「またあいつらか…! おい行くぞ、フォウ!」

「ああ。…って、でも俺、剣持ってないんだけど!」

「馬鹿野郎! いつも言ってるだろうが、鍛冶師なんだから剣の一つぐらい常備してろって! ……いい、俺のを貸してやる」

「はは……悪いね」

 緊迫した場面なのにどこか気の抜ける会話を交わして、環那の雄猫二匹が町の外へと駆けていく。それを見送り、はライを振り返った。

「ねぇ、私たちも…!」

「俺たちには関係ない。この町の問題だろう、放っておけ」

「でも、死猫も出てるって…! それにもしかしたら昨日の奴らかもしれない。ほら、早く!」

 が急かすと、ライは一瞬遠くを見た後に溜息をつきつつ頷いた。

「全く……どうしてお前はそう首を突っ込みたがるんだ……」





    3 心、乱れ





 森に入ると、町の入り口にごく近い場所で折り重なった猫の死体が目に入った。あまり見たくはないが、ちらりと様子を窺う。

 死んだ猫たちはどうやら剣ではなく鈍器のようなもので殴られたようだ。ハンマーやあるいは超重量級の剣だろうか。どちらにせよ凄惨なその様子には遺体から目を背け、奥歯を噛みしめた。
 なんて卑怯なやり口だ。賞金稼ぎでもない一般の猫を、いきなり鈍器で襲うなんて。

 ライが耳をそばだてる。森の中の音を聞いていた雄猫は、に方角を指し示した。

「あっちだ。声がする。……俺から離れるな」

 その声に頼もしさと、相反するいくばくかの反発を覚えながら、はライに従った。





 音のする方角に走り茂みを掻き分けると、そこでは数匹の猫が戦闘を繰り広げていた。
 アークとフォウと、後は盗賊の猫が四匹。半分の二匹と対峙して間合いを計っていたフォウが、物音に気付いて振り返った。その灰色の目がを見て驚愕に見開かれる。

「――さん…!? どうしたんですか、危ないですよ!?」

 できれば雌の名前で呼ばないでほしい。そう思ったが、それは難しいというものだろう。はざっと視線をやると状況を瞬時に理解した。

 盗賊の四匹のうち三匹は、昨日たちが襲われたあの集団の猫だった。
 このうちの二匹の強さは既に知っているし、俊足だったあとの一匹もフォウに対する構えを見る限り大した腕前ではない。だが残りの一匹…顔に斜めに傷が走る年かさの猫だけは、おそらく桁違いに強い。対峙しているアークが苦しげに息を切らしていた。

 フォウに剣を渡したためか、アークは短い短剣での闘いを強いられていたようだ。
 おそらくアークが得意とするのは、遠方からの弓での狙撃。接近戦でもかなり強いのだろうが、相手の猫はその上を行く。ライもまたその状況を理解したのだろう。大柄の雄猫の前へと進み出ると、アークに下がるよう無言で指示した。


「なんだ、あんた……。いいから旅のもんは下がってろ」

「お前では相手にならない。そっちの猫の援護に入れ。その方が早く終わる」

 ライの物言いにアークはさすがにムッとしたようだったが、自分と相手との力量の差は分かっていたのだろう。傷の猫に目を据えたまま渋々後ろに下がった。ライが振り返り、に小さく告げる。

「……最初から歌え」

 その言葉にの眉が寄った。こういう風に命じられると、逆らいたくなってしまう。
 だが相手が強いことは分かっているし、ここで我を通して歯向かうほど馬鹿でもない。

 は頷くとライの背中をじっと見つめた。複雑な想いが消えたわけではないが、今は歌を生み出そうと集中する。
 ライが長剣を抜いた。大柄の猫は残忍な笑みを唇に浮かべ、耳障りなしゃがれた声でクックッと笑った。


「今度はお前が相手か? 澄ました兄ちゃんよ、随分と細身だがそんなんで大丈夫か?」

「さあな」

 ライが剣を肩に構える。雄猫も厚みのある剣――というよりはあれはすでに鉈だ――を構えると、図体に見合わず軽い身のこなしで地面を蹴った。
 だが雄猫が狙ったのは、ライではなく朱色の光を揺らめかせ始めただった。

