「なあ、コイツって――」

「ライ…!?」



白猫の受難



 

 その日、藍閃は快晴だった。体調良好、気分も良好。毛艶も完璧で、 はウキウキと自室の扉を開けたのだった。
 そこへ聞こえてきたのが、コノエの絶叫である。 は思わず尾を逆立ててしまった。
 またあの白猫に尾でも踏まれたのだろうか。 が二匹の部屋の扉を開くと、そこにはコノエ一匹がぽつんと立ち尽くしていた。腕に何かを抱えている。

 コノエが凝視している腕の中の物体は――猫、のようだった。しかも生まれてまだ一年にも満たないだろう赤子だ。
  もぎょっとして覗き込んだが、子供はすやすやと眠っている。その愛らしい様子に一瞬状況も忘れて は微笑みそうになったが、ふとある事に気付いて顔を強張らせた。

 白い髪、ミニマムサイズの衣装と眼帯。――その姿には物凄く見覚えが、ある。

  はコノエと顔を見合わせると、呆然と目を見開いたのだった。





『な、ななな何で? 一体コイツどうしちゃったの!?』

『俺だって分からないよ! 朝起きたらこうなってたんだ!』

 取り合えず子供――というかライを起こさないように、 とコノエは小声で叫んだ。二匹揃って、混乱している。

「もしかして呪い!? それとも何か変なものでも食べた……?」

「……これがリークスの呪いだったら、それはそれで嫌だな…。俺が悩んでるのが馬鹿らしくなってくる」

「ま、まあ確かにアイツもそこまで暇じゃないわよね」

 目を逸らし、落ち込みかけたコノエを が慌ててフォローする。するとコノエはハッとして「そういえば……」と呟いたかと思うと、ライを へと預けてきた。思わず受け取り、 は恐る恐るその身体を抱き締める。

「昨日もアイツ、夕食を食べなかっただろ。だから夜にひとりで何か木の実を食べてたんだ。……確かコレだ」

 棚を漁っていたコノエが掴んだのは、 には見覚えのない木の実だった。ちょっと見た目がアレな感じだ。 だったらまず口にはしないだろう。

「見たことないわね……。とりあえず、その実と何か関係があるのかしら。バルドに聞いてみましょう」

 取り合えず手近で一番物知りなのは、バルドだ。 の提案にコノエも頷くと、再び腕の中のライに目を向けてきた。

「何で、服まで小さくなってるんだろう……」

「ねー。頭身が変わってるのが笑えるけど。……あら?」

 ライの服を軽くつまむと、 はその臀部がやたらに厚みを帯びていることに気付いた。何というか、もふもふしている。

「――ッ、ちゃ、ちゃんとオムツしてるわよこのライ……!」

「え? ――あ、本当だ……」

 あのライが、オムツ。呪いだか食当たりだかは知らないが、ご丁寧にもそんなところまでしっかりと変換されているのか。 は無条件に感心した。
 しかしそれにしても、オムツ。 はコノエと顔を見合わせると、堪えきれずに爆笑した。






「……ライだな。この顔は間違いない」

 食堂に行くと、バルドは朝食の片付けをしているところだった。悪魔やアサトの姿はない。
 二匹が抱えている子供を見て、「どこで作ってきた?」などとはじめは茶化していたバルドも、その顔を覗き込むと沈黙せざるを得なかったようだ。

