9、揺るがぬもの





「な――。賛牙か…!?」

「何…!? いつ入り込んだんだよ! ――ぐふっ!」

 扉が開いた直後、部屋を覗きこんだ夜盗たちは驚愕の表情を張りつけたまま動きを止めた。……否、止めざるを得なかった。
 音もなく動いた白猫が、雄たちの腹を柄で打ったのだ。短く呻いた猫たちは、そのまま泡を吹いて昏倒する。隣室にいた他の猫たちが一斉に色めき立った。


「ヒッ……、つがいが揃った…!」

「馬鹿、どこ行くんだてめぇ! ボスに殺されっぞ!」

「だって『白銀のライ』だぜ!? しかも賛牙付きじゃ、俺らに勝ち目なんかねぇだろうが!」

 部屋の隅に寄った夜盗たちが、驚愕と恐怖をその顔に浮かべる。……見たところこの部屋にあのボス猫はいないようだ。他の部屋だろうか。それとも外に出ているのか。は剣呑な視線をざっと巡らせた。


「……首領はどこだ。おとなしく告げるなら、貴様らのことは深追いしない」

「……っ」

 冷たく響いた白猫の声に、夜盗たちは息を呑んだ。が窺い見ると、ライは凍えるような眼差しで敵を見つめている。
 睨んでいるのではない。ただ「見ている」だけでこの猫はこれほどの威圧を与えられるのだと、は改めて感心した。そしてこらえきれずにクックッと笑う。

「…!?」

 場にそぐわぬの失笑に、夜盗たちは大仰に反応した。恐怖を張りつけた眼差しでの方を窺い、そしてうろたえたように目を背ける。
 場の空気に負けてしまえば、こんなことでも怖いと思えるのか。はどこか意地悪くそう考えると、ことさら冷酷に見えるように唇を吊り上げた。

「………死にたいのね。でも、一瞬で楽になんてなれないわよ…?」

「…!!」

 頬を血に染めた雌猫が発した、艶のある冷たい声に雄たちは竦み上がった。
 ライが一瞬だけかすかな視線を送ってくる。きっと「この阿呆猫」とでも思っているのだろう。……思えばいい。は内心で薄く笑んだ。

 不思議な気分だった。ライに再び無事会えた。その事実だけで、身体の底から力が湧いてくるようだ。無敵とすら思える。
 雄猫たちは尾を逆立て、じりじりと外へ続く扉に向かい後退していった。だがその退路は、予想外の相手によって断ち切られた。


「てめぇら……何してる。随分と腑抜けた事態になってるなぁ…? そいつらに殺られる前に、俺が殺してやろうか」

「…ッ!」


 ギィと扉の軋む音に続いて、低くしゃがれた声が室内に響いた。暗い戸外からやってきたのは夜盗たちが最も頼りにし、しかし今は最も会いたくなかったであろう猫だった。
 顔に傷の走る雄猫は青白い顔の若い猫を連れ、歪んだ笑みで同胞たちを見やった。

「てめぇらに期待なんざしちゃいなかったが……これは想像以上だな。さて、どうするかと思ったが……考えが変わった。やっぱりつがいが揃ってるところを叩きのめしてこその、戦闘だよな。愉しませてくれそうだ」

 にぃ、と笑った雄猫がとライを舐めるように見つめる。直後、雄猫は高揚した今の言葉が嘘だったかのように低くドスの効いた声で吐き捨てた。

「てめぇら、俺の機嫌がいいうちにとっとと去りな。俺のお愉しみを邪魔しやがったら……今度こそ殺すぜ」



 雄猫の声に、狭い室内にいた夜盗たちが一斉に総毛立った。それを肌で感じたもまた、暗い気迫の籠った声に尾を少し逆立てた。
 夜盗たちが、雄猫が入ってきた扉から慌てて出ていく。あっという間に室内に残ったのはとライと雄猫と、そして雄猫が連れてきた青白い顔をした猫の四匹だけになってしまった。雄猫が改めてこちらを向き、顔を歪ませる。

