――どうして、手の届かなくなったものほど愛しいと思ってしまうのかな。



 初 恋 猫 2  -blessing-   






「トキノ、いる? ……お邪魔するわね。忙しいのにゴメン」

 うららかな午後。俺があくびを噛み殺したその瞬間に、木の扉が軋んで開いた。
 顔を覗かせたのはもちろん だ。かすかに光った金の髪に目を細め、俺は笑って頷いた。



「仕事着、どうだった? 二着目だからちょっとデザインを変えてみたんだって」

 テーブルについた に果実水を差し出して、俺は が抱えてきた紫の布に目を落とした。それは仮縫いをした の仕事着だった。
 今 が身に着けているのもその布と同じ、柔らかな紫色の一揃いだ。それは俺が仕立て屋に仲介したものであり、元を正せば宿屋の主人猫から俺が頼まれたものだった。――そう、バルドさんから。



 あの「月蝕」とかいうおかしな現象が起きた後、この藍閃はそれはもうひどい状態になってしまった。生きてるか死んでるか分からないような猫たちがわらわらと街の外からやってきて、藍閃の猫を襲い、家々を破壊して回った。

 俺も当時は身と家を守るのに精一杯で、突然ぴたりと猫の来襲が終わったときも疲労困憊でなかなか動き出せなかった。それでもなんとか復興を始めた頃に、 やバルドさんたちが無事だということを知ったんだ。

 それから は、バルドさんの宿に住み込みで働き始めた。
 俺は の仕事先が見つかってホッとしたし、 が藍閃に留まってくれたのが嬉しくて仕方なかった。……だって、この街にいればいつでも会えるんだから。

 だけどそんな単純な喜びは、その次の年に衝撃に取って代わられた。



『――うん、結婚することになったの。別に今までと何が変わるわけでもないんだけど、アイツがケジメはつけたいって……』


 はにかんだ笑みを浮かべ、 が告げた。その一言で俺は足元がふらついた気がした。

(嘘だろ……?)

 ものすごく失礼だけど、俺はとっさにそう思ってしまった。
 だってバルドさんだろ? うちの親父とそんなに歳、変わらないんだよ?


 あの宿に猫たちがつどっていた頃、確かに俺は の心配をしていた。
 見るからに強そうで格好いいライさん、隠すことなく に好意を示しているアサト、そして初めて雌に興味を抱いていたコノエ……。もしかしたら、この中の誰かと が一緒になるかもしれないって俺はなんとなく思っていた。

 他の二匹が に対して、どういう種類の好意を抱いていたかは分からない。だけど、ある日ライさんを見たときに俺は気が付いてしまった。
 このひとは―― に惹かれている。

  を求める、強い眼差し。薄い色の瞳が熱をもってこの猫を見つめていた。
 心がざわついた。いいや、そんな言葉では足りない。俺は正直なところ焦った。焦りながら彼らの輪の中に踏み入ることは叶わず(だって俺には俺の役割があると思ったから)、傍らから見ていることしかできなかった。

 けれどあの蝕の後、三匹の猫はいつしか藍閃から姿を消し俺はどこかで安心した。
 大丈夫、 はまだ誰のものでもない――そう思った。だけど……。


『だからね、もし良かったら……宴に来てくれないかな。ちょっと恥ずかしいんだけど、トキノにも来てほしいの』


 ――ああ、嘘だ。本当は気付いてたんだ。バルドさんを見る の目が、他の雄に向けるものとは違うことに。
 気付いていて俺は、気付かないフリをしてただけなんだ。認めることが怖かったんだ。


『そっか……。おめでとう、

 だけどあまりにも の笑顔が綺麗だったから。あのひとのことを話す が、とても幸せそうだったから。

 俺は祝福を口にした。そして満面の笑みを浮かべた。……それは少しいびつだったかもしれないけど、俺は心の底から に幸せになってほしいと思った。




「――トキノ?」

「……え。あっ、ゴメン。ボーッとしちゃったよ」

 ふと回想に浸りかけた俺は、 の訝しげな声でハッと現実に引き戻された。……まずい、飛んでたよ。


 実際のところ、俺がショックを受けていたのなんてほんの数日だったんだ。
 誰と一緒になっても、 らしく生きられるならそれでいい。その点バルドさんと一緒にいる は本当に自然に微笑んでいたから、俺まで嬉しくなってしまうのにそう時間はかからなかった。

 それにほら、お互い商売をやっているとこうしてしょっちゅう会えるしね。
 

「やだ、大丈夫? 風邪とかひいてない? 朝晩はまだ冷えるし……」

「大丈夫だよ。ああ、服の話してたんだよね。どうだった?」

 熱を測ろうとさっそく耳を摘まみかけた に首を振り、俺は慌ててまた布地に視線を落とした。
 ……ねぇ、 。そうやってすぐに触れようとするクセ、治した方がいいよ? バルドさんに怒られないのかな。

(あれ……?)

