Fragment -Black-
1、聖域
『はぁ…ッ、ふ、あ……っ……』
金の雌の、泣きじゃくるような小さな声。それが聞こえてきたのは、何故か の部屋からではなくあの白猫の部屋からだった。
また泣かされているのかと牙を剥き出す。けれど薄い扉から時折漏れる声は、悲痛な響きとは全く対極のもので。
何をしているのかと気付いた瞬間――目の前が、真っ暗になった。
コノエに心配を掛けまいとして宿に戻ったのが間違いだった。すぐに通り過ぎてしまえば気付かなかったかもしれないのに。
想いを告げた。だけど、それが叶う事はなかった。それまでの様子と の言葉で諦めはついたはずなのに――駄目だ。すぐに切り替えられる訳がない。
尾が膨らむ。耳を塞ぎたいのに、足が縫い留められたように動かなくて様子を探ってしまう。
――どんな顔をしているんだ。どんな格好で、どんな行為を……アイツと。
『あ、ア、ん……っア――ライ…っ』
「……ッ、くそ……っ」
黒猫はきつく拳を握り締めると、夜の森へと逃げ出した。
すべては扉の向こう側での出来事で。
愛しい雌猫は――今は白猫の腕の中。
2、想い、願い、紡ぐ
叩かれて、引き倒されて、絞められて。
服を剥かれ、犯されて嬲られて。抵抗すら無意味な狂気の渦に、今日もふたりして翻弄される。
「……っ、は……」唐突に私は覚醒した。落ちていたのは数秒か、数刻か。
ひりつく内腿の感覚に、そう時間は経っていない事をぼんやりと悟る。「………」
身体を浸す倦怠感は変わらないが、肌は綺麗に拭われていた。
誰がしてくれたかなんて……考えずとも浮かんでくる。「……ライ」
私は、額を覆って俯く雄猫の名を静かに呼んだ。
――何度叩かれても、何度犯されても、そんなものは大した事ではない。
他の誰かにされたら許せない事も、彼なら受け入れられる。……いや、受け入れたい。たとえ彼の狂気が消えなくても、それが問題なのではない。
こうして彼が戻ってきてくれる事、彼が私を必要としてくれる事、彼が……それでも真っ直ぐに透徹とした強さで生きていく事。
それを隣で見られるのなら、離れる理由なんてどこにもありはしない。
「すまない……っ」――馬鹿ね。欲しいのは謝罪じゃない。ただ確認してほしい。
狂気に誘われても、こうして負けずに帰ってこれた事を。私が生きて目の前にいる事を。「……大丈夫。大丈夫……。――お帰り」
そして私は笑ってアンタを抱きしめる。怯える子猫のような、愛おしい雄を。
約束は消えない。もしもその時が来たのなら、私は躊躇いなくアンタを殺す猫になろう。
だけど、本当はもっとなりたいものがある。本当のつがいに――私たちはきっとなれる。
3、Cry for moon
金の髪。森のような緑の瞳。白い頬。
細い手足はそれでも雄とは違う、丸みを帯びていて。――触れてみたいと、思った。
「アサト! ……どうしたの? ボーッとして」小首を傾げて覗き込むお前。
「アサト……」
目を細め、掠れるように呟いたお前。
「ありがとう――アサト」
花がほころぶように、微笑んだお前。
――どうすればいい。俺は、どこかがおかしい。
気付けば吉良の事よりもお前の事ばかり考えている。目で追っている。
俺に話しかけてくれないかと、俺に触れてくれないかと、思えば思うほどに言葉は詰まり。
お前に伝える言葉が見つからなくなる。触れたい。抱きしめたい。俺を見て欲しい。――そんな事を言えるはずもなく。
今夜も不可解な熱に苛まれ、逃げ込んだ森で俺は天を仰いだ。
お前のような光を求めて。
4、金色の海
――ピクリ。
金色の耳が揺れる。しばらくしてまたピクピクと。
の寝息に合わせて思い出したように動くそれを、俺は目を細めて見つめていた。
――何か夢を見ているのだろうか。目を閉じたお前の顔は安らかで、いつもより少しだけ幼く見える。
(かわいい、な……)
いつもは俺の方が先に寝入ってしまう事が多いけれど、今日はお前の方が早かった。
そんな事を思えるほどに重ねた夜の数に、安堵と幸福が込み上げる。
――おはよう。いただきます。ごちそうさま。ありがとう。おやすみ――
無言で過ごしていたこの家に、他愛無い挨拶が何度となく響く。お前にとっては何でもないんだろう事も、俺にとっては宝物みたいにキラキラと感じられて。
