しとしとと、雨だれが屋根を打つ。
 温かな寝台の中で、俺はぼんやりと目を覚ました。

「雨……降ってるな」

「ん……? そう……。この様子じゃ今日は外に出れないわね」

 モゾ、と隣に寝ていた が目を擦る。寝ぼけた様子の雌猫をそっと見やり、俺は呟いた。

「……そういえば、あの頃も雨降った事あったよな。覚えてるか?」

「そうだっけ……?」

 俺の言葉に、 は不思議そうに瞬きをした。





 雨だれ






「あ、アンタ! そこ危な――」

「え? ――うおわあぁッ!!」

 雨だれの朝。アンタは階段から滑り落ちた。



 声を掛けるべきじゃなかった。
 いくらそこが雨漏りしてる事を知っていたからといって、上から呼び掛ければ が振り向く事は予想の範疇で。でも黒いフードが小気味良く階段を降りていくのを見て、俺は咄嗟にアンタを呼んでしまった。

 振り向いた が足を滑らせる。金糸が浮いたと思った瞬間、アンタは五段下まで勢い良く落ちていった。



「……いッ、たたたた……」

「大丈夫か!?」

 階段を駆け下りる。階下にうずくまった は、足首を押さえていた。手をどけさせて覗き込むと、細いそこは赤く脹れ始めていた。――まずい、折れてるかもしれない。

「――ごめん!! 俺が、声を掛けたから……!」

 俺は青くなった。バッと を振り仰ぐと、アンタは痛そうに顔を顰めながらも笑った。

「あー大丈夫大丈夫。多分ちょっと捻っただけだから。すぐに立てる――、う……」

  が立ち上がる。そっと体重を乗せると、アンタの笑顔が強張った。気まずそうに顔を逸らし、乾いた笑みを浮かべる。

「痛いんだろ。折れてるかもしれない。早く手当てしないと……」

「い、痛く…ないよ? 手当てはしといた方がいいかもしれないけど、全ッ然平気!」

  が早口で言い切る。うっすらと脂汗を浮かべた を見て、俺は申し訳ないのと同時になんと強情っぱりなのかと少しだけ呆れた。







「ああ、こりゃ捻挫だな。とりあえず冷やして体重掛けないようにしてろ」

「あ、折れてないのね。それは良かった」


 なんとか説得して(というか半ば無理やり) に肩を貸すと、俺は食堂に入った。 を椅子に降ろし、バルドを呼ぶ。
 バルドは何度か の足首を曲げたり伸ばしたりした後、幾分かホッとした様子で告げた。

「どうせ雨で出られないだろうし、今日は大人しくしとけ。早く治したかったら、安静にすることだな」

 口早に言いながら、バルドが食堂を出ていく。さっそく雨漏りの修繕をするのだろう。
 俺も手伝おうかと思ったけれど、思い直して食堂から桶に水を汲んできた。 の足元に置き、熱を持つ足を浸す。



 パタパタと、雨が落ちる音がシンとした食堂に響く。 はしばらく水の冷たさに浸っていたようだったが、ふと顔を上げた。

「ごめんね、コノエ。私の事は気にしなくていいから、好きなとこに……」

「行ける訳ないだろ。俺が怪我させたようなものなのに」

 俺が憮然と答えると、 は黙り込んで小さく眉を下げた。
 ……うわ、なんでもっと優しく言えないんだ俺。こんな風に言ったら、アンタを責めているみたいじゃないか。

「……部屋で大人しくしてれば平気よ」

 案の定、 は硬い顔で立ち上がろうとした。これは……部屋に引っ込むから気にするなという意思表示だろうか。
 だけど、まだとてもじゃないが歩ける状態じゃない。俺はふらついた の腕を掴むと、やんわりと離れようとする を引き止めて言った。


