5、ちぎれた鎖






 とライが環那へと戻ってきたのは、酒場へ行った二日月後のことだった。
 前に泊まった宿に再び落ち着き、荷物を整理したはライを振り返った。

「私、ちょっと砥石を調達に町に出るけど。すぐに戻るわ」

「ああ」

 ライの返事はそっけないが、それはいつものことだった。
 ふたりの間の空気は、藍閃行きを経てほぼ以前と同じ状態にまで戻っていた。と言っても普段から甘い雰囲気にはなかなかならない二匹なので、周りから見たらそうは見えないかもしれないが。

「何か買ってくる物はある?」

「そうだな……明日から森に入る。乾燥の食料があれば買っておけ」

「ん、分かった。……砥石は買うよりもフォウに借りた方が早いか……」

「…………」

 の呟きに、ライは耳聡く反応した。……しまった、失言だった。ほんの少しだけ眉を寄せたライに、は気付かないフリをした。


「……おい。町の外には出るなよ。奴らがうろついてるとも限らんからな」

「分かってるわよ。用もないし、そこまで馬鹿じゃないわ」

「どうだかな」

 く、と笑ったライには少しだけ頬を膨らませた。もちろん本気で怒っているわけではない。一種のポーズだ。だがこんなやり取りが自然にできるようになったことに、は安堵を覚えた。

「じゃあね」

「おい」

「ん?」

「帰ったら……」

 を呼び止めたライは、珍しく何か口ごもった。が視線を向けると、目を閉じ緩く首を振る。

「……何でもない。早く行け」

 その姿に釈然としないものを感じながらも、は扉を押しあけ環那の町へと繰り出した。








「乾燥果実、今一つだったなー。やっぱり藍閃で買っておけば良かったか」

 一時間の後、は買った品物を確認しつつ、町の外れにある通りを歩いていた。そろそろ陽の月が傾き始めている。
 砥石をフォウに借りようと決めたまでは良かったが、肝心のフォウの家を知らなかった。とりあえずは道行く猫に聞いて場所は分かったので、は町はずれにあるその家まで歩いていくことにしたのだった。

 歩きながら、これからの行動を計画立ててみる。
 環那を起点に夜盗の根城を探せればいいが、すぐに分からければ森に入り野宿することになる。それは慣れているし構わないのだが、あと数日もすれば発情期に入り波が高まるから、そう易々とは動けないかもしれない。この稼業にとってはなかなか厄介な期間だった。

(うーん……なんだかロマンのない思考ね……)

 自分で考えておいてなんだが、それぐらいあっさりとこの期間のことを片付けている自分に、は少しばかり悲しくなった。
 昔はもう少しドキドキしていた気がする。共に行動しているつがいに感化されたのだと思わずにはいられなかった。

 そんなことを考えていたは、背後から忍び寄る影があることに気付くことができなかった。



「……ぐッ!? ――ッ!」

 それは、最後の角を曲がったところでやってきた。背後から何者かに口を塞がれ、は強く後方に引き寄せられた。

 ――『しまった』と思えど、時すでに遅し。は強く引っ張られ、路地の暗がりへと連れ込まれた。

 全く気配を感じなかった。とて決して気配に鈍感な方ではない。ライと行動するようになってからその感覚は以前と比べ物にならないほど研ぎ澄まされたし、今だって完全に気を緩めていた訳ではない。だが、相手の方が一枚上手だった。を襲った暴漢は、気配どころか呼吸も殺気も悟らせなかったのだ。

 押しつけられた口元の布地から、何か薬のような臭いがする。まずいと思っても、一度吸ってしまったものは吐き出せない。いったい誰だ――そう確認する間もなく、の意識は暗転した。








「…………」

 身体が揺すられる気配に、はぼんやりと覚醒した。ひどく重たい瞼をやっとの思いで開くと、視界がゆらゆらと揺れている。
 ……いや、実際に揺れているのだ。の視界には、猫の背中と揺れる地面が映り込んだ。……どうやら雄猫の肩に担ぎあげられているらしい。

(……私……、攫われてる……?)

