「ね…眠い……」
夕闇差し迫る黄昏時。吉良の外れの住みかで、
は寝台に腰掛けて唸っていた。 隣には涎を垂らして愛らしい顔ですやすやと眠るわが子。自分よりもやや濃い金色の尾が、寝息に合わせて揺れている。それは微笑ましく愛おしい光景ではあるのだが――
「眠い…。でも今寝たら絶対起きられない…。でも眠い……」
はこっくりと舟を漕ぎながら、深い葛藤を繰り返していた。
Dearest
cats
ここ数日、鍛冶仕事の追い込みや息子カナタの夜鳴きが続いたために、
は寝不足の頂点に達していた。 そろそろカガリが言うところの離乳時期であるため昼間は離乳食を与えているのだが、さすがに夜は用意している余裕がない。そこで『おなか減った』の夜鳴きとなれば、
が哺乳のために起きるよりほかないのである。
子供が泣くのは仕方ないが、『ちょっとは親の意向も汲み取っておくれよカナタくん』とボヤいてしまうのもまた事実だ。けれどこの寝顔を見ていると不思議と満たされて、夜鳴きなど何という事もない気がしてくる。
「でも眠いのは消えないのよね……」
ふああ、と誰も見ていないのをいいことにあくびを漏らす。ほとんど無意味のような葛藤をしているのは、ひとえに一度寝たら起きられないような気がするからだ。
もう少ししたら、カナタの食事を作らなくては。それが終わったらアサトと二匹分の食事を作って……今日アサトは遠くまで狩りに行ったはずだから、少し豪勢な支度をして迎えてあげたい。そしたらアサトにカナタを預けて、剣の仕上げをしよう。それから、それから――
次第に思考が取り留めなくなってきて、
は頭を振った。
「……ダメだわ、限界。……ゴメン、ちょっとだけ――」
誰にともなく頭を下げると、
は息子の隣に身体を横たえた。そしてまっ逆さまに至福のうたた寝へと落ちていった。
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「ふあ……」
意識が浮上し、
はゆっくりと目を開けた。短い時間だがずいぶん身体が軽くなったようだ。 毛布を剥ぎ、(毛布なんか掛けてたっけ…?)とぼんやり考えながら窓を見上げた
は、目を見開いた。陽の月はとっくに沈み――既に夜になっていた。
「ごめんカナタ! 私、寝過ごし――」
慌てて起き上がった
は、優しくランプの灯された室内を見てピタリと動きを止めた。
「ああ、起きたのか。大丈夫か?
」
「あー、んまー。まー」
「…………アサト……?」
部屋の中央にはいつ帰ってきたのか、アサトが胡坐をかいていた。膝にカナタを座らせて、その小さい口に匙を運んでいる。白っぽい半固形の液体は、木の実をすり潰して水に溶かした離乳食だ。
「……あ……ごめん。私、ちゃんと起きようと思ってたのに……」
頭が状況に追いつかず、髪をかき上げながら視線を彷徨わせる。子供がお腹を空かせていたのにも、つがいが帰ってきたのにも気付かず寝こけていたなんて、色々と情けなすぎる。自分を責めるように呟いた
に、きょとんとアサトが視線を向けた。
「? 別に、そんなに気にしなくていい。カナタが起きたのもちょうど俺が帰ってきた時だったから、ぐずってもいなかった。
を静かに寝させてあげるなんて、カナタは優しい子だ。……ほら、アーン」
「あー」
にっこりと笑ったアサトが匙をカナタに差し出す。素直に口を開く幼子と甲斐甲斐しく世話をするつがいの姿に、
は強張った頬が緩んでいくのを感じた。 寝台を降り、アサトに近付く。つがいに寄り添った
は、ぽす、とその腕に額を押し当てた。
「おかえり。……ありがとう。毛布も、アンタが掛けてくれたのね」
「ああ、ただいま。……よく眠れたようで良かった。夜は代わってやれなくて、すまない」
わずかに眉を下げたアサトに、
は目を瞬いた。そんな……謝られるような事ではない。
「ううん。…アサトだって、たくさん面倒みてくれてるじゃない」
「それは当たり前だ。だって
は、カナタを産んでくれたから。だからそれ以外を俺は頑張るんだ。
にしかできない事もたくさんあるけど、俺は俺のできる事をちゃんと手伝いたい。……俺とお前の、子供だから」
「…………」
カナタを見る青い眼差しは穏やかで、どこまでも慈しみ深い。ふいに鼻の奥が痛くなり静かに啜り上げた
に、アサトがふいと顔を向けた。
「そうだ。
も、アーン」
「え。…あ、あーん?」
いきなり匙を突きつけられて反射的に口を開いた
の唇に、木匙が突っ込まれる。とろりと舌を流れた離乳食の味に、
は目を見開いた。
「どうだ? 香り付けにマタタビをまぶしてみたんだが」
邪気のない顔でアサトが笑う。――マタタビ。それは、全ての猫を酔わせる魔性の物質。二つ杖の世界で言うところの、アルコールとか媚薬。 それを食べさせられているカナタの顔は平然としたものだ。それでも
は、叫ばずにはいられなかった。
「なんってモン食べさせてんのよアンタはー! ちょっとアサト! そこに座りなさいっ!」
既に座っているアサトに指を突きつけ、
のお説教タイムが始まったのだった。
END
(2008.1.30) |