Second
Night ― Four seasons
with Kaltz
その猫は、青い月を仰ぎ見る。
旅の途中の、どこかの宿。落ち着いた佇まいが気に入って、カルツと
は数日に渡りそこへ滞在していた。
軽い『仕事』を終えて、カルツは宿近くの林に姿を現した。フードを被り、小さな集落へと入っていく。 借りた部屋へとそのまま転移することも勿論できるが、こうして猫のように普通に歩き、猫のように猫たちと会話を交わして部屋に入ることが、カルツはいつの間にか習慣のようになっていた。
別に
がそうしろと言ったわけではないし、カルツが意識して始めたわけでもない。だから今日も大して気に留めず、カルツは階段を上がると扉の前に立った。そして持っていた鍵を差し込み、扉を静かに押し開ける。
「……?」
部屋は暗かった。どこかに出掛けているのだろうか――などと考えるよりも早く、カルツの目は暗闇の中に佇んだ雌猫の姿を捉えた。そして、息を呑んだ。
開け放たれた窓に向かい、
が顔を仰のけている。夜空に煌々と輝くのは青白い満月。その光に照らされて、ただ静かに雌猫は月を見ていた。
静謐で、優美で、美しく――
儚い。
切り揃えた髪に反射する光も、細い肩に落ちる月の影も、カルツが一歩でも動いたら粉々に砕けて消えてしまいそうな危うい美しさを秘めている。 一瞬だけ、我を忘れて見惚れた。しかし扉を開けたままにしておくわけにもいかず静かに閉めると、
は今気付いたとでも言うようにハッと振り返った。そして笑った。
「……ノック。また忘れたでしょ。もう…無意識に気配消しちゃうんだから。結構驚くのよ?」
「あ、ああ……すまない」
苦笑した雌猫の顔は、少々の呆れに彩られていて明るい。そこには今しがた感じた儚さも、かつて纏わせていた深い悲哀も感じられなくなっていた。物事を乗り越えた静かで深い温かさが、その瞳には宿っていた。
「今日は寒かったでしょ。ああ、スープを買ってきておいたの。まだあったかいはず」
「ありがとう、後でもらう。……今日は何をしていたんだ?」
「ん? 一日中剣を研いで修理してたわ。この街って鍛冶師がいないみたいね。おかげで剣やら包丁やら、依頼が多すぎて商売繁盛だわ。ありがたいことに」
疲れた手を癒すように、
が軽く手首を振る。窓辺まで近付いたカルツは、先ほどまで雌猫が眺めていた夜空へと目を向けた。
「……月を見ていたのか」
「うん。あんまり綺麗だったからね」
雌猫がカルツに並んで空を見上げる。しばらくすると
は指を口元に持っていき、ホウ、と吐息を吹きかけた。
「こんなに青く見えるのも珍しいわよね。今日は冷えてたからかな」
「……そうだな」
冴え冴えとした月光を浴びる雌猫の口調は穏やかだ。ふいに――今、
が誰のことを思い浮かべているのか、カルツには分かったような気がした。
今よりももっと寒かった季節に、かの猫はこうしてよく月を眺めていた。おおむね屋根の上から、時には森の中から。そしてその姿を、この猫も共に見ていたはずだった。
その時ふと、本当に小さな衝動のように唐突に、カルツはこの猫を抱きしめたくなった。 その背が寂しげだったからでも、場違いな嫉妬に駆られたからでもない。全くないとは言い切れないかもしれないが、ただひたすらに目の前の猫が愛おしく感じられて、触れたくなった。
雌猫の背後から手を伸ばし、その背を己の胸に収める。胸の前で手を組むと、さすがに驚いたのか
は目を丸くして振り返った。
「……カルツ?」
「冷えているな。指先が…こんなに冷たい」
の手を取り、その冷えた指にそっと息を吹きかける。腕の中の雌猫は一瞬身体を固くしたが、その後は身じろぎもせずなすがままになった。 指先から手首へと息を吹きかけながら毛づくろいを仕掛けていくと、握った腕が徐々に温かくなっていくのが分かる。それに伴って雌猫の背中も弛緩していき、金色の耳がぱたりと伏せられた。
「耳も、冷たいな」
「……ひゃ……、ちょっと、くすぐったい……」
ヒヤリとする耳を後方から唇で挟むと、
は前かがみになって逃れようとした。かまわず追いかけて、産毛の生えるその中に舌を這わせる。
がびくりと身を竦める。そのまま耳を弄びながら手で身体の前を探っていると、雌猫の身体は温かいを通り越して急速に熱くなっていった。
