5 naivety  あどけなさ


「じーじ! じーじ、ねぇ、これっ!」

 悪魔のマントの裾を、小さな手が引いた。
 褐色の腕の先には細い首と小さな頭。大きな青緑色の目を瞬かせ、あどけない表情で幼子はカルツを見上げた。


「……カナタ。私に何か用か……?」

 だらしなく緩みそうになる頬を必死で自制し、幼子と視線を合わせるようにしゃがみ込む。すると孫息子 ――カナタが青い花を一輪顔の前に差し出した。

「これ、あげるの! じーじにあげる!」

「私に…?」

「うんっ」

 にこりと破顔したカナタが花をカルツに押し付ける。それをはずみで受け取ったカルツは、己の息子と金の雌の容姿を色濃く受け継ぐ孫を見つめ、微笑んだ。

「……ありがとう」

「えっと……どう、いたまして? ……どいたまして? どー…たー……」

 礼に対する返答があやふやなのだろう。カナタは小さな指を折りながら首を傾げた。
 カルツはその愛らしい様をずっと眺めていたい衝動に駆られたが、困り果てた様子の孫を放っておくのも可哀想だろう。その小さな手を取ると、静かに握りしめた。

「『どういたしまして』だ。もう一度言えるかな?」

「どういたちま…どういたしまして?」

「ああ、そうだ」

 小首を傾げたカナタは危険なほどに可愛らしい。カルツは内心で打ち震えながら、カナタの柔らかい髪を撫でた。


「そういえば、どうして私にこれを? お母さんやカガリおばさんにもあげたのか?」

「んーん。それ、じーじにあげたかったの。じーじ、キレイだから!」

「! そ、そうか……」

 目をキラキラさせたカナタが屈託なく笑う。カルツはそっと目の端を拭うと、孫息子に吉良ではとても手に入れられないような手の込んだ菓子を差し出した。

「では私もお礼をしなくてはな。……食べなさい。お母さんには内緒だぞ?」

「…! ありがとう。じーじ、だいすきッ!」

 その言葉に、カルツはいっそう深く幸福を噛みしめた。




『誰がおばさんだ! お前の方がよっぽどじいさんじゃないか…! それにしても、なんだいありゃあ。実の孫相手になに頬なんか染めてんだ、アイツは』

『あはは……まぁ、カルツだから。それにしてもお菓子で甘やかすのはやめてもらわないとな……。このままじゃメタボ一直線だわ』

『お前も苦労するねぇ。孫馬鹿な舅を持つと』

『……はは、は……』

 吉良の母猫二匹組は、顔を見合わせると乾いた笑いを漏らした。












 6 talent  才


 うちのカミさんは、とにかくよくモテる。


「おっ、女将。今日も美人だねぇ〜。ほい、一個オマケしてやるよ」

「やだ、上手なんだから。でもありがとうございますね」

 ――いや、多分あそこのオヤジは本気で言ってると思うぞ。



「あのっ、ホーレンソウと蜂蜜持って来ましたっ!」

「あ、裏口にお願いします。……あれ? うち二個も頼んでないけど……」

「あ、それ俺か……じゃなくて店からのサービスっす!」

「ホント? なんか毎回悪いわね」

「いえっ、お得意様ですから。それじゃ!」

 ――毎回そんな訳がないだろ。
 つーか大丈夫かあの坊主。店主に目玉くらうんじゃねぇか?



ちゃん、これ持ってお行きよ〜」

「もう『ちゃん』って歳じゃないですよ。おじいちゃん、いつもありがとう」

 ――裏のジイさんもかよ!
 おい気をつけろ。あの皺だらけの手、お前の尻狙ってんぞ。



「おい、部屋は空いてるか。なんだ、この宿は主人が舌打ちするのが礼儀か?」

「ちわーっす。ご注文のお鍋、届けに来ました。あ、は裏ですか?」

 ――うげ。真打ち登場だよ。

「あいつに渡しておけ。こんな宿の収入ではとても手に入らないような輝石だ。依頼の礼に貰った」

「あ、ずるいですよライさん。でも俺も実は持ってきたんですよね、新作のリース!」


 年若い二匹が種類の異なる笑みを浮かべながら、俺を牽制にかかる。カミさんはと言うと、呑気な顔で笑いながらそいつらから贈り物を受け取っていた。
 一緒に暮らし始めた頃より明らかに物が増えてると思ったら、そういうことかよ。



 うちのカミさんはよくモテる。そしてそれ以上に、物をよく貰う。それはもう才能と言ってもいいぐらいに。
 決してが物欲しそうな顔をしているわけでも、苦労が顔に滲み出ているわけでもない……はずだ。
 俺、ちゃんと休ませてやってるよな? あんたが魅力的な猫だから、どいつもこいつも寄ってくるだけだよな?

