8、生きる場所





 深い深い森の中、月明かりだけを頼りに三つの影が駆けていく。
 とアークとフォウの三匹は、届けられた文に記された小屋を目指し、立ち止まることなく足を進めていた。



「――待て」

 環那から二時間ほど走ったところで、アークがぴたりと足を止めた。片手で後続のとフォウを制し、耳をそよがせる。

「この先に気配がある。……近いな」

 アークは瞳孔を引き絞ると、二匹に向かって鋭い表情で告げた。

「待ち伏せてる?」

「ああ……四、五匹ってとこか。ここで闘っとけば、たぶん小屋までは声も届かない。気付かれずに近付けるな」

 アジトまではあと数分の距離のはずだ。目を凝らすと、おぼろに猫たちの影が見えるような気がする。は暗闇を睨んで頷いた。

「そう。……じゃあぎりぎりまで近寄って、不意打ちするのがいいわね」

さん、結構過激ですね……」

 の提案にフォウが何とも言えない笑みを浮かべる。
 三匹はそれぞれ鞘から剣を引き抜いた。すると、アークがにちらりと視線を向けてきた。

「あんた、腕は立つのか」

 唐突な問いかけには一瞬目を丸くし、次いで口の端で笑んだ。

 ライの安否はまだ分からないし、心細さが消えた訳でもない。……でも、ひとりではない。
 仲間がいて……そしてきっと、ライが待っている。いや待っていなくても、絶対に助けてみせる。その決意がに勇気を与えた。


「私はあいつのつがいよ? そうね……闘牙に間違えられるぐらいには強いって、自負してるわ」





 音を立てぬよう草を踏みしめ、一歩、二歩と進む。次第に呑気な様子で酒などあおっている猫の集団が、はっきりと視認できるようになってきた。
 焦らず、さらに距離を縮めていく。これ以上進んだら見つかるという場所まで来た三匹は、無言で視線を交わした。――今だ!


「――げっ! ……来たぞ!!」

 木の影から飛び出した次の瞬間。こちらを向いていた猫が侵入者にいち早く気付き、立ち上がった。
 意外と察しの良い猫だったようだ。だが襲いかかる三匹は勢いに任せ、次々に剣を振りかぶった。

「ぐ…っ! 雌一匹じゃねえのか!?」

「招待状がなきゃ来ちゃいけなかったかい?」

「おっと……逃げんなよ。小屋まで走ってる間に、背中を射抜かれても知らねぇぞ?」

 一応奇襲に備えてはいたのだろう。立ち上がった猫たちが、すぐに武器を構えたちの剣を受け止める。だが勢いに勝るこちらの動きに押され、見張りたちは容易に体勢を崩していった。フォウとアークが軽い揶揄を送る。
 陣形をさらに突き崩すべく、は一匹の雄猫を森の奥へと追い詰めていった。



「なんなんだ、てめぇら…!」

 暗闇に雄猫の罵声が轟いた。
 アークとフォウは、合わせて三匹の夜盗を引きつけてくれた。の前には今、そこそこに慣れた手つきで剣を構える年若い雄がいた。

「なんだも何も……分かってたんじゃないの?」

「へ――。…っ! お前……!」

 奇襲に動揺した雄猫が、フードの下の顔に気付く。次の瞬間、雄猫はあからさまな安堵の表情を浮かべた。

「は、は……なんだ、金色の歌姫サマかよ。……あんたとは闘う必要ないぜ。捕らえて連れてくるようにって言われてるからな。ほら、こっち――」

「小屋に伝えに行くのはやめてくれない? 奇襲の意味がなくなっちゃうでしょ」

 まるきり闘う意思のない雄猫の言葉に、は呆れた口調で返した。雄猫が眉をひそめ、の顔を窺い見る。

「なんだと…? 雌のあんたが奇襲? ずいぶん面白いこと考え――、ッ!?」

 揶揄するように片眉を吊り上げた雄猫は、その表情のまま頬を強張らせた。ヒュッと空を切る音の後に、たらりと頬に赤い雫が垂れたのだ。
 雄猫は何が起こったのか分からないという顔をしていたが、が短剣を投げつけたのだと気付くと途端に怒気を閃かせた。


「な――てめぇ! 雌だと思って優しく言ってやりゃあ、つけ上がりやがって!!」

「あんたの発言のどこが優しかったの? それに私、つけ上がったかしら?」

「何…!?」

 安い挑発に、雄猫は顔をまだらに染めた。構えていた剣を振りかぶり、こちらに踏み込んでくる。は余裕のある動きでそれを避けると、ひらりと身を翻し逆手に持った剣の柄を雄の背に叩き込んだ。

