいっそ優しいような手付きでなぞって告げた。

「……もう一度言う。何があった? 今言えば、すぐに放してやるよ」

「…………」

 それでも は口を開けない。低く唸って睨み上げると、バルドは呆れたように息を吐いた。……諦めてくれたのだろうか。


「仕方ねぇな。……じゃあ口を割るまで、耐えてもらうからな」

 見た事もない冷たい表情で告げると、バルドは の上着を素早く割った。




「ッ!? な――。……ッなにすんのよ!! いきなり、こんな……!」

 乱暴に上着を剥かれ、突然肌を晒された はカッと怒鳴った。
 いくらつがいと言えど、下着を着けていようと、羞恥を感じない訳ではない。何より付けられた痣が……一つだけ増えた痣が、バルドに見えてしまう。恐怖を怒りに隠し、 は牙を剥いた。

 身体を捻って手を振り払おうとすると、逆にバルドの膝に脚の間を縫いとめられて身動きできなくなってしまった。肩からだらしなく上着がずり下がる。

「あんたがだんまりを貫くってんなら、俺もそれに対抗するだけだ。……で、どうなんだ?」

「…………」

 
 ――バルドが怒っている。今までにないほど、冷たい目をして。
 その視線に心身が竦んだが、 はふいと視線を背けた。するとバルドは を押さえていない方の手を上げて、胸の中央へと押し付けた。ドクドクとした鼓動が、 にもはっきりと感じられる。


「……緊張してんな。それとも興奮してんのか?」

 揶揄するようなその声に、 は思わず振り仰いだ。

「バ…ッ! そんな事、ある訳ないじゃない!」

「どうだかな。……あんた、予期せぬシチュエーションに結構燃えるタイプだからな。これだけ俺の痕跡が残る身体を――誰に晒した?」

「……!」


 肩口にバルドが顔を埋めてくる。首筋を舐められ、空いた片手が背中を探った。下着の鉤が外れると、ふわりとした感触と共に胸から薄布が落ちていく。

「い…や…ッ。いやっ! バルド、嫌よ! やだぁっ!!」

 バルドの意図を確信し、 は身を捩って抗った。
 確かにバルドで満たして欲しいと思った。だがそれは今ではない。ライの記憶が完璧に消えた頃、静かに染め直して欲しかった。決して自白させられるために抱かれたい訳ではなかったのに――!


「バル――、っ!」

  が叫ぼうとした瞬間、背中を愛撫していた指がザリ、と爪を立てた。傷が残るほどではないが、走り抜けた痛みに は喉の奥で悲鳴を上げた。


「いいのか? あまり大きな声を出すと宿泊客に気付かれるぞ。……もっとも女将の艶姿なら、逆に客寄せになってくれるかもしれないがな」

「なに馬鹿な事を――。……っ放して!」

 薄く笑んだバルドの言葉は、 の心に突き刺さった。唾棄するように返しても、抵抗の声が自然と小さくなる。その分いっそう身体をばたつかせると、バルドの目前で白い乳房が揺れた。


「はは……エロい眺め。――分かっててやってんのか? だとしたら大した奥方だよ」

「く……この……ッ!」

 あからさまに侮辱する言葉に、目の前が赤く染まる。だが噛み付こうとした動きをかいくぐってバルドは の腰を抱くと、背面から手を滑らせて脇腹を撫でた。


「ん……っ……!」

「ふっ……。ここ、弱いよな……。あんたはここを優しく撫でられんのが好きだもんな。それでそのまま降りてきて、前から触られんのが――」

「や……やだ……っ」

 するすると、バルドの手が勝手知ったる の肌をなぞる。尾を扱き、執拗にまさぐっては時折離れる焦らすような動きは、不覚にも の肌を熱くしていく。
  は歯を食い縛り、妙な声が漏れないよう口を結びながらもバルドを必死に睨み付けた。

 バルドが紫の腰紐をゆっくりと解く。巻きつけていた長衣がはらりとはだけ、履き口が緩んだ。
 その隙間から下着に手を差し込んだバルドは何かを確かめるようにゆっくりと指を動かし、真っ赤に上気した の顔を見上げて笑った。


