その昔、藍閃を拠点として祇沙中を縦横無尽に駆け巡った一組のつがいあり。
 片割れは比類なき戦闘能力を有す銀の雄、片割れは類稀なる歌と非凡な戦闘の才を有す金の雌だったという。

 世にも珍しい雌雄のつがいは猫の目を惹きつけたが、その猫たち自身は驕ることも功績をひけらかすこともなかった。ただ静かに、そして誇り高く闘い続けていた。
 彼らを知った者たちは、口々にこう告げた。――美しいつがいだった、と。





    軌跡



           1、銀と金のつがいあり





 陽の月も暮れかけた薄暗い森で、白銀の髪が舞う。久しぶりに遭遇した巨大な魔物と、ライは激しい攻防を繰り広げていた。

 ここ数年、リークスの企みがついえたためか、魔物が森に出現する頻度はそれ以前に比べると激減していた。それでもゼロではなく時折こうして集落の近くに出没し、猫の暮らしを脅かす。
 魔物も魔物で淘汰され、数は少ないものの強大な力を有するものが多くなったように思う。それゆえ得られる報酬も跳ね上がり、無謀な挑戦をする馬鹿な賞金稼ぎが増えていた。


「ふん……。お互い、体力も限界というところか。いい加減にくたばったらどうだ?」

 速度はライの方がやや優勢だが、魔物には木々をなぎ払うほどの腕力と鋭い爪が備わっている。
 一刀をその腕に突き立て、血を払う合間にライは口の端だけで笑った。それはかつてのように愉悦にまみれてはおらず、静かな余裕を感じさせるものだった。

 ライの身体には先程から朱色の光が絡み付いている。それは剣を熱く研ぎ澄まし、身体を奥底から揺さぶる賛牙の力。後方にいろと指示したためその姿は見えないが、金の毛並みの雌がこちらを案じる視線を送っていることがその光から伝わってきた。

 ――焦るな。何も心配いらない。そう告げるようにライは長剣を握り直した。

 手に馴染むそれは、己のつがいが鍛え上げたものだ。ライの長所を最大限に生かす、何一つ無駄な所のない堅牢な剣。
 この剣を握るとき、ライはその作り手の魂を身体の中に感じられるような気がしていた。もっともコノエのように物の記憶を読み取る力があるわけではないから、あくまで「気がする」だけだが。

 身体を包み込む朱色の光が輝きを増した。疲労が引いていき、魔物の動きが手に取るように見えるまでになる。
 こちらが優勢と分かった時点で引くべきだったものを、その判断をする頭脳は持ち合わせていなかったらしい。そんな哀れな生き物の懐に飛び込むと、ライは躊躇なく刃を突き立てた。
 あやまたず喉を引き裂かれ、巨大な魔物は地響きと共に地に沈んだ。


 返り血を避け、仕留めた獲物を検分するべくライは一歩を踏み出した。つがいがこちらに駆け寄ってくるのを耳で感じ取る。
 巨大な体躯のどこを持っていけばこいつの証明になるか――そんなことを考えながらライが魔物に手を伸ばした、そのとき。背後から鋭い声が飛んできた。

「――ライッ!」

「!」

 咄嗟に振り向くと、魔物の爪が今まさに己の顔を狙ってくるところだった。瞬時に長剣を掲げて防ごうとするが、おそらく間に合わない。衝撃を覚悟したライの顔の横を、そのとき突っ切るものがあった。

 鈍い銀の軌跡が顔の横をすり抜けた直後、背後で呻き声が上がった。続いて同じ軌道を第二、第三の光が横切る。
 何かが埋まるような鈍い音がした後、既に動きを止めていた魔物の腕は今度こそ力を失って崩れ落ちた。振り向くと、三本のナイフが等間隔にその額へと突き刺さっていた。


「……危なかったわね。最後の力、振り絞ったみたい。不意打ちもいいところだわ」

 手首を振って森の奥から進み出てきたつがいの口調には、まるで緊張感がない。その姿にライは安堵半分、呆れ半分の心地で「すまん」と小さく告げた。





 魔物を倒した証拠品として、結局はその角と尾を藍閃に持ち帰ることになった。
 角はともかく血の付着した尾を持っていくことに金の髪のつがいは難色を示したが、「なら首にするか」と告げるとあっさり静かになった。
 ライは尾を引きずりながら、前を行く角を引きずったつがい――に視線を投げかけた。