 頭を振らないように、ぱちぱちと目だけを瞬かせてなんとか覚醒しようと試みる。その甲斐あってか、相手に気取られることなく徐々に思考がクリアになってきた。は頭を猛回転させ状況を整理しはじめた。


 環那で襲われて、おそらくそのまま運ばれているのだろう。陽の月は暮れていたが、まだ闇はそれほど深くない。あれから1、2時間といったところだろうか。
 何の薬を使われたかは知らないが、意識を落とすだけで身体にはあまり影響を与えない部類のもののようだ。とりあえずは妙な痺れなどは感じない。

 いったい、なぜ……などと考える間もなく、答えは導き出された。おととい酒場で言われたあの件だ。自分を狙っているものがいる、と。
 まさか町中で襲ってくるとは思わなかった。自分が思っていたよりも、事態は案外深刻だったのかもしれない。その認識の甘さには敵の肩の上でほぞを噛んだ。

 とにかくこうしてはいられない。もうすでに、環那から結構な距離が離れてしまったはずだ。ライの元に……戻らなくては。

 は静かに息を吸うと、腹の底に力を溜めた。そして渾身の力を込めて、雄猫の腹部を脚で、背中を拳で挟み撃ちにした。



「――ぅぐあッ!?」

 不意打ちに、さすがの雄猫も怯んだようだ。瞬間的に緩んだ腕をかいくぐり、は反動のままに高く跳躍した。まだ頭がふらつくため少々軌道がずれたが、まあ良しとする。
 草の上に着地したは、相手が体勢を立て直す前に太腿のホルダーから短剣を引き抜き、その足めがけて一刀を放った。

「ぐっ!! この……アマ!」

 短剣は狙いから少し逸れ、雄猫の足を掠っていった。血が噴き出すが、掠めたぐらいでは攻撃の手を緩めるのがせいぜいだ。予想通りに雄猫は逆上し、は舌を打った。キレた雄の相手は厄介だ。

 怒りに染まったその顔を見れば、先日森の中で襲われた時にせっかく狩った獲物を横取りしていった、あの俊足の猫だった。
 の剣は町で捨てられてしまったのか、自分の手元はおろか雄猫の懐にも収まっていない。一見して武器が入っているとは分からないホルダーに収められた短剣が三本……いや、今投げたから二本。それがの持つ武器の全てだった。

 ゆっくりと短剣を引き抜き、は正面に構えた。俊足の雄は腰に下げた剣を、これ見よがしな音を立てて鞘から抜く。
 前にアークと闘っているのを見た限りでは、この猫はそれほど戦闘に長けているわけではないようだ。だが秀でて足が速いのは事実だ。先に踏み込まれたら、勝てないかもしれない。の頬を冷たい汗が伝った。


「……今日は獲物は持っていないぞ。何か用か」

 フードも脱げて、雌だと分かりきっているのを承知では低く問いかけた。すると雄猫は油断なく剣を構えながら、にたりと笑った。

「獲物はアンタだよ。……うちのボスが雌の賛牙を所望でね。なんでも藍閃に持ってきゃ大層な金が貰えるんだってなぁ」

「…………」

「もっと早く気付きゃ良かったぜ。雌だって分かってたら、最初の時点で何としても捕らえてたのによ」

 ――やはり、と言うべきか。しくじった、と言うべきか。
 あの元闘牙だとかいうボス格の猫は、ライに随分と興味を持っていたようだった。藍閃あたりで聞きこめば、ライの情報……ひいては自分の情報を手に入れることは、そう難しいことではないだろう。

 不特定多数の暴漢よりも、今注意すべきはこちらの状況を知っていて、また今後狙ってくる可能性のある、一度やり合ったこういう猫たちの方だった。見通しの甘さには心中で自分を罵った。

「できれば傷は付けたくない。おとなしく投降しちゃくれないか? 悪いようにはしない」

「……それで行く馬鹿がいたら、見てみたいものだな」

 問答など、あってないようなものだ。が冷たく返すと、口笛を吹いたその猫は大仰な動きで剣を構え直した。直後、足の怪我にもかかわらず素晴らしい速さで踏み込んでくる。
 夜盗などに身を落とさずとも、いくらでも生き残る道がありそうなものなのに――そんなことを考える余裕もなく、は身を翻した。


 闘えば、力量的には勝てる可能性も十分にある。けれど負ける可能性も決して少なくはない。
 状況が読めず援護する味方もいない今、むやみにやり合うのはにとって得策ではなかった。敵の根城が近くにないとも限らないのだ。

「――くっ!」

「はあぁぁッ!! 諦めろよ!」

 木々を縫って駆け出しただったが、相手のスピードは予想を上回るほどに早かった。すぐに追いつかれ、仕方なく短剣で大ぶりな一撃を受け止める。斬撃を受け流して雄猫の体勢を崩させたは、すかさずその腹にブーツの爪先を叩きこんだ。

「げへっ!!」

 これはライが教えてくれた技だ。剣が思うように使えない場合は、リーチの長い足を有効的に使え、ただし深入りはするな――そんな声が、脳裏に響く。雄猫がうずくまった隙には再び駆け出した。

 遠く、遠く、奴が追い付けないぐらいに……!