「そっちの小さいの、随分無防備だなぁ!? そいつからやってやろう!」

 歯を剥き出して笑った闘牙が鉈を振りかぶる。は一瞬目を見開いたが、剣がぶつかる鈍い音とともにその斬撃はから遠く遠ざけられた。

「行かせると思うか。――おい、そこの猫たち! 俺はこいつを倒すから、貴様らはその猫を守れ。それぐらいはしてもらう」

 雄猫の剣を長剣で受け止めたライが、背後に向かって叫ぶ。そのどこか余裕すら感じられる声音に、残りの夜盗三匹と対峙していたアークとフォウは目を見開き、ついで苦笑した。「随分偉そうだな」…そんなフォウの呟きがにも朱色のヴェール越しに聞こえた。

 そして次の瞬間。は口を大きく開くと炎の歌をライに向けて放った。




「何…!? お前ら、つがいか…!」

 瞬く間に朱色に光に包み込まれたライに、対する闘牙が驚愕の声を上げた。
 の歌はライの剣を赤く染め身体を包むのみならず、後方にいるアークとフォウの剣にも降り注いだ。突然輝き始めた自分たちの剣に、二匹が目を見開く。

「……賛牙……!?」

「すごい……。初めて見た……!」

 驚愕と感嘆の入り混じった声を皮切りに、ライが高く跳躍した。その一閃を大剣で受け止めた闘牙は、だが食いしばった口元にわずかな笑みを浮かべた。

「ほう……。いいな、この重み、このキレ。つがいとは運がいい、歯ごたえがありそうだ。……最近退屈してたんだよ。どいつもこいつもすぐに死んじまってよ」

「……ならば次は貴様の番だな」

「どうかな。――愉しませてくれよ」

 肩で笑った闘牙は舌なめずりしてライを見やった。その残忍な笑顔はこの猫が闘い…いや殺戮を何よりもの楽しみとしていることを知らしめ、は眉をひそめた。

「さあ、来いよ!」

 剣を振りかぶったライが駆ける。雄猫は後退すると見せかけて、地面に生える草を剣でなぎ払った。
 刈り取られた草がライの視界を覆う。その隙に雄猫は体勢を立て直し、鉈を大きな動きで振るった。


「どうした? 賛牙込みでもその程度か? もう少し骨のある動きしてくれよ」

「……ちっ」

 暗い笑みを浮かべた闘牙にライが舌打ちを返す。その戦闘スタイルが卑怯であることに目を瞑れば、この闘牙、恐ろしく腕が立つ。もしかしたら昔は有名な賞金稼ぎや剣士だったのかもしれない。

 賛牙の力を得た環那の二匹がを守るように背後を固めた。はそれに安堵する反面、身体のどこかに違和感を覚えて内心で首を傾げた。

 なんとなくだか……歌に力が入らない。声は出るし光も見えるのに、いつもよりもどこか希薄なのだ。
 ライもそれを感じているのだろう。切り結ぶ合間に、一瞬だけに視線をやった。が視線を受けて頷いてみせると、また闘いへと戻っていく。だがやはりは本来の力を発揮できないでいた。

(なんで……? 調子悪くなんかないのに――)



 そうこうするうちに、さすがにつがい相手では分が悪くなったのだろう。相手の闘牙が息を荒く切らし始めた。
 致命傷こそ受けていないものの、ライに斬りつけられた傷から血が流れ出ている。体中に汗を浮かべているが、その双眸だけは状況に反して爛々と輝いていた。血を受けて血に酔っているかのようだ。

「ああ……お前、どこかで見たことあると思ったら……昔、藍閃で会ったな。裏通りに情報を聞きにきた、白い髪のガキ……」

「俺も貴様の顔は見たことがある。老いさらばえて引退したと思ったら、こんな所で這いつくばっていたんだな。……堕ちたものだ」

「別に、仕事がなかったわけじゃないさ。ただ退屈でな。……魔物も賞金首も飽きるほど狩ったが、金は落としても刺激を与えちゃくれない。だったら腕の立つ野郎を襲った方がまだ楽しい。それで金が入れば一石二鳥だ。……ま、今回はたまたま目に入ったから襲ったがな」