 と組んで賞金稼ぎを始めてから、もう三年近くの月日が過ぎた。最初こそライはを賛牙として闘いに同行させるのを渋ったが、その覚悟が固いことを悟ると今度はを徹底的に鍛え上げた。

 の戦闘力も元々そう低くはないが、賞金稼ぎとしてやっていくには心許なさすぎた。
 いくら賛牙といえどその身が狙われる危険性は十分に高く、自分の身も守れないようでは同行させる価値はない。そう厳しく告げたライに、は同じく真剣な顔で頷いたのだった。

 それ以来特訓を重ね、自分の隣に並び立てる……いや、背中を預けても何ら心配ないレベルにまでは成長した。今ではそこいらの闘牙などよりよほど優れた戦闘力を身につけている。もちろん歌の力も増大し、ライはそんなつがいの姿を密かに誇らしく思っていた。
 特訓中、何度となく「鬼! 鬼畜! むっつりサド猫!」などと詰られたのは、とりあえず忘れておくこととする。

 そんな中で、ライは歌以外にもの特異な能力を発見した。……先ほど発揮した投擲の才だ。
 深い考えもなく試しにナイフを投げさせてみたら、非常に高い精度で的へと命中したのがそのきっかけだった。

 幼い頃より剣に触れてその特性を肌で知ると共に、剣の刃こぼれやひずみを見抜く鍛えられた目が一役買ったのかもしれない。も意外な特技に驚いていたようだったが、それからは太腿に自らが鍛えたナイフを装備し、ライを背後から援護するようになった。

 今日のように闘いが長引いたり、相手がつがいだったりする場合でなければ、が歌わずともほとんど戦闘は勝敗が付く。つがいというよりはまるで闘牙が二匹いるようだ。そんなことを思い、ライは小さく苦笑した。


「……? なに笑ってんの」

「いや……お前も、随分と素行が荒くなったと思ってな」

「は――、はぁ? ちょっと、どういう意味よ。こんなに慎み深い賞金稼ぎなんてなかなかいないわよ?」

「どこがだ。言葉の意味を調べてから出直してこい。……慎み深い猫は雄の股間を蹴ったりはしない」

「……っ。……古い話を……」


 出会った日の出来事を掘り返すと、はムッと押し黙った。いまだにあの所業を恥じているらしい。

 『阿呆猫、そうでもしないとお前がやられていただろう』……そう言ってやることもできたはずだが、雌猫のむくれた顔が思いのほか気に入り、結局ライは口の端を吊り上げるだけに留めた。の尾が苛立たしげに一度だけ大きく振られる。


「それで? このまま藍閃まで持っていく?」

「そうだな。もう暮れてきたから野宿は避けられんが……下手に宿を取って横取りされるのも馬鹿らしい」

「……そうね。こないだはごっそり持っていかれちゃったもんね。あー今思い出しても腹が立つわ」

 低い声でがぼやいたのは、先日のある出来事に対しての愚痴だった。
 魔物が少なくなったこともあり、最近は賞金稼ぎも仕事にあぶれるようになってきた。自分たちは指名で依頼を得ることも多くそんな境遇には陥っていないのだが、一部の賞金稼ぎたちがこの現状を嘆いて夜盗に下り、とうとう他の同業者の報酬を横取りするようになってきたのだ。

 卑劣としか言いようのないやり口だが、当事者たちはそれでも命を繋ぐために必死なのだろう。
 そんなことを完全に傍観者の立場で考えていたふたりだったが、実際にその被害に遭い――ライもも、周囲の猫たちが恐れて近寄って来なくなるほどに怒りを露わにした。ありていに言うと、「ぶっ殺す」ぐらいの勢いだった。

 勿論その後に犯人を突き止めてこてんぱんにはしたのだが、盗まれた証拠品は返ってこなかった。数日間を棒に振ったふたりは、しばらく肩を落としたのだった。


「藍閃は治安が良くなったのに、森の中はなかなかそうはいかないわね。いつか落ち着くのかし――、…!」

「気付いたか。またお出ましのようだぞ」

 冷めた口調で呟いたは、何かに気付いたように瞳孔を瞬時に引き絞った。ライも耳を傾け、視線を森の奥に飛ばす。

 ――近付いてくる。どうする……と視線をやるとはフードを下げ、ごく冷静に鞘から剣を抜いた。
 「荷物を抱えているから、とりあえずここで片付ける」との意思表示にライは無言で頷いた。



