7、欲望の向かう先
あれから、二日月が過ぎた。まだライは帰ってこない。
焦燥と不安に駆られながらじりじりと時が過ぎるのを待っていたは、陽の月が町の端に沈むのを眺め、重い溜息をついた。
――また今日も、何の動きもなかった。
ライの言うところの二日月が過ぎたが、待てど暮らせど何の音沙汰もない。今日までは何とか行動を踏みとどまっていただったが、もう限界だ。明日になっても何も便りがなければ、森に入ってライを探そう。そう思った。
眠れない夜を過ごし、明け方にようやく浅い眠りが訪れた。だがそれも、不快な感覚によって無理やりに断ち切られた。
「……っ……」
息苦しさを感じては眉をひそめた。眠りに落ちた身体を引き上げるような、身の内から湧き上がる熱。そこから目を逸らすように、掛布を身体に巻きつける。
気付きたくない。このまま眠っていたい。そう思えば思うほど、身体の異変を鋭敏に感じ取ってしまう。何度か寝返りを打っても、再びの眠りはに訪れてくれなかった。
(……いや……)
この感覚の正体は分かりきっているのに、は頑なにそれを否定した。耳を押さえ、寝台の上で丸くなる。そうするうちに息が上がってきて、は泣きたくなった。
(いやだってば……!)
身体が火照ったように熱い。荒く息をすれば、そこには隠しきれない甘さが滲んでいた。頭が痛い。横になっているのに眩暈がしてきて、吐き気が込み上げる。
――発情期。考えるまでもない生理現象の訪れに、は頭を抱えた。
(ライが、いないのに……)
相手もいないのに、どうしてこの身体は思うようにならないのか。そんなことに惑わされている場合でないのに。
浅ましい己の身体の欲求に、は何度も唇を噛んだ。
「……喉かわいた……」
いつしか渇きを覚え、は這うように寝台から降りた。だるい身体を引きずって、入り口に備えられた水甕に口をつける。
乾いた身体を癒すように何度かその行為を繰り返し、はようやく人心地ついた。またずるずると寝台まで戻り、仰向けに転がる。瞼の上に片腕を乗せ、は大きく息を吐き出した。
「なんで、こんなもの……ッ」
望んでもいないのに、律儀にリズムを刻む身体が厭わしかった。普段ならばそれも仕方ないとつがいと笑って済ませられるのに、今この時ばかりはそうはいかなかった。
「……は……」
発情してもすぐ解消することに慣らされた身体は、いつものように満たされることを予感して雄を待ち望んでいる。早く来て、満たしてとの身体が叫んでいる。ライを乞うている。けれど、その願いを叶えることはできそうになかった。
乾いた唇を舐める。口寂しくて、自分の指を噛む。でもそんなことでは疼きは癒えず、はかぶりを振った。
こんな状態では、ライを探しに行くことなどできやしない。それ以前にこの部屋から出ることだってできない。こんな頬を染めた、発情していると丸分かりの顔で他の猫に会うことなどできない。
は固く目を瞑った。……他の猫に任せることはできないのだ。ならば、自分でどうにかするしかないではないか。
一抹の罪悪感を押し殺し、切羽詰まった身体が命じるままにはそろそろと自らの下着へと手を伸ばした。
「……っ、ん……」
薄い布を割って指がそこに触れた瞬間、鼻から抜けるような声が漏れた。思いのほかそれを大きく感じ、は唇を引き結んだ。
指先に纏わりつく、熱い粘液の感触。それは既に布地へと染み込んでいて、身体の浅ましさに頬が火照った。
「ふ……、っ……」
ぐ、と力を込めて花弁を割る。後ろから縦になぞり上げるとぞくぞくとした震えが走り、は尾を逆立てた。
身体に沿う服が邪魔で、下衣をためらいながら引き下げる。途中まで来ると頭の中で何かが吹っ切れ、乱暴にそれを爪先から脱ぎ落した。
