穏やかな晴れた日。開業したばかりの宿に、親子連れの客が訪れた。 金の髪の雄が連れていたのは、同じく金の髪の子供。短めの髪から緑の目が覗いていた。
「おう、よく来たな坊主。何もない宿だがゆっくりしてってくれ」
「……坊主じゃない」
――それが俺と
との、最初の出会いだった。
Ring
「おいおいそりゃねえよ。えーと…バルド、だったか」
「あ…ああ、悪い。雌だったんだな。……うん、ちゃんと見りゃそうだな。すまん」
「……別に」
俺が性別を間違えた猫は、興味なさそうに呟くときょろきょろと視線を彷徨わせた。愛想のない子供だ。
(ライよりは……年下か? でも出てった頃のアイツよりは上だな)
可愛らしい顔をしてはいるが、おそらく着ているのは雄の服だ。 それを疑問に思うのはとりあえず置いておいて、俺は何気なく無愛想な子猫の頭に手を伸ばした。……子猫と言うには少々育ちすぎているが、俺から見ればまだまだ子供だ。
「……なに。……くすぐったい」
金の髪をかき乱すと、思わずといった風にわずかな笑顔を覗かせて猫は頭を振った。……なんだ、可愛いじゃないか。
「……お嬢さん。名前は?」
「……
」
俯いた雌の子供は、上目遣いに俺を見るとボソッと呟いた。
は、親父さんと一緒に剣の行商に来たとの事だった。今まで泊まっていた家の子供(もちろん雄だ)が大きくなってきたため、さすがに宿を取る事にしたらしい。 俺は子供を持つ事になど興味はなかったが、「娘がいるってのも大変だなー」などとまるきり傍観者の立場でぼんやり考えていた。
「お、今日は親父さん仕事か」
「……うん。あたしがいない方がいい所だって」
ある日。食堂にぽつんと
が腰掛けているのを見て俺は何気なく声を掛けた。
は片肘をテーブルにつき、手のひらに顎を乗っけている。思いっきり「面白くない」とその顔には書いてあった。
「置いてかれたのか」
「……そうだよ。行きたいって言ったら、『駄目だ』としか言われなかった。……つまんない」
「ははは……」
親父さんがどこに行ったのかは、大体想像が付く。剣だって武器である以上、ある程度は裏の世界に関わりがあるものだ。 祇沙では年々、徐々にではあるが失躯と言う病気の発症率が上がり、雌が減ってきている。いまや若い雌は貴重であると言わざるを得ない。こんな街中ならばまだ平気だが――裏通りなどにほいほい出向けば、いくら子供だろうとどうなるか分かったもんじゃない。
も薄々それに感付いているようだったが、それでも父親の仕事に付いて行きたいと思うのは職業猫としての自覚が芽生えているためか。 真っ直ぐな瞳は、少々自分には眩しすぎる。俺はくしゃりと
の頭を撫でると頬をつついた。
「それで拗ねてんのか」
「拗ねてない」
「拗ねてるよ。まあどっちでもいいが。……それより、暇なら手伝ってくれないか? ちょうど誰かを探していたんだよ」
そう言うと、
はきょとんと瞬きをした。膨れっ面が興味をそそられたような表情に変わる。
「手伝いって……宿のか?」
「ああ。終わったら、ちゃんとご褒美をやるよ。……何かやってみたい事はあるか?」
「ご褒――、……子供扱いするなよ」
「だって子供だもんよ」
がむすっと立ち上がる。だが甘い菓子の名を告げると、その顔が一瞬だけ溶けそうに綻んだ。しかしすぐに元の表情に戻ってしまう。 ……気になっていたが、大抵カタい顔をしてるんだよな。何か訳があるんだろうか。
(……ま、俺が気にしてもしょうがねえか……)
傍らで器用に野菜を切る
を見下ろし、俺は上の空で鍋をかき混ぜた。しかし唐突に既視感を感じ、
を再び見下ろす。
『――バルド! あっちにウサギがいたよ……!』
「……っ!?」
「――バルド……? どうかしたのか?」
「あ……いや……。何でもない」
自分の肩よりもずっと低い位置にある頭。自分と違う薄い色の髪。小さな肩。 それらはどこか――あの傷付けてしまった小さな白猫の姿に重なった。
俺は取り落としてしまった木箸を拾い上げ、
から無理やり視線を逸らした。
と父親は、何だかんだ言いながらも仲良く助け合って生きている。 破綻しておらず、また過分に馴れ合ってもいないその関係は理想的だとすら思う。自分からしてみれば。
しかしその姿は失ってしまった過去の情景を否応なく思い出させ、胸に苦いものが込み上げてくるのも否定できなかった。……二匹には、全く非も関係もない事だったが。
――あまり、近付きすぎるべきではないのかもしれない。 俺は初めてそう思った。己の心の底に沈めた、醜い弱さがいつか露呈してしまうのを恐れて。
しかし
達がそろそろ鳥唄に帰ろうかと言う頃、些細な事件は起こった。
「――おう。
、どうした。足怪我してんじゃねえか」
