暗い部屋に、二匹分の温度が満ちている。わずかに湿った空気を揺らすと、 は飽くことなく髪を弄び続ける白猫を見上げた。


「あの……眠れないんだけど……」

「なら眠らなければいい。……お前が勘弁しろと言ったからやめてやったんだぞ?」

「……いくらなんでも、あれ以上したら明日起きられないわよ……」

「ふん。俺としては、一向に構わないがな」


 雄猫が口端をわずかに吊り上げる。少々意地は悪いがたまらなく魅力的なその表情に、 は溜息と共に「もう……」と呟いた。








月光









 熱に浮かされたような時間が過ぎた部屋は、冴えた月光の下穏やかに静まり返っている。
 先程まで喘ぎ、昂ぶり、乱れ、喰らい付くように求め合った事など知らぬように……とは都合が良すぎる解釈か。静かな部屋は、それでも情事の名残を色濃く残していた。

 天井の木目は見慣れすぎた自分の部屋のもので、今まで雄を招いた事もない実家でこんな風に睦み合っていたのが少々後ろめたいような、気恥ずかしいような気分になる。
 その暗い天井から目を逸らし、 は目前にある白い喉元をぼんやりと眺めた。


 汗が引き始めた身体を寝台に沈め、同じく横たわったライの腕に腰を抱かれている。程よい重みのそれは、心地良い疲労をまとった を眠りへと誘うはずだった。
 だが時折そっと尾を撫でる手と、髪を弄ぶ手が眠りに落ちるのを妨げる。性的な激しさのないそれらは心地良く、ずっと感じていたいとは思ったが。

 手慰みに尾を動かし、ライの尾を探り当てると は緩くそれを絡めた。重なった尾に当たるふわふわとした感触を楽しみながら、少しだけ顔を上げる。


「……明日、発つんじゃないの……?」

「急ぐ気はない。……これでも長い時間押さえ込んだんでな。――何日かは堪能させてもらう」

「……っ……。身体、持たないんですけど……」

 ライを詰る言葉を呟くも、薄く喉を鳴らしながらではそれを受容したと言っているも同然だった。



「……眠れないなら、何か話せ」

「話す……?」

 ふいに耳に落ちてきた呟きに は目を細めた。ライの顔を覗き込むが、その怜悧な表情から何かを読み取る事はできない。


「……何を話せって言うの?」

「何でもいい」

「何でもって……そういうのが一番困るのよ」

「…………」

「…………」


 じっと、お互いやや憮然とした顔で見つめ合う。やがてライはわずかに視線を逸らすと、ボソリと呟いた。

「……お前のことを」

「……っ」


 囁くような言葉に は小さく息を呑んだ。頬がわずかに染まる。だが眉を下げると、探るように は口を開いた。

「なんで……? 私の何が、聞きたいのよ……」

「……だから何でもいい。生い立ち、嗜好、頭に浮かんだ事――深く考えずに、話せ。……俺のつがいの事を俺が知りたいと思うのは、それほどおかしいか?」

「……っ……、ううん……」


 ライの言葉に は今度こそ赤くなった。
 ……つがい。ライのつがい。先程も言われた言葉だが、何度目だろうと口に出されると心に響くものがある。しかも自分の事を、知りたいと――


(嬉しい……)


 じわじわと喜びが湧いてくる。 は一度息を吐き出すと、小さく口を開いた。



「そんなに大した話はないし……上手くは話せないけど、笑わないでよね」

「さあな。……だが、とりあえずはお前のその緩みきった口をどうにかしたらどうだ? 崩れているぞ」

「……アンタはいつも、一言多いのよ……」










 それから は、ぽつりぽつりと自らについてを語った。
 生い立ち、鍛冶師として歩んできた道、藍閃への訪れとトキノやバルドとの出会い、そしてあの闘いに至るまでの経緯――。思いつく限りをかいつまんで話し、 はホウと息をついた。



「……こんなところ。あーやっぱり恥ずかしいわよ…! 自分の事を話すなんて……」

 わずかに顔を染め、 は両手で口を覆った。
 時折相槌を打ちながら聞いていたライの顔を盗み見ると、ライは静かに何事かを考え込んでいるようだった。……あまり面白くなかっただろうか。
 

「次はアンタの話を――」

「……想う猫は、いなかったのか」

「え…?」


 ライを促そうと尾を強めかけた は、予想外の言葉にぴたりと動きを止めた。
 目を丸くして見上げると、眼帯の外された隻眼が を見つめ返した。そこに強制するような色はない。ただ静かに、 を見通すようにライは を見ていた。


「この家にいた頃、一度たりと心が動かなかった訳でもないだろう。何もなかった……とは言わせんぞ」

「……っ」

 長い指がすっと の唇に当てられる。その記憶を問うように唇を押されると、固い爪が の牙に触れた。


「それは……絶対に話さなければいけない事なの?」

 戸惑いを露わにした が問い掛ける。すると、ライは薄く笑みを浮かべた。

「……別に、強制はしない。お前が話したい事だけ話せばいい。……それより、否定しなかったな?」

「……あ」

  はハッと呟くと、わずかに顔を歪めた。……しくじった。
 唸るようにライを見上げるが、今度こそ白猫はあの意地悪な笑みを浮かべるだけだった。


「……話してもらおうか」

「くっ……。――気を悪くしても、責任取らないからね……!」

  は身体を反転させてうつ伏せになると、立てた手の上に憤然と顎を乗せた。









 ――恋、と呼べるほど激しい想いをこの村で感じた事はない。
 この雄に向けた燃えるようでいて同時に胸を満たすような想いに比べれば、それらはあまりにも幼く弱い感情だった。……それでも、何もなかった訳でもない。

