6、手紙





「いった……。しくじった……」

 深い森の谷底から、は暗い空を仰ぎ見て溜息をついた。

 雄猫に追われ、足を踏み外してからいくらかの間、気を失っていたようだ。
 落ちていく瞬間に咄嗟の行動で短剣を斜面に突き立て、地面に激突するのは何とか免れたらしい。それでも衝撃は強かったようで、軽い捻挫と全身打撲の痕があった。だが命を落としてもおかしくはなかったし、雄猫が追ってくる可能性も十分にあった。その危険を回避できたのは、女神リビカに感謝というところだろう。


「ライのこと笑えないわね……。ふたり揃って崖から落ちるなんて、ついてないわ」

 は低い声でぼやいた。誰も聞いていないのに悪態をつくのは、闇夜にひとり取り残されたことが怖いと感じるからだ。
 本能的な闇への恐怖。どこかから夜盗や魔物が襲ってくるかもしれない恐怖。そして何よりも、自分が事件に巻き込まれてしまった今、ライにも何らかの危害が加わっているのではないかと危ぶむ恐怖。

 大丈夫、大丈夫と己に言い聞かせ、胸元を探る。だがそこに常にあるはずのものが今はないことに気付き、溜息をつく。

(ごめん……。せっかくアンタに貰ったのに、盗られてしまった……)

 は身体を休めながら、暗い夜空を同じような気持ちで見上げた。
 きっとライは、こう言うだろう。「そんなものに執着して身を危険にさらすな、阿呆猫」と。あの猫は、なんだかんだ言っての身の安全を以上に深く考えてくれている猫だから。

 も本来は物にそう執着する性質ではなかったが、ライに貰ったものだけは別だ。中でもあのタグは、今では父の形見の剣と同等以上にの宝物になっていた。ふたりを結ぶ絆の象徴のように思っていたのだ。


「絶対取り返してやる……」

 今すぐ環那の宿に戻りたいが、身体の状態と周囲の闇を考えると、陽の月が昇ってから行動した方がいいのは明らかだった。ライを案じる心を抱えたまま、は身体を休めることに専念した。








「あー……、予想外に手強い崖だったわ。爪が折れた……」

 夜が明けて、はまず眼前にそびえ立つ崖の斜面と格闘した。実は数時間ほど歩いた地点からなら容易に登ることができるのだが、はそのことを知らない。そのため、馬鹿正直に崖を登るより他なかったのだ。

 岩肌でなく土の斜面だったのが幸いだが、それでも何度か足を滑らせて散々な目に遭った。
 だが早く帰らなければ。その一心では慣れない森の中を彷徨い、昼過ぎにようやく環那の町へとたどり着いた。


 町を行く猫が、泥だらけのを見て怪訝な視線を向ける。でもそんなことには構っていられない。
 は一直線に宿を目指した。そして目的の場所にたどり着くと、待合室を通り過ぎたところで突然誰かに呼び止められた。

さん…! ――ああ、良かった。今アークが森に探しに行ってて…!」

「えっ……」

 振り向くと、立ち上がったのはフォウだった。二階に上がろうと勇み足になるを留めるように、の前に立つ。フォウはざっとの全身に目をやると、憂慮を示すように整った顔を翳らせた。

「大丈夫ですか…? どこかで転びました?」

「ええ、まあ、ちょっと崖から……。それより探してるって、どういう――」

「――ああ、帰ってきたのか。とりあえずは良かった」

 フォウに問いかけようとしたその時、背後から低い声が響いてははっと振り返った。見ると、アークが息を切らして木戸を開いたところだった。
 環那に再びやって来たことは知っていたのかもしれないが、が昨夜戻らなかったことなどこの二匹は知らないはずだ。フォウとアークの尋常ではない様子に、は胸の奥で急速に不安が膨れ上がるのを感じた。


「……ねぇ。……ライは……?」

 嫌な予感を押し殺して、静かに問いかける。確信にも似たその予感は、アークの言葉で現実のものとなって返された。

「……ゆうべ、夜盗があんたから奪った首飾りを見て―― 一も二もなく飛び出して行っちまったよ。場所も分からねぇのに、アジトに乗り込むって言って。……奴らの文に、あんたを捕らえたって書いてあったんだ」




「…………」

 ザ、と頭から血の気が引いたのが分かった。視界がぐらりと回り、は縋るように上着の裾を握りしめた。
 呆然としたその顔はいまや蒼白だった。傍らから、フォウが控え目に声をかける。