「ゴメン。そうじゃなくて……今日は、俺がアンタの足になる。だからアンタは好きなように行動しろよ。俺が、連れてってやるから」





「足になるって……どうやって?」

 目を見開いてたっぷり五秒間は沈黙した が、戸惑ったように俺を見上げてくる。俺は の前に座り込むと、背中を向けた。

「こうやって。取りあえずは部屋に戻るだろ。何か必要な事があったら言えよ」

「…………」

  が黙り込む。その顔はわずかに赤くなっているようだった。……照れてるのか。
 無意識のうちに結構危ない言動を取るくせに、意外にもアンタは小さな事ですぐに照れる。俺は背中を示すと を促した。

「ほら、いいから」

「じゃあ……お願いします」



  を負ぶった俺は、待合室を粛々と進んだ。バルドはもう奥に引っ込んでるようだった。
 遠慮がちに肩に添えられた手は、階段に差し掛かるとギュッと俺の身体を握った。

(う……)

 身体が、押し当てられる。背に当たる柔らかいものは――って、考えるな、俺!
 こんな時に邪な気持ちを抱いてるなんて知られたら、絶対軽蔑される。
 俺は をしっかりと抱えると、慎重に屋根の直された階段を上がった。



「剣を研いだりするのは……やめといた方がいいわよね、やっぱり。ああ、今日何しよう……」

 部屋に入り、 を寝台に降ろす。うろうろと目を彷徨わせた の横で、俺もキョロキョロと辺りを見回した。

 他の部屋と変わらぬつくりの室内は、必要最低限の荷物が隣の寝台に置かれている。あとは窓際に花が――あれはきっとアサトに貰ったものだろう――があるくらいで、拍子抜けするくらい他には何もない部屋だった。
  の部屋に入ったのは、発情期に続いて二度目だ。

(……ん? 発情期……?)

「……っ!」

 唐突に、本当にいきなり俺は思い出してしまった。そうだ、前に入ったのはあの時だ!
 薄暗い部屋で、あの寝台の上で俺と が何をしたのかが――ありありと蘇った。

(ヤバイ! やばいって俺……!)

 途端に反応しそうになる哀しい身体を押さえ込む。 はと見ると、寝台でぼんやりと何かを考え込んでいた。

「あ。――付き合って!」

「え!?」

 だが突然、 は顔を上げると叫んだ。ど……どういう意味だ!?
 焦る俺には目もくれず、 はニッコリ笑うとその両手を差し出した。

「私、歌の練習がしたい。賛牙としてはコノエの方が先輩だからね、色々教えてほしいの。やっぱり食堂に戻りましょ」





 かくして、俺と は再び食堂に下りて来た。 を椅子に降ろし、向き合う。俺たちは互いの知っている歌をそれぞれ教えあう事になった。
 だけど、俺よりも のレパートリーの方がずっと多い。俺の歌は早々に途切れ、俺はいつしか が静かに紡ぐ歌に聴き入っていた。

 ……驚いた。ちゃんと聞いたのは初めてだが、 はかなり歌がうまい。
 少し低い声で控えめに奏でられる旋律は、俺が に惹かれてる事を抜きにしても十分魅力的なものだった。


「アンタ、ちゃんと歌習ってたりしたのか?」

「まさか。好きで仕事中に歌ってはいたけど、全然大したことないよ」

  が恥ずかしげに笑う。大したことはないと言うが、もしもこの歌声に想いを乗せて闘牙に届けたらすごい事になるんじゃないだろうか。
 でも、俺にはそれを感じ取れない。俺は自分が闘牙でなかった事を少しだけ悔しく思った。



  が歌う。やがてその歌は らしからぬ、悲しい歌や切ない歌詞を含むものになっていった。本当に知っている歌を全部歌うつもりなのか。
 そう驚いた俺は、 が歌う歌の内容に聴き入り、顔を強張らせた。……これは。

