「じゃあアサト、一緒に飲もうか」
「……ああ!」
黒猫を選んだ瞬間、アサトは飛び上がらんばかりに喜んだ。 興を削がれたような目をした白猫に少し頭を下げ、グラスに液体を注ぐ。ふたりは軽く縁を合わせると、一息にそれを飲み干した。
「あまッ…! ――って、え……?」
ぐいと液体を飲み込んだ瞬間、
はあまりの甘ったるさにきつく目を閉じた。 砂糖に糖蜜をかけて一息に飲み込んだような感じだ。甘いものは嫌いではないが、これはつらすぎる。涙すら浮かべてそろそろと瞼を開くと、次の瞬間
の目は点になった。
ここは――どこだ。
見た事もない群集の中に、
は立ち尽くしていた。
「え……? え……っ!?」
知らぬ間に酔っ払って外に出てきてしまったのだろうか。……そう、確かにここは外だ。だが藍閃の街中ではない。むしろ街の中にすら見えなかった。 色とりどりの衣を纏った猫たちまみれの中に、
は放り出された。
「
……」
「あ、アサト!」
すぐ背後で上がった聞き覚えのある声に
は振り向いた。見ると、アサトが目を丸くして立ち尽くしている。 ……良かった。とりあえずは自分一匹でやってきてしまった訳ではないらしい。だが
がホッと安堵の息をついた瞬間、アサトの頬が強張った。
「アサト……?」
「……ここの猫たち――皆、失躯じゃないのか?」
「え……」
アサトの視線を追った
は、己の周囲にいる猫たちを観察して凍りついた。 確かに――ないのだ。耳が、尾が。……猫たちのほとんどには、悪魔のような耳しか付いていなかった。
これほど大量に発症者が出たなど聞いた事がない。
はハッと我に返ると素早く頭に手をやった。
「私……っ! ――は、あ……あった……」
髪の上にはいつも通りに猫耳が鎮座していて、
はどっと安堵した。ちゃんと尾もあるが――
は困惑した顔でアサトを見上げた。
「……どういう事? 失躯の割には、みんな騒いだりしてないわ」
「体調が悪いわけでもなさそうだ。……まさか――」
ふたりで顔を見合わせる。青ざめた
は、泣き笑いのような表情で告げた。
「二つ杖の世界に……来ちゃった……みたいね」
数分の呆然自失の後、
は足元に落ちていた空瓶と巾着袋に気付いてそれらを拾い上げた。 中身が入っていた時は見えなかったが、何か内側に文字が刻まれている。
「『酒が体内から抜ければ、おのずとこちらへ戻ってこられるじゃろう。それまでの間、好きに楽しめ。少しじゃが貨幣も入れておいた』……だって」
「……という事は、いつかは戻れるのか」
「みたいね」
首を傾げて聞いていたアサトが、ホッと顔を綻ばせる。どうやらひどく緊張していたらしい。 吉良から出て外の世界を知り始めたと思ったら、今度は二つ杖の世界だ。それは緊張するだろう。
(……私がしっかりしないとなー)
は逆に腹を括ると、アサトの隣に寄り添って改めて周囲を見回してみた。
「しかし……二つ杖たちって、随分きらびやかなのね。あまり服に一貫性もないし……」
周囲の二つ杖たちは、やたらめったらキラキラした衣装を身に纏っていた。そうかと思えば地味な格好で何か箱のようなものを盛んに雌に向けている雄もいる。 可愛らしい雌の衣装を眺めていた
は、ある事に気付きアサトを小突いた。
「ねぇ。あの子、悪魔みたいな耳してるわ。横に長い……」
いわゆる『エルフ耳』を付けた雌を見つけ、
は興奮した様子で告げた。するとアサトも
を促すように手を翳す。
「俺たちと同じ耳の奴がいる」
「あ、ほんと。……なんか何でもありみたいね。私たちに耳が付いてても、誰も何も言わないし……」