 一瞬だけ近付いた の顔に、俺は何か違和感を感じた。……なんだろう。うまく言えないんだけど、何か影のようなものを感じた。
 だけど が何事もなく視線を戻したので、俺もすぐに気にしなくなった。


 紫の布を広げた が、服の上からそれを身体に宛がう。実用的でありながらも可愛らしいその服は によく似合っており、俺はちょっと幸せな気持ちになった。

「このデザイン、すごく素敵ね。ただバルドのはサイズもばっちりだったんだけど、私のが……ちょっときつくて……」

「あ、そうなんだ。どこがきつかった? 俺、直してもらえるように言っとくよ」

「えっと……」

 俺に服を差し出しながら、 が口ごもった。……なんだ? 珍しいな。
  は少しだけ俯くと、頬をわずかに染めて口を開いた。

「む…胸のトコが……。他は大丈夫なんだけど……」

「…………。あ、そ、そうなんだ……。分かった」


 ――それ以外に、どう答えられるっていうんだろう。
 きまり悪げに差し出された服を受け取りながら、俺は無意識に、本当に無意識に、 の胸をちらりと見てしまった。確かこの服は少しゆったりめに作ったはずなんだけど、今では身体にピタリと添ってしまっている。それはつまり――

「…………」


 ――ゴメン、 。俺も雄だからちょっと想像してしまった。頭の中だけにとどめておくから、許して下さい。

 脳内を駆け巡った妄想に俺は頭を振り、きょとんとした に心の中で謝った。





 その後もうちの店への注文や個人的な他愛のない話を交わしていると、いつの間にか陽の月が暮れ始めていた。
 外を見た がスッと立ち上がる。……あ、帰るんだな。

「あ――。あのさ、トキノ……」

「そろそろ帰る? 俺、向こうに用事あるから途中まで一緒に行こうよ」

「あ……うん。ありがと……」

 椅子を引いた が、小さく視線を彷徨わせた。……あ、何か言うことがあったのかな。けれど俺が問い掛けると、 は綺麗な笑みを浮かべて「ううん」と首を振った。





 夕暮れの中を、 と二匹で並んで帰る。

 最近は治安もだいぶ良くなってきたから、誰かと一緒のときは は外でもフードを被らなくなった。
 ゆったりと結い上げた金の髪が夕日を反射して鈍く光る。すれ違う雄たちが皆 を振り返り、俺に羨ましそうな視線を投げていった。俺はその羨望が本当は俺に向けられるものではないと分かってはいても、少し得意な気持ちになっていた。――けれど。



「……? ?」

 俺の家から宿へ向かうには、一度森に入ったほうが早い。 といる時間を伸ばすためか俺の足は無意識にゆっくりとなっていたはずなのに、いつの間にか の歩みがさらに遅くなっていた。

 横に並んでいたはずの が、気付けば数歩遅れたところで立ち止まっている。俺は慌てて、俯いて立ち尽くしている のもとに駆け寄った。


? ……どうかした? 体調悪いの?」

「……うう、ん……」

  は首を振った。だけどその顔は青ざめ、口元を手で覆っている。
 そうだ――さっきの違和感は、これだ。笑顔だったけど、 はどこか気分が優れなさそうだった。 が会いに来てくれたことに浮かれて、そんなことにも気付かなかったなんて!


「ねぇ …もしかして、ずっと気分悪かったんじゃないの?」

「ううん……ごめん。でも、大丈夫だから……」

「……っ、どこが大丈夫なのさ……!」

 弱々しく微笑んだ は、明らかに無理をしていた。俺の中で、自分を責める気持ちにすり代わって への衝動的な苛立ちが沸きあがった。
 ――どうして正直に言ってくれないんだ。俺だって の事を心配してるのに……!