「何で、こんな事になったんだ? アンタなら何か分かるんじゃないかと思って……」

「いや、俺にもさっぱりだな。そんな実も見た事がないし――」

 困惑げに首を振ったバルドに、コノエが肩を落とす。そうこうするうちに、 の腕の中のライがぐずぐずと首を振り始めた。

「あ、起きた。――スゴイ、ほんとにライだわ……」

 ぱっちりと開かれた隻眼は、やはりあの薄い青色をしていた。そんな事にいちいち が感心していると、次の瞬間ライは突然顔を歪め、大声を上げて泣き始めた。

「え!? 何……? どど、どうすればいいの!?」

 今までに赤子をあやした経験なんてなんてない。 が慌てふためくと、ライはますます身体を捩って声を荒げた。その小さな腕が、 の胸を探る。

「え。あ、ちょっと……ドコ触って――ッ」

  の胸をがしっと掴んだライが、顔をすり寄せてくる。――まさかコレは。

「待った……ッ! 何も出ないから! あ、ちょ…ッ」

 その意図を察した が、困り果てて傍らの二匹を見遣った。コノエは真っ赤な顔をして から目を逸らし、バルドはニヤニヤと好色な笑みを浮かべていた。

「いや、意外と出るかも知れんぞ? 試しにやってみたらどうだ?」

「出るか――ッ!! アンタ、眺めてないで何とかしてよ!」

  が頬を染めて激昂すると、バルドは肩を竦めてライの背を軽く叩いた。ライの泣き声が少し小さくなる。

「ちょっと待ってな、ミルク持ってきてやるよ。……アンタも眺めてないで手伝ってやりな。子育ては大変だからよ」

 コノエの肩に手を置いて、バルドが食堂を出て行く。残された とコノエは、ミルクが出来るまでおっかなびっくりライをあやし続けた。






「……猫舌とか、関係ない?」

「いや、そこまでは分からんが……少なくとも冷たいものをやったら泣くだろうな」

 数分後、猫肌に温められたミルクを持ってバルドが食堂に帰ってきた。入れ替わりにコノエが「呪術師に聞いてくる」と言って出て行く。
 バルドは からライを受け取ると、ゆっくりと液体の入った器を傾けた。ライが小さな唇を動かして一生懸命飲み下していく。バルドの一連の動作が妙に手馴れているように感じられ、 は素直に感心した。

「手馴れてるわね……」

「まあ二度目だからな。随分昔だから忘れかけてたが」

「……どうだか。その他にもあったんじゃないの?」

  がジト目で見上げると、バルドは心外という顔を作って肩を竦めた。ミルクを飲み終わったライを抱き起こし、背を叩いて息を吐かせる。そんな細かい仕草も堂に入っている。
 やがて落ち着いたらしいライが、バルドの肩越しに へと手を伸ばしてきた。小さく呻きながら手を上下に振っている。

「ああハイハイ、やっぱママの方がいいよな。ちょっと待ってろ」

「誰がママよ……」

 やに下がったバルドの言葉を受けて、 がぶすっと膨れる。まだ母親と呼ばれるには早い。だが自分に手を伸ばしてくる幼子を見ると、それもいいかなという気になってしまう。
 内心うきうきと が再びライを受け取った、そのとき。食堂の扉が開き、アサトが顔を覗かせた。


「あ、アサト。おはよー」

、おはよ…――ッ!?」

 ぱっと顔を綻ばせたアサトが、二匹の様子を見た次の瞬間、顔を強張らせた。驚愕に瞳が見開かれる。

「な、何で……いつの間にそいつと――!」

「……は?」

 瞳に絶望を浮かべたアサトが、ふらふらと身を引く。それに追い討ちを掛けるようにバルドが口を開いた。

「あー悪いな、もうお手つきだ。だが の可愛い子供なら、あんたも面倒見てくれるだろう?」

「――はあ? ちょ…っ、アサト、待ちなさい!」

 遂に食堂から見えなくなってしまったアサトを、 が追う。階段の前で追いつき、 は不自由な両手の代わりに額をアサトの背へと打ち付けた。――かなり、痛い。

「何誤解してるのよ! この子はそんなんじゃなくて――」

「いや、 の子供なら俺も心から可愛がろう。だけど今は、ひとりにしてくれ……」

 振り向いたアサトが、目を逸らして呟く。完璧に誤解しているその目の前に、 は腕の中の子供を掲げた。

「そうじゃなくて! ほら顔見てよ。……分かるでしょう?」

 突然目の前に掲げられた子供を、アサトがまじまじと見る。心なしかブスッとしたライとアサトは至近距離で見つめ合った。

「……? ――ッ! ライ、か……? まさかアイツとの……!」

「だから違うって! ……この子、ライそのものよ」

「え……」

 アサトの呆然とした呟きに、 が頷く。次の瞬間、アサトは複雑な表情で顔を強張らせた。そんなアサトに小さく溜息をついて、 は事の次第をかいつまんで説明した。
 やがて の話が終わる頃、のんびりとやってきたバルドが声を掛けた。

「ま、原因が分かるまでは面倒見るしかないってことだろ。今のところ完璧に子供に戻ってるしな」

「そうね。いつ戻るのかは分からないけどね……、――アサト?」

 バルドの言葉に頷いた は、ライを凝視しているアサトに気が付いた。声を掛けると、はっとアサトが目を見開く。

「あんた、いくら嫌いだからって睨むことないだろう。可愛いもんじゃないか」

 呆れたようにバルドが言うが、アサトは複雑な面持ちを崩さない。ライだと言うだけで、そんなに嫌なのだろうか。思わずライを抱き寄せた の横で、バルドがやれやれと溜息をついた。