「残念だったな。そこのお嬢さんが大人しく来てくれたなら、お前の目の前で犯してやろうと思ってたんだが。輪姦されるお嬢さんの悲鳴を聞いて、お前がどんな顔をするかと考えると……興奮で夜も眠れなかったぜ」

「……下衆が」

 にたりと笑った雄猫に向かい、ライは間髪入れず吐き捨てた。雄猫は後ろに佇む猫を振り返り、鷹揚に頷く。

「さて……計画が破れたのは腹立たしいが、お前ともう一度やり合う機会ができたからまぁ良しとしよう。……こいつが俺の賛牙だ。これでおあいこだろう? ――殺り合おうぜ」


 暗く重い声音に、ライがジャキ、と剣の鞘を揺らした。予想はしていたが……向こうもつがいか。はライの肩越しに、雄猫の「賛牙」を注意深く観察した。

 細身の猫は、雄猫が闘いを宣告しても表情一つ変えなかった。元々白い肌がさらに病的に見えるのは、その精気のなさゆえか。
 この猫、どこか悪いのではないか――が眉をひそめると、視線に気付いた賛牙がの方をぼんやりと見た。

「……っ」

 賛牙同士の勘、とでも言うべきか。……その心情が分かったような気がして、は息を呑み込んだ。


 ――どうでもいい。誰に使われるのも、誰と闘うのも、何もかも。


 覇気のない眼差しから、雄猫の諦観が透けて見えるようだった。
 おそらく、だが……どこかから(もしかしたら藍閃から)連れてこられて歌うことを強制されているのかもしれない。は咄嗟にそう思った。

 賛牙と雄猫の間には絆めいたものは全く見えない。命じる者と命じられる者。はっきりとした主従関係だけが、二匹をかろうじて繋いでいるように見えた。
 賛牙は己を縛るものに従いこそすれ、抵抗したり反発を抱いたりする素振りは全く見せない。ああ、その意思すらも奪い取られてしまったのかと――は雄猫を哀れに思った。

 だが同情は必要ない。鎖で繋がれている訳でもないし、本気で抵抗すれば賛牙はきっとボス猫から逃げ出すことだってできたはずなのだ。そうしなかったのは、きっと強者におもねる方が生きるのが楽だからだ。にとっては唾棄すべき選択だが、それはある種の真実だった。

 ここで捕らえられば、あれがそのまま未来の自分の姿になるかもしれない。が唇を引き結ぶと、ライがふと振り返った。「歌えるか」と視線で問われ、強くは頷く。


 この前この猫と対峙した時は、迷いがあった。ライにとって大事なのは戦闘を効率よく終わらせることで、そのためだけに歌を必要としているのではないか、と。
 そんなことはないと今まで共に過ごしてきて分かっていたはずなのに、別の猫同士である以上、時折こうした迷いは生じてしまう。些細な意見の行き違いが綻びを生み、結果として歌を濁らせてしまった。

 だが、違うのだ。……意見の違いがあってもいい。ライはライが良いと思うことを伝えてくれればいい。それに自分が従うかはまた別の話だが、これだけは信じられることがある。

 ライが必要なのは、賛牙の歌ではなく――自分の歌なのだ。もっと言ってしまえば、賛牙ではなく自分を必要としてくれているのだと、自惚れでなく思う。
 だってそうでなければ、この冷静な猫があんなに取り乱すことなんてそうそうあるとは思えない。



「外に出ようや。こんな狭い部屋じゃ自由に動き回れねぇだろう? たっぷりと……浴びさせてくれよ、お前の血飛沫を。お望みなら俺が浴びさせてやってもいいぜ。俺に勝てたらな。……それが望みなんだろ?」

 陶酔したように告げた雄猫が、爛々と光る目でライを見つめた。ライはただ黙って雄猫を睨みつけている。賛牙を引き連れて扉をくぐろうとした雄猫に、は背後から冷たく声をかけた。