「オラオラオラ! そこの二匹組! その荷物置いて失せやがれ!!」

 やがて森の木々を揺らして、けたたましい叫び声と共に雄猫が二匹飛び込んできた。
 背の低い猫とその後ろに体格の良い猫。耳障りな声を上げた小柄の猫は、ライたちの前に立つと細身の剣を抜いた。

 つがいかと思ったが、どちらも剣を抜いているためそうではないのだろう。ライとは背中を合わせると、それぞれ体格の良い猫と背の低い猫に向かって剣を構えた。

「どこの馬鹿が自分の獲物を置いていく。……失せろ。貴様らでは相手にならん」

「うっせぇよ! てめーみてぇな生っちろい猫に負けるワケねぇだろ?」

「うわー……馬鹿っぽい。ていうか見る目ないわね」

 嘲笑を浮かべたライに大型の雄が怒鳴る。その反応に傍らのが小声でケチを付けた。

「阿呆、しゃべるな。絶対にフードを落とすなよ」

「はいはい、分かってますよ」

 フードの下から覗く唇が、小さく笑みの形にしなった。
 『だから緊張感を持て阿呆猫が』……そう言いたくなったが、の気配が研ぎ澄まされていくのを感じ取りライは溜息だけで答えた。それをあざ笑われたと勘違いしたのか、大型の雄が激昂して突進してくる。

「てめぇッ! なに笑ってやがる!」

 ――勝敗の分かりきった戦闘が、幕を開けた。




 そしてものの数分後。二匹の雄は互いに地へと沈められていた。
 が歌う間もなかった。あまりに呆気ない幕切れにふたりは顔を見合わせ、苦笑を浮かべた。――そのとき。

「……あっ!」

「三匹目がいたのか…!」

 背後の森から新手の猫が飛び込んできた。その猫は倒れている仲間たちには目もくれず、ライたちが目を離してしまっていた魔物の角と尾を掴むと俊足で駆け出した。すでに闇に覆われ始めた森の奥へと、その姿が消えていく。

「ちっ……! お前はそこで待ってろ!」

「ライ!」

 木々の間を縫うように行く猫の背を、ライは追った。暗闇に視界が狭まり足元を取られるが、立て続けに盗難に遭うのは御免こうむりたかった。

「馬鹿! 暗いから無理して追わなくてもいいわよ!」

 忠告を聞かなかったが背後から追ってくる。だが止まれるはずもない。
 ライは近付いてきた背中をさらに追うべく、強く一歩を踏み出した。――その刹那。

「ッ!!」

「ライ…!?」

 足元の土が崩れ――ライの視界は反転した。










「――イ……。ライ…! ねぇ…ちょっと、大丈夫……!?」

「……っ……」

 数秒に渡る意識の暗転ののち、ライはうっすらと瞼を開いた。視界に映るのは暗くなった空、そして……こちらを覗き込む緑色の瞳。


「……落ちた、のか……」

「そうよ! あそこ土が緩くなってて、しかも低いけど崖だったのよ。アンタ、足を滑らせたのよ!」

「…………」

 猫も走れば、崖から落ちる。……そんなことわざは、多分ない。
 猫としては結構恥ずかしい部類にあたる怪我の仕方に、ライは思わず押し黙った。突然無言になったつがいの姿にの口調が深刻味を帯びる。

「だ……大丈夫? 起きられる? あ、もしかして頭打った……? どうしよう、動かさない方が――」

「うるさい、少し黙れ。……お前の声が頭に響いてかなわん」

「あ、ごめん……」

 素直に口を閉ざしたつがいを見やり、ライはゆっくりと身体を起こした。多少は頭が痛むが、強く打ったわけではないようだ。血の臭いがして胸元を見下ろすと、そこはざっくりとした擦過傷になっていた。