 そう思いながらも、贈り物を受け取るたびに柔らかく笑うあんたを見るとちょっとした嫉妬心が湧き上がるのもまた事実で。
 俺は瓶の底に貯めたヘソクリを数え、妻への贈り物の構想を練りに練った。


 ――いいぜ、言って。尻に敷かれてるって。
 そうさせたくなっちまうのも、きっとあんたの才能なんだろうから。













  7 obstruction  障害物 


 その日は、二つ杖でいうところの『雌から雄へと心を込めた贈り物をする日』らしくて。
 でもそんなこと全然お呼びではないと思っていた俺は、久しぶりに藍閃を訪れたコノエと他愛のない世間話をしていた。


「うん、藍閃もずいぶん仔猫が増えたよ。ここの三軒先にも一巡りの月前に生まれたんだ」

「へぇ。なんか……いいな。街が明るくなった気がする」

 春めいてきた風に耳をそよがせたコノエは、穏やかに笑った。それを見て俺も笑う。そんな時、路地裏から小さな足音が響いてきて俺たちは揃って振り向いた。

「あれ……リルじゃないか。どうしたんだろう」

 コノエがきょとんと瞬く。猫の間をぬって駆けてくるのは、宿屋の主人猫と俺の初恋の猫との間に生まれた娘のリルだった。
 生まれて五年にも満たない小さな体で、一直線にうちを目指して走っている。俺たちを目で捉えたリルは、パッと笑顔を浮かべると俺に向かって飛びついてきた。


「――トキノさん!」

「ぅわ…っ!……とぉ……。リル、どうしたんだ?」

 軽い身体でも、体当たりされたらそれなりに衝撃がくる。
 腰にタックルされた俺は一歩後ずさると、しっかりとしがみついた仔猫と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。俺の隣に並んだコノエも一緒になって座る。

「こんにちは、リル。今日はお母さんは一緒じゃないのか?」

「こんにちは、コノエおにいちゃん! あのね、かあさんはきょうはおしごとなの。だから、おてがみかいてひとりできた!」

「…………」

 リルの脇を支えて立たせながら、俺はコノエと顔を見合わせた。つまり、家族に知らせずに仔猫一匹で来てしまったらしい。
 俺は小さく息をつくと、黒く艶やかなリルの髪をそっと撫でた。


「リル。こないだも、ひとりで来ちゃ駄目だって言っただろ? お母さんもお父さんも心配するんだぞ」

「え……。あ……ごめんなさい」

 元気いっぱいな仔猫を叱るのは、俺としても少し気が重い。だけどこれだけは言っておかなくてはと心を鬼にすると、案の定リルはしょんぼりと項垂れてしまった。
 俺はその小さな頬を両手で包むと、今度は優しい声で告げた。

「じゃあ、俺と一緒に謝りに行こう? 今ならまだ怒られないよ」

「う……うん……」

 リルが少しホッとしたように表情を和らげる。髪や目の色こそ違えど、かつての雌猫に瓜二つな仔猫の姿に俺は微笑むと手を差し出した。小さな手が、俺の手をおずおずと握る。


「そういえばリル、トキノに何か用事だったんじゃないのか?」

「あ。そう、そうなのっ」

 コノエに指摘されたリルは、俺の手をパッと放すと慌てたように肩からかけていた鞄を探った。
 小さな鞄からやや強引に薄桃色の包みが引っ張り出される。リルはその包みを俺に向かって両手で差し出した。

「これ、トキノさんに!」

「え……俺に?」

 俺はきょとんとして、綺麗な包み紙とやや赤い顔をしてそれを差し出すリルを交互に見やった。
 えっと…今日、俺の誕生日じゃないし……あ、が持たせてくれたお土産かな?