「……見下げた精神だな」

 舌なめずりして自らの血を舐めた雄猫が、ライを揶揄するように笑う。ライは吐き捨てるように告げると、長剣を雄猫に向かってまっすぐに突きつけた。あと数歩ライが進めば自らの心臓を貫かれるという状況で、なお雄猫は笑っていた。


「おっと……。今日はここまでにしようや。こっちは老体でな。……このまま続けて俺を殺したところで、お前も楽しくはないだろうしな」

「……貴様を殺すことのどこにそんなものがある」

「そうか? ……俺にはそうは見えんがな」

「……っ」

 両手を上げてせせら笑った雄猫の言葉に、ライがわずかに息を詰めた。その動揺が歌で繋がっているにも伝わってくる。ライの一瞬の動揺を見逃さず、雄猫はさらに畳みかける。

「昔も、風体に見合わないほど冷めた目をしたガキだと思ったが……違うな。お前は、刺激が欲しかったんだろう? それを隠すためにことさら冷静になっただけのこと。闘いで血にまみれてやっと安堵するタイプの猫だ。俺には分かる」

「……名も知らぬ猫に分かったようなことを言われてもな」

 断定口調で告げた猫に、ライはひどく冷静に返した。だがその内心が言葉ほど落ち着いてはいないことをは知っていた。
 不安定に揺れ始めたライの気を抑えるように、は歌を打ち切ってライの横に並んだ。ライがフードに覆われたの顔に視線を向けたのが伝わってくる。


「……剣を取れ。貴様はここで殺す」

「断る。……アジトに帰れば、俺にも一応賛牙がついている。また相まみえることもあるだろう。その時まで勝負はお預けだ」

「なんだと――、くっ!?」

 にやりと笑った雄猫は、踵を返す瞬間に何か白い粉のようなものを投げつけた。
 それは目の中に入るとしみるような痛みを生じさせ、追いかけようとしたライとの足を止めた。

 雄猫の行動が合図だったのか、アークとフォウが対峙していた三匹の猫たちも一様に攻撃の手を止めて逃走を始めた。
 当初から戦闘の場にいた環那の二匹は、追いかけても体力が続かないと判断したのか迷いながらもその場に留まった。それを見たライが舌打ちをして足を踏み出す。

「――ライ?」

 ライは無言のまま地を蹴って駆け出した。目を見開いたは遠ざかっていく白銀の背中へと叫んだ。

「ちょっと……待ちなさいよ!」

 無論そんなことで止まるライではない。もまた舌打ちするとライを追って走り始めた。もう背中も見えないが、草を蹴る音で大体の位置は掴める。
 歌で消耗した身体が一瞬だけ崩れ落ちそうに揺らいだ。「大丈夫ですか?」とフォウの心配そうな声が聞こえたが、体勢をなんとか立て直すとは一つ頷いて先を急いだ。


 先ほどの粉の影響で目が痛い。勝手に涙が滲み、視界がわずかにぼやけている。
 よりも手前で攻撃を受けたライは、きっともっと痛いはずだ。十分に機能しないはずの目で敵を追っていくなんて、いつもの冷静さからは考えられない。やはり……雄猫の言葉が彼の逆鱗に触れたのだろうか。
 
 『闘いで血にまみれることで安堵を得る』……以前のライならば、そういう一面も確かにあった。
 だが、あの雄の言葉は間違っている。それは過去のライの姿で、今もそれが当てはまるとは限らないのだ。

 リークスとの闘い以降、ライが狂気に囚われることは時を経るごとに少なくなっていき、ここ一年は出現すらしなくなった。
 ライは己の内の狂気を乗り越えてきたのだ。だからあんな言葉に惑う必要はない。胸を張って「くだらん」と一蹴すればいいのだ。

