ひそやかな夜
文若が丞相府の医官のもとに入院してから、数週間が経った。体調はおおかた回復し、明日にはここを出てもいいとの許可も出た。
は今夜も燭台を片手に、元の世界で言うところの病室をゆっくりと巡回していた。
(文若様の看病ができるのも明日までか……。喜ばしいけど、少し残念かな)
思えば、文若がここに入ってからも色々なことがあった。倒れた彼を追いかけて、医官としてここに押し掛けて――どれほどに、彼の存在が自分の中で大きくなっていたかを思い知らされた。
そして同僚に尻の軽い女だと揶揄されたのを、文若が庇ってくれて――
(……嬉しかった。こんなに彼の言葉が嬉しいなんて……こんなに好きになっていたなんて、気付かなかった)
明日からは、また自分たちは医官と尚書令という立場に戻る。文若に告白されたのをいつまでもそのままにしておくわけにはいかないが、まずは元通りの日常に戻るのが先決だ。
他の部屋を見回り、は最後に文若の房へたどり着いた。扉代わりの布をそっと上げると、寝台の上でかの人は静かな寝息を立てていた。
(異常なし。寝息も落ち着いてる。これなら明日は――)
月光に照らされた文若の寝顔は穏やかだ。もともと綺麗な人だが、眉間の皺が取れると結構優しい印象になる。
一度寝付くと、深く眠り込んでしまうのはこれまでの経験から知っていた。それをいいことに、はまじまじと文若の顔を眺めた。
「……好き、です」
闇に溶けるほど小さな声で――気付けば、呟いていた。口にすると一気に想いがあふれ、重ねて呟く。
……こんなに長い間、待ってくれた。が孟徳に囲われている頃からずっと。孟徳から離れた後も、煮え切らない態度の自分をずっと待っていてくれた。
それだけでなく医官への道を開いてくれて、この世界で生きる意味を見いださせてくれた。
そんな彼が――
「好きです……、文若様――」
は膝を折ると、薄い唇に触れるだけのかすかな口付けを落とした。
乾いた唇に一瞬だけ触れると、はすぐに立ち上がった。これ以上ここにいると、泣いてしまいそうだ。
だが足を踏み出そうとしたところで袖が引かれ、バランスを崩す。そのまま寝台へと倒れ込みそうになり、強い腕に抱き留められた。
「っ――」
「待て。……行くな」
「……っ!」
いつの間にか、文若が目を開いていた。一体いつから――と思う間もなく上からのし掛かれ、目を見開く。
そして――
「文若さ――、まっ……。っ………」
有無を言わせぬ勢いで、唇を塞がれた。
「……」
「……は、い」
「言いたいことだけ言って逃げるな。そもそもああいったことは、女人からするものではない」
「あ、の…! す、すみません……!」
組み伏せられながら諭され、の頬に朱が上る。
文若は、聞いていたのだ。しかも自分の行動までしっかりと記憶して――
「謝る必要はない。だが、ここまでされて耐えられるほど、私も欲望がないわけではない」
「は――、……え?」
文若らしからぬ掠れた、少し上擦ったような声音に顔を上げる。すると暗闇の中、髪を下ろした文若がを食い入るように見つめていた。
「先程の言葉は……真実か」
「え……」
「私を、好いていると言った。その言葉に偽りはないか」
「っ……」
真顔で問いかけられ、思わず言葉に詰まる。は視線を彷徨わせ、やがて小さく頷いた。
「……はい。嘘では……ありません。ずっと、言葉にすることはできませんでしたが、私は、あなたのことが――」
――好きです、と唇の動きだけで伝える。
相手が眠っているときには言えたのに、本人を目の前にするとなぜ言葉が出てこないのだろう。
例えばこの世界にもメールがあったなら、電話があったなら、もっと軽く言えたのかもしれない。けれどこれほどの距離で見つめられ、その近さには気まずく視線を逸らすことしかできなかった。……まるで、初めて恋した頃に戻ったかのようだ。
(でも、もう、子供じゃない。私も……文若様も)
恥ずかしいのをこらえ、ゆっくりと視線を上げていく。瞬きすらせず自分を見下ろしていた文若と視線が結ばれると、どちらともなく唇が近付いた。
「っ――。文若、さ、ま………」
三度目に触れる、薄く乾いた、けれど温かい彼の唇。
長く長くそれを味わうと、吐息とともに唇が離れる。互いに息継ぎをすると、より深く唇が重なった。
「はぁ……っ、文若様……。ん……、ん――」
髪に指を差し入れ、何かの枷が外れたかのように文若がのしかかってくる。無意識のうちに唇を開いていざなうと、ぬるりと熱い舌がの中に入り込んだ。
「んっ……。っ……、あ――、……っ!」
(まず……!)