「これ……何の歌だ」

 それは、哀切に満ちた恋の歌だった。手の届かなくなった恋猫を想う歌であり、恋猫の悲惨な運命を呪う歌でもあった。

「……村に縛り付けられる運命の雌猫を歌った歌。隣村の恋猫が歌ったらしいわね。……大嫌いなのに、あんまり印象深いから覚えちゃったの」

「そうか……」

 そう告げた は、言葉の割には平静に見えた。だけど、窓から雨空を見るとポツリと呟いた。

「ねぇ、知ってる? ……どこかの村では、若い雌が逃げないように足枷を付けて長の家に放り込むんですって。それでも逃げたら足を折って。……何度でも子供を孕むまで、雄を受け入れさせられるの」

「……っ」

「誰から聞いたんだったかな……その時も雨が降っていて、よく覚えてる」

 空を見上げる瞳暗い。 は手元に視線を戻すと、嘲笑するように口の端を吊り上げた。

「……馬っ鹿みたい。そんなに嫌なら逃げれば良かったのよ。歌った雄猫だって、無理やりでも恋猫を連れ出せば助けられたかもしれないのに。それもしないでただ哀しみを歌うくらいなら……最初から何もしない方がマシよ」

 静かに吐き捨てた の瞳には、押し殺した怒りと侮蔑が滲んでいた。それが自分にも向けられているような錯覚を起こし、俺は何も言えずに黙り込んだ。
 すると は顔を上げて、固くなった空気を紛らわすように肩を竦めた。

「……なんてね。うっかり変なこと言っちゃったわね、ゴメンゴメン。ちょっと思い出しただけだから気にしないで。さ、次は何歌うかな……」

「…………」

 笑った の顔には、もうあの暗い光は浮かんでいなかった。暗い話など最初からなかったかのように、小首を傾げて歌を思い浮かべている。……でも。

 ――俺はもう、知ってるんだ。
 いつもの朗らかで静かな表情の奥に、押し殺した雄への嫌悪感とどうにもならなかった状況への諦めがある事に。
 明るい表情が、優しい言葉が偽りだとは思わない。だけど、怒りや嫌悪をたぎらせる暗い側面が にある事も確かなのだ。それは別に に限った事ではなく、どの猫にも……もちろん自分の中にもある感情だったが。

 他者の負の感情などあまり見たくはないと思っていた。だけど普段はそれをうまく隠してしまう が、ポロリとそういう姿を見せてくれた事が……俺には少し、嬉しかった。油断してただけかもしれないけど。
 綻びがないように思っていた雌猫の、いびつな側面を垣間見て…… には悪いけど、俺はちょっとは自分は特別なのかもしれないなどと自惚れた。

 だけど、そんな事を に言える訳もなく。
 俺は結局、ブスッとした顔で が歌おうとするのを遮った。


「……え? 何?」

「アンタはもう、十分歌っだろ。一つ思い出したから、今度は俺が歌う」

「あ、うん……」

 俺の仏頂面に圧された が、それでも耳を傾けるように目を閉じ、そっと黙った。
 ……ああ、だからそんな無防備な顔をしないでほしい。俺は から視線を引き剥がすように顔を逸らすと、ボソボソと小さな声で歌い始めた。


「……?」

 歌詞のない歌に、 は最初不思議そうな顔をした。だけど声を上げることもなく、また瞳を閉じる。
 俺は少しだけ声を大きくすると、 に向けて――目の前にいるたった一匹の好きな猫に向けて、想いを込めて歌った。



「……いい歌ね」

「……そう、かよ……」

 やがて歌い終わると、 は目を細めて俺を見つめていた。ほんのりと頬が染まっているように感じるのは、俺の願望だろうか。

「歌詞はないのね。……コノエのオリジナル?」

「ああ……」

 ――嘘だった。本当はトキノに習った藍閃の歌だ。ちゃんと歌詞があるし知ってはいたが、歌う事はできなかった。それは……雌を讃える、恋の歌だったから。
 だが俺が沈黙すると、 はそれ以上追求してこなかった。多分、気付いたのだろう。
  はふわりと笑うと、ごく小さな声で「ありがと」と囁いた。その唇の動きに、俺は顔が熱くなるのを感じた。