横になり、再び手を脚の間に差し込む。ひやりとした外気と熱い自分の秘部との対比に眩暈がする。
「……あ……」
唇から掠れた吐息が漏れた。一応声を出すまいとしているのだが、喉から勝手に出て行くから止めることができない。
は両の手で喉元を押さえた。するとじわりとした刺激が肌に伝わり、予想外の感覚に耳を震わせる。布地の上から上半身を撫で下ろすと、今度は腹から直接手のひらを這わせた。
もう考える力など残っていなかった。本能のままに、身体が望む行為をの手は施していく。
指を下着に引っかけ、隙間から直に乳房に触れた。肌が粟立っている。包み込むように手のひらで覆うと、ツンと立ち上がった先端がその存在を主張した。
「ん…、ん……」
先端はもちろんのこと、乳房の下、皮膚の薄い部分もは弱い。指先で何度もなぞると、尾が根元から膨れ上がった。
ただ胸をいじっているだけで、快感が腰に溜まっていく。それでも波が急激に高まることはなく、は唇を噛んだ。
(足りない……)
もっと。もっと刺激が欲しい。直接ソコを触って、頭がおかしくなるほどの快楽が欲しい。この疼きを壊してほしい。
片手は乳房に残したまま、はもう一方の手を下腹部に伝わせた。茂みを撫で、そのまま亀裂に下ろそうとしてふと思いとどまる。は手のひらを膝に当てると、ゆっくりと内腿を撫でさすった。
「……ふ……、…は……っ」
膝に手をかけて。促されるように仰向けに寝転がる。伝わせた手は焦らすようにぎりぎりのラインを撫で、力が緩んだところでの膝を押し開く。そうしてやっと、潤みに触れてくれる。
「……ライ……」
意図せず、唇から彼の名が零れた。そのことにははっとして指を引っ込める。
今になって気付く。今までの手付きも、身体をなぞる順番も、その全てが――彼にされたことを再現しているということを。
は今度こそ赤面した。身体じゅうが、ライの指を覚えている。無意識のうちに痕跡を追ってしまうほどに強く濃く。残された感触は、的確にの快楽を引きずり出していく。
「……っ」
はぎり、と歯を噛みしめた。いくら痕跡を覚えていても、今ここにライはいない。思い出したって、本当に満たされることはないのに……!
じわりと視界が滲み、は慌てて頭を振った。どうせここまで来たら、やめることはできないのだ。は再び濡れた亀裂へと指を這わせた。
「……っ、ん…っ!」
ちゅく、と先程よりも数倍濡れた感触が、差し込んだ二本の指に伝わる。ぬめりを借りて花弁を割り、膨らんだ芽に滑らせた。そこに触れた瞬間、背筋を強い快感が走り抜けた。
「あ……、あ…っ、は……」
ゆっくりと、指を揃えて芽をこする。いい加減限界に近付いてきた身体はたやすく熱を生み、の喉を震わせる。
――ライは、の反応を楽しむように、時折指だけで焦らすことがある。
ゆっくりとなぞり上げ、眼下でが身悶えるのを獰猛な目で見つめている。その喉仏が緊張を孕んで上下する瞬間を、は霞む目で捉えるのが好きだった。彼の興奮を目の当たりにするのが。
「……ライ……、あ……、ライ…ッ」
膝に手を当てて、見せつけるように開く。が嫌だと言っても、口の端でうっすらと笑って。
の羞恥を煽るように大きく股を割り、そしてかがむ。体温の低い彼の、熱い舌……。
――お前はどこもかしこも熱すぎる。……火傷しそうだ。
耳を揺らす低い声。熱を孕み、冷静さの中に欲情が透けて見える。その声に包まれて抱かれる時の、興奮と充足感。
「ライ…っ、あ、ああっ、…ん……!」
いつしか身体を犯すのは、の指ではなくライの指になっていた。
