「ん……。――え、忍人さ…っ!」 「シッ。…静かに」 隣にいたのは裸の男性だ。思わず上げてしまった驚愕の声を、忍人の大きな手のひらがかき消す。
扉の前で叫んでいたのは、どうやら布都彦らしかった。怪訝な顔をした忍人が、再度千尋に目配せしてから寝台を離れる。鍛えられた後姿を思わず目で追った千尋は、その背に残る爪痕に気付いて慌てて目を逸らした。
『ああ良かった。朝早くにすみませんが、失礼させて頂いてもよろしいでしょうか?』 「…っ。すまないが、寝乱れている。扉越しに話せ」 外から飛んできた声に千尋は勿論、忍人までもが一瞬固まった。狼狽した千尋を振り返り、忍人は冷静さを取り戻すと布都彦に命じる。勤勉な少年兵は、顔を見なくても分かるような真面目な声音で告げてきた。
「…………」 「…………」 布都彦必死の訴えに、千尋と忍人は揃って沈黙した。おずおずと見つめる千尋の視線を受けて、忍人は小さく嘆息する。……余韻も何もあったものではない。 「……布都彦。落ち着いて聞け。……陛下は今、俺の部屋におられる。もちろん無事だ」 『…………。えっ……』 「布都彦、頼みがある。すまないが、宮へ行って狭井君と、アシュヴィンと、大将軍と……あと風早を呼んで来てくれないか。大切な用件なんだ」 『は……、はい……!』
「支度を急ごう。ここが、正念場だ」
それから先は嵐のような慌しさだった。忍人に促されるままに気だるい体を引きずって衣装を身に着けた千尋は、緊張の面持ちで布都彦の再度の訪れを待っていた。 自分の髪や衣は勿論、部屋の様子もできる限り綺麗に整えた。それでもこれから会う人たちには、自分たちが昨夜何をしたのかがはっきりと知られてしまうのだ。
「……っ」
表情の読めない狭井君、どこか面白そうなアシュヴィン、微妙な笑みを浮かべたリブ。穏やかな瞳の風早と、赤い顔の布都彦と、明らかに楽しんでいる顔の岩長姫と……なぜか呼んでないのに柊までいた。 (は……恥ずかしすぎる……)
千尋にとっての気まずい時間を破ったのは、狭井君の淡々とした問いかけだった。宰相の穏やかな顔を見つめた千尋は、そのまま忍人へと視線を向けた。 「はい。皆様には朝早くにご足労頂き、申し訳ありません。それでは……国の第一臣たる狭井君、常世の国の皇アシュヴィン陛下、それから陛下の兄にも等しい風早殿にお願い申し上げます」 忍人は正面を向き、凛とした声音で告げた。その視線を追い、千尋もまっすぐに彼らへ向き直る。
そろって頭を下げた二人に、その場の空気が小さく揺れる。そのさざめきを破ったのは、今度はアシュヴィンの声だった。 「……だ、そうだが。宰相殿のご意見はどうだ?」 「わたくしは異論ございませんが、しかし……」 「ああ、俺のことなら気にしないでもらいたい」 狭井君がアシュヴィンに控えめな視線を送る。千尋もまた顔を上げると、アシュヴィンと視線を合わせた。
「いいさ、気にするな。まだ非公式な段階だったしな、二晩いい夢を見させてもらったと思うよ。……それにしても……」 からりと笑ったアシュヴィンは、いったん言葉を切ると忍人に視線を移した。そしてどこか意地悪く笑む。 「虎狼将軍は、存外情熱的な男だったと見える。千尋は立っているのがやっとという感じだが……?」 「…!」 アシュヴィンの軽口に千尋は頬にボッと血が上ったのを感じた。 「ア、アシュヴィ……!」 「はは。照れるな照れるな、嬉しいくせに。お前らの幸福がここまで漂ってきて、俺はいたたまれないぞ」 アシュヴィンは豪快に笑うと、風早に視線を送った。
「俺は別に……二人が好き合ってるのは分かりきっていましたから。ただ、そうですね……忍人、あまり姫を泣かせないで下さいね」 「……ああ。約束する」 「本当ですよ? ……ああ良かった。このまま君が動かなければ、一服媚薬でも盛ろうかと思っていたところでしたから。ねぇ柊?」 「ふふ……」 さりげなく告げられた風早の台詞に、柊が謎めいた微笑で返す。千尋と忍人は揃って背中で汗をかいた。