「怪我? 怪我なんてどこも……。それより、お腹が……」
「……お、おい、親父さん。そいつは――」
親父さんに指摘された
は、ひょいと後ろを振り返った。そして顔を強張らせた。 その細っこい足に血がうっすら伝っている。どこから出血しているかは……言うまでもなかった。
どうりで朝から顔色が悪かったはずだ。腹も痛かったのか。 薬湯でも作ろうかと席を立つと、後ろから戸惑いをたっぷり含んだ声が二匹分飛んできて俺は固まった。
「ど……どうすればいいんだ……!?」
――
は、初めてだった。
その後、近所のオバちゃんを呼んだり薬湯を飲ませたりで、ふと気付いたら夕暮れに差し掛かっていた。 いつの間にか
の姿が見えない。だが二階を歩いていると物音がして、俺は屋根の上へと静かに上がった。
「――ここにいたのか。中に入った方がいいぞ。こういう時は、冷やすのが一番良くないんだ」
「…………」
はいた。屋根の上で座り込み、身を縮ませるように膝を抱えている。その顔は赤く染まっているようだった。 思春期の娘が、他者の…しかも雄に初めての現象を見られたのだ。どれくらい恥ずかしくて傷付いたかは、多少なりとも想像が付く。
俺は雌としての一歩を踏み出したばかりの猫を刺激しないように、少し離れた所に座って静かに声を掛けた。
「……そんなに恥ずかしがる事はない。誰にでも来る事だ。そんで成猫になっていく。それがたまたま今日だったってだけで――」
「――、……った……」
「あ?」
かすかに声が聞こえた。視線を向けると、
はますます膝に顔を埋めて叫ぶように告げた。
「こんなの……来て欲しくなかった……!!」
「――って……、あんた、おとなになりたくないのか? 親父さんの跡を継ぎたいんじゃないのか?」
予想外の言葉に、俺は間抜けな顔で聞き返してしまった。顔を俯けたまま、
が首を振る。
「なりたいけど……こんなのは嫌だ……! このままじゃあたし――どんどん雌になっていく…!」
「…………。
……」
悲痛な叫びに眉が寄る。掛ける言葉が見つからなくて仕方なく名前だけ呼ぶと、
はばっと顔を上げた。その顔はボロボロと涙を零している。
「雌…貴重だから……、おとなになったら村に縛り付けられるんだろ…? それで相手が決められて、無理やり子供産ませられるんだろ……!? 父さんたちが話しているの、聞いたんだ……!」
「…………」
「あたしはそんなのに……なりたくない……」
しゃくり上げた
が涙を拭う。再び沈んでいくつむじを見ながら、俺はどこかで納得していた。
(ああ……それでか。仕事熱心なのも、あまり笑わないのも――)
「――でも、あんたは段々雌になっていく。成長は止められない」
「…!」
変えようのない事実を告げると、
はビクリと身を竦めた。わずかに上がった顔を覗き込み、俺はなるべく穏やかに言った。
「だけど――そうやって押し殺してたら、『雌』のあんたが可哀想だと俺は思うけどな」
「……かわい、そう……?」
が瞬きをする。その目を見つめ、俺は頷いた。
「ああ。……別に、まだそうなるって決まった訳じゃない。そういう村も中にはあるってだけだ。それなのに、あんたは雌の部分から目を背けて生きる訳だ。きっと、楽しい事もあるに違いないのに」
「…………」
『目を背けて』――? どの面下げて偉そうに説教できる。 心の中で嘲笑う声が響くが、今はとりあえず蓋をした。それよりこの猫に言ってやりたい事がある。
「雌が少ない時代に生まれたんだ。だったらそれを誇りに思って、利用してやりゃあいい。雌だから何かできない訳じゃない。雌にしかできない事もあるし、いつの時代だって雌は雄より度胸もあって強いんだよ。うちのお袋なんか――て、まぁそれはいいや。とにかく、雄を手玉に取るくらい堂々と構えてりゃあいいんじゃないか」
は目を丸くした。俺としても段々何を言ってるのか分からなくなってきたが、涙が止まったのはいい傾向だ。
「手玉に……取る……? 何それ……」
「今は分かんなくてもいいさ。ただ――あんた、今でも十分可愛いんだから成猫になったらきっとすげぇ綺麗になるぞ。うん。それを否定しちまうのは、少なくとも俺は残念だな……」
「…………。あたしが……?」
これは結構本音だった。ポツリと繰り返して顔を赤くしてしまった雌猫の髪を、俺はポンポンと撫でた。
「……それから口調も、な。服装とか髪型とか雄っぽくしてるのは親父さんの忠告もあるのかもしれんが、あんた、意識して雄の口調を真似てるだろ。……別に気にはしないが、自然に戻してもいいんじゃねーの? 少なくとも俺なんかの前ではよ。別に襲ったりしねーし」
「……っ……。気付いてたんだ……」
が息を詰めて俺を見上げた。俺はやれやれと苦笑を浮かべる。
