Second Night

        
 
― S
econd bravery of Asato




 
陽の月が沈み、森の中が闇に覆われていく。 は前方に大きな木を発見すると、後ろに付き従っていたアサトを振り返った。


「見て。いい木じゃない? だいぶ歩いたし、今日はここで休みましょうか」

「ああ。…… 、大丈夫か。少しペースが速いんじゃないか?」

「大丈夫よ。さ、行きましょ。野宿なんて久々だからなんか嬉しい感じするわね」


  とアサトが藍閃を出て森に入ったのは、今日の午前中のことだった。
 長らく療養のためにバルドの世話になっていたのだが(もちろん最終的には宿の手伝いなどをしていたが)、コノエとライが旅に出たのを契機に自分たちも発つことにしたのだ。

 バルドはもっとゆっくりしていけばいいと言っていたが、動かなければいつまでたっても体力が戻らない。それに宿の手伝い以外には特にすることもなく屋根でぼうっと吉良の方角を眺めているアサトを、 はもっと広い世界に連れ出したいと思っていた。
 それで、とりあえず森に入ってみることにしたのだが――


「……アサト。水とか見張りは大丈夫だから、ゆっくりしなさいよ。ほらここに座って」

 一晩の仮宿を決めた後も、アサトは水の心配をしたり周囲を見回ろうとしたりと落ち着きがない。
 もう十分に安全は確認したし、食料の確保もできている。木の根元に腰を下ろした がその隣をポンポンと示すと、アサトはおずおずと の隣にしゃがみ込んだ。

(あー、なんか出会った頃にもこういうことあったなぁ……)

 久しぶりの野宿で懐かしい記憶を思い出した。 がクスクスと笑いながらバルドの持たせてくれた干し肉を差し出すと、アサトはなぜ が笑っているのか分からない、という疑問をありありと顔に浮かべながらもそれを受け取った。



、その……」

「ん?」

 黙々とふたりで食事を済ませると、その時を待っていたのかアサトが言いづらそうに口を開いた。 が視線を向けるとアサトは大きな身体を丸め、耳をしゅんと下げる。

「背中は……大丈夫か。痛んだりとか」

「……大丈夫、いつも通りよ。もう痛くないから」


 ――もう何回、何十回と繰り返された問答。何度同じ答えを返しても、アサトはまだ不安と罪悪感を拭いきれないようだ。
  はアサトを見つめると微笑んだ。アサトが安心できるまで、何度だってこうして繰り返すつもりだった。けれど環境が変わったことが発端になったのだろうか。このとき、 の頭をふいに疑問が掠めた。

(本当に、こうやって繰り返しているだけでいいの……?)

 笑顔の裏で、 は唐突にそう思った。
 何度も交わされる言葉。「気にしないで」「もう平気だから」――いつも変わらぬ の返答を、アサトだって分かりきっているはずなのだ。それなのに、なぜ何度も確認をするのか。 はその答えに思い至り、スッと笑みを掻き消した。


……?」

(そうだ――。私、一度も……)

 何度も大丈夫だと繰り返した。アサトが悔やむことは何もないのだと口にしてきた。
 けれどそれは言葉ばかりで、その証明を自分は何一つ示してこなかったのではないだろうか。だから、アサトはいつまでも安心できないのではないか――その可能性が浮かび、 は己の失態に喉を詰まらせた。

(言葉だけじゃ足りないのに……。もっと、態度で示さないと)

 口先だけで相手に自分の真意を伝えるのはひどく困難だ。理解してもらいたいなら時には態度で示し、時には触れたり見つめたりして、伝える側も汲み取ってもらえる努力をしなければいけない。
 あの闘いの折だってそうだった。自分の言葉をなかなか信じようとしないアサトに、 は言葉だけでなく全身でぶつかっていった。アサトを理解し、またアサトに理解してもらえるように心を砕いたはずなのだ。

 それなのに闘いが終わった途端にこれでは、アサトが安心できないのも無理もない。
 本当に理解してほしいのなら――どうしたら伝わるのかを考えなければ。

  は訝しげにこちらを覗き込んでくるアサトを見返すと、苦笑を浮かべた。


「アサト。……ごめん」

……?」

「ごめん。私、言葉が足りなかったわ。これじゃあアンタが安心できないのも仕方ないわね。……あのね、背中は本当に大丈夫なのよ。だから本当にヤバそうなとき以外は確認しなくても平気だし、もう謝ったりしないでほしいの。これはもう私の一部なんだから、アンタが後ろめたい思いをすることなんてないのよ」

 紺碧の目を見つめながら告げると、アサトは予想通り眉を歪ませた。

が謝ることなど、何もない。あれは俺がつけた傷で……。あんなに大きくて、痛々しい――」

 苦しげに告げる声に、今までなら『大丈夫よ』と返していた。けれどそれで会話を終わらせては、何も先には進まない。 はゆっくりと首を振ると、アサトにくるりと背を向けた。


「……口で言うだけじゃ、きっと足りないわね。本当に痛々しいかどうか、今の私を見てアンタが決めて。……でも、嫌だったら目を背けてもいいわ」

 そう言うと、 はおもむろに上着を脱ぎ始めた。



「……っ」

 背後でアサトが息を呑んだ。構わず、 は上着を脱ぎ落とした。
 長い金髪を前へと流し、背中全体が見えるよう心もち身体を傾ける。サラシ一枚を除けば、今アサトの目の前にはあの日の傷がはっきりと見えているはずだ。