「あの、さん……俺たち、ライさんから手紙預かってて……。あ、もしかしたらアジトの手がかりとか書いてあるかもしれませんよ…? まだ何かあったって決まった訳じゃないですから、気を落とさないで」

 フォウの言葉にはゆっくりと顔を上げた。ほとんど無意識のうちに、フォウが差し出した『手紙』を受け取る。封筒もなく、便箋ですらないただの紙きれを開くと、質の悪い紙面にやや乱れたライの字が躍っていた。


「…………」

 は舐めるようにその文面を読んだ。その内容が見間違いかと思って、何度も読み返す。だが書かれた文字が変わることはなく、の顔は次第に強張っていった。

「あの…馬鹿猫!」

 三度読み終えて、は手紙を乱暴にたたむと踵を返した。ぎょっとしたアークがの前に立ち塞がる。

「ちょっ……待てよ。どこ行くつもりだ!」

「決まってるわ、追いかけるのよ! ……私のタグで、おびき出されたんだわ。罠だって薄々気付いてたのに、それでも飛び込んでったのよ、あいつは!」

 振り向きざま、は手紙を二匹に示した。突きつけられたそれをアークとフォウが眺める。二匹は同様戸惑いを露わにした。


 ――

 その手紙は、唐突にただの名だけを最初に記して始まった。



  

 お前がこれを
読んでいるということは、俺はどうやら罠に嵌められ連絡が取れない状態になったらしい。

 俺がどういう状態であったとしても、お前が探しに来ることは許さない。何か要求があっても、ひとりでおびき出されるような馬鹿な真似はするな。あの夜盗の一味は、お前が考える以上に手強い。

 俺が環那を出てから二日経っても帰ってこなければ、お前は諦めて藍閃へと戻れ。
 俺を助けようなどと思わなくていい。絶対に来るな。





 たった数行の、短い手紙。自分の名を記すこともなく、それは始まりと同様、最後も唐突に終わっていた。

「こんなの……納得できるわけないじゃない! 何があっても離れるなって言ったのはあいつなのに……! ――私はあいつのつがいよ。追いかけてって連れ戻すわ…!」

 は憤然と言い放つと、手紙を受け取り再び二匹に背を向けた。その腕を再度アークが掴む。はキッと振り返った。

「放して! 私、早く行かなきゃ…!」

「だから待てって! あんたまで頭に血を上らせてどうするんだ! ……行くっつったって、アジトの場所も何も分からないんだろ? そんなんでどうやって居場所を掴むんだ!」

 怒鳴ったに、アークも同じように怒鳴り返した。その声の大きさと低さには思わず気圧される。

「それは……森の中を探して……っ」

「無謀だな。この辺りの森だけでもどのぐらい広いと思ってる。……それにあと少ししたら発情の波が高まる。そんな中をうろつくなんざ、雌にとっては死にに行くにも等しいぞ。散々に嬲られて知らない雄のガキを妊娠したいのか!?」

「…っ!」

「ちょっと……言いすぎだよ、アーク」

 畳みかけるように言われて、は完全に言葉を失った。横からフォウの仲裁が入り、アークもまた気を落ち着かせるように溜息をつく。アークは黒い髪をガリガリとかくと、少し冷静さを取り戻した声音で続けた。

「……だいたい白猫だって、何もとっ捕まったって決まった訳じゃないんだ。まだ何の動きもない。もしかしたら森であんたを探してる最中かもしれねぇだろ。……少し落ち着いて待ってみろよ」

「…………。でも……帰ってきてない………」

 肩を掴まれ諭されても、の身体からはなかなか緊張が抜けなかった。だが徐々にアークの言葉が頭に染み込んで、全身から力が抜け落ちていく。玄関に向いていた爪先を所在なく戻すと、は力なく項垂れた。


「……あいつはやると決めたら絶対に乗り込むわ。必ず居場所を突き止めて、一匹で闘う。あいつならきっとそう考える……」

 は唇を噛みしめた。……なぜこんなにも不安なのか分からない。ライが今どうしているかが分からないだけで、心に深い穴が開いたようだ。

「とにかく落ち着けって。……いいか。奴らの狙いは、白猫じゃなくてあんただ。こういう言い方は好かんが、賛牙の雌猫は貴重なんだろ? 他に聞いたことがない」

「ええ……。私、昨夜あの夜盗に襲われて……奴ら、私に懸賞金がかけられてるのを知ってたわ。あのボス猫はライと闘いたさそうだった。あっちが狙ってくる可能性も十分あったのに、私が油断したから……っ」