「……は……、はぁ……ッ」

 だが逆上した雄猫も、ただでは済ませてくれない。口から唾液を散らして、血走った目になった雄が追ってくる。慣れない環那付近の草木に躓きながら走っていたに、雄猫の手が伸びる。

「……貴様ぁ!」

「…!!」

 既に脱げているフードを掴もうとした手が、勢い余っての首に触れた。それは首を掴むことなくすり抜けていくが、その指に何かが引っかかる。
 雄猫の手がの首から離れた。その直後、入れ替わりのように喉に強い圧迫感が与えられた。

「ぐ…っ!」

 気道を押されてが呻く。だが次の瞬間、ブツリという音と共にその感覚は消失した。


「……!」

 の首からちぎり取られたもの。それを瞬時に悟り、は慌てて振り返った。
 息を切らした雄猫の手に握られているのは――が常に身に着けている、ライから貰ったタグだった。


「……なんだぁ? これ」

 雄猫はを捕らえられなかったことに舌を打ちながら、タグをまじまじと見つめた。は短剣を握りなおすと、雄猫に向かって叫んだ。

「返して。……それ、返して!」

 急に感情的になったに、何かを察したのだろうか。雄猫はにやりと笑ってタグを持ち上げると、に見せつけるように空中に放り投げた。勿論には届かない。再び手のひらにそれを収めた姿に、は唸り声を上げた。

「大事なモンらしいな。……こっちに来いよ。そしたら返してやる」

 それは、共に来いと言うことか。……それはできない。けれど、取られたままでもいられない。

「返しなさい」

「いやだね」

 へらりと言う雄猫に、怒りが湧き上げる。
 挑発されるな。そう思うが、自分でも抑えられないほどの衝動が腹の底から迸った。

「……返せッ!!」

 叫びざま、は短剣を振りかぶった。雄猫がにやついたまま一歩下がる。雄猫は踵を返すと、森の奥に向かって走り出した。

 先程までと状況は逆転し、は雄猫の後姿を必死で追った。頭に来ることに、雄猫は必ずから見える距離を保ったまま走っていく。
 逆上したは気付かなかった。自分たちが崖すれすれの地面を走っていることなど。
 

「――あっ!?」

 ガクンと、ふいに足もとが揺れた。しまったと思う間もなく、の身体はバランスを失って谷側へと傾いていく。体勢を立て直そうとしても一度崩落を始めた地面が元に戻ることは当然なく、無駄なあがきに終わった。

「げっ! おいちょっと待――」

「――ッ!!」

 立ち止まった雄猫が目を見開き手を伸ばす。だがそれを確認する前に、の身体は崖へと投げ出された。声を上げることすら叶わず、は暗い谷底へと落ちていった。





「……くそ!! 傷でもついたら稼ぎになんないじゃねえかよ!」

 崖の淵に駆け寄った雄猫は、谷底を見下ろし大きく舌を打った。木々に囲まれ、また周囲が闇に染まっているため雌猫の安否は分からない。
 確かこの辺りの地形には、それほど高い崖はなかったはずだ。おそらく死んではいないだろうが……確認に行くには道を戻って谷底まで下りなくてはならない。夜にそんな行為をするのは、いくら夜盗といえど危険なことには変わりなかった。

「どうするよ……。こんなん下りてたら、俺が怪我するってーの」

 真っ先に頭に浮かんだのは、自分たちを率いているあの闘牙のことだった。『仕事』を失敗すれば、自分に危害が加えられるかもしれない。自分たちを同胞と呼びながら、何かあれば迷いなく残虐な制裁を与える猫なのだ、あれは。

 その光景を想像し雄猫はぞっと尾を逆立てたが、手の中にある首飾りのような装飾物に気付き、ニィと口を吊り上げた。

「……しょーがねぇ。しょーがねぇよな、勝手に落ちたんだし。……生きてりゃ、これ取り戻しに乗り込んでくるかもしれねぇし……」

 己に言い聞かせ、頭をフル回転させて言い訳の算段を練る。
 これは、切り札だ。あの雌にとっての大事なもの。それをつがいの白猫に見せれば、きっと動揺を得られるだろう。もしかしたら白猫が買い与えた物なのかもしれない。


「そうだ……そうだぜ……」

 いいことを思いついた。これならボスもきっと満足するに違いない。

 雄猫は手の中のタグを握りしめると、アジトに向かって森の中を駆け始めた。







   +++++   +++++







 ライは、いらいらと尾で寝台を叩いていた。
 が帰ってこない。すぐに戻ると言ったわりに、あれからもう数時間が経過していた。

 あの鍛冶師の所にまだ入り浸っているのだろうか。だがもう夜も更けてきた。前回反発をくらった手前うるさく言うのはやめておこうと思ったが、いつになっても帰ってこず、さすがに訝しむ気持ちが出てきた。

 が賞金稼ぎ……元を辿れば藍閃の賛牙長に狙われていることを、ライは以前から知っていた。にとっては不快な情報でしかないため伝えなかったが、共に行動していれば守るのはそう難しくはない。そう考えていた。
 だがその存在と一部に顔が知られるにつれ、の周囲が危険になってきたのは確かだ。ひとりで歩かせるべきではなかったか――そう逡巡し、ライは再び寝台を尾で叩いた。

 こんなものは杞憂だ。は馬鹿でも弱者でもない。自分の身は今までも自分で守ってきたではないか。……そう考えても、生まれた焦燥は簡単には消えなかった。


(あの阿呆猫が…!)