先程からチラチラと向けられる視線はあるが、特に奇異の目で見られている訳でもない。 整合性のないこの場所は、何かに似ていると
は思った。
「ああ……。暗冬だわ」
「暗冬?」
「うん。ほらあのお祭りって、猫たちが悪魔の仮装をするじゃない? あれに似てる気がする」
「仮装か……。つまりこれは祭なのか?」
「さあねぇ」
呆然と突っ立ったまま、ふたりは混み合う広場らしき場所を眺めていた。何が何だかよく分からないが、とりあえず耳や尾の事で騒がれる場所に出なかった事だけはありがたい。 そんなふたりの前に、その時フリフリとした衣装を纏った雌がふたり寄ってきた。
「そのコス、オリジですかぁ? カップルで猫耳って超萌えですね!」
「え……」
正面に立った雌たちは、熱っぽい眼差しで
を感嘆したように眺めた。次いでアサトを見上げ、「きゃああ」と呻きながら地団駄を踏む。 ……一体なんだ、この反応は。というか言われたことがさっぱり理解できない。
「えっと、『こす』……?」
「あ! もしかしてガイコクの方ですか? えっと〜、そのコスプレ……服って、自分で考えたんですか? あと耳も。すごく良く出来てますね。……これで通じるかなぁ?」
「ああ、うん。言葉は大丈夫」
首を傾げた雌に、
は慌てて返した。確かに何故だか言葉は通じている。だがやはり単語が分からない。
は迷いながら、結局当たり障りのない答えを口にした。
「……一応自前、かな。服も」
「へー! 私も今度猫耳やってみよっかな。……良かったらコスネーム教えて下さい!」
桃色の服を着た雌がニコニコと笑う。その傍らのもう一匹は、先程からアサトをうっとりと眺めていて上の空だった。
はなおも話しかけてくる桃色娘にそっと問い掛けた。
「……あの、今って仮装のお祭り中だったりする……?」
「『仮装のお祭り』? ……あはっ、ニホンゴにすると確かにそうかもですねー。コスプレだけってよりは、コミック全体ですけど〜」
「……?」
また分からない単語が出てきた。頭上に疑問符を飛ばし始めた
は、その時右手をギュッと握られて慌てて雄猫を振り仰いだ。
「あ……大丈夫? アサト」
「……
……」
アサトは固い顔でだらだらと汗をかいている。見ると、あちこちから飛んできた眼差しに硬直しているようだった。それは概ね賞賛の熱が篭っているものではあったが、アサトにしてみればこれほど多くの二つ杖に注目されているという事自体が耐え難いのだろう。
「あの、写真撮っても――」
「あ、ゴメン。ちょっと連れが体調悪くて……」
他の雌からの申し出を丁重に断り、
はアサトの手を引いてその場を後にした。
「少し落ち着いた?」
「ああ……。すまない、藍閃以上に猫…じゃなくて二つ杖がいたから驚いてしまった」
二つ杖たちの流れに沿って屋外から屋内に移動してきた
たちは、壁に寄り添ってその会場を眺めていた。屋内と言ってもそこはやけにだだっ広い空間で、無数の机が置かれた中を二つ杖たちが所狭しと移動している。何か……本のようなものを取り引きしているようだ。
「藍閃の出店みたいなものかしら? でもこれだけ店が出るのってすごいわね。あそこなんてもう何分も待ってるみたいよ」
「そうだな……。こっちの二つ杖は結構普通の格好をしている」
感心した様子で二つ杖を観察していたふたりは、時折チラチラと感嘆の視線を向けられていた。同時に『レベル高くね?』とか『猫ミミ萌え〜』とか言った言葉が飛んでくる。 ……というか、先程も聞いたが『モエ』とは何だ。
は頭をひねって考え込んだ。そんな中、立ち直ったアサトが
の袖を引いた。
「……少し、見てみないか?