 けれど悪いことって、どうして重なって起こるんだろう。 の肩に手を掛けた俺に、突然背後から雄の声が掛けられた。


「――おいおい。カノジョ、嫌がってんじゃねぇか。ンなひ弱な雄に心配されたって迷惑だってよォ!」

「……っ」

 振り返ると、案の定ガラの悪そうな雄が酒の匂いをプンプンさせて立っていた。…… に目を付けて、街からつけてきたんだろう。

 いつもならこんな雄、 はひとりで追い払っている。だけど は表情こそ険しくなったけどまだ青ざめていて、とても逃げられそうな状態じゃない。
 俺は を背後にかばって、大型種だろうその雄を睨み付けた。


「……あぁ? なんだよ、その目は。俺はお前の連れ心配してるだけだぜ? ちょっと見せてみろって言ってんだよ」

「……あんたには関係ない。どけよ」

 完全にナメられている。俺だけだったら売られた喧嘩も買っていいけど、今こちらから手を出したら に危害が加わるかもしれない。

 睨みつけながら をかばって後退した俺に、雄猫が痺れを切らしたように掴みかかってきた。だけど俺を殴ると思ったその腕は、ぎりぎりで の方へと向きを変えて――


「へっ! 背後がガラ空きだぜ!!」

「……! 触るな!!」

 俺はとっさに振り向くと、その雄猫に拳を喰らわせていた。





 俺はこれでも闘牙だから、実は結構喧嘩も強い。最低限自分の身は守れなきゃ、行商猫なんてやってられないし。

 パンチを喰らわせると、憤慨した雄猫がヨロヨロとした拳をふるってくる。それを難なくかわすついでに、回転をかけて蹴りを入れた。
 数歩先まで吹っ飛んだ雄猫は呆然とした顔で俺を見ると、よろめきながら森へと逃げていった。……大丈夫、それ痛いけど痕は残らないはずだから。そんなことを思いつつ雄猫を見送った俺は、次にハッとして を振り返った。


「あ…… ……」

 ――まずい。ブチ切れて我を忘れちゃったよ。 にはこんなところ、本当は見せたくなかったのに。
 恐る恐る を伺うと、 はポカンとした表情で俺を見つめていた。


「トキノ……アンタ、強かったのねぇ……。ライもびっくりだわ」

「……あ、えっと……」

 純粋な感嘆と賞賛を表すその言葉に、俺はむしろ戸惑った。
 ……あれ? 俺、怒ってたはずなのに怒りがどこかに行っちゃったぞ?

「その…… 、身体はどう? ごめん、一緒だったのに危ない目にあわせて……」

「そんな。……ごめんね、大丈夫かと思ったんだけどやっぱりちょっと具合悪くて……むしろ私がアンタに迷惑掛けたわ。……でもありがとう。本当に助かったわ、トキノ」

  が微笑んだ。八つ当たり気味の俺の怒りは、それで完全に霧散してしまった。

「あ、う、ううん……。 が無事で良かったよ」

 バツの悪さを誤魔化すように早口で言った俺に、 はとても優しい笑みを浮かべた。




「少しだけ、ここで休んでいってもいいかな。随分良くなってきたから、もう少ししたら動けると思うの」

「うん。ごめん、俺が気付いてもっとゆっくり歩けば良かったな」

「ううん。ちゃんと言わなかった私が悪かったのよ」


 木の幹にもたれ、俺と はそこで休憩していくことにした。
  の顔色もだいぶ良くなってきたみたいだし、言葉どおりもう少ししたら動けるようになるんだろう。様子を伺うようにひょいと振り返った俺は、丁度こちらを向いた と至近距離で目が合ってしまった。

「……?」

  は俺をじっと見つめたかと思うと、ふいに足元へ視線を落とした。そしてまた俺を見て、唇をわずかに開く。明らかな逡巡を示すその様子に、俺はわけもなくドキドキしてきてしまった。


「あの、 ……どうしたの? また具合、悪い?」

「いや、あの、そうじゃなくって……私、トキノに言いたいことがあって」

「?」

 ボソボソと告げた の頬は赤い。意を決したような様子に俺も姿勢を正すと、 の方へと身を寄せた。そして耳元でこそりと囁かれたのは――


「私ね……妊娠したみたいなの」


 またしてもの爆弾発言に俺は真っ白になり、尾の先がぶわりと膨らんだのを感じた。




「いやー、やっぱりこれってつわりみたいね。……やだなぁ、あっさり言えるって思ったのにいざとなるとなんか恥ずかしくって。いつ言おう、いつ言おうってさっきからタイミング計ってたのよ」

 照れたように笑った が早口で言い、金の尾をブンブンと振る。その先端で手のひらを叩かれながら、俺は呆然とした顔を戻せないでいた。


(うわ……どうしよう。……何も考えられない……)