「どっちにしろあんた達で面倒見ないといけないんだ。――そうだな、じゃあライだと思わなきゃいいんじゃないか? あんたと の息子とでも思っときゃ、可愛げも湧いてくるだろ」

 バルドの言葉にアサトと は揃って目を見開いた。「馬ッ鹿じゃないの」そう言おうとした を、アサトの呆然とした呟きが遮る。

「俺と の、子供――」

 陶然と呟いたアサトがライを見遣った。見つめるその目が妙に熱い。数秒後、アサトはバルドを見遣るとコックリと頷いた。

「俺、頑張って面倒を見る」

「あ、ああ……」

 熱い目で宣言したアサトに気圧され、バルドは頷くと食堂へ戻っていってしまった。残された がアサトを見上げる。

「ライだと思ったら、やっぱり駄目なの?」

 何となく寂しい気分になって が問い掛けると、アサトは目を見開いて を見下ろした。

「? いや、そんな事はない。アイツは嫌いだが、今は子供だから関係ない」

「え……だったらさっき、何で睨んでたのよ」

 睨んでいた、と言うよりほかない先程のアサトの視線を思い出し、 は困惑を込めて尋ねた。アサトは数回目を瞬かせると、きょとんと口を開いた。

「睨んでいない。最初に見てすごく可愛いと思ったが、ライだと聞いたらどうしたらいいか分からなくなった。……でもやっぱりすごく可愛いと思う」

 そう言ってアサトは の腕の中のライを見つめ、目を細めた。それを見た が目を見開く。

「……子供、好きなの……?」

「よく、分からない。子供を見たのも初めてだから。でも、嫌いではないと思う」

 アサトは興味深げにライを覗き込んでいる。その様子に は相好を崩すと、抱えたライをアサトに受け渡した。感触が違うことに驚いたのだろうか。ライが大きく目を見開く。

「抱いてみなさいよ。アンタ、きっといい父親になるわよ。――あっ…」

「……っ」

 アサトに抱えられた直後、ライが片手を振り上げた。その小さな爪がアサトの顔にヒットし、頬を一筋血が流れる。
 暴れだしたライを再度受け取って、 は呆然とするアサトを見遣った。ライを怒るわけにもいかず、 は空いた手でヘコむアサトを慰めたのだった。







「チビチビの実ィ!?」

 あからさまに怪しげな木の実の名前に、 は思わず叫んで眉を寄せた。

 午前の終わり、 とバルドは食堂でコノエが持ち帰った情報を聞いていた。アサトは用事があって残念がりながら出掛けてしまったところだ。
 コノエは膝の上のライをあやしながら、話を続けた。何でも『呪術師』とやらが語った言葉は、こうだ。

『さよう。二つ杖の頃からある『悪魔の実』の一つでの。昔は効果が一生続いたらしいが、今は退化して数日あれば元通りになるそうじゃ。まあ本当のところはわしにも分からんがのう。戻れば良し、戻らなければこのまま一生かもしれんの』

 『カッカッカ』と幻聴が聞こえてきそうなコノエ迫真の物まねに、 は呆れるのを通り越して感心してしまった。
 ――怪しい。木の実の名前もだがその『呪術師』とやら、あからさまに胡散臭い。
 心を過ぎった正直な感想は取り合えず置いておいて、 は腕を組むと溜息をついた。

「アイツ、何でそんなモン食べちゃったのかしら。それくらいならバルドのご飯食べれば良かったのに……バカねぇ」

「やせ我慢してたら耐え切れなくなったんじゃないか。昨日あたり、目が虚ろだったし」

  の呟きにコノエが小さく頷く。なにげに毒舌な二匹を苦笑して眺め、バルドが口を開いた。

「ま、今日はまともに動くことは無理だろうな。せっかくなら、そいつ連れてどこか行ってみたらどうだ?」

「どこかって言われても――」

 こんな赤子を連れて、猫の多い場所に行ける訳がない。ライにとっても にとってもそれは危険だ。 が困惑してバルドを見上げると、バルドは何かを思い出すように髭を撫でた。

「二つ杖の時代にはな、子供を連れて広場に行くっていう慣習があったらしいぞ。詳しくは分からんが、子供が育つ上での通過儀礼だったらしい。確か『こうえんでびゅー』とか言ったかな」