全てを忘れたわけではないけれど。手が届かなくて失ったものも多かったけれど。これまでの寂しさと哀しさを包み込んで余りあるほどの幸せを、お前は俺に与えてくれた。
だから俺はもっともっと、お前を大切にしたいと思った。
―― 。明日も「おはよう」と言ってくれるか。俺はお前のために、俺に出来る精一杯をするから。
わずかに膨らみを見せ始めた腹部をそっとさすり、俺は寝台に流れた の髪を静かに梳いた。
金色の海のようなそれは――俺を包み込む、優しい光。
5、聖夜
「……聖夜?」「うん。二つ杖の世界では、ある神様の誕生前夜をそう呼んでたんだって」
「……神などいない。それが今日だとしても、リビカには何の関係もない事だろう」
「んー、まあ私も基本的はそう思ってるんだけどね。でもその日って、祈るのは勿論なんだけどもっと大切なことがあって……えっと……」
「なんだ」
「……その……大切な相手と、一緒に過ごすこと…だって」
「……自分から話を振っておいて何を赤くなっている」
「いやなんか、口に出すと妙に恥ずかしいっていうか……」
「ほう。……そんなに恥ずかしい事でも想像したのか」
「バカ。そんなんじゃないわよ。……あっ……」
「また『馬鹿』と言ったな。……懲りない奴だ。仕置きされたいのか?」
「結構です。……ま、そうやって過ごせる事に感謝をする日だって言いたかっただけ」
「……それで、お前はその聖夜とやらの正しい過ごし方を実践している、と」
「……っ。蒸し返さないでよ、恥ずかしいから」
「お前が言ったことだろう。……ならば俺は、せいぜいお前に付き合ってやるか」
「ちょッ、……あ……。――もう! 結局いつもと同じじゃない。今日くらいは静かに――」
「聞けんな。だいたい年に一度静かにしたところで、常日頃と考えが変わる訳でもないだろう。だったらわざわざ改める必要もない」
「…………。それって、常に感謝してるってこと……?」
「……っ……。――お前の好きに、考えておけばいい。俺は俺の好きにやらせてもらう」
「…………。……はぁい」
――ほの暗い部屋に、並んで腰掛けている。私は縞柄のつがいと向き合って、一心に口を動かした。「……ん……、チュ、んん……。っ……」
唇に押し当てられたのは雄の熱――ではない。無骨な指に摘ままれた、赤い果実…クィムだ。
丁寧に皮の剥かれたそれを、手ずから食べさせられている。別に両手を怪我して自分で食べられないとか、そういう事ではない。お腹が空いているわけでもない。
なんでだかこういう状況になって、触れ合うこともせずに二匹で戯れていた。
「ほら、汁……垂れるぞ。シーツに零したら後で困るだろ」「ん……。ごめ……、ン……」
熟れた実から零れ落ちそうな汁を追って、頭を下げていく。寸でのところで舌を出して舐め取り、私は再び果肉を齧った。
じれったくなる行為には、なんの意味もない。食べたければさっさと手で掴んで食べればいいだけだ。
だが、やめることができない。モヤがかかったように頭が濁り、延々と齧って舐める行為を繰り返してしまう。「ふ……、イイ顔するようになってきたじゃないか……」
慈しむように目を細めたバルドが反対の手で私の喉を撫でる。くる…と喉がなり、私は目を閉じた。
――恥ずかしい。裸で抱き合うよりも、よほど羞恥が煽られる。
ほとんど触れ合ってなどいないのに、互いに密かな興奮を感じていることを、きっとコイツも気付いている。けれど、恥ずかしいと訴えればますますバルドを喜ばせる結果になるだろう。
……そういつもいつも思い通りにはなってやらない。果実を食べ終えた私は、雄の手首を掴むとじっとその双眸を見上げた。「……?」
目は雄に向けたまま、私は舌を伸ばして指に滴った赤い汁を舐め取った。見せ付けるように、音を立ててねぶる。
「……チュ……、ん……、ふ」
「……っ」
視線の先で、雄の顔がわずかに赤く染まる。……やった。
だが満足げな私を見て「しまった」という顔を一瞬だけすると、色めいた笑みを浮かべてバルドは口内にあった指を悪戯に曲げた。……続けろ、という合図だ。
――丹念に指と付け根をしゃぶり、やがて果実の味が完全に消えた頃。
私は唇を離すと、つがいに向けて微笑んだ。「……これだけでおしまい?」
「……クィムは、な」
同じ皮肉な笑みを返され、私たちは密やかに笑いあった。