は二つ杖の文化に興味があると言っていただろう」
「うん。……ねえ、それより『モエ』って何だと思う?」
「え……。意味、か?」
「うん」
は大真面目だ。じっとアサトを見上げると、当のアサトは頬をほんのり染めた後にシュンと項垂れてしまった。
「あ……すまない。分からない……」
哀しそうに両耳がぺたんと下がる。
は慌ててその頭に手を乗せた。
「ゴメンゴメン。いいのよ。……ちょっと単語が分からなかっただけだから、そんなに落ち込まないで」
いい子いい子するようにポンポンと撫でると、アサトの顔が晴れた。和やかにふたりだけの空気が作られる。 その背後でこっそり『ひいぃぃぃぃ〜!』とか『猫耳カプ萌えー!』といった黄色い声が上がった事に、ふたりが気付く由もなかった。
「どうやら絵付きの本……みたいね。随分と薄いけど」
「色がいっぱい付いてて綺麗だ」
比較的空いている通路を歩き始めたふたりは、両隣に並ぶ薄っぺらくも色とりどりな本たちに感嘆していた。アサトがふいと一つの机の前で立ち止まる。
も目に留まった本の前に立つと、そこの店主らしき雄におずおずと声を掛けた。
「あの……見せてもらってもいいですか?」
「え、あ、どうぞ……! でもそれダンセイ向けですけど――」
「……?」
突然挙動不審になった雄に首を傾げつつ、
は本を手に取った。 ツルツルとした素材の表紙は、とても可愛らしい雌がこちらに向けて視線を送っている。この分ならきっと二つ杖の微笑ましい恋物語などが――
「…………」
微笑すら浮かべてパラリと本をめくった
は、その表情のまま固まった。 紙面に目が釘付けになる。早く戻せばいいのに、手が勝手に頁をめくっていく。そして最後の頁まで一気に流し読みした後、
は蚊の鳴くような声で『ありがとうございました……』と搾り出すと本を元の山の上に置き、猛然とその場を去った。
「ア、ア、アサト―ッ!」
「!
! ……お、俺は――もう婿に行けないかもしれない!」
「はいッ!?」
通路の真ん中でふらついてたアサトに呼びかけると、黒猫は
に突進するようにしがみ付いてきて絶望の声を上げた。
は自身が動揺していたのも忘れてポカンと口を開けた。そのまま甘えるように胸に顔を埋められ、さすがの
も奇異の視線にたじろぐ。
「ど、どうしたのよ……」
「あの本……恐ろしい本だ。雄と雄が――■■で、■■して、さらには■■■を……!」
「…………」
告げられた言葉に
は蒼白になった。だが
の読んだ本は、もっとすごかった。
「私の見たのだって、雌が■■されて、■■を入れられて、■なところを■められて……! いやーっ、私こそお嫁に行けないわ!」
「俺のなんて針が■■■■……!」
「は、針が……」
アサトの涙混じりの声に
は、うっと身を引いた。リアルに想像してキュッと下腹が締まる。 ――それは痛そうだ。というか、酷すぎる。
ゾッとしたふたりはその時、向けられる微妙な視線に気が付いてはたと顔を見合わせた。
「…………」
「あ………」
沢山の二つ杖が、二匹を見ている。あるものは顔を赤くして。あるものは興奮したように。 ……一体何を口に出していたのか。
はハッと我に返ると、アサトの手を引いてそそくさと会場を抜け出したのだった。
「なんか……二つ杖って、想像してたのと大分違ってたわ。色々とすごかったわね……」
「俺たち猫と変わりないって事なんだろうな……」
「変わりないどころか――何歩も上を行ってたわよ……」
夕暮れ。二つ杖もまばらになってきた会場を背後に、二匹はぼんやりと海を眺めていた。 祇沙の海とは違うが、どこまでも開けていく感じは一緒だ。その海に浮かぶ船に向かい、残り少なくなった二つ杖たちが大量の紙袋と共に乗り込んでいく。 汽笛を上げて出航した船を、ふたりはのんびりと見送った。――しかし。
「そこのレイヤーさーん! その格好で帰っちゃ駄目でしょー!」
「えっ?」
遠くから、この祭の係員らしき雄が声を張り上げた。明らかに
たちに向けて怒鳴っている。 立ち竦んでいるとその雄が走り始めたため、アサトに引かれて
も走り出した。
「逃げるぞ、
!」
「え、あ、うん! でも、どこ――にぃ…ッ!?」
アサトが猛然と駆けていく。だがその先には――海しかない。
「え……ちょ、待っ――! きゃああああッ!!」
の叫びも虚しく、アサトは一直線に海に向かって飛び込んだ。
の手を引いて。
「ふぅえッッくしょーい!!」
翌日、藍閃の宿屋の食堂で何故かびしょ濡れになって目覚めた
は、予想通り風邪を引いたのだった。そしてアサトは――これまた期待を裏切らず、ピンピンしていたのだった。
END
(2007.11.4)
|