「アンタ、またそんな怪しい知識を……」

 胡散臭いバルドの台詞に が呆れて突っ込みを入れる。だが傍らのコノエは感心したように頷くと、ライの身体を抱えて立ち上がった。

「いいんじゃないか? 猫の少ない郊外なら平気だろ。天気もいいし、このまま宿にいるのも勿体無い」

「うーん、まあそれもそうね……」

 急に生き生きとなったコノエに押され、 も何となくそんな気になってきた。
 かくして、二匹と仔ライはミルクとオムツを持って外出する事になったのだった。







「あー、やっぱりここはいいわね。風が気持ちいい」

  たちがやってきたのは、以前アサトと訪ねたあの花畑だった。歌の練習をした空き地とどちらにするか迷ったのだが、見晴らしが良いという事でこちらを選んだのだ。

 いつものコートの下にライを背負ったコノエが、腰を下ろしてライを離した。ライは花畑の中を嬉しげに這い回り始めた。ちなみにおんぶ紐はバルドが即興で作ってくれたものだ。

もここに来た事があったんだな」

「ええ。まあ正直言って、ライの事を口実に私が来たかっただけかも」

  がそう言って肩を竦めると、コノエも笑ってライの後を追い掛け始めた。花々の中に小さな白い耳が見え隠れする。

「可愛いわよね。とてもあの無愛想毒舌俺様猫の過去の姿とは思えないわ」

「アンタ、結構ヒドイな……。でも確かに。これがライって言われても実感湧かないな」

「ねー。まあすぐに戻るんだろうし、楽しんだもん勝ちでしょ」

  はそう言うと、じゃれ合う二匹に目を向けた。
 コノエはライの面倒をよく見ている。あやす仕草も数時間のうちに随分手馴れてきたようだ。最も、いつもやり込められているライの世話を焼けるという爽快感も多少はあるのかもしれないが。

「ねえ、こうしてると私たち……」

「え……?」

  がぽつりと漏らした呟きに、コノエの鍵尻尾が反応する。その目が期待を浮かべたのには気付かず、 は言葉の先を続けた。

「歳の離れた姉弟みたいよねっ!」

「……ッ、あ、うん……そうだな……」

 コノエががくりと肩を落としたのにも気付かず、 は満面の笑みを浮かべると二匹を追って花畑を歩き始めたのだった。







「ただいまーっと。あら、アサト帰ってたんだ」

「ああ。……ライに土産を取ってきた。食べるかと、思って」

  たちが宿に戻ると、既に陽の月は沈みかけていた。先に戻っていたアサトが の目の前に何かを差し出す。よく見ると、甘い味のする木の実のようだった。

「すり潰してミルクに混ぜたら食べるかな? ――あれ、今度はどうしたんだろ……」

 椅子に下ろしていたライが、またもやぐずり始めた。慌てて が抱え上げて背中を叩くと、 の腹を何か温かいものが湿らせた。――まさか。

「うッ……おもらししてる――!」

 思わず半泣きになった をアサトが慰めた事は言うまでもなかった。






「何で、私が、ここまで……ッ!」

 数十分後、 は宿裏手の水浴び場で洗濯板と格闘していた。横にはライが座っている。ちなみに二匹とも、全裸であった。――二匹の服は汚れてしまったのだ。
 洗濯ついでにライを風呂に入れるため、 はライを抱えて湯気の中で奮闘した。洗いあがった二匹分の衣装を籠に入れる。

「さて、と――お湯の熱さ、これで大丈夫かな?」

 バルドが入れてくれた湯の熱さを確かめつつ、 がライを抱えて湯に浸かる。温めの湯が疲れた身体に染み渡っていった。

「気持ちいいねー。湯加減はどうですかー?」

 ぱしゃぱしゃとライにも湯を掛けてやると、その顔が綻んだ。
 赤子の肌はつるつるとして気持ちがいい。 はちょっとだけ羨ましい気持ちになった。

「ライのくせにズルい……」

 ライだと思うと服を脱ぐのにも躊躇しそうなものだが、既に の中でそんな意識はどこかへ飛んでいた。赤子の裸を見るのに、また赤子に裸を見せるのに恥ずかしがる事など何もない。そう思うと何の戸惑いもなく目の前の子供を抱きしめる事ができた。