「血が……。結構深いんじゃない? これは手当てしないと……」

「大丈夫だと言っている。舐めておけば治る」

「馬鹿! どうやって舐めるのよ。言っとくけどそんな広い傷、私だって舐められないからね! 頭が落ち着いたらさっさと場所移動するわよ」

「移動…? ああ、獲物を取り戻しに行くのか」

「そんな訳ないでしょ! 宿を探して休むのよ。あいつらみたいなのがまた来ないとも限らないし、野宿なんてできないわ」

 心配が過ぎたのかやや荒っぽい口調になったが、ライの全身を隈なくチェックしてくる。お前の中で、俺はどんな重傷者だ。そう思わないでもなかったが、雌猫が必死になっているのを見るのは嫌なものでもなかった。
 結局ライはに押されるがまま、一番近い集落まで歩いていったのだった。









「ここって……環那かんなよね。宿空いてるかしら……」

 やがて辿りついたのは、藍閃から一日月ほどの距離にある中規模の集落だった。藍閃に運ばれる商品の最終中継地になることが多く、商業の町として知られている。
 宵の始まったばかりの町は静かなざわめきに満ちていた。だがとりあえず今は食料にも商品にも興味はない。の先導で、ふたりは雑踏の中を宿を求めて歩き始めた。


「どうして…? 結構大きい集落なのに、なんで宿の看板がないの?」

 しばらくすると、が途方に暮れた声を上げた。この町では、なぜか宿の看板が見当たらないのだ。町の規模を考えれば一つや二つありそうなものだが、どこを見渡してもない。
 仕方なく通りを歩く猫にライが声を掛けようとしたそんな時、見知らぬ猫に逆に呼び止められふたりは揃って振り向いた。

「あの……そこの旅の方…! ちょっと待ってもらえませんか?」

 声を掛けてきたのは、たった今すれ違ったばかりの雄猫だった。
 年の頃はライと同じくらいか、やや下か。色素の薄い長めの髪と揃いの瞳が柔和な印象を与える、どこにでもいそうな普通の町猫だ。だが何者か知れない。ライはの前に立ち、その雄猫を見下ろした。

「……何か用か」

「あ、の……すみません、呼び止めて。そちらの方にお願いしたいんですが……」

「……?」

 ライの眼光に押されたのか、雄猫がやや気圧されながらもへと視線を向けた。フードを被ったが訝しげに身じろぐ。……まさか雌だとバレたのか。
 だが警戒を露わにしたライに構わず、雄猫は感極まったような声で告げた。

「その剣、鳥唄の剣ですよね…!? 良かったら少し見せてもらえませんか……!」




「…………え……」

「……おい」

 完全に虚を突かれたのか、が声音も変えずに呟いた。咄嗟にライは雄猫を見やったが、雄猫はそんな視線にも気付かぬ様子での腰に下がる剣を凝視していた。
 やがて戸惑いも露わに、が今度は低い声を作って問いかけた。

「……アンタ、何者だ?」

「あ……すみません。俺はこの町で鍛冶師をしてるフォウと言います。興奮してしまって申し訳ない」

「……鍛冶師……」

 少し落ち着きを取り戻して外見どおりの柔和な声で告げた雄猫に、は掠れた呟きを返した。の動揺がライにも伝わってくる。
 同業者で、しかも出身地を言い当てた――のことを知っている猫だとしても、おかしくはない。しかしやはりそんなことは気にしない様子で、雄猫…フォウはにこやかに告げた。

「それ、俺の見間違いじゃなければ『祇沙の名工百選』に選ばれた方の作ですよね。俺、そのひとの作る剣にすごく憧れてて……久しぶりに実物を見たんです。もしよろしかったら、少し見せてもらえ――、痛ッ!?」

「――おい、こんな道端で何してるんだ。注目浴びてるぞ」

「あ……なんだアークか」

「なんだじゃない、馬鹿」


 フォウの発言に息を呑んだライとだったが、別の猫の登場でその言葉は打ち切られた。フォウの頭をぱしりと叩いたのは、非常に背の高い雄猫だった。
 小型種の多い町の中で、頭一つ分大きい大型種…アークとやらは浅黒い肌に短い黒髪の、堂々とした容姿の猫だった。その耳と尾だけは薄い茶色をしている。

 鍛え上げられた四肢と背に負った強弓、何よりもその眼光の鋭さがその猫の強さを一目で知らしめる。
 ――この者、できる。闘牙同士剣呑な視線をライとアークは交し合った。たがアークはすぐに眼差しを和らげ、再びフォウの頭を軽く叩いた。