「仕方ねぇよ。一度目を付けられたらどちらかが倒されるまで離れられない。そういう稼業なんだろ。あんたの行動がどうこうってことじゃないと思うぜ。……とにかく、だ。白猫がアジトに乗り込んで、例えば捕らえられてたとしても、すぐに殺されるようなことはないと思うぜ。殺したってなんの得もないからな」

「殺す…!?」

 アークの言葉にはぞっと総毛立った。アークがしまったという顔をする。その横で、フォウがアークの脇腹を肘で打った。

「馬鹿! 不安にさせること言ってどうするんだよ。……あのね、さん。もしそうだとしたらって仮定の話ですからね。アークの話なんて話半分に聞いてればいいですから」

「おい、俺は真剣に――」

「いいから黙っててよ。……もしライさんが捕らえられたなら、奴らは今度こそあなたを狙ってきます。普通に考えると、おびき出すような動きが今後あるかもしれない。……待っていれば、必ず事態は動くはずです。ここで焦ってあなたまで森とかで捕らえられたら、ふたりとも助からない」

「…………」

「それとライさんが殺されないっていうのは……まぁあれだけの遣い手だし、藍閃でも欲しがってる猫とかがたくさんいるからじゃないかな……。その、容姿もずば抜けてるから……剣士として以外でも………」

 アークの言葉を代弁したフォウは、最後は気まずげに声を萎ませてしまった。それでもその穏やかな声音は、の中の不安を少しだけ和らげた。


 もしライが罠にかかって捕らえられていたとしても――すぐに殺されることは、きっとない。言い方は悪いがそれだけの価値がある猫だから。そして自分を捕らえようとするなら、待っていれば必ず動きがある。それが、二匹が伝えてくれたことだった。

 頭に血が上っていたのが徐々に落ち着いてくる。は長く息を吐き出すと、ゆっくりと顔を上げふたりに微笑みかけた。


「分かった……。何か動きがあるまで、待ってみる。取り乱してごめんなさい」

「いや、あんたが慌てるのも無理はねぇよ。……アジトに乗り込むって話になったら、この前の礼だ。俺も一緒に行かせてくれ」

「ああ、俺も行きます。あなた一匹じゃさすがに危ないですから。……ねぇ、さん。その手紙…あなたを突き放すために書いたんじゃないと思いますよ。あなたのことが心配だから、きっと強く――」

 フォウの言葉に、は頷きで答えた。どこかにいるはずの白猫を想い、瞳を閉じる。

「……うん、分かってる。いっつもこういう風に言うの、あいつは。それで私が諦めるわけないって知ってるはずなのに、何度も、同じことを――」

 手紙に視線を落とし、は口をつぐんだ。再び湧いてきた激情を静めるように、固く目をつぶる。そして目を開くと、は笑顔で告げた。

「だからね、諦められるわけないじゃない馬鹿!…って言ってやらないとね。……ごめんなさい、ふたりとも。何かあったら知らせるから、どうか力を貸して」







 が二階に上がった後、待合室に残ったアークとフォウは顔を見合わせ溜息をついた。
 念のためアークが宿に泊まり、の護衛につくことになった。ライがひょっこりと帰ってくれば、全て笑い話で終わらせられるのだが……。

「……しかし気丈だな。涙一つ見せなかった。不安で泣いたっておかしかないのに、あれだけ落ち着いてられるとは大した雌だ」

 階段を眺めたアークがぽつりと漏らす。フォウはその視線を追うと、緩く首を振った。

「そうかな……。たぶん違うよ。泣かないんじゃなくて、泣けないんだ。泣いたら不安に押し潰されるから。……彼女が泣けるのは、俺たちの前じゃないんだよ、きっと」







 自室に入ったはふらふらと寝台まで歩き、崩れるようにそこへ腰かけた。
 頭が重くて支えていられない。耐えかねて両手で抱えると、自分の尾が細かく震えていることに初めて気が付いた。
 金色のそれを引き寄せ、逆立った毛をそっと舐める。普段なら落ち着くはずの行為を繰り返しても、の心から暗い影が消えることはなかった。

 ――不安で、不安で、どうしようもない。
 
 アークとフォウの話を聞いて頭では理解できたが、心に圧し掛かった重みは消えない。訳もなく、嫌な予感が胸に湧いては消えていくのだ。それは確信に近かった。きっと、何事もなく済んではいないと――。


「ライ……」

 呼びかけても、答える声は勿論なく。部屋にぼんやりと残る彼の残り香だけがを慰め、また不安を増幅させる。

「……ライ……。……無事でいて………!」

 震える声で呟くと、は額の前で固く手を組み合わせた。









       Next      Top




(2008.11.14)