 だがの想いは、このあと現実に嘲笑われることとなる。それも知らず、はひたすらに森の中を駆けた。







 ……血の臭いがする。ライとどの猫かとの間で戦闘が始まったのだろうか。
 剣戟の音がした場所を突き止め、は草木をかき分けた。

 まず目に飛び込んできたのは白銀の後姿。しっかりとした立ち姿勢がその猫の状態を物語り、は一気に安堵した。そして足を踏み出し――は声を失った。

「…ッ!!」

 ライの足元に広がる、赤黒いもの――血。おびただしい量のそれは、白猫のすぐそばに倒れ伏した猫から流れ出ていた。
 それは、昨日が対峙した小柄な猫のなれの果てだった。猫はもう生きてはいない。……いや、生きていたとしても数秒のうちに死が訪れるのは間違いないだろう。その状況を作り上げたのつがいは、顔を伏せたままその死体を見つめていた。

 遺体には、おそらく致命傷となった大きな切り傷の他に数か所の穴があった。深く貫かれたそこからは止まることなく新たな液体が流れ落ちている。凄惨な光景には喉の奥が詰まるのを感じた。


「……ライ……」

 その名を呼んでも、雄猫はぴくりとも反応しない。は震える足で近づくと、ライの顔を伺った。その唇には予想したとおり……予想したくもなかったが……薄い笑みが浮かんでいた。

 ライが逆手に持った長剣を振りかぶった。血に濡れたその切っ先は、まっすぐに雄猫の遺体へと向けられている。その手が振り下ろされる寸前に、はライの腕を掴んだ。

「ライッ!! 駄目よ!」

「…………」

 両手でライの右手に縋り、剣を下ろさせようと力を籠める。ライは動きを止めてくれたが、力が抜けたわけではない。はありったけの力でその腕を無理やり引きずり下ろすと、剣を叩き落として後ろからライを羽交い締めにした。

「馬鹿! なに引きずられてんのよ…! 目を覚ましなさい!!」

「…………」

 無言を貫きながらも、ライの抵抗はやむことがない。押さえつけられた両手でもがき、を引きはがそうと爪が立てられる。
 言葉も届かない。は痛みに耐え、歯を食いしばった。

(歌…。歌なら……!)

 ライに届くかもしれない。そう思いつき、息を短く吸う。はライに呼びかけるように歌いかけた――はずだった。

(……え……?)

 歌が……出ない。声は出るが、それはまさにただの声だった。宿るべき賛牙の力がそこには全く籠っていなかった。
 焦って声を張り上げる。それでも今まで自然に湧き上がってきたはずの『歌』が歌える気配は、身体のどこにもなかった。

 先ほど希薄だと感じたものが、とうとう消えてしまったのか。が呆然と瞬くと、押さえつけていた二本の腕が動いた。それにはっと我に返り、拘束を再び強める。


「いい……。

「! ライ……」

 だが聞こえてきたのは、哄笑ではなく落ち着いた雄猫の声だった。目前の白銀が揺れ、ゆっくりとライが振り返る。少し疲れた表情の中、その薄青の瞳には確かな理性が戻っていた。

「……すまない。もう大丈夫だ」

「あ……うん……」

 再度呼びかけられ、は腕の拘束を解いた。一歩進んでから離れたライが、額を押さえて大きく溜息をつく。苦悶するつがいの姿を、は何とも言えずに見つめていた。


「……あの…、ラ――」

さーん、どちらですかー!?』

「…ッ!」

 ライに呼びかけようとしたは、森の奥から聞こえてきたフォウの声に尾を逆立てた。はっと盗賊猫の遺体に目をやるが、茂みを揺らす音は刻一刻と近づいてきてどこにも逃げ場はない。

 数秒の後に目前の茂みがガサリと揺れ、は咄嗟にライと遺体の前に立った。やってきた者の視線から二匹を隠すように立ちはだかる。遺体を、というよりは今の傷付いたライを、他の猫の目に晒したくなかった。