 結局その後も俺たちは歌を歌い続け、俺は付きっきりで を運び、一日は終わろうとしていた。
  も運ばれる事にいい加減抵抗しなくなった頃。俺は を部屋に運び、寝台の上に降ろした。

「もう大丈夫。腫れも引いてきたし、明日は大丈夫でしょ。ありがとね」

「そっか。良かった」

 そっと足を撫でた が俺を見上げる。俺が頷くと、 は思い出したように苦笑を浮かべた。

「それにしても……結局、賛牙とか関係なしに歌いまくっちゃったわね……。ゴメン、コノエの役には立たなかったわね」

「別に……そんな事はない。それに――たまにはいいんじゃないか、雨だったし……。また、機会があれば聞かせてくれ」

 俺が呟いて暗い窓の外を見上げると、 もつられてそちらを向いた。雨はいまだやむ事なく、しとしとと屋根を打っていた。
 数秒無言で静かな時間を共有すると、俺は踵を返して部屋から立ち去ろうとした。しかし……。


「待って! コノエ、ちょっと待って」

「え……?」

 はし、と服の裾を に掴まれて俺は立ち止まった。振り返ると、寝台の上に座り込んだ が俺を見上げていた。
 暗闇の中で揺れる瞳と小さな影に、訳もなく胸がドキリと跳ねる。

「あの……今日、ホントにありがとう。助かったし……その、嬉しかった」

「あ、ああ……」

「だから……何かお礼がしたいの。コノエ、欲しい物とかない?」

「え!?」

  がぎゅっと俺の手を掴む。真剣な表情で見つめられ、俺はいよいよ動悸が激しくなった。

「いいよ、お礼なんて……! その、俺にも責任があったし……」

「そんな事ないよ。私、ホントに嬉しかったの。だから何でも言って?」

  は俺が一日付き合わせた事に責任を感じ、義理堅いことに何か礼をしたくてたまらないようだ。それは嬉しいのだが、困る。そんなつもりでしたんじゃないし、別に欲しい物なんてない。――物、なんて。


「コノエ……」

  は身を乗り出し、俺を見つめてくる。唇が動いて俺の名を呼ぶと、尾に奇妙な痺れが走った。
 ――勘弁してくれ。俺はそう思った。欲しいものなんて一つに決まってる。
 俺はヤケになって振り返ると、小さな顔を見下ろした。


「じゃあ……貰うからな」

「え? ――ん……っ」

 俺は身体を屈めると、柔らかい唇に自分のそれを押し当てた。
 そして邪な感情や の温度を感じる前に離れると、 の反応も待たずに逃げるように背を向けた。 

「コ、コノエ……!?」

「欲しいもの、貰ったから。お礼はもういい。……おやすみ!」

「え……えっ!? ちょっ……」

  の戸惑いの声が追ってくる。俺は足早に部屋を出ると、扉をバタリと閉めた。


 



  +++++   +++++






「ああ……そういえばあったわね、そんな事……。あの時はかなりドキドキさせられたわ」

「俺はいっつもドキドキしてたけどな」


 俺は昔語りを終えると、小さく息を吐き出した。子供の頃の事を語るのはまだ恥ずかしい。まして、それがアンタとの記憶なら。
 寝台の中で がふわりと笑う。薄く開いた唇にキスを落とすと、俺は温かな を抱え込んだ。

「もう一眠りしよう。……せっかく、雨なんだから」






それはふたりがまだ藍閃にいて、俺の耳が黒かった頃の話。
年下の少年猫と、その猫が憧れていた年上の雌猫の話。

あれから闘いを経て、ふたりは今も共にある。
懐かしい思い出は、いつでもいつまでも――アンタと共に。

 








 END



2007.7.27

TOP.