「――勝手に決めないでくれる? あんたが私のつがいの何を知ってるって言うのよ」

「……何?」

「おい。お前……」

 の一声に、雄猫がゆっくりと振り返った。ライが眉を寄せて袖を引くが、雄猫をキッと睨みつけるとは言葉を続けた。

「こないだも思ったけど、あんたが想像してるライと今のライは、同じじゃないわよ。分かったようなこと言わないで。……これ以上こいつを貶めるなら、先にその口を塞いであげましょうか」

 のはっきりとした挑発に、雄猫は面白そうに口を吊り上げた。隣でライが呆れた溜息を吐く。
 ……ごめん。でも、言わずにいられなかった。

「……阿呆猫」

 の心情を汲み取ったかのように、ライはくしゃりとの髪を一撫でするとその袖を放して歩きはじめた。一瞬を見つめた眼差しは、思いのほか穏やかだった。


「威勢のいいお嬢さんだ。もしも君のつがいが負けたら……その声、喘ぎに変えてやろう。せいぜい可愛く鳴いてみせるんだな」

「……変態ジジイ」

 こんな猫たちに、負けるわけがない。は心の中で思いきり雄猫を罵倒すると、ライに続いて小屋の扉をくぐった。

 




 外気は、しんと冷え切っていた。月がだいぶ傾いている。あと数時間もすれば夜明けだろうが、森の中はいまだ暗闇に閉ざされていた。
 手下の夜盗たちは完全にどこかへ行方をくらませたようだ。あとはアークとフォウが無事でいてくれればいいが……とりあえずは目前の戦闘に集中しようとは気持ちを切り替えた。

 の前方には白銀の髪をたなびかせた、頼もしいつがいの姿がある。
 は深く息を吸うと、ゆっくりと歌を紡ぎ始めた。今日はなにものに遮られることもなく身体の底から歌が生まれ、まっすぐに雄猫へと向かっていく。



 ――歌いたい。この歌は、彼のためだけに紡がれる。

 守りたい。闘うのは、いつまでも共に在りたいからだ。

 側にいたい。そう願うのは――彼が誰よりも、愛おしいと感じるから。



 揺らめく朱色が、つがいの身体へ落ちていく。その美しさに敵の雄猫が感嘆の声を漏らした。

「いい歌だ。藍閃の賛牙長などにくれてやるのは勿体ないな。……俺が、貰う」

「寝言は寝て言え」

 刀身を赤く染め、ライが静かに剣を構える。その向こうではあちらの賛牙が紡いだ灰色の光が雄猫に届き、鉈のような剣を不気味に光らせた。

「さて、じゃあ行くか…!!」

 雄猫が歯を剥き出して笑った。それを合図に、二匹の闘牙は激突した。




 
 白刃と銀の髪が、闇を切り裂いて舞うように閃く。ライの動きを、は驚くほど落ち着いた気持ちで眺めていた。
 もちろん高揚はある。ライの鼓動に自分のそれが重なり、歌うごとに身体が昂ぶっていく反面、少しずつ消耗が身体を蝕み始める。

 だが……この全て澄み渡ったような感覚は何だろう。は歌いながら、ライと今、確かに通じ合っていることを心の底から感じていた。


 木立を踏み台にして、ライが頭上から一撃を仕掛ける。だが相手の雄も負けていない。
 淀んだ灰色の光は雄猫の眼をさらに凶暴に光らせ、体力の温存などこれっぽっちも考えてもいないような、がむしゃらな攻撃をライに向かって放つ。


 ――危ない!

 ――分かっている。こんな分かりやすい剣筋に引っ掛かるか。

 ――でも、すぐ次の手が来るわ。

 ――ああ。……頼むぞ。


 声など互いに交わし合う余裕はない。視線すら、交わることがない。だが闘いに隆起するその背から、ははっきりとつがいの思考を感じ取った。
 息を重ね、鼓動を重ね、想いを重ねる。目的はただ一つ。今はこの猫を――倒す!