ライが乗り移ったかのように強く手が動く。自分で自分を慰めているのではない。ライにされているのだと思えば思うほど、身体は熱く昂ぶっていく。
意識が白く混濁する。それに反して指の動きは激しさを増し、を追い詰める。
「あ……、あ…っ、……ああ…ッ!!」
幾度ともしれぬ摩擦のすえ、は短い悲鳴を上げて達した。
「……は…、……はぁっ……、は………」
深い虚脱感を覚え、は寝台に沈み込んだ。乱れる息を整えるよう、目を閉じ何度も荒く喘鳴する。
身体の中から不快なだるさと痛みが消えていくのが分かる。呼吸が落ち着いたを代わりに襲ったのは、激しい罪悪感と羞恥だった。
「…………」
大量の粘液にまみれた細い指は、ライのものではない。自分の指以外の何物でもなかったのに……それを認めるのは、理性が許さなかった。
「……は……、はは……」
口から乾いた笑いが零れる。乱暴に指を拭い、は髪をかきむしった。
自分が汚れた存在になった気がするだけでなく、ライのことまで穢してしまったように思う。あの誇り高い白猫を、欲望の代償にしてしまった。
「はは……、は……。――ッ!!」
ぎり、と敷布を掴み、は起き上った。側にあった枕を、壁に向かって思い切り投げつける。
「……馬鹿!! ……抱いてよ……ッ!」
身体の不調は去った。だが深い喪失感は消えることなく、の心に暗い影を落とし続けた。
の悲鳴と時を前後して、環那から数時間の距離にある森の寂れた小屋で、白猫がゆっくりと目を覚ました。
「…………」
白猫――ライは、壁にもたれて座り込んだ姿勢のまま、胡乱に目を開けた。視界に移るのは黄昏に染まる天井窓と、出口へと続くはずの固く閉ざされた扉のみ。殴られて、どうやらそのまま気絶していたらしい。
のタグと『賛牙を捕らえた』との短い文を受け取り、反射的に環那を飛び出したのが三日月前。あてどなく森を彷徨い、夜盗の根城を発見したのがその翌日だった。
罠かもしれないという予感は常にあった。だがの消息を掴むこともできず、罠ではないという予感も同じだけあった。
もしもここで機を窺っていたら、の身が危険に晒されるかもしれない。それだけを案じて、ライはアジトへの突入を試みた。……そして罠にかかった。
はアジトのどこにもおらず、また捕らえられた形跡もなかった。
こちらが闘牙といえど、根城までおびき出して集団で待ち伏せていれば、捕らえるのはそう難しいことではない。事実、ライも奮闘はしたが最後は何かおかしな薬を無理やり嗅がされ、気付いた時には頑丈な手錠をはめられて床の上に転がされていた。それからは、殴打の嵐だった。
「……馬鹿だな……」
血の味のする唾液を吐き出すと、ライはくっくっと笑った。腫れた頬が引き攣るが、今更そんなことはどうでもいい。
さぞかし奴らには、滑稽なザマに映っただろう。間抜けにも装飾具一つでおびき出された、雌猫に溺れた哀れな雄。そう見えただろう。
その認識は間違っていない。間違っていないが、ライはこれで良かったと思っていた。少なくともは今、捕らえられていない。その事実はライを確かに安堵させた。
あとはがあの走り書きを読んで自分のことを諦めてくれれば、それでいい。藍閃あたりに助けを呼びに行ってもいいが、間違っても一匹で来るような馬鹿な真似だけはするなと言ってやりたい。ましてこんな発情の季節に。
「……絶対に来るなよ……」
心の底からそう思っている。だがそれと同時に、は来るかもしれないと予感する気持ちがあるのもまた事実だった。その予感を振り切るようにライは視覚を遮断すると、身体を丸めて束の間の眠りに入った。
「――なぁ、ボス……。アイツもう用済みなんだろ? さっさと殺すか売っ払うかしちまおうぜ」
「じゃなかったら俺らにくれよ。俺、発情期早く来て……たまってんだよ」