 さすがにあまりに踏み込んだ事は告げなかったが、かいつまんで淡々と は自らの恋愛遍歴について呟いた。感情を込めずに。
 ライの顔は見られなかったし、また他の雄について語る顔を見られたくないとも思った。同時に、自らの言葉を押し流す強さでライに触れて欲しいとも思う。けれど、ライもこのときばかりは に触れてこなかった。




「――それからは、何もなかったわ。……これでいい?」

 はぁ、と溜息と共に目を閉じた はライを垣間見た。天井を見ていたライは幾分か……いやはっきりと、憮然とした表情をしていた。


「……何よ。話せって言ったのはアンタでしょうが」

「…………」

 ライは答えない。むっつりと押し黙るばかりだ。そんな反応に の中にもかすかな苛立ちが生まれる。
 ライが知りたいと言ったのだ。だから話した。大切な猫の前で嘘はつきたくなかった。けれど、話すべきではなかったのか?


「ちょっと。何とか言ったらどうなの――? …っ」

「――俺以外にも、触れられてきたな」

 再び唇に触れられ、 は口をつぐんだ。感触を確かめるようにライがそこをなぞっていく。
 否定はできない。ライだって があの香に惑わされて、アサトやコノエやバルドとキスしたところを見ているのだ。それ以外にも、この村で――


「…………」

  は俯くとそっと視線を逸らした。だがうつ伏せた背中にライが突然のしかかってきて、目を見開いた。


「な…に、ちょっと……重い…っ」

 実際はライも腕で身体を支えているためそう重くもなかったが、衝動的に はそう口にしていた。
 振り返り、軽く睨むとライは身体の下に手を差し込んで を抱きすくめた。


「…………。んっ……」

 押し潰された背中じゅうに、ライの体温を感じる。露わになったうなじをきつく吸い上げられ、 が息を呑むとその耳を低い声が揺らした。


「……肌を知っているのは、俺だけか」

「……っ、な――。……知ってるくせに……っ」

「いいから答えろ。――

「……! ……アンタ、不意打ち……っ」


 思いがけぬ呟きに頬を染めた は、ライをなじるように掠れた声で答えた。だが名を呼ばれ、いまだ慣れぬ響きに頬が染まる。
 そんな分かりきった事を聞いてどうするのか。問われた事への恥ずかしさに顔を逸らすと、ふいにライの手が不穏に動いて は息を乱した。

「答えろ」

 少し冷えた手が――腹を伝い、胸の中央に押し当てられる。 は思わず首を竦めると、コクコクと頷いた。答えたから、もう勘弁してほしい。


「……っふ……」

「……ここに触れたのも、俺だけか」

「……え……?」


 静かにライが指に力を込める。 はその真意をはかった。
 今の問いは……性的な意味ではないような気がした。手のひらを当てられた胸の、その奥の――


(あ……。心臓――?)


 そう思った瞬間、鼓動がトクリと跳ねた。トクトクと波打つ鼓動は、きっとライにも伝わったはずだ。
 ライが聞いている。自分の生きている音を――。

  はわずかに身体を浮かして手を差し込むと、ライの手へとそっと重ねた。


「うん……。誰にも、触らせたことないわ……。踏み込んできたのは…触れてくれたのは――アンタだけ」


 押し当てられた大きな手を、宝物のように包む。重なったライが、かすかに喉を震わせて笑ったのが伝わってきた。


「……そうか。なら、忘れてやってもいい」



 ――だが、呟かれた言葉に はいささかムッとした。何だその偉そうな発言は。


「……何それ。私、別に悪いことしてないわよ」

「……何……?」

 振り返り、ライの顔を見上げる。上下でじっと睨み合ったふたりは、やがてどちらともなく小さく吹き出した。



「……ふふっ、昔の事なんて忘れちゃったわよ。こんな体勢してて、思い出せるわけない」

「どうだかな。だが……まあ、完全に忘れるのも時間の問題だろうな」

「うわ、すっごい自信。……私よりも、アンタの方が忘れられなかったりしてね。ヤキモチ焼きの闘牙さん」

「……黙れ」


  が薄く笑うと、ライは憮然と告げた。その様子に、ますます笑みが込み上げる。


「……こりゃ浮気なんてできないわね」

「するつもりだったのか」

「まさか。アンタみたいな世話の焼けるつがいがいて、そんなのできるわけ――、っん」

「いいから黙れ」


 すっと手のひらを乳房にずらされて、 は吐息を漏らした。揉みしだく手から逃れようとするも、内腿に膝を差し込まれて叶わない。適当に拭ったままで濡れていたそこに、とろりと残滓が伝った。


「ちょ……も、無理だって……。――あ……、やだぁ……ッ」

「どこがだ。口よりも、こちらの方が余程正直なようだが?」

「……オヤジくさいわよ……。バルドのがうつったんじゃないの……っ」

「うるさい。雄の名前は聞きたくない」


 掛け布をはがされ、再び組み敷かれていく。軽く抗いながらも忍び笑いは止まらず、クスクスと息の漏れる の口はライによって塞がれた。








 本当に、なんだってこんな嫉妬深い猫をつがいに選んでしまったんだろう。
 だけどそれが嬉しいと思ってしまうあたり、きっと釣り合いが取れているのだろう。

 過去にしてきた事は消えないし、彼に最初に会いたかったと言ってもそれは無理な話だ。
 けれど過去よりももっともっと長い未来を共に過ごせるのならば、記憶は彼の色に染められていく。


 長い時を、共に生きていける相手がいる喜びを……アンタと分かち合いたい。







「これからも、よろしくね。――相棒」



 






END






(2007.10.5)

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