「随分…やるじゃねぇか……。こないだの腑抜けた様子は目くらましだったか。一本取られたな」

「別に……何も変わってなどいない。貴様の体力がないだけじゃないのか。老体は帰って寝てろ」

「くくっ……ジジイ呼ばわりされるなんざ、俺もヤキが回ってきたな……」


 どれほどの時間が経ったのか。荒く息をついた雄猫が、小休止とばかりにうっすらと笑んだ。
 ライは冷たく返したが、その端正な顔にはじわりと汗が滲んできている。見ると雄猫も向こうの賛牙もいつしか息を荒げ、額に汗を浮かべていた。無論の消耗も進み、顎から汗が滴り落ちた。

 ――もう何度、剣を交わし合ったのだろう。剣戟の音が耳から離れなくなるほど、長い時間が経ったように思う。実際はほんの数分なのかもしれないが。

 ライも相手の雄猫も、身体の至る所に小さな傷を負い衣服を血に染めている。どちらも致命傷は与えられていない。二匹とも、稀有と呼べるほどの手練れだった。
 この猫、本当に大した猫だ。つがいの自分たちがここまで手こずったことなど、それこそリークスと闘った時以来かもしれない。は正直感嘆した。

 だがいつまでも、その剣戟を眺めていたい訳ではない。互いの闘牙も賛牙も、そろそろ体力の限界だ。
 次の一撃で……決める。暗黙の了解が暗い地面に落ち、闘牙たちは揃って血の滲んだ柄を握りなおした。二匹が動き出すときを頂点とするように、賛牙たちが最後の力を振り絞り歌を紡ぎ始める。その口が開かれた時――雄たちは動いた。


「これで終わりだ!!」

「貴様がな…!」




 二匹の勝敗を、分けたもの。
 それは熱く、重く、そしてどこか甘い痺れすら伴うような――圧倒的な想いの力の差だった。




 の歌が赤い炎となり、ライの剣を灼熱に染めた。赤く輝く一閃に雄猫が目を見開く。
 「すげぇ」と言ったのかもしれない。避けようとする意思すら焼かれてしまったのかもしれない。雄猫は目を見開いたまま、けれどどこか満足そうな顔で――ライの一撃を真正面から受けた。


「ぐ、お…ッ!!」

 血がしぶいた。ライの剣は、あやまたず雄猫の心臓を貫いた。

「ぐ……は……、はは…っ……、が、はは…、は……いい、ねぇ………」

 ぐらりと体勢を崩した雄猫は、胸に突き立てられた剣を掴んでうっすらと笑った。その口から嫌な音を立てて、真っ赤な血が溢れる。
 唇を歪めたまま、闘牙はゆっくりと倒れていった。地面に崩れ落ち、明けはじめた空を眺めてヒュウと喉を鳴らす。


「ちくしょ……俺の血、全然…浴びてねぇじゃ……ねぇか……。予想と……違った、な……」

「…………。貴様の『予想』とやら、大体想像がつくが……それは、過去の俺から予測されたものであって今の俺ではない。……貴様が相手にしていたのは、かつての俺という幻想だ。だから貴様は見誤った。俺の限界を勝手に推し量ったのが仇になったな」

 ライが息を乱しながらも淡々と、雄猫に向かって最後の言葉を放つ。歌を止めたは、ライにゆっくりと歩み寄った。隣に並び、雄猫の最期を目に焼き付ける。雄猫は血に汚れた顔でさらに笑みを深くした。


「へへ……昔とは、違うってか……。じゃあ、お前の欲しいものは、いったい、何になった……?」

「……さぁな。貴様に教えてやる義理もない」

「フ……つれない…な……」

「ふん。……昔と全てが変わったわけでもない。過去も今も、俺は俺だ。変わったことと言えば……手のかかるどこかの阿呆猫が、隣にいるのが