 月が中天に差し掛かる頃、ライは寝台から立ち上がった。
 足早に歩き、部屋の戸を開ける。すると階下から意外な猫がやってきたのに気付き、目を見張った。

「――ああ、いたな。あんたに届けもんだよ」

 のっそりと現れた黒髪の猫…アークが、ライに封書を差し出した。



「……これは、何だ」

 突然現れた闘牙に、ライは剣呑な眼差しを向けた。
 初対面のとき一瞬とはいえ睨み合ったからか、に賞賛の眼差しを向けていたからか、ライはこの雄があまり気に入ってはいなかった。もっともライの中で「気に入った」に分類されるのはとコノエぐらいのものだったが。

「知らねぇ。隣町からの郵便猫にたまたま会って、賞金稼ぎをやってるライって猫がいたら渡してくれって頼まれたんだ。あんたのことだろ」

「…………」

 鋭い視線を向けられても、アークは全く表情を変えなかった。無愛想ではあるが、特別こちらを敵視してるわけでもない。淡々と述べると、アークはライに封書を手渡した。

 思わず封書を受け取ったライは、怪訝にそれを眺めた。
 なんの変哲もない、あまり質の良くない封筒。そこには宛名も何も書かれていなかった。触れると、何か硬い感触がする。……何も心当たりがない。とりあえず封を切ろうとしたライは、用件が終わっても立ち去らないアークに冷えた視線を送った。

「……何だ」

「いや、こないだは悪かったな。助かったよ、俺とフォウだけじゃ殺られてた」

「…………」

 雄猫が感謝の言葉を述べる。その態度には言葉通りの感情が透けて見え、ライは眉をひそめた。
 ……おかしな猫だ。確かに結果として助太刀に入ったのは事実だが、その後に自分が起こした異常な敵の嬲り方を目の当たりにしたはずなのに。

 ああいう死体を見た猫は、ライを「化け物」とか「狂ってる」と罵るか、目を逸らして距離を置くかどちらかの行動をとる。それをしなかったのは、あの闘いで出会った猫たちぐらいのものだった。
 だがこの猫の中には恐怖や嫌悪や、ライに対する嘲りの感情は見えなかった。……よっぽど鈍感なのか、それとも何も感じないのか。


「今日はっつったか……つがい、いないんだな。こんな夜にどうした?」

「……貴様には関係ない」

 馴れ馴れしく(実際はそうでもないのだろうが)の名を呼ばれ、ライは剣呑な口調で返した。アークは一瞬目を見開き、けれどさして気分を害した様子もなく続ける。

「別に取って食おうって訳じゃないんだがな……。しかしいい猫だな、彼女。賛牙ってだけでも十分称賛に値するが、あの器量はなかなかいないだろ。フォウも褒めてたぜ。……まあ顔は関係ないが、あれほどの力なら一度組んでみたいもんだ」

「……何が言いたい」

「ただ褒めただけだ。そんなに睨むなよ。……そうだな、打ち解ければ気立てもいいが、少し気を付けた方がいいんじゃないか。勘違いした馬鹿が、つけ上がらないとも限らない」

「そんなことは、貴様に言われるまでもなく分かっている」

 淡々としたアークの口調に、ライは逆に苛立たしさを感じていた。
 アークの言う通り、この猫はただ単純にを褒め、わざわざ忠告しているだけだ。下心があるのなら、さすがにつがいの前でこんなことは言わないだろう。それは分かっていた。分かっていたが、他猫に指摘されて面白いはずもない。

 取りつく島のないライの様子に、アークが小さく溜息をつく。「じゃ、渡したからな」と手を上げると雄猫はライに背を向けた。それを見送ることもなく、ライは封筒を無造作に開封した。
 手のひらに硬いものがころがり落ちる。その瞬間、ライは薄青の目を見開いた。


「――待て!! 貴様、これを渡した猫はどこに――」

「あの…! うちの前の通りに、剣が落ちてたんですけど…! これさんのですよね!?」


 ライがアークを呼び止めたのと、階下から息を切らしてフォウが駆け上がってきたのがほぼ同時。
 ライは手の中のタグを、呆然として見下ろした。









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(2008.11.8)