「うがっ!」

 雄猫は二、三歩たたらを踏みを振り返った。これで倒れないあたり、そこそこに打たれ強い猫のようだ。

「このアマ…!」

 再び剣を振りかぶった雄が、に向かって突進してくる。まともに受ければおそらく自分の腕が痺れる。は後ろに飛びのき、そのまま小屋とは逆の方向に向かって駆け出した。雄猫が追ってくる。



「へへ……、駆けっこは俺の方が速いみたいだぜ?」

「……っ! きゃあ!」

 はすぐに追いつかれた。大きく振っていたのが仇になったか、剣を持った手首を取られて悲鳴を上げる。

「おら抵抗すんなよ! こっち来い!」

「いやっ! 放して…! ――なんて言うわけないでしょ、馬鹿!!」

 しおらしい悲鳴を上げたは次の瞬間、踵を軸にして身体を回し、素早く太股のホルダーから短剣を引き抜いた。その勢いのまま雄猫の太股を突き刺す。

「……ふぐおッ!!!?」

 鮮血が上がり、雄猫が絶叫を上げて後退する。短剣を引き抜くと、は華麗なフォームで雄猫の顎に強烈な蹴りを喰らわせた。


 切実な悲鳴も、剣を握った手を掴まれたのも、走っていて追いつかれたのも――その全てがフェイクだ。そんなことはしないだろうとこちらを侮った雄猫が、勝手に落ちてくれた簡単な罠。


「歌って守られるだけの賛牙だと思った? 甘く見ないでよね。……あと、その足。骨は折ってないからすぐに治るけど、今すぐ動いたら出血で死ぬわよ。大人しくしてなさいね」

 最後の一撃で吹っ飛んだ雄猫は、仰向けにのびたまま返事もしなかった。聞こえているのか聞こえていないのか分からないが、よろよろと右手が上がったのでとりあえず生きてはいるようだ。

 は一つ頷くと、非情にも身を翻し元来た道へと戻っていった。――その直後。



「――ッ!!?」

 横から何者かに飛びかかられ、は地面へと引き倒された。
 ざらりとした感触とともに腕に熱い痛みが走る。……傷を負った。だがそんなことに構う間もなく、は無理やり身体を起こした。

「……随分と舐めたマネしてくれるな、あんた」

 暗闇に立ちはだかっていたのは……先ほどアークが引き付けてくれた二匹の猫のうちの、一匹だった。顔の片側を腫らした猫が、を爛々とした目付きで見下ろす。アークとの戦闘から逃れて自分を追ってきたのだろうか。


 雄猫は静かな動作で厚みのある短剣を構えた。も剣に手をかけようとして、はっと気付く。
 の剣は先ほど倒された時に鞘から抜け、雄猫の足元へと転がってしまっていた。しかも握っていた短剣も取り落としている。

「……ッ」

 は数歩先の短剣に手を伸ばした。だがそれよりも早く動いた雄猫の足が、剣を蹴り飛ばしてしまう。勢いづいた爪先がそのままの手を思いきり蹴った。

「うぁっ!!」

「……見くびってて悪かったよ。ハンデはいらなかったな」

 手首を容赦なく蹴られ、は苦痛に呻いた。雄猫は冷淡な目でを見下ろしている。
 先程の雄が見せたような揶揄する表情は全くない。鋭い殺気が突き刺さり、はごくりと生唾を呑み込んだ。

「さて……金色の歌姫さんよ。武器はもうないな。……降伏してくれるか?」

「誰が…!」

 手首を押さえ、はゆらりと立ち上がった。……剣は全て遠ざけられた。だが、武器が全てなくなった訳ではない。まだこの身体が残っている。
 の眼光に、雄猫は不思議そうに目を眇めた。

「なぁ……あんた、雌ってだけでも狙われるのに、賞金稼ぎなんざ余計に悪目立ちするぜ。分かってんだろ? ……悪いこた言わねぇから、ここらで諦めたらどうだ」

「……?」

 突然の忠告には怪訝な視線を向けた。雄猫が呆れたように溜息をつく。

「どうしてそんなに嫌がるかねぇ。別に殺されるってわけでもなし、あんたぐらいの器量なら藍閃の上層部に気に入られて誰より豪勢な生活を送れるぜ? 俺ら雄にとっては夢のような暮らしだ」

「…………」

 は静かに雄猫を睨んだ。……そんなものが欲しいと思われているのか。そんなもの――


「……冗談じゃない。そんなのいらないわ。私は今の生活が一番気に入ってるの」

「へぇ。いつ襲われるかもしれなくてもか。俺たちでなくとも、多分あんたこの先も狙われるぜ?」

「それでもよ。アンタの言う『生活』には、自由がない。何より隣にあいつがいない。そんな生き方は今更望んじゃいないのよ。……いいわ、何度だって狙えば。私とあいつで返り討ちにしてやるから」