「少ーし無理があったからな。これでも雌を見る目には少々自信があるんだ」
俺がそう告げると、
は居心地の悪そうな表情で少しだけ肩を竦めて笑った。……おとなびた表情だった。 そこから遠くへと目を向け、俺は
を見ないまま最後に告げた。
「それでも雌でいる事がどうしても苦しくなったら――逃げちまえばいいんだよ。いざとなれば、抜け道なんていくらでもある。目ぇ背けて逃げてきたとしても、責める奴ばかりじゃない。俺も、責めない」
「……っ」
それはもしかしたら、自分に再度言い聞かせた言葉なのかもしれなかった。逃げの、口実を。 だがそれを聞いた
は目を丸くして、確認するように俺に迫った。
「逃げてもいいの……?」
きっとあの父親なら、そんな可能性がある事を知っていても最初から示したりはないだろう。 それを教えてやれるのは自分だけだと、少々後ろめたい思いを抱きつつも俺は思った。
「ああ。……逃げても、いいんだよ」
――その言葉が後に雌猫と自分の運命を大きく変えるとは、夢にも思わずに。
「そっか……。そうなんだ……」
傍らの猫の声が震える。まさか泣かせたかと慌てて振り向いた俺は、
が口を押さえて笑いをこらえているのに気付き目を丸くした。
「……おい。どうした……?」
それでも
はくすくすと笑い続ける。緑色の目が細まり、俺の顔を見上げた。
「なんか……全部バレバレだったんだなあって、思ったら――今までムスッとしてたのが馬鹿みたいになって……アハハ…っ。――すごいね、バルド。……あ、これがもしかして『トシノコウ』ってやつ?」
「……ちげーよ!」
俺の方がムスッとすると、
はますます笑い転げた。今までの分を取り戻すかのように。
(あー、やっぱ子供は笑ってんのがいいよなぁ……。せっかく可愛いんだしな)
そんな事を俺が思っていると、すくっと
が立ち上がった。少し屈んで俺の耳を覆い、秘密ごとを打ち明けるようにそっと囁く。
『さっきのバルド……ちょっとカッコ良かったよ』
それだけ告げて、
は木に飛び乗った。残された俺はしばらく唖然とした後、口を手のひらで覆って俯いた。
「……っか〜。俺、そういう趣味はねぇんだけど……ヤバいだろ、あれは……。無意識こえー……」
+++++ +++++
「……ひとりで何ニヤニヤしてんのよ……。気色悪いんだけど」
「んぁ? ……ああ悪い、ちょっと昔を思い出していた」
――そして俺は現実へと意識を引き戻された。 ちらりと視線を動かすと白いおくるみを抱えた金の髪の雌が、白い目で見下ろしている。雌猫は、抱いた赤子に向かって小声で囁いた。
「……おとーさん、やらしいですねー。こんな猫になっちゃダメですよー」
「お、おいおい……。別に変なこと考えてた訳じゃ……」
「顔がニヤけてたわよ。明らかに『変なこと』考えてる顔だった」
「…………」
じとりと見下ろした
に、俺は反論することもできず黙り込んだ。――とその時。 それまで静かにしていた赤ん坊が、突然ぐずり始めた。
が困惑してあやし始める。
「あああ〜……まただわ。なんかね、さっきからよく泣くの。収まったと思ったんだけど……」
「どれ。こっちによこしてみな」
適当に寝転んでいた寝台から身体を起こすと、俺は
から子供を受け取った。
「……ああ、分かった。よーしよーし、大丈夫だぞー」
そのまま高く抱えてあやすと、途端に泣き声は収まっていった。
「……すごい。なんで?」
「落ち着かせて駄目な時もあるって事だろ。逆に刺激を与えてやった方が、喜ぶ」
目を丸くした
が感心して覗き込む。
はしげしげと静かになった幼子から視線を移して言った。
「へぇ〜。さすが年の功」
「だから違うっつの……」
何年経っても、大して言う事が変わってない気がするのは気のせいか。 俺は少々呆れた気分で、間近に迫った
の顔をじっと見つめた。
「……何?」
いまだに
は俺がこうしてじっと見る事に慣れていない。少し怯んだように目を逸らし、頬を染めるあたりまだまだだな、という気になる。
「いや。あんた、昔も今も可愛いと思ってよ。……思い出してたの、最初に会った頃の事だったんだ」
「え……。え…、え……!?」
「それから、俺が『変なこと』考える顔…あんた、覚えてくれたんだな。ま、いつも見せてるもんなぁ?」
「は……。――! バ…ッ」
「おかーさん、やらしーよなぁ。こんな猫になっちゃダメだぞ?」
「ちょっと、なに吹き込んでんのよーっ!」
わが子をあやしながら、俺は久し振りに
から一本取った事にニヤリと笑んだのだった。
END
2007.10.9
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