「……ほんと、こっちは正直だよな」

「……っ……」


 かすかに濡れた指を の目の前に翳し、バルドは薄く笑んだ。見せ付けるようにゆっくりと指を舐めていく。 はその手を叩き落したい衝動に駆られたが、叶うべくもなかった。いまだ両手は頭上に拘束されたままなのだ。

 ――欲情した訳ではなかった。 を知り尽くした指に弱い場所ばかりを責め立てられたから、身体が反応しただけだ。
 侮辱され、怒りをぶつけられ、自白を強要するように責められて感じるなんて――そんな事、あるはずがない。

 必死に己にそう言い聞かせた がきつく睨み付けると、バルドは逆に面白がるかのように昏く笑った。


「いいぜ? 抵抗してみろよ。どこまで耐えられるか、俺とあんたの根比べだ」

「……いい加減に……!」


 当初の気まずさも薄れ、 は本気でバルドに牙を剥いていた。
 ――腹が立つ。その原因を作ったのは自分なのだが、それでも を容赦なく責めるバルドに本能的な怒りを感じる。こうなったら、何が何でも口を割らないと は怒りと共に誓った。



 バルドが を捕らえたまま手を伸ばし、頭上の棚から何かを取った。
  の背丈からは見えない場所に置かれていたそれは、なんの変哲もない瓶だ。それを目の前に突き出され、 は困惑に眉をひそめた。


「これ、なんだと思う」

「…………香辛料……」

 楽しげなバルドに対し、 は固い声音で答えた。
 だからなんだ。そんなものどうでもいから、早く解放してほしい。

「……確かに、『何かに味付けをする』って点では合ってるな」

 バルドはいっそう深く笑むと瓶の蓋を開け、中に入っていた粉を―― の頭上から降り掛けた。




「…!?」

 パラパラと、白い粉が落ちていく。塩かと思ったが、口に触れたそれは何の味もしなかった。
 強く息を吸ってバルドを見上げた は、次の瞬間目が回るような衝撃を感じて壁に倒れこんだ。


(――なに……?)

 息を吸った瞬間、カッと身体の底が熱くなった。眩暈を感じて立っていられなくなる。
 崩れそうになった膝を叱咤して立位を保持すると、 は再びバルドを振り仰いだ。


「……ほーお。なんの匂いもしないから疑ってたんだが、本当に効くんだな」

「アンタ……なにを……」

 低く押し出したはずの声が、上擦って震えた。呼吸が荒くなる。バルドは既に腕を解放していたが、 にはもう突っぱねるだけの力が湧いてこなかった。
 まさか……まさかこれは――。


「媚香だよ。……ただし本来の使用量はこの十分の一程度みたいだがな」

「……びこう……」

 何を言われたのか、分からない。 はしばらく呆然とその単語を反芻していたが、ふいにカッと眦を吊り上げて叫んだ。


「媚香…!? アンタ、そんなもの私に使おうと――!」

「……ああ、してたぜ? 俺はあんたが悦ぶならなんだってするさ。……どう考えたってあんたより俺の方が不利なんだ。性的な意味でもそれ以外でもあんたに飽きれられたくないし、捨てられたくない。何よりあんたを満足させたい。……そのためなら、ない知恵を絞って工夫ぐらいするさ。それのどこが悪い?」

「……っ……」


 ぶつけられた怒りに対し悪びれもせずに答えたバルドに、 は言葉を失った。
 なんだか正論を言われているような気がする。……正論? バルドが正しいのか?
 頭がぐるぐると回り、まともに思考が働かない。それよりも気になるのは、異常な熱を感じ始めている身体の方だ。


「まぁ、もっとも合意の上でなら使ってみてもいいかも、ぐらいの気持ちだったけどな。通常の量なら少しばかり行為に変化を添えるくらいのもんだろ。別にこんなもの使わなくても、あんたが笑ってくれりゃ俺はそれでいいんだ。正直今まで忘れてた」