「ああ! 良かった、無事だったんですね…!」

「怪我はない、か……。無茶するな、あんたら」

 後を追ってきたらしい二匹は、たちの無事な姿に揃って安堵の笑みを浮かべた。だが背後の遺体を隠しきることは勿論できず、それを目に留めた二匹は息を詰めた。

「……っ、この猫……さっき俺たちと闘ってた……」

「……あ……、あのね……」

 戸惑いを露わにしたフォウの声に、ライが眉を歪めたのがちらりと見えた。
 は慌てて間に入ると、弁解するように両手を上げた。だが言葉が見つからず沈黙してしまう。そんなを助けるように、アークが低く声を発した。


「あんたらが仕留めてくれたんだな。……ありがとう。こいつらの一味には、結構前から手を焼かされてるんだ」

「あ……そういえば、さっきも『また』って言ってたわね。このあたりが根城なの?」

「らしいな。たぶん藍閃の賞金首リストにも載ってるはずだ。かなり法外な額だが……ボスの実力がああだからな、いまだに捕らえられてない。こうして下っ端を捕まえるのがせいぜいだ」

「そう……」

 は暗く相槌を打った。背後で沈黙しているライが気になる。すると陰鬱な雰囲気を察したのか、遺体を複雑な表情で眺めていたフォウが明るく切り出した。

「あの……そういえばさん、賛牙だったんですね! 賛牙の力って初めて見ました。鍛冶師で賛牙だなんてすごいじゃないですか! ね、アーク」

「ああ……そうだな。いや、本当に驚いた。俺らは主対象じゃなかったが、それでも力が伝わってきて。……あんたみたいな奴と、一度組んでみたいものだな」

 興奮したのはフォウだけかと思いきや、アークの方も本物の賞賛を込めて熱っぽい目でを眺めた。
 最初から本調子でなく、先ほどに至っては歌すら歌えなかったという事実にはその言葉を素直に受け入れることはできなかったが、表面上は「ありがとう」と微笑んだ。



「この猫は、俺たちで弔います。おふたりはお疲れでしょうから先に町に戻って下さい」

「え……でも」

「いいよ。……あんたも闘牙の兄ちゃんも、疲れた顔してるぜ。後は俺たちに任せな」

 やがて弔いのために動こうとしたをフォウとアークが穏やかに制した。その言葉にはライを見上げ、こくりと頷いた。ライは、ひどく疲れた顔をしていた。
 ふたりの言葉に甘え、たちは先に宿へ戻ることにした。







 無言の道中を経て、とライは宿の自室へと入った。部屋の奥に立ったライが、静かに装備を外していく。それをなんとはなしに見ていたは、ライに話しかけようとして口を噤むのを数回に渡って繰り返していた。

「……何か、言いたいことがあるんじゃないか」

「え? ……ああ、えっと……身体、大丈夫? もう本調子になった?」

「……ああ」

 の気配を察したのだろう。ライは振り返るとに視線を向けた。調子は戻ったと言いながら、ライの瞳の色は暗い。
 会話が続かず沈黙が落ち、はかける言葉を探した。そんなに向かい、ライは顔を伏せて歪んだ笑みを浮かべた。

「……心が大丈夫か、と聞いた方がいいんじゃないか? お前が気にしているのもそこだろう」

 ライの投げやりな言葉には目を見開いた。すぐに眉を寄せ、首を振る。

「そういう言い方はやめて。……気にしないと言ったら嘘になるけど、必要以上に気にしてもいないわ。久しぶりで少し驚いたけど……前と比べたらずっと戻りやすくなったし」

「比べたら……? 馬鹿か。程度の差などあってないようなものだ。心を支配されるのは、俺の中でまだ衝動が消えていない証拠だ。沈めたように見えても……結局変わってはいない」

 の言葉を否定するように暗く告げたライは、寝台に腰かけると額を押さえて項垂れた。
 消えたと思っていた衝動に支配され、深くダメージを受けたようだ。全ての言葉を拒絶するその背中をはしばらく見つめていたが、そっと近寄ると身体を擦り寄せた。傾いた背に頭を押し当てる。


「変わってなく…ないわよ。アンタがそう思っても、そうじゃないってこと、私が一番知ってる。前の時からこれだけ長い間抑えてられたのよ? 今度は数年か、数十年か……もう二度と現れないかもしれないじゃない」