  とバルドさんは結婚したんだから、いつ子供ができたって何もおかしなことはない。
 そう理性で納得する反面、俺は今の今まである光景を意識的に考えないようにしてきたことを、嫌でも思い知らされた。


 子供な俺の、ちっぽけな防御。キラキラした理想を胸の中に封じ込めていた。
 初恋の大切な猫が、他の雄に抱かれていることを――俺は考えないようにしてたんだ。



「トキノ……?」

 何も答えられない俺を、 が訝しげに覗きこんでくる。赤みの戻ってきた頬の上の双眸は、あの頃とはまた違う深みをたたえていた。
 つがいを見つけ、そしてまた新たな命を宿している身体。結い上げた金の髪も、ふっくらとした唇も、腕輪をはめた細い手首も、全部全部全部――

(綺麗…だな……)

 俺が欲しかった想いを、他の猫に惜しみなく与えている猫。あのひとのことを想う は、こんなに綺麗だ。
 俺は泣き笑いのような表情を浮かべると、 の頬に手を伸ばした。


……」

「――ああ、いた! …ったく、やっぱりヘバってたか。迎えに来てよかったぜ」

「! ……バルド」


 俺の手が頬に触れる寸前、飛び込んできた低い声に はハッと顔を上げた。
 触れることができなかった指を握り締め、俺は の視線を追った。





 宿の方から駆けてきたバルドさんは仕事着のままで、着の身着のままという感じだった。少しだけ息を乱して の前へと腰を下ろす。
  と視線を合わせたバルドさんは、 の額をちょんとつついた。

「たっ」

「やっっぱり調子悪かったんだろ。だから休んどけっつったのによ。――ああトキノ、悪かったな。お守りしてくれてありがとうよ」

「え? あ、いえ……俺もこっちだったんで……」

  を軽く叱ったバルドさんは、俺の方を向くとぺこりと頭を下げた。年上の猫にそんなことをされると逆に申し訳ない。俺がぶんぶんと首を振ると、バルドさんは の手を掴んで立ち上がらせた。


「まったく、医者とトキノんちに行ったにしちゃ遅いと思ったらこれだ。また若くない身体に鞭打っちまったよ」

「……探してたの?」

「当たり前だ。……ほら帰るぞ。あまり腰を冷やさない方がいいんだろ? 頼むから身体は大事にしてくれ」

 溜息をついたバルドさんが、 のお腹をちらりと見る。 はきょとんとした後にハッと目を開いた。

「知ってたの…!?」

「さっき知ったんだよ。薄々そうじゃないかとは思っていたが、ここ来る前に医者にも寄ってきたからな。『おめでたです』とか言われても、カミさんが行方不明じゃ喜びも半減だろ。必死になって探したよ」


 バルドさん……知らなかったんだ。俺がぽかんとふたりを見つめていると、バルドさんは俺を振り返って苦笑を浮かべた。

「本当にありがとうな。ところでお前さんもこっちでいいのか?」

「あ、はい。もう少し行ったら曲がりますけど」

「そうか、じゃあ一緒に行こう。……っと 、そういやゲンさんが研いだ包丁を取りに来てるぞ。俺じゃどこに置いてあるか分からなかったから、待たしてるんだが……」

「え! ちょっとマズイじゃない。早く帰んなきゃ……!」

 バルドさんの言葉に はあっさりと手を離すと、たっと駆け出した。全速力で走っていきそうなその姿に、バルドさんが慌てて声をかける。

「あー大丈夫大丈夫。ゲンさんなら適当に店番でもやってくれてるさ。つーかあんた、たった今俺が身体大事にしろって言ったの完璧忘れてんだろ……」

「あ。……はは……」

 ぴたりと立ち止まった が、ばつが悪そうにお腹を押さえる。それでも早足で歩き出した は、俺とバルドさんを残してさっさと先へ進んでしまった。



「……ショックだったか?」

「!」

  が離れた瞬間、バルドさんは小声で呟いた。
 ――挑発された。俺はキッと顔を上げると、衝動的にその琥珀色の瞳を睨みつけてしまった。知らず、かすかな威嚇の声まで漏れる。

 けれど俺と見つめ合ったバルドさんはフッと溜息を漏らすと、緊迫した空気を和らげた。

「冗談だ。……すまん、あんたの気持ちは知ってるのに嫉妬でつまらんことを聞いた」

「……?」

 ……嫉妬? バルドさんが俺に? ていうかやっぱり気付かれてたんだ!!
 疑問と驚愕をそのまま表情に出した俺にバルドさんはまた苦笑を浮かべると、前を行く の後姿を見やって呟いた。