湿った甘ったるい声が口から漏れ、とっさに手のひらで唇を押さえた。
……まずい。うっかりその場の雰囲気に流されていたが、ここは病室だ。掛け布一枚挟んだ向こうには、他の病人だっているのに。
口を押さえたままちらりと視線を向けると、いくぶんかむっすりとした顔の文若がの指を一本ずつ外した。
「……すまん」
「え―――、っ……!」
そして湿った音を立てて、再び唇が重ねられた。
「ん……。ふ……、ん――!」
「……あまり声を上げるな。どうしても出てしまうなら……私が、塞ぐ」
「っ……」
動揺を封じ込めるかのように情熱的に口付けられ、は目を丸くせざるを得なかった。狭い寝台の上でがっちりと抱きすくめられ、驚愕とそれ以上の興奮がつのる。
(うそ……。文若様が、こんな――。うそ……)
「……」
耳を揺らす熱い吐息と押し付けられた体が、彼の熱情を示す。
「すまん。……止まらん」
枷が外れたように自分を呼ぶ声に、頭と体が支配されていく。
「っ……。――」
絡まる舌の激しさと優しさに、何もかもが溶かされていく気がした。
(……気持ちいい)
体だけの快楽なら、孟徳からあふれるほどに与えられた。反応する場所を探られ、高い声を上げさせられて、乾いた絶頂へと追いつめられる虚しい夜も。何度も何度も繰り返した。
けれど――心が伴うと、どうしてこうも気持ち良く……泣きたくなるのだろう。胸があふれて、いっぱいになる。
「文若様……」
押し流される自分をなかば受け入れつつ、最後に残った理性で真上の彼を呼び止める。文若は息をつくと我に返ったように顔を上げた。
夜着の襟は乱れ、下ろした髪もほつれている。彼らしからぬその姿に手を伸ばすと、は片手を胸へと添えた。拒絶のようなその仕草に、文若が顔を強張らせる。
でも――違う。
「本当に……私でいいんですか? 私…心も体も、綺麗なんかじゃないですよ……? そんな女を相手にして、笑われたり……しませんか?」
「以前にも言った通りだ。……過去のことは、気にしない。気にならないと言ったら嘘になるが……お前がこの先私だけを想ってくれるのなら、そんなものは塵にも等しい」
「っ……、でも――」
「いいから、もう黙れ」
言いつのるの口を手のひらで塞ぎ、もう一方の手で腰紐を解かれる。
月光の下、狭い寝台の上で荒い息と息が混ざり合い、は文若の頭をかき抱いた。
「っ……。ん……」
「……」
「はい……。はい、文若、様。っ……、ん」
「っ……、」
獣のように貪りたくなる衝動を抑えて、文若はゆっくりとの衣を乱していった。
故郷の「白衣」とやらに似ていると言った白い上着を取り去ると、思ったよりも豊かなふくらみが見え隠れする。解いた腰帯をさらにくつろげると、成熟した女の肢体が月光のもとにさらされた。
「…………」
綺麗だ、と思った。男を知らないというわけでもないのに恥ずかしげな様子で顔を背けるさまも、唇に添えられた指の形も、全て美しいと思った。
様々な葛藤を乗り越え、今、彼女は自分に身を委ねようとしてくれている。
生唾を飲み込みながら、白い柔肌に触れる。はぴくりと身じろぐと静かに吐息を漏らした。そのまま手を伝わせていくと、声をこらえるように手の甲で口を塞ぐ。
「お前は……着やせする性質だったのだな」
「っ……。太ってる、ということですか?」
「違う。見た目よりも大き――、……何でもない」
「…………。途中で切られる方が、恥ずかしいです……」
本当は――こんな場所で、このように不埒な行為に及ぶつもりではなかった。
もしもが自分を受け入れてくれたなら、しかるべき時期に婚儀を挙げ、その上で名実ともに夫婦となるつもりだったのに。