 は毅然と顔を上げ、言いきった。瞳に力を込め、雄猫を強く睨む。

「アンタ達に降伏なんて絶対しない。私はあいつのところまで行くのよ…!」



 ――立ちはだかる敵は、全て倒す。そうしなければライにたどり着けないのならば、何匹の猫と闘ってもいい。ただ、ライに会いたいから。


 の中のしがらみがほどけていく。闘い方で口論したことも、羞恥をこらえて発情期をやり過ごしたことも、ライの優しい拒絶さえも、強い願いの前で白く霞んでいく。

 シンプルな欲望。闘うのは――あの猫の側に行きたいと、側で生きたいと願うからだ。



 は拳を握ると、低く構えをとった。まずは自分の剣を取り戻して体勢を立て直そう。多少の傷など今さら気にするものか。

「可愛い顔に傷がついても知らんぞ…!」

「あいつに会えないよりはマシよ! ――っらああああッッ!!」

 短く叫び、雌猫は真正面から敵の懐へ飛び込んだ。










 その頃、森の騒ぎなど届かない小屋の一室では、白い髪の猫が無言で頭を垂れていた。
 雄猫は目を閉じ、生きているか死んでいるのかも分からない。しかし繋がれた手首の先で指がわずかに震え、白猫…ライは、ゆっくりと薄青の目を開いた。

「…………夜か……」

 いつの間にかまた眠っていたらしい。天窓から見える闇夜には、既に金色の月が輝いていた。
 吊るされた両手の先がかじかんでいる。どうやら外気はかなり冷えてきているようだ。天井から視線を足元に戻し、ライは大きく溜息をついた。


 ――早く、が諦めればいい。
 馬鹿なつがいのことを忘れる…のはあいつの性格からいって無理かもしれないが、どこか安全な場所に落ち着いていてくれればいい。藍閃の宿でも、仕方ないから環那のあの雄たちのところでもいい。……どこでもいい。あいつが無事ならば、それで。

 諦めのような願いを抱き、ライは再び天窓を見上げた。そして目を疑った。

 
 突如として視界が陰った。――否、三角の形をした何かが月の光を遮った。
 月光を背に負った影は徐々に大きくなり、金糸が窓から垂れた。それが何なのか悟った瞬間に、目の前に音もなく一匹の猫が降り立った。

「――ライ!」





 ――なんの幻覚を見ているのかと思った。とうとう幻聴が聞こえたのかと思った。
 そんな……こんな場所に来るはずがない、その姿。

 ライの眼前に丸まって落ちた影は、金の頭をゆっくりと上げた。血に汚れた頬の上の碧眼が自分を映し、そして歪む。次の瞬間ライの頭は温かい何かに包み込まれ、鼻腔を慣れ親しんだ匂いが満たした。

「ライ……、ライ…ッ! 良かった……、無事で…っ」

 強い腕の力、相反する血の臭い。そんなもので我に返り、ライは目を見開いた。そして乾ききった唇で、その猫の名を呼ぶ。

「…………」

 水が満ちるように、雌猫は血に濡れた頬で……溶けるように笑った。



「お前……」

 茫然自失の時間は、すぐに去った。
 はやってきた。その身に傷を負ってなお――自分の元へと。

 血濡れた頬から視線を滑らせると、雌猫の惨状がライの胸を打った。
 地面で擦ったのか、衣服の端々が擦り切れ白い生肌が覗いている。軽く斬りつけられたと思しき頬の傷は、まだ微量に出血しているようだ。そして頭を抱きしめた腕に巻きつけられた、鮮血の滲む包帯。

 その全てがここにたどり着くまでに雌猫がくぐり抜けた光景をまざまざと連想させ、ライは知らず牙を剥いていた。


「――この、阿呆猫!! なぜひとりでノコノコやって来た!? あれほど来るなと、俺がどれだけ……!」

 今置かれている状況も忘れ、気付けばライは怒鳴っていた。が目を見開き、「しっ」と指を立てる。
 扉を窺い、奥にいる猫たちが踏み込んでこないのを確認するとはライに向きなおった。そしてライの襟首を掴み、強く引き寄せる。

