悲哀の領域に、場違いなほど澄んだ歌声が響いた。
 どこか聞き覚えのあるかすかな旋律にカルツは目を見開くと、蒼の空間を歩き始めた。





Under the sorrow





「……っ」

 ドオ、と音を立てて流れる滝のたもとに、一匹の悪魔が腰掛けている。背を覆う長い髪は金。既視感のあるその光景にカルツは目を眇めた。

 意図的に作られたその空間は、下界の自然を模していた。……冥戯の村の近くにあった景色に似ているかもしれない。勝手にできただけで、決して望んだ光景でもなかったが。


 女悪魔は気付いた様子もなく歌を紡ぎ続ける。その旋律は水音に紛れても、不思議とはっきりと聞き取れた。
 一つの歌が終わり、ふと悪魔が振り返る。その顔にカルツは息を呑んだ。


 悪魔は―― は、ひどく無垢な表情をしていた。




 憤怒の領域の内外で、かの悪魔達がただれた生活を送っている事にはカルツも薄々感付いていた。
 ヴェルグなどはコノエがまるきり変わったと言っているが、カルツにしてみれば の変化の方が顕著であるように思えた。伝え聞く話では、まるで淫魔のような振る舞いをしているらしい。

 あの二匹を何がそこまで変えてしまったのかと案じた時もあったが、今となってはもうどうしようもない事だ。既に、転化はなされてしまったのだから。
 もう関わる事もない、そう割り切って最近は気にする事もなくなっていた。


 ――だが、あの表情は何だ。清浄と言うより他ない雰囲気に、カルツは がこちらに気付いたのに対し咄嗟に反応を返す事もできなかった。
 そんなカルツを認め、 の顔が艶やかな笑みを浮かべる。


「……あら。久し振りね」

「君は……」

 今の表情が幻であったかのように、うっとりと は紅い目を細めた。数々の悪魔や猫を虜にしてきた、甘い表情だ。だがそれも繕ったかのように見えるのは、自分の願望だろうか?


「ここ、落ち着くわね。『哀』に満ちてはいるけど。……『怒』は自然物がないからねぇ」

「…………」

 つま先を泉に浸した が、パシャンと水を跳ね上げる。しばらくそれを繰り返していたが、カルツが何の反応も見せないと はつまらなさそうに足を振って立ち上がった。


「……行くのか」

「ええ。ラゼルに呼ばれたから。……仕事よ」

 スッと がカルツの横を通り過ぎる。残された甘い蟲惑的な香りに眉をひそめつつも、その細い背に向かいカルツは問い掛けた。



「……後悔、しているのか」

「……どうして?」

 静かに足を止めた が振り返る。……何を、とは聞かない。怠惰な笑みを崩さず、 は首を傾げた。

「先程の君の歌が――哀しんでいるように聞こえたからだ」

「…………」

  の唇が笑みをなくす。だが驚愕した訳でもなく、気だるそうな無表情で はカルツを眺めた。――だが。


「まさか」

 目を閉じて一笑すると、皮肉な笑みを浮かべて は告げた。

「それはあなたの願望じゃないの? そう思っていて欲しいっていう……期待。そんなの幻想だわ。愛した魂を追って、永遠を生きる力を手に入れて、寄り添って……。それのどこに悔やむ要素があるって言うの?」

「……こんな形を、君たちは望んでいたのか」

「望んでいたわ。決して離れない事を。……たかが悪魔になる事を、さも地獄に落ちるかのように言うのね」


  がせせら笑う。暗い笑みを浮かべながらも、悪魔はやはり美しかった。
 けれど――哀の領域で、まして悲哀の悪魔である自分の前では、ある感情だけは隠す事ができない。他の感情は分からなくとも、これだけは。


「だが君はやはり……哀しんでいる」

「…………」

 再度告げると、 はやはり黙り込んだ。その顔から目を逸らし、そっと伏せる。すると足元に落としたカルツの視線の中に、赤い長衣の裾が映った。


「……っ、――つッ…!」

 ハッと見上げた瞬間――突然唇を塞がれた。一瞬だけ重ねられた唇に、鋭い牙が押し当てられる。
 痛みを感じる前に、 はカルツから離れた。口内が血の味に染まる。



「何を……」

 正面に立った が、細い指で口の端に付いた血を拭う。それをゆっくりと舐め取って、 は嫣然と微笑んだ。


「……私、あなたが嫌いだわ」

「…………」

「私ですら知らない感情を、勝手に読み取っていくから。気分が悪い。だけど……あなたの怒りは、混じり気がなくて最高に美味しいわね。こんな感情、久し振りに頂いたわ」

「……っ」


 わずかに閃いた突発的な怒りを、感じ取られたらしい。 は再び踵を返して迷いなく歩み始めると、ふと足を止めた。カルツに背を向けたまま、静かに呟く。


「例え、私の中に『哀』の感情があったのだとしても――生きてそれを持てるなら、幸せなのよ。死んだら何もできないもの。自分のそれを感じる事も、彼のそれを感じる事も」

「『彼』――? まさか、コノエも……」

「さぁ…?」



 今度こそ が歩み始める。悪魔がその場から消える寸前、カルツは思わず口にしていた。

「もう、ここには来ない方がいい。悪魔として生きるなら苦しい場所でしかないはずだ」


  が振り返る。悠然と笑んでいるだろうと思われた表情は、眉を下げた苦笑へと変わっていた。
 金の髪をした猫の面影が浮かび、カルツはわずかに瞠目した。 


「……そうね。やっぱりあなた、好きじゃないわ。……優しすぎる」



 懐かしい笑顔を浮かべ、悪魔が消える。
 かすかに残された『哀』の気配は滝の音に紛れ、やがて霧散していった。









END
 



2007.10.7

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