(……理解不能だ。これほどたやすく理性を失うなど)
しかも、そう多くはないがこの手の経験が初めてというわけでもないのに、これほど余裕がないとは。
歌妓などの玄人とは違う、心を通じた女との初めての交わりに文若は自分のタガが外れているのを自覚せざるを得なかった。
浅く深く口付けを交わしながら、もつれ合うようにして互いの衣服を乱していく。
場所が場所だけに、全裸になることはできない。けれど不思議な形をした布を取り去ると、白い肌と豊かな乳房と、誘うようなの表情が興奮を頂点に押し上げた。
「っ……。ん――!」
噛みつくように首筋に吸い付き、漏れ出た高い声を手のひらで塞いだ。
声が聞けないのは不本意だが、今他の者に踏み込まれるのはもっと不本意だ。ましてのこんな姿を他の男に見られた日には――
(玄徳や丞相も、この姿を……)
これまでを意のままに抱いてきた男の存在が頭に浮かび、首を振ってそれを散らす。……気にしないと言った。
白い首筋にも胸元にも背中にも、所有の痕は見られなかった。そのことに狭量だと思いつつも安堵する。
思えば、を孟徳の手から引き離した――あの、初めてに触れた宴の夜からもう何ヶ月も過ぎていた。
手元に置いても頑なな態度を崩さなかったが、これほど無防備な姿で自分の下にいる。いっぱしに持っていたらしい男としての征服欲と、それ以上の何か熱い気持ちで心がいっぱいになり、文若は荒く息を吐いた。
「文若様……」
「なんだ…? っ……」
「こういう時に、考え事をするのは……なしですよ。ほら、眉間が――」
手が止まっていたのだろう。もどかしげにが呟き、すり、と文若の膨らんだ雄を撫でた。
さらには引き寄せられて眉間に唇が触れ、己を誘う媚態にどくんと血が上る。
「こら。だからそういうことは、あまり女人からするものではないと――、っ……おい」
「こういうのは……はしたないですか? 気持ちよく、ない…?」
「そういうわけでは……っ。く……」
腰紐を解かれ、滑り込んだ指がゆっくりと文若自身をさすっていた。とうに立ち上がっていたそれに刺激が与えられ、荒く息を漏らす。
……男を知っている、女の手。まるで玄人の女のようだが、彼女の世界では普通のことなのかもしれない。
その証拠に、淫らに蠢く手とは裏腹に表情は羞恥に染まり、もどかしげに文若を見上げている。虚ろな目で孟徳に抱かれていたが、今、確かな意思をもって文若の腕の中にいる。
雄を擦り上げるじれったい動きはそのままに、白い乳房に吸い付き内腿に手を這わせる。再び声をこらえたの中心に触れると、もう十分すぎるほどの潤いが文若の指に絡み付いた。
「う…んっ……」
「っ……。すごいな。……感じていたのか?」
「そういうことを……真顔で聞かないで下さい」
「……すまん。その、自分でも性急だと思うが……お前の中に、入りたい。あまり持ちそうにない」
己の状態を正直に打ち明けると、は大きく目を見開き、ついで苦笑した。
文若の腰を撫で、愛おしげに頬を包み込む。
「確認しなくても、大丈夫ですよ。……本当に、真面目なんですね。どうぞ……文若様の望むように」
顔を引き寄せられ、深く唇を重ねながらの膝を開く。何度か先端を擦りつけると、文若は息を詰めて腰を押し進めた。
「ん、ん――」
慎重に、少しの痛みも与えないように貫かれ、最奥で文若が止まるとは閉じていた目を開いた。
自分の真上で眉を寄せ、文若がじっと見下ろしている。足を緩めてそっと胴体に添わせると、文若は吐息とともに口を開いた。
「つらくはないか……?」