 冷たく感じるライの背を温めるように、は手のひらを滑らせた。ライはの言葉には答えずただ呼吸を繰り返していたが、何度も触れるうちに荒かったそれがだんだんと穏やかになってきた。

 刺々しかった気が少しだけ和らいだ。雄猫の顔を背後から覗きこもうとしたは、だがふいにライが発した言葉にぎくりと動きを止めた。


「そういえば、お前……どこか調子が悪いのか? 歌にキレがなかったように感じたが」

「あ……うん、ちょっと喉の調子がね……。すぐに治ると思うんだけど……」

 意識せず、口からそんな嘘が転がり落ちた。はそのことに動揺しライの背後で眉を寄せたが、ライは気付かなかったようだ。一言「そうか」と告げるとその話はもう終わりのようだった。は内心で安堵の息を吐いた。

 ライに心配をかけたくない。それに――知られたくない。咄嗟にそう思った。

 賛牙の歌の強さは闘牙との絆に比例すると、あの闘いの頃、ライから教わったことがある。
 歌が弱まるのにも理由は色々あるだろうが、最も考えやすいのは身体の不調と、そして……二匹の絆が弱まること、そのどちらかだ。

 本当のことを告げたら、もしかしたらライは後者だと思ってしまうかもしれない。はそう考えつき、思わず嘘をついてしまった。
 そんなことを一瞬のうちに考えてしまう自分の思考回路に嫌気がさすが、大切な相手に誤解されたくないのはどんな猫でも一緒だろう。

(大丈夫。さっきのは、たまたまだわ。明日歌えば、きっと元に戻ってる)

 自分にそう言い聞かせ、はライの背から離れて隣の寝台に移った。ライの心ほどではないだろうが、の身体も歌と追跡のおかげで相当に疲労していた。


「ごめん……私、もう寝るわね。アンタも考え込まずに早く寝た方が――」

 掛け布を払って寝台に横たわったは、ライに視線を向けその言葉を途切れさせた。なぜならば、ライが厳しい眼差しで自分を見下ろしていたからだ。

「……なに?」

「盗賊を追う前……あの猫どもと、何を話していた」

「え?」

 ライの問いかけは、には全く予想外のものだった。ぱちぱちと目を瞬き、は口を開く。

「フォウとアークのこと? 何って……別に、普通のことよ。鍛冶の話とか弓の話とか……」

「必要以上に町の猫と関わるな。深入りするといつか足元を掬われるぞ」

 間髪入れずに冷たく返され、さすがにもかちんときた。寝台の中から雄猫をじっと睨む。

「何それ……。あの猫たちは信用できるわ。なんでそんな風に言われなきゃなんないのよ」

「阿呆猫。お前がそう思っても、向こうがそう考えているとは限らん。用心するに越したことはない」

「…………」

 上から押さえつけるように言われ、の中で小さな怒りがくすぶった。今朝の戦闘に対する考えのいざこざや、ライの衝動が現れたことへの動揺や今日の不調やらで胸の中が落ち着かない。
 いけない、と思いつつも半ば八つ当たりのような気分で、は皮肉に告げた。

「……嫉妬してるの?」

 思いがけず嫌味な口調になってしまい、は言った直後にさっそく後悔した。案の定、ライは珍しく怒りを露わにしてひどく冷たい眼差しでを睨みつけた。

「調子に乗るな」

 その声色の鋭さには尾を震わせた。本気の怒りをぶつけられ、二の句が継げなくなる。それでも何とか「ごめん……」と絞り出すと、ライもはっとしたように険しい表情を緩めてに背を向けた。


「……明日、藍閃に向かう。受けるかどうかは別にしても、あの賞金首の情報を聞きに行くぞ」

「うん……」

 低く告げられた言葉には覇気なく返すと、ライに背を向けて丸まった。そして瞳を閉じる。
 身体は疲れているというのに心が色々なことでざわついて、その夜はなかなか眠りに落ちることができなかった。








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(2008.10.25)