「来るに決まってるじゃない…!!」

 はずみで仰け反ったライに、は短く叫んだ。射殺しそうな目で睨み、押し殺した声で怒鳴る。

「アンタね……っ、アンタこそ馬鹿猫よ! あんな手紙もらって、私がハイそうですかって引くと思ったの!?」

「なに…?」

 の剣幕にライは目を見開いた。厳しい眼差しを少し和らげ、がツンと顎を反らす。

「言っとくけどね、ひとりじゃないわよ。ちゃんとアークたちに頼んで来てもらってるもの!」

「な――、屁理屈をこねるな…! お前は馬鹿か? なぜ俺の言葉が伝わらん。そうやって怪我を負ったりするのが予測できたから、来るなと言ったんだろうが!」

「大声出さないでよ…! 気付かれちゃうでしょ」

 再びライを制し、は扉に目をやった。ライもはっと我に返り、口をつぐむ。
 隣室に続く扉は、やはり開かれる気配はない。だが口論を続けている時間もないと理解したのか、はライの手錠に手をかけた。ガチャガチャと音を鳴らし、小さく舌を打つ。


「……なによ、これ……。こんなのでずっと繋がれてたの?」

「……鍵はあそこだ」

 自分からは届かない位置に置かれた鍵をライが顎で示すと、はそれを手に再び枷に手をかけた。頭上で鳴る金属音をライは無言で聞く。



 ――なぜ、が来たことにこれほど腹が立っているのか。

 危険を冒してまで駆け付けた危機意識の薄さに怒っているのか、捨て置けと言ったのに聞き入れなかったことに腹が立っているのか。

 ……違う。が来ることをどこかで予感し、実際にその通りになって……の危険を分かっていながらも、小さな喜びを感じてしまった自分に腹が立つのだ。
 傷付いてまでも、が自分の元にやって来たことに……奇妙な安堵を覚えているのが。



「解けたわ。……絶対許せないわね」

「!」

 自問を繰り返していたライは、の声に目を見開いた。ふ、と両手が浮遊し身体の横にばたりと落ちる。
 血の気のないそれをなんとか動かそうと力を込めると、他猫のもののようだった手がライの意思どおりにゆっくりと動いた。そのことに多少安堵してを見上げると、こちらをじっと見下ろしていた雌猫と視線がかち合った。

 闇の中、わずかな光を反射した碧眼が、無心にライを見つめている。は一瞬眉を引き絞ると、ライの左胸に手を当て呻くように漏らした。


「来るに、決まってるじゃない……。私、言ったのに……アンタの側で生きるって決めたときから、傷付くことは恐れないって。アンタを守るためなら、いくらだって闘う。逃げない。どこまでも助けに行く。どうしてそれが分からないの…?」

 泣きそうな顔をした猫の、苦しい囁き。それがこの猫の心からの訴えなのだと、ライは無意識のうちに理解した。その言葉に応じるべく、いがむ喉で答えを紡ぐ。

「……夜盗からの文が罠だったらと推測して、もし俺が捕まったり殺されたりするようなことがあれば……次の狙いはお前だと思った。お前がここに来れば、今度こそ捕らえられる。だから、拒んだ。絶対に来るべきではないと思った」

「…………」

 率直な理由を述べると、は考え込むように目を伏せた。しばらくして首を振り、ライを見据える。

「私のこと、心配してくれたのよね。それ自体は嬉しいけど……ねぇライ、アンタは私が捕まったかもしれないって聞いた時、どう思った…?」

「……?」

 唐突な問いかけにライは眉をひそめた。小首を傾げたは、答えを待つようにこちらをじっと見つめてくる。
 そんなもの……答えるまでもない。ライがついと視線を逸らすと、は大きく頷いた。

「アンタは罠かもしれないって分かってたのに、私のために飛んで来てくれたわね。私も、ここに来れば夜盗がいるって分かってたけど……来ずにはいられなかった。おんなじことよ」

「…………。なぜだ」

 無謀とも言える行動の意図が分からず、気付けばそう問いかけていた。が目を見開く。
 罠かもしれないと思いながら駆けてきた自分。待ち伏せを知っていても飛び込んできた。それは――

「……アンタが大切だからに、決まってるでしょ…?」

 くしゃりと笑った雌猫の声が、ライの耳を揺らした。


「私は私の望む場所に行く。したいことをする。アンタが嫌だって言っても聞かないわ。だって私……もう生きたい場所を決めてしまったから」







 暗い部屋の木戸が、ギシリと軋んだ。が部屋の隅に置かれた剣を素早く掴み、ライに渡す。
 金の髪が鼻先をかすめ、細い背がライを守るように立ちはだかった。

『なんかぼそぼそ声が――』

 隣室からランプの灯りが漏れる。雌猫をそっと後ろに押しやり、ライは静かに剣を構えた。



 手に馴染む唯一無二の剣。つがいの魂が込められたそれは、ただ一匹の猫を守るために存在する。

「……すまなかった」

 空気に溶けるほどの小さな声に雌猫が頷いたのを、目の端で捉えた。そして、扉は開かれた。










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(2008.12.7)