「あいつ……あんたに一番に知らせたかったみたいだな。子供ができたって。……俺よりも先に、あんたに喜んでほしかったんだろうよ」

「……!」

 俺は今度こそ目を丸くしてバルドさんを振り返った。バルドさんは俺に視線を戻すと、とっておきの秘密を公開するように小声で言った。

「この街に住むことになって、慣れない土地であいつも最初は気を張ってたと思うんだ。……俺もサポートはしたが、あいつああ見えて意地っ張りだろ? なかなか弱みを外に出せないんだよなぁ。そんなとき、頼りになったのはやっぱりあんただったって思うんだよ、俺は。なんだかんだ理由をつけて、あんたんちに入り浸ってたしな」

「…………」

にとってのあんたは、友達とか幼馴染って言葉じゃ括れない……そうだな、きっと『家族』なんだろうな。……もう肉親のいないあいつのことを、唯一昔から知ってるのはあんただけだ。あんたが望んだ関係はそうでなかったとしても、 がまず無条件に安心して頼ることができるのは、俺じゃなくて多分あんたなんだろうと思うよ。……だから、家族のあんたに一番最初に喜んでほしかった」

「……俺に…… が」

 バルドさんが静かに目を伏せる。細められた双眸が愛おしむように再び へと向けられ、そしてまた俺へと戻った。

「まったく、いつまでも安心させてくれないお姫様だ。俺の立場で考えてもみろよ、この状況って結構妬けるだろ? 旦那は俺だぜ?」

 嘆息したバルドさんが、哀れっぽく肩を竦める。その芝居がかった仕草に思わず吹き出した俺は、少々意地の悪い顔でバルドさんを見上げた。


「いいんじゃないですか、たまには妬いたほうが。俺なんてしょっちゅうですし、いつかあなたにも味わわせてあげたいと思ってたんですよ」

「お、言うじゃねぇか。……つっても、雄として俺が愛されてるのは言うまでもないけどな。あんたは家族だ家族」

 俺の挑発にバルドさんも軽く乗ってきた。ニヤニヤと口元を緩め、腕を組みながら見下ろされる。
 俺は的を得た言葉に内心ダメージを受けつつも、再び攻撃を繰り出した。

「でもバルドさん、もう結構歳もいってますよね。順当に行ったら よりも先に……ですよね。そしたら俺が側にいてあげますから、安心して往生していいですからね」

「ぐ。……あんたなぁ、それを言うか! うわ、結構腹黒いぜうちの義弟。カミさんは知らねぇんだろうなー」

「冗談ですよ。 に言ったら明日から商品の割引取り消しますからね」

「マジかよ……」

 ――勝った。幾分かげんなりしたバルドさんの顔を見て、俺は小さく拳を握った。
 力の抜けたバルドさんが、先を行く の方へと歩き出す。それを引きとめ、俺はもう一度笑みを浮かべて告げた。


「あともし娘さんが産まれたら、俺もちょっと期待しちゃいますから。大丈夫、バルドさんと ほど歳も離れていないから、犯罪になりませんよ。……あ、ちなみにこれは本気なんで」

「な……、だ、駄目だ駄目だ! そんなの許さんぞ! 娘だったら嫁には出さんぞ。絶対可愛いに決まって――」

「バルドー? 何がダメなのよ。さっさと帰るわよー?」


 岐路に立った が、呆れた様子でバルドさんを呼ぶ。俺の方を気にしつつも のところへ辿り着いたバルドさんは、 の腰を自然に抱いた。それを当然のように受け入れた に向けて、俺は手を振って呼びかけた。


、おめでとう!! 身体、大事にしてね! 俺の甥っ子か姪っ子、楽しみにしてるから!」


  が目を見開く。口元を手で覆うと、 は涙ぐんで言った。


「……ありがとう! アンタにそう言ってもらえるのが、私…一番嬉しい!」



 そして俺はもう一度手を振ると、 とは違う道を歩き始めた。












 想いを告げることはできなかった。この手で守ることはできなかった。
  があのひとを選んだ瞬間から、俺の想いは胸の中で結晶になった。


 だから俺は、あなたに送る。――祝福を。



 あなたが幸せであるように。あなたが健康であるように。
 あなたが――愛する猫と、いつまでも共にいられるように。



 俺は、願う。









 END


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(2008.4.27)