「はい。大丈夫ですから……動いて、下さい」
「だから、そう私を煽るなと……! っ……、動くぞ」
「っ…、ん……、っ……」
数ヶ月ぶりに体を開かれ、圧迫感に少しの痛みが走る。
当たり前だが――孟徳とは違う。貫かれる角度も、肌の質感も、吐息の熱さも。
女を抱くのにあまり慣れてない、無骨な動きが愛しい。何より、伝わってくる思いの強さが――全然違う。
(これが、文若様……。私を好きでいてくれる人。私が、好きな人――)
優しいのに、激しい。こんなに熱く求められたのは生まれてこの方初めてだった。
「っ……。は……、っ…、あっ……! ――!」
始めこそこらえていたが、揺さぶられるうちに快感が湧き上がり思わず大きな声が漏れた。
とっさに手で押さえようとすると、それより早く文若の手のひらで口を塞がれて目を見開く。「すまん」と一言添えて、文若はそのまま腰を振りはじめた。
「っ……! ん…! っ――」
「お前の声を……聞かせたくない。悪いが、こらえてくれ……っ」
まるで犯されているかのような、強引な交わり。まさかあの文若が、絵に描いたように堅物な彼が、こんなことをするとは思わなかった。
普段とのギャップと、すぐ隣には他の人間がいるという状況に背徳的な興奮がこみ上げる。
寝台の軋む音さえも満足に立てられない。それでもゆっくりとした抽挿はの快感を確実に高め、湿った嬌声が文若の手の下でいくつも弾けては消えていった。
漏らせない声の代わりに、涙がこみ上げる。ブルッと震えが走り、鋭い快感が背筋を駆け上がった。
「っ……、そんなに、締めるな……っ。うっ――」
「っ……!!」
(あ……。中、に――)
ビク、とが震えた直後、体内に温かなほとばしりが放たれた。
すべてを吐き出し終えると、腰を引いた文若が荒くなった息を整える。その背を引き寄せ、白濁で汚れるのも構わず胸に手を当てると、文若は驚いたようにを見下ろした。
「どう、した……? 後始末を、しなければ――」
「はい……、そうなんです、けど……。あの、今さら思い出したんですが…文若様、病み上がりですよね? 脈は落ち着いていますが……大丈夫、でしたか?」
本当に今さらだが――こういう行為は、何かと負担が大きいのではないだろうか。
医官として至極まっとうな疑問に、文若はぐっと詰まったように押し黙り、やがてぼそりと囁いた。
「自制が……きかなかったのだ。そもそもお前が――」
「え?」
「っ……、何でもない。大丈夫だ。そのぐらいはわきまえている。それに、お前が看病してくれたのだからな。もうどこも異常は感じない」
「そうですか……。それなら、良かったです」
しっかりと言い切られ、は心底安堵した。微笑んで文若を見つめると、文若はなぜか慌てたように目を逸らす。
起き上がり、後始末のために寝台を下りようとすると、裸の胸に抱き寄せられた。
「あっ。……文若様?」
「それでも、私の体調が気になるのなら……そばに、いればいいだろう。一生、共に」
「……っ……」
「何度でも言う。お前を愛している。……私のそばに、いてくれ。妻として、私と共に生きてほしい」
それは、孟徳から引き渡された時にも言われた言葉だった。あの時は応えられなかったが――今なら、言える。
早い鼓動を刻む文若の胸に頬を擦り寄せると、はしっかりと頷いた。
「はい。……文若様」
END
腰痛でダウンしてる間に恋戦記を再プレイして、カッとなってやった。後悔はしていない。
突発的にエロが書きたくなったんです…。これでも乙女仕様にしてみました。ちなみに続きはありません(笑)
(2010.12.5)