 あれから、アサトがこの傷を見たことはなかったはずだ。そして自分もあえて見せようとは思わなかった。けれどこの先も共にあろうと思うのなら、互いに受容することは避けて通れない道だった。

 食い入るようなアサトの視線が背中に刺さる。不思議と羞恥は感じなかった。 は前を向いたまま、背後のアサトに問い掛けた。


「私……痛々しい? もう皮膚も引きつらないし、痛みもないわ。……目に見える跡は残っても、私には何の傷もついてない。何も責めないし、悔やんだりもしてないのよ」

「…………」

 アサトの纏う硬い気が、わずかに揺れる。それでも声が発せられることはなく、 は無言を貫くアサトを振り返ろうとした。そのとき。

「…ッ」

 わずかに背中が揺れ、尾が震えた。アサトが の傷に、そっと指を滑らせたのだ。
 息を呑んだ に、アサトがハッと手を引っ込める。

「すまない。痛かったか?」

「あ、ううん……。ちょっとビックリしただけ。全然平気よ」

 藍閃にいた医者猫を除けば、傷を他の猫に触れられたのは初めてだった。
 痛みとは違うかすかな刺激を感じた。それは決して嫌なものではなく、むしろアサトが自らそこに触れてくれたことに、 は切ない喜びを感じた。

「もっと……触って。アンタが触れてくれたら、もっと楽になる気がするの」

 そして気付けば、そんな望みを口にしていた。

 わずかな戸惑いを残しながら、アサトがおずおずと の傷痕に再び触れる。指で全長をなぞった後、既に馴染んでいる他の部位ごと、手のひらで覆う。大きな温かい手の感触を背中に感じ、 は薄く喉を鳴らした。


「……気持ちいい。――あ、ゴメン。なんか強制したみたいになっちゃったわね」

「……いや。見せてくれて、良かった。思ったよりも治りが良くてホッとした」

  を労わるように、アサトの手が優しく背中を往復する。ふいにその手が離れると、 の背はより大きな温もりに包み込まれた。

「……っ。アサト……」

 背後から抱きすくめられて、 は思わず尾を逆立てた。だが驚きはすぐに愛しさに取って代わり、前に回されたアサトの腕に はそっと手を重ねた。


「……俺が言っていいことかどうか分からないが……お前は、痛々しくはなかった。今日初めて傷を見て、そう思った。…… は綺麗なままだ。綺麗で優しくて、俺なんかよりずっと……強い。お前はすごい猫だ」

 切れ切れにアサトが呟く。不器用な猫が一生懸命紡いでいく言葉に、 は胸が熱くなった。腕を握る力を強めてわずかに頭を回すと、泣き出しそうな顔のアサトと至近距離で目が合った。


「……すまない。お前が見せてくれるまで、俺はお前の傷を直視する勇気がなかった」

「ううん。私も、アンタが気にして離れてしまうんじゃないかって、見せる勇気がなかったの。……だから、同じよ」


 罪悪感が消えることはないのかもしれない。何も気にするなというのもきっと難しいはずだ。それでも目を逸らし続けたままぎくしゃくするよりは、ありのままを見せて互いの受容を待つ方がずっといい。

 笑みを語尾に溶かして、 はアサトに頬擦りした。目を見開いたアサトは嬉しそうに相好を崩した後、 を強く抱きしめ直した。



「……本当に、いいのか」

「え?」

 やがて背を抱くアサトの体温に浸りきった頃、 は耳を揺らした言葉に振り返った。
 見上げると、再びアサトが神妙な顔でこちらを見下ろしている。「何が」と視線で問うと、アサトは言いづらそうに口を開いた。

「俺と…旅をしてくれるって。本当に俺と一緒で、お前はいいのかと思っ…て――。 、痛い」

 アサトの声が途切れたのは、 がおもむろに黒い耳を引っ張ったからだ。 は少し怒った顔を作って、アサトを覗き込んだ。

「もう! 何度言ったら分かるの? 私、アンタと一緒に行きたいのよ。何回も言ったじゃない。これ以上疑うと、怒って藍閃に引き返すわよ?」

 めっと睨み付けると、アサトはしどろもどろになった。下着一枚の の胸元から視線を逸らしつつ、慌てて言葉を重ねる。


「もちろん覚えている。嬉しくて、心臓が止まるかと思った。でも――俺は、こんなに幸せでいいのかと怖くなった。幸せすぎて、怖い」

「…………」

 一瞬息を詰めた は、アサトの腕の中で身体を反転させた。耳を下げたアサトの頬に両手を添えて、藍色の目を見上げる。

「バカね。アンタはもっともっと……幸せになっていいのよ。それが当たり前になっても、まだ足りないってくらいにワガママになっていいの。こんなの序の口なんだから。……私にできることがあったら、叶えさせて」

 そう言って はアサトに口付けた。きょとんとした顔のアサトが、次第にうっとりとした笑みを浮かべる。深い角度で再び唇を重ねると、 の裸の背にアサトの両手が回った。




「ねぇ…まずは、どこに行こっか……。何かしたいことある?」

「…… を抱きたい」

「……アンタね、それはちょっとちが――」

「叶えてくれると言った」

「……っ、そうね。宣言したばっかりだもんね……」



 暗がりの中で、次第に熱に浮かされていく。確かに、したいことなど今は一つだ。
 ふたりきりの旅の始まりに、確かな熱が欲しい。



「ふふっ……、考えらんないわよね。……明日、ふたりで考えましょ」


 緩やかに地面へと押し倒されていくなか、黒猫の肩越しに は美しい満月を見た。
 










   END


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(2008.5.10)