 バルドが続ける。だがわずかに笑みを含みながらもその声は とは違い、特に異常に昂ぶっている訳でもなさそうだ。


「……なんで……? これ、匂いなんか全然しないじゃない……!」

「無香なんだよ。雌にだけ効くんだ。娼館あたりで気乗りしない客に使うらしいが、残念ながら俺には分からん。――それより、効いてきたみたいだな」

「……ふあッ!!」


 そっと肩に触れられた瞬間、愛撫でもなんでもない動きに は大仰に反応した。電流が走ったように身体が痺れ、口から大きな声が漏れる。
 ギョッとして身を竦めると再び肩に触れられて、再度の刺激に はたまらず目を瞑った。


「ア…! ……いや、ダメ、触らないで……!」

「おい……」

 先程までとはまるで違うトーンでかぶりを振った に、バルドが若干困惑したような声を向ける。 は壁にもたれ、自分の身を掻き抱いた。
 呼吸が上擦り、身体が熱い。バルドが側にいるだけで、触れられなくても身体の底がじんじんと疼き始めていた。

(なにこれ……。なんなの……!?)


「ん……あ……、くッ……」

「おい…っ」

 喘鳴を上げてずり落ちていく にさすがのバルドも焦ったのか、抱き起こされて顔を覗き込まれると視界がぶれた。……涙ぐんでいるらしい。


「あ……あっ……、いやぁ……。これ、変…ッ。バルド……も、やぁ……!」

「……っ……、なんつー顔を……」

 バルドが舌打ちをした。その表情は窺えないが、掴まれた腕からぞくぞくとした悪寒が走る。振り払おうとした腕は力なく宙を掻き、 は再び壁へと押し付けられた。


「さわんないで……。やだ……やだぁ……」

「……無理」

「……ッ、やあぁぁっ!」

 バルドが背に手を回す。撫で回されて、 は高い悲鳴を上げた。



 ――嫌だ、などと感じる訳がなかった。強く触れられた瞬間、待ち望んだ刺激に身体は狂喜した。
 それでも言葉で拒んだのがせめてもの意地だったが、どう聞いても悦んでいるようにしか聞こえない声に は眩暈が強まった。

 なんという媚香の威力だ。あの暗冬の時の香袋とは比較にならない。
 ――欲しい、欲しい、欲しい。刺激が欲しい。雄が欲しい。何度でも、果てるまで。
 底無しに口を開けた情動に、 は恐れを抱いた。


「あっ! っン、ア……! ひっ……ああっ!!」

 上半身を愛撫され、 はビクビクと跳ねた。バルドの手付きはいつもとそう違わないのに、触れられる全ての場所が性感帯になっていく気がする。
 常では聞けないほど悩ましく激しい嬌声を上げた に、バルドが上擦った吐息を漏らした。


「すげぇな……。どうする、 。……言うか?」

「知らない……っ。ぅあ…っ、あっ……! アア……っん!」

「……強情っ張り」


 ぎりぎりのところで意識が踏み止まっても、身体はそうはいかない。
 露わになった胸に口付けられ、頂を強く吸われると の膝が折れた。崩れ落ちそうな身体をバルドに支えられ、反射的に縋り付く。

「ぅあっ……、これ、いやっ……。つらい……バルド……! おかしくなる…ッ!」

「いいぜ。おかしくなっちまえよ。……俺は、どんなあんたでも愛してやれる」

「ひア……ッ!」

 強すぎる快楽はいっそ苦痛だ。顔を歪めて訴えると、バルドは を掻き抱いた。その顔は幾分か切羽詰っていたが、 にはそんな事は分からない。
 立たされたまま与えられる刺激はやむ事がない。 は髪を振り乱し、状況もはばからず激しく啼いた。





 
「……っあ、アアッ……!! ひ……あ……ッ」

 何度目とも知れぬ高い悲鳴を上げて、 はガクリと項垂れた。
 顔から零れ落ちたのは涙か、唾液か。いつの間にか完全に肌蹴られた脚の間には、膝まで粘液が伝っている。そこを探っていたバルドが指を離すと、トロリと新たな雫が零れ落ちた。