ライが瞳を閉じた頃、その隣室で下卑た笑い声が湧き上がった。
雄たちの中心にいるのは、顔に傷が走る年かさの猫だ。雄猫は一味の猫たちを見渡し、鷹揚に笑った。
「冗談じゃねぇ。俺は雄同士なんざ声が聞こえるのも嫌なんだよ。……若い奴らには分からんだろうが、悲鳴は雌の高い声に限る。白猫を殴るのはいいが、殺すなよ」
ハマキを咥えながら告げられた言葉に、一同から不服の声が上がる。雄猫は仕方ないとばかりに灰を落とすと、ニィと暗く笑んだ。
「……まぁ、ちょっと待ってろって。もう少しで極上の雌を招待してやるよ――」
その日の夕方、の部屋の静寂は大きなノックの音によって破られた。
「――おい、来たぞ! 奴らからの招待状だ」
「!」
扉を押し開けると、アークが幾分か興奮した様子で紙きれを突き出した。
「下に行ったら、さっき届けられたみたいでな。……悪い、持ってきた奴の顔は確認できなかったんだが。……なんて書いてある?」
「ちょっと待って……」
勢いよく紙を受け取ったは、もつれる指で紙面を開いた。黄ばんだ紙に書かれた、汚い文字。それを追い、の顔が怒気に染まる。
――親愛なる賛牙殿へ
君のつがいは我々が預かっている。君が大人しく同行してくれるのなら、彼を無事解放すると約束しよう。
君が来なければ、彼の顔を見ることは二度と叶わないと思ってほしい。どちらを選ぶかは君次第だ。
快く誘いに応じてくれるならば、以下の場所まで来られたし。金色の歌姫との邂逅を楽しみにしている。
「ふざけてるわ……。どっちにしたってどうせ無事で済ませやしないくせに…!」
は吐き捨てると、手紙を乱暴に丸めた。身を翻し、寝台に立てかけてあった剣を掴む。
「行くのか」
「ええ。もうこれ以上は待てないと思ってたし」
装備を整えるに、アークが気遣わしげな視線を向ける。「なに?」と目で問うと、アークはわずかに視線を逸らして口を開いた。
「あんた、大丈夫なのか。……発情期」
「平気よ。心配ないわ。……あなたは?」
「……俺もフォウも問題ない」
の目に浮かぶ暗い色に気付いたのか、アークがわずかに息を詰める。だがそれ以上追及することもなく、彼はその話題を終わらせてくれた。……いい猫だ。
「ちょっと待ってろ。フォウを呼んでくる。大して強くもないが、いないよりはマシだろう」
「そんなことないわ。二匹も来てくれるなんて心強い」
準備を整えたはアークの言葉にかぶりを振った。いったん部屋を出て行こうとしたアークが、ふと振り返り問いかける。
「あんたが望むなら、今日だけはあんたの闘牙として闘うが……歌うか?」
その言葉には目を見開いた。
先日の戦闘で結果としてアークにも力が送られたのを見る限り、相性は悪くないようだ。コツも掴めているし、決して歌えないことはない。だけど――
「……ごめんなさい。私、歌えない……。私の歌は、ライだけのもの。状況にもよるけど、歌を歌うのはあいつのために取っておきたいの。我がまま言って悪いんだけど」
「いや、いいさ。気にするな、思いついただけだから。それにしても――」
アークは浅黒い精悍な顔に、晴れやかな笑みを浮かべた。
「こんだけ想われてんのに、なんであんたのつがいはいっつも不機嫌そうなんだろうな。闘牙冥利に尽きるってもんだろう」
「……まったくだわ」
アークの声に、は肩をすくめて苦笑で答えた。
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(2008.11.21)
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