「……っ、……カ…ルツ…ッ。待って……。なんか…変よ……」
じっくりと手を這わせていると、ふいにその手を押しのけて雌猫がカルツを振り返った。その顔はわずかに赤く染まり、息を乱している。雌の顔になった猫に、カルツはジリ…と情欲が煽られるのを感じた。
「変、か?」
「変よ……。毛づくろいにしては随分濃厚な……その、色々と差し障りがあるから、もう十分というかなんというか……」
ボソボソと呟いた猫は、真っ赤になって顔を伏せた。その言葉に少々呆れた思いになる。 ……鈍い。鈍すぎる。雄のこんな行動が、毛づくろい目的であるはずがないだろうに。
「……毛づくろいのつもりでしているのではないからな。差し障りがあってもらわないと、こちらとしても少々哀しい」
「え……」
想いが通じ合った反動なのか、あの発情期以来
の頭の中からは『そういう関係にいつでもなれる』という考えがすっぽり抜け落ちてしまったのかもしれない。 行動に移さなかったのは自分だが、こうも意識されていないとなると、それはそれで問題だ。
「私は君を、抱きたいのだが……」
「……っ、…な……」
呆けた雌猫の唇に、一つキスを落とす。するとようやく、
は事の展開を理解したようだった。赤い顔で大きな目を瞬かせ、何か言いたげに唇を動かす。
「だ…だって、発情期からそんなそぶりは一度も……。あの時は発情期だから、してくれたのかと思って……」
その言葉に、カルツはなぜ
がこれほど意外な顔をするのかを悟った。 まだまだ解消されることのない、二匹の些細なすれ違い想い。……全てをさらけ出す必要はないが、とりあえず自分たちにもう少し対話が必要なのは確実のようだった。
「違う。きっかけは確かに発情だが、それだけで君を抱いたわけではない。……その後も、君を抱きたくなかったわけではない。ただ何かと忙しかったし……墓参して心が静まるまで、しばらくは手を出すべきではないと思った」
の顔にわずかな安堵が浮かぶ。だが雌猫は戸惑うように小首を傾げた。
「……なんで?」
「歯止めが利かなくなると思ったからだ。君は誤解しているようだが、悪魔としての本来の私は猫であった頃よりも自制が利かなくなっている。一度触れれば、立て続けに君を欲してしまう予感があった。そうなると、君が静かにアサトを弔う妨げになってしまう。……実際にナタリアの件以降、ふとした弾みで欲情するから正直抑えるのに苦心していた」
「………」
「………。
? 私は何かおかしなことを言っただろうか」
正直な心境を吐露すると、
は口を開けたままカルツを見つめた。その顔がこれ以上ないくらいに赤く染まり、ついで雌猫は悔しげに目を伏せた。
「……そんな涼しい顔で言われても……」
「……? いや、これでもかなり抑えているつもりだ。現にこうして君に触れているだけで、身体が――」
「! わ、分かったからそれ以上言わなくてもいいわ。うん、分かったから」
再度口を開くと、今度こそ
はカルツの口を勢いよく手で塞いだ。少ししてそれが外されると、今度はカルツが首を傾げる番だった。
「いきなり迫るのは良くないかと思って、遅ればせながら言葉にしてみたんだが……」
「あ〜……うん、そういうのが必要な時もあるけど、もう十分。いっぱいいっぱいです。………やっぱりあなた、アサトの父親ね。親子揃っていちいち恥ずかしいのよ……」
「……?」
手のひらを額に当てた
は、ぶつぶつと呟きながら首を振った。何故だか分からないが、何かが雌猫の気に障ったらしい。 だがあながち嫌がっているようにも見えない。現に再び引き寄せて肩を抱くと、
は素直に身を委ねてきた。
「また、冷たくなってしまった」
「そうかな……。顔は火照って熱いくらいなんだけどね」
「……確かに。唇は熱いな……」
「……うん…」
熱を持った頬を包み、啄ばむように口付けを交わす。何度も触れていると全身から熱が湧き上がり、二匹の間を満たしていった。
「……温めて、くれる?」
とろりとした目で雌猫が問うた。カルツは静かに窓を閉めると、柔らかな身体をかき抱いた。
「君が望むなら、何度でも」
END
(2008.8.17)
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