……お前、もう何度イった? ――見ろよ。脚、すごいぞ」

「……っ……、あ……。も……ゆるして……。もう、無理……」

 バルドが湿った声で告げても、 は顔を上げられなかった。
 達した後の脱力感を嘲笑うかのように、新たな欲望が湧いてくる。小刻みに震えると口にバルドの指が突っ込まれ、 は顔を上げさせられた。


「……舐めろよ」

「……ぅ、ぐ……っ。ん、は……うンッ」

 ぬめる粘液が舌に乗せられた。それをしょっぱいとか嫌だとか感じる余裕もなく、バルドの指が舌を掻き回す。空っぽな思考で舌を絡め始めると、口の端から唾液が滴った。
 息がしづらくて苦しい。けれど、それすらも気持ち良くて仕方ない。


「……っ……、ア……。う……」

 眉が歪む。涙が滲む。どうしてこんなに苦しいのだろう。どうしてこんな仕打ちを受けているのだろう。どうしてこんなに――気持ちがいいのだろう。

 指が抜かれると長い糸が伝った。その指で蕩けきった潤みを探られ―― は再び達すると同時に今度こそ床へと崩れ落ちた。





 +++++   +++++





 それから数秒後か、数分後か。 がぼんやりと瞳を押し開けると、バルドが立ち去るのが見えた。雄の気配が遠くなっていく。
 ――待って。行かないで。まだあんたに満たされていない……!

 浅ましくもそう切実に呼び掛けようとした の唇は、再び雄の影を捉えて固まった。
 見上げるとバルドが、座り込んだ と視線を合わせるようにしゃがみ込んできた。

 バルドは何か――桶だろうか――を持っている。桶は水で満たされているようだった。


(今度は水で責められるのかな……)

 諦観と共にかすかな高揚が胸に湧いた。……期待、だったかもしれない。
  は裁きを受け入れるようにそっと瞳を閉じた。――だが。



「!?」

「……っ……。あー……、冷てぇ。……やっと頭が少し冷えた」

 バシャリと水を掛けられたのは、 ではなくバルドの頭の方だった。



「……なに、やって――」

 呆然と目を見開いた にバルドが眼差しを向けた。ビクリと竦んだ を見て、心もち顔を歪める。

「……すまん、怖がらせちまったな。ちょっと調子に乗りすぎた。……悪かった」

「……っ」

 告げられた言葉に はますます目を剥いた。……どういう事だ?
 目を見開いたまま固まってしまった の衣服をそっと直し、バルドは申し訳なさそうに濡れた頭を下げた。


「本ッ当にすまん。ここまでやるつもりじゃあなかったんだが……なんか、あんたを見てたら止まんなくなっちまった」

「…………」

 ぽたぽたとバルドの髪から水が滴る。冷たい雫が膝頭に落ち、 は呆然としながらも掠れた声で問い掛けた。


「……怒ってたんじゃ……なかったの……?」

「怒ってたさ。すっげえな。……けど、冷静になって考えてみればなんとなく事情が分かってきてな……。それでも口を割らないあんたの顔とか嫌がる顔とか見てたら、火が付いちまって……止められなかった。エロいっつーか可愛すぎなんだよ、あんた。……でも、本当にごめんな」

「…………」

 目の前に眉を下げたバルドの顔がある。細められた琥珀の瞳は、もう怒りもゾッとする冷たさも宿してはいなかった。ただいつも通りの温かに包み込む光が戻っていた。



「……あ……」

  は掠れた声を漏らした。唇が震え、歪みそうになる。それを叱咤して息を吸うと、口を開いた。
 許されないかもしれない。けれど、嘘を抱えたまま何食わぬ顔で隣にいたいなどと思った事こそ――裏切りであったのかもしれない。思い上がりもいいところだった。

(……言わな…きゃ………)