『馬鹿、トキノ!』

 横にいたコノエが小声で小突く。それを聞いて、ようやく俺はリルがどういう意味でそれを俺にくれようとしているのかを理解した。小さな手から、その包みを受け取る。

「……ありがとう、リル」

「うんっ。……あたし、トキノさんすき! だからね、いっしょうけんめいつくったの!」

「……っ」

 ニッコリと満面の笑みで言った仔猫は、次の瞬間に「きゃー」と雄叫びを上げて駆け出した。脱兎のように走り去る仔猫を、俺とコノエが追いかけるすべもなく。
 後に残された俺は、コノエの感心したような声でようやく現実へと引き戻された。


「すごいな、トキノ……。第二のバルドになるのも夢じゃないんじゃないか? ていうかマセてるなリル。バルドの教育かな」

「あ、はは……。本当にそうなったら、どうしよう」

 俺はコノエと顔を合わせ、苦笑を浮かべた。だがその笑みが次第に引きつったものになる。
 万が一将来そんなことになった場合、俺には絶対に避けては通れない存在がいることを思い出したのだ。

 『バルド』と書いてラスボスと読み、また『お義父さん』と呼ぶ可能性もなきにしもあらずな縞柄の猫の顔を思い浮かべ――俺は今からでも剣の鍛錬をすべきかなと、頭の片隅でそっと思った。














 8 peace  安らぎ 


 ――縋りつくのは、どちらなのか。

 夜。しばらくぶりに身体を重ねた後、は悪魔の腕の中で目を覚ました。
 ぼんやりと目を開くと、見えるのはただシーツの波ばかり。は背後からカルツに抱きしめられていた。

 遠慮がちに肩に掛けられた腕はピクリとも動かない。けれどそれはやや低くとも温かい体温を伝えてきて、は訳もなく安堵した。
 シーツの上に落とされた指は緩やかに曲がり、緊張が抜けているのが見てとれる。雄にしては細く優美ともいえる指だったが、その手がもたらす包み込まれるような安らぎは、与えられて余りある程に大きい。


 背後でゆったりとした寝息を立てる悪魔を、はふと振り返ってみたくなった。
 だが普段眠りが浅い彼の、せっかくの熟睡を妨げるのも悪いかと思いすぐに思いとどまる。珍しい彼の寝顔を拝む機会はこうして今日も逃された。

(なんか私ばっかり見られてる気がするんだけどなー…)

 寝返りを打つこともできず、はシーツとカルツの指を眺めたままぼんやりと考え始めた。

 彼との生活に今はなんの不満もないが、思い返してみれば自分はいつも寝顔とか泣き顔とか色々情けない顔を晒してきたような気がする。
 情事の際もそうだ。やっと始まったともいえる彼との関係では、いつもいつもの方が先に翻弄された。

 色事にはまるで興味がないという顔をして、カルツはこれで結構手管に富んでいるのだ。繊細な指から引き出されるもどかしいような快楽は、激しく攻め立てられるのとはまた違いをゆっくりと追い詰める。
 時間をかけて愛され、その細いようで意外と厚みのある背中に今夜も何度縋りついたのだろう。

(うーん……。カルツって結構…アレよね……)

 数時間前のあれやこれを思い出して、は暗闇で顔を赤らめた。……ほら、またこうやって翻弄されている。


「…ッ」

 その時、は鋭く息を吸い込んだ。背後から緩やかに回されていたカルツの腕に急に力が入り、を引き寄せたからだ。
 をすっぽりと抱きしめた悪魔はさらに肩口に顔を埋めてきた。……まるで縋りつくかのように。

 目を覚ましたのかと思い、は背後の気配を探った。だがカルツはそれ以上身じろぎすることもなく、規則正しい寝息が続くばかりだ。どうやら本当に熟睡しているらしい。

「………。ふ…、くっ……」

 とうとうは、こらえきれずに小さく吹き出した。慌てて口を押さえるが、それでもカルツか起きないことを見てとり、手のひらの下でつい唇が緩む。


 ……まったく、この悪魔に抱き枕のように縋りつかれて眠る日が来るなんて一体誰が想像できただろうか?

 胸の中に温かいものが広がっていく。それは愛しい喜びと、少しの切なさをにもたらした。


「もう……。癖になっちゃったら、どうするのよ……」

 苦笑の中に、隠しきれない甘さを込めて。は吐息だけで囁くと、あたかも寝返りを打つかのように身体を反転させた。
 そして目前に来た安らいだ寝顔を瞼に納めると、自身もゆっくりと瞳を閉じた。







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(2008.12.31)