「痛いな! 何度も叩くなよ。納期迫ってるのに倒れたらどうするんだ」

「倒れるかよ。お前な……剣に熱くなるのは構わんが、他にやることがあるだろう。見ろ、相棒の方が怪我してるだろうが」

 アークが顎をしゃくるとフォウは目を見開いた。今の今までライを忘れていたという顔をしている。

「え…? ……あ! すみません、全然気付かなくて……」

「いや……どうでもいいが」

 あからさまに眼中になかったという態度にライはいささかムッとした。同じく蚊帳の外になっていたはぽかんとやり取りを見守っていたが、我に返ったようにアークへと問いかけた。

「あの……この町には宿はないのか? ざっと探したが見つからないんだ」

「宿…? ああ、よそから来た奴には分かりづらいだろう。この町では宿の目印はあれ……柄杓の絵がそうだ。確か二軒はあったな。……向こうの通りにあるやつは、値段が安い割に部屋がいい。ここの通りのは駄目だな」

「ああ……食堂の目印かと思っていた。ありがとう、助かるよ」

 アークが無愛想ながらも丁寧に宿の位置を説明する。それには手を上げて応えた。ライはいまだの剣に熱い視線を送っているフォウを睨んだが、相手は全くこたえていないようだった。


「あんたら、悪かったな。この馬鹿が気が利かなくてよ。……ま、面白くもない町だがゆっくり休んでけよ。そんで良かったらこいつにそれ、見せてやってくれ」
 
 最後に低く告げ、フォウを連れてアークが立ち去っていく。その渋い後姿には感嘆の声を漏らした。

「なんか……面白い二匹組だったわね」

「ふん。……行くぞ」

 の声音が気に入らず、ライはその手を引くと今度は自分が先に立って路地を歩き始めた。








 アークが薦めた宿に入り落ち着いたふたりは、早速ライの傷の手当てに取り掛かった。
 わずかに裂けてしまった上着を脱ぐと、乾いた血が胸の表面にこびり付いていた。それを丁寧に拭い、は包帯を巻きつけるべくライと向かい合わせに寝台に腰を下ろした。


「擦り傷って、結構治りにくいのよね……。しかも深いし。……はぁ、しばらくはここに滞在するしかないわね」

「大した傷じゃない。明日にでも動けるだろう」

「馬鹿、熱出てきてるじゃない。……少なくとも明日は動かないわよ」

「お前な、馬鹿馬鹿と何度言ったら――、っおい、急に傷に触るな」

「ごめん、近寄んなきゃ巻けないからさ……」

 包帯を掴んだの手が、軽くライの傷に触れた。は慎重に近寄るとライの胴体に白い布を巻きつけていった。触れるか触れないかのところで近付いては離れるの肩を、ライは微熱の出てきた頭でぼんやりと見下ろしていた。

「夜道を無謀に駆けるなんて、アンタにしては珍しかったわね」

「……うるさい。獲物を横から奪われて、何もしない方がどうかしている」

「それもそうだけどさ……。でも、怪我してたら元も子もないじゃない。アンタって、たまに馬鹿猫よね」

「黙れ……」

 はたまにこうした皮肉な物言いをする。ライが苛立ちを感じないのは、多くの場合が苦笑を交えてそう言っていると分かるからだ。
 皮肉な言葉の影には、身内に向ける温かい感情が見え隠れする。だがそれに素直に応じるライでもなく、結局はこうして苛立ったようなポーズを作るだけだ。


「さっきの猫、さ……」

 やがて包帯を巻く手が首の近くに差し掛かり、は膝立ちになった。頭の高さが合うが、視線は交わらない。のそれはライの胴体を……否、どこか遠くを見るように伏せされていたためだ。
 手元をぼんやりと見つめながら、は淡々と告げた。

「私の父さん、知ってるみたいだった。鳥唄に来たことあるのかな。それとも藍閃に卸した剣で知ったのかな……」

「…………」

 静かな声音の中に、鍛冶師としての興味と己の親を知っているかもしれないという期待が滲んでいた。少し楽しげな言葉尻に、ライはなぜか少々苛立った。それに気付かない様子のは、最後に肩から対側の脇に向けて大きく包帯を巻いていく。