「……バルド……。私……っ」

 震えた の唇を、その時バルドが押し止めた。無言で首を振り、静かに を抱きしめる。

「……いい。――言わなくていい。俺が、悪かったんだ。……何があったかはなんとなく分かったから。さすがに俺も、あんたからはっきり言われたらヘコんじまいそうだしな」

「…………」

 バルドがゆっくりと の背を撫で始める。慈しむように優しく触れ、言葉が重ねられた。


「あんた、出発前にした時……本当はまだ来てなかったんだろ、発情期。あん時は切羽詰ってたから気付かなかったが、よく思い出してみれば違ってたよな。でも、俺に遠慮して言えなかったんだろ……?」
 
「……っ……」

 バルドの表情は見えない。だが直接身体に響く声音で、少し苦しげな表情をしているのではないかと窺えた。きっとバルドにも の反応が伝わっているはずだ。

「無理に言わせようとして、悪かったな。考えるゆとりがなかった。……あんただって、苦しかったはずなのに」

「……そん、な……」


 ――苦しかった? ……そうだ、確かに苦しかった。バルドを裏切った事は勿論だが、あの行為には確かな悦びも感じていたから。
 結果的に はライを手酷く利用し、ふたりを共に裏切ったのだ。衝動を抑え切れなかったために、大切な二匹の雄を傷付けた。

 苦い後悔が湧いてくる。 がかぶりを振ると、なだめるようにその肩が叩かれた。


「いいんだ。……俺の過去の方がよっぽど酷いからな。あんたにとやかく言えた筋じゃねぇよ。……嫉妬はしたけど、そんな事は別にいいんだ。それに――」

 バルドがそっと身体を離す。覗き込むように見つめられ、 は続く言葉を待った。

「それでも俺は愛されてるって、感じたからな。……どれだけ責めてもあんた、絶対に口を割らなかっただろ。苦しく思ってなきゃそんなの無理だからな。……今までも俺はあんたに愛されてたし、それを実感できるだけの事をあんたはしてくれたよ。逃げずにあんたがここに居てくれて、俺を迎えてくれたってのが……答えなんだろ」

「……ッ……」


 小さくバルドが笑う。少し困ったように、けれど優しく。
 言葉に詰まった は顔をくしゃくしゃに歪めると、強くバルドにしがみ付いた。限界だった。


「………ごめ……なさ……っ、……ごめんなさい……! バルド、ごめん……っ」

「……いいよ。それよりも――気付いてやれなくて、本当に悪かった」




 泣きじゃくる の背を、大きな手が優しく撫でていく。その温度に はますます泣いた。
 ――ごめんなさい。ごめんなさい。優しい猫を裏切った。だけど……それでも愛している。


 言葉にならない思いを伝えるように、 はきつくバルドを抱きしめ続けた。
 そしてふいに顎を取られると――今日初めての口付けが与えられた。

「……っ……、あ……。……バルド……。バルド……っ」

 優しく啄ばむような動きは、最愛の猫のもの。
 しかし がせがむように顔を寄せると、バルドは立ち上がって顔を背けてしまった。



「バルド……?」

「あー……。なんだ、ここじゃその……身体に悪いから、寝室……行くか」

「…………」

 ボソボソと告げる言葉に頭の芯がぼうっとなる。 がよく反芻もしないままコクリと頷くと、バルドは手を差し出した。その手を掴んで腰を上げる。だが――



「……あ……?」

 腰が、立たない。しかも涙で忘れていたが、媚香の強烈な効果もいまだ残存していた。
 途中で間隔が生じたためか先程よりも強く刺激を感じる。身を苛むような疼きが の身体に走った。


「もしかして腰、抜けてんのか……?」

「……っ、……ッ! あ……」

 口を開けば盛大な喘ぎが漏れそうだ。 が真っ赤な顔でプルプルと頷くと、バルドは顔を抑えて溜息をついた。心なしか、垣間見える顔が赤い。


「悪ぃ。……責任はきっちり取らせて貰うから――許せ」

 そして切羽詰った顔で を抱き上げると、バルドは大股で私室へと向かった。







「本っ当に、すまんかった……」

 熱すぎる夜を過ごした翌日。寝台から動けなくなった妻の世話を甲斐甲斐しく焼いていた宿の主人は、刹羅の土産物を渡しながら何度となく頭を下げたのだった。
 







END
 



(2007.10.26)


TOP.