「ああ、それでは俺が立会人を務めよう。リブ、俺の印章は持ってきているか?」 「はっ。ただいまお持ちいたします」 狭井君とアシュヴィンがそれぞれ指示を出し、その場にいた者たちが迅速に動き出す。
狭井君が書き込んだ書面の上に、彼女とアシュヴィンがそれぞれ判を押す。その上に忍人が大将軍印を押し、千尋が最後に王印を捺印した。竹簡を持ち上げて皆に披露しようとしたそのとき、傍らの狭井君がふと微笑んだ。
「え……そう、なんですか?」 「ええ。では葛城大将軍。我々の持つ宰相印と大将軍印も、ある条件があれば絶対的な権利が与えられるということをご存知でしたか?」 「いえ……初めて伺いましたが……」 唐突な問いかけに、忍人と千尋は顔を見合わせて共に首を振った。狭井君は岩長姫に向けて肩を竦め、少し困ったような笑みを浮かべた。 「ふふ……岩長姫も親切ではありませんね。まず、婚姻を決めるには王印とその下の宰相印または大将軍印がわが国では必要となります。次に大将軍印が絶対効力を得るのは、同等の宰相印または王印と揃ったときに限ります。……これがどういう意味か分かりますか?」 狭井君が千尋と忍人に問いかける。しかし答えを待つことなく、狭井君は回答を示した。 「つまり……陛下と大将軍の印が揃っていれば、わたくし達の同意を得なくともあなた方は結婚できた、と言うことです。岩長姫はそれを知っていたのですよ」 「へっ。だーってさ、アンタは狐だし忍人は煮え切らないしで、こりゃあちっと手助けしてやんなきゃ千尋が可哀相じゃないかい。気付くか気付かないかは、アンタらの真剣度合いによると思ってたから言わなかったけど」
あの日言われた言葉の真意にようやく気付き、忍人は呆然と師匠を見やった。あのときから、この人は自分達のことを案じてくれていたのだ。その事実に胸が熱くなる。 「岩長姫……ありがとう。でも、その権利を使わずにこうすることができて、良かった……」 「んん? なんでだい。コイツと結婚できるならそれでいいじゃないか」 同じく感銘を受けた千尋の言葉に、岩長姫は首を傾げた。千尋は首を振ると、広間に居並んだ臣たちを見渡して告げた。 「だって、みんなに認められてするのとそうじゃないのとは、全然違うもの。私達はここでずっと生きていくの。だから、みんなに認めてほしかった……」
中央にいた柊が片膝をつき、言祝ぎを上げて頭を垂れる。狭井君がそれに続き、それから波が渡るように臣たちが次々と従っていった。
―――そして、既定伝承にはない未来が紡がれていく。
「ほら、忍人さん! 今年も満開ですよ!」 「走らなくても、桜は逃げないだろう。……おい! だから走るなと……大事なときなんだぞ!?」
「大丈夫ですよ。遠夜も小走りぐらいならいいって言ってたし。来年は忙しくて見られないかもしれないんですよ? 勿体ないじゃないですか」 「宮中からでも花は見えるだろう……。頼むから無茶はしないでくれ」 「……はーい。でも、こうして自然の中で見るのがいいのになあ……」
「……ッ」 そのとき、正面に立った女王が両手を上げ、何かを忍人に振りまいた。
――やがてお前の望む未来とともに 死は美しき乙女の姿で、お前の元へと舞い降りる――
(……違う……) 忍人は目を閉じ、その言葉を噛み締める。そして左腕を伸ばすと、妻の髪についた花びらを優しく払った。
未来とともに―― 生は美しき君の姿で、俺の元へと舞い降りる。
END
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