「藍閃に帰ったらもう会うこともないだろうし……少し、話をしてみようかしら」

 雌猫の唇がわずかに綻ぶ。細い腕がライを包み込むように大きく動き、かすかなの匂いがライの鼻腔をくすぐった。


「アンタはどう思――、……っ」

 の顔が正面に来るタイミングを見計らい、ライはかすかに顔を傾けた。狙い通りの唇がライの唇に重なる。
 包帯を持ったは動けない。ライは易々とその後頭部に手をかけ雌猫を引き寄せると、今度は額に口付けた。が目を見開く。

「……ん…ッ、……う、ん…っ、ちょっ……な、に……」

「……何か言ったか?」

「ちが――、私が聞いて……っ、ん…っ」

 弾力のある唇を何度か啄ばむと、がくぐもった声を漏らした。息継ぎする合間を狙い、ライは舌を割り込ませる。
 目を見開いたが本能的に舌を引っ込める。あえて性急さを抑えてねっとりと根元からなぞり上げると、はきつく目を閉じ耳を震わせた。

「……っ! ……まっ……、あ…、ライ……ッ」

「……何だ」

 か細い声で名を呼ばれ、胸からじわじわと生じていた熱が急に塊となって腰へと落ちた。
 右手で雌猫の頭を引き寄せ、左手でその背を探る。尾の付け根から上へとなぞり上げると、途中で指が引っかかった。がここ数年着けている下着の鉤を、片手で難なく外す。するとははっとしたようにライから身体を離した。


「……ア、アンタね……なに考えてんのよ……っ」

 緩んだ胸元を押さえながらも、片手はいまだに包帯の端を握っているのがある意味見事だ。
 頬を染め瞳を潤ませたはライを睨み付けた。その視線にライは口の端で笑う。

「……そうすぐに赤くなるな。何か特別なことでもしたか?」

「……っ。アンタがいきなり……!」

「いきなり………何だ?」

 身体に灯った熱を隠そうともせず、ライはに意味深な視線を向けた。欲の滲む眼差しにが息を詰める。そのまま雌猫の背に再び触れようとすると、はライの肩を押し返した。


「……ダメ」

 それは、拒絶。ライから視線を逸らし、は赤い顔のまま唇を引き結んだ。
 雄を止めるにはあまりにも弱い抵抗だ。ライは物ともせずに雌猫の髪に触れた。

「聞こえんな」

「……っ、馬鹿! アンタ怪我してんのよ? 熱だってあるのに何考えてんのよ。ダメったらダメ、今日はしない!」

「…………」

 怒ったように言ったは、荒々しく残りの包帯を巻きつけた。端で結び、じろりとライを横目に見る。企みをくじかれて不機嫌になったライは、同じくをじっと睨んだ。

「……何よ。そんな目したって、ダ…ダメなんだからね。ほら、早く寝なさいよ」

「…………」

 寝台に横たわるよう促されても、ライは従わなかった。手持ち無沙汰になった手のひらを握ったり開いたりと往生際悪く見つめていると、根負けしたようにが大きく溜息をついた。

「子供みたいな拗ね方しないでよ……。あのね、そんなことしてたら傷が開くでしょ。怪我が落ち着かなきゃ次の仕事の情報も聞きに行けないんだから……」

 眉尻を下げたが諭すように呟く。その響きがなんとなく気に食わず、ライはの手を引くと共に寝台に倒れ込んだ。


「あっ…! ちょっと、だから――!」

「何だ? ……勘違いするなよ。お前が言ったように『寝る』だけだ。何を想像したかは知らんが」

「…! な…何よそれ……」

 ライの薄い笑みにはぐっと詰まった。だがその身体を抱き掛布を引き上げると、こちらを気配を窺っていた肩から力が抜ける。


「私、まだ寝るつもりじゃなかったんだけど……」

「眠くないのなら、お前の想像通りのことをしてやろうか」

「……寝ます」


 ほう、と諦め混じりの吐息をはいたが腕の中で丸くなる。いつもよりも幾分か冷たく感じる身体を抱いて、ライも瞳を閉じた。
 その後、結局ライよりも早く寝息を立て始めた雌猫の無防備な寝顔に、ライは微熱に回る頭で「阿呆猫」と呟いた。

 






  Top     Next



  (2008.10.10)