「やっぱ子供いいなー。私も作っちゃおうかな……」

  がそう呟いた途端、腕の中のライがまたぐずり始めた。うっかり湯の中にライを落としそうになり、 は慌てた。

「はいはい、このタイミングはご飯ね。今上がるから泣かないでー!」

  は大慌てで立ち上がると、自分の身体を拭くのもそこそこに宿へと舞い戻ったのだった。





「……あー、なんかスッゴイ疲れた……」

 無事に夕食も済み、 は自室で寝台に突っ伏した。傍らでは厚い布に包まれたライがすやすやと寝ている。ライの服の替えは無かったのだ。ちなみに はバルドの寝巻き(断じてヘソ出しではない)を借りていた。

 疲労した を見かねたコノエがライを部屋に連れて行くと申し出てくれたのだが、ライは を放してくれなかった。引き離そうとすると、泣き出す。結局今晩は がライを預かる事になった。

  がおざなりに自らの毛づくろいをしていると、ふとライの柔らかそうな耳が目に飛び込んできた。その毛が僅かに乱れている。
 これはもしかして、自分がしてあげるべきなんだろうか。
 あまりの眠気に一瞬躊躇したが、結局 はライに近寄るとその柔らかな毛並みに舌を伸ばした。

 しかしそれにしても、眠い。 は毛づくろいもそこそこに、最後にライの額に小さく口付けを落とすとそのまま瞼を閉じた。これ以上起きていられる訳が、なかった。








 ――翌朝、またまた快晴。

 寝台の中で の手が何か温かいものに触れた。それを引き寄せ、きつく胸の中に抱き締める。
 大きくて、硬い。でもどこかいい香りがする。

「――おい」

 心地よい眠りに無粋な低い声が割り込んでくる。それを無視して、 はいっそう温もりを求めるように腕の力を強めた。

「おい、阿呆猫!」

「うっさいなあ……朝から何よ……」

 耳元で響いた罵声に の目が不機嫌に開かれる。……しかし視界がきかない。というか肌色一色に埋め尽くされている。

「? んん……?? ――ッ!?」

  がばっと目を見開くと、そこには全裸の雄猫がいた。――ライだ。

「なっ、ななな……ッ!?」

 パクパクと口を開く をライの隻眼が見下ろす。ライは溜息をつくと僅かに身じろいだ。二匹を包む毛布が揺れる。

「……とりあえず、腕を離せ。これでは起きられない」

「え? あ……ご、ゴメン……!」

 まだ状況を把握しきれない に向かって、ライの冷静な声が振ってくる。 はハッと覚醒すると、いまだライに絡みついたままの腕を解いた。そのまま毛布を剥ぎ取って頭から被り、寝台にうずくまる。

(なんでなんでなんで――っていうか、もっとマシな時に戻ってよ!! か、感触が――!)

 頭を抱えた の耳の横で、微かな衣擦れの音がする。ライが身支度しているのだろう。干しておいた服は、乾いたのだろうか。というか服のサイズも元に戻ったのか。

 やがて音がやむと、 はおずおずと毛布から顔を出した。室内には常と変わらぬライの姿があった。
 二匹の間に沈黙が落ちる。毛布の下で頬を染めた から目を逸らし、やがてライは口を開いた。

「その、色々と――すまなかった」

 その口から出た謝罪の言葉に は目を見開く。

「え。――まさか、覚えてるの……?」

 謝罪をするとは、つまりそういう事だろうか。狼狽した が問い掛けると、ライは訝しげに眉をひそめた。

「……何のことだ」

 素っ気無いその言葉に の肩から力が抜ける。 は頭を振ると小さく苦笑を浮かべた。

「あ、うん。何でもない。何もなかったから、気にしないで」

(ていうかむしろ、思い出さないで下さい……)

  が言外に続けると、ライは を一瞥して立ち上がった。そしてそのまま扉から出て行った。



 一体、昨日は何だったのだろう。思い出すと猛烈な羞恥に駆られそうな気がして、 は再び毛布を被るともう一眠りすることに決めた。そうでもしなければ、やっていられない。

(ああ、でもアイツ……悔しいけどやっぱり可愛かったな……)

 そんな事を考えながら程なくして眠りに付いた は、重要な事を一つ忘れていた。ライがこの状況に何の疑問も口にしなかったという事を。
 あの猫に限って、そんな事をするはずがないのに。





 閉まる扉の向こうでライがわずかに顔を染めて溜息をついた事を、朝の光だけが知っていた。





             END

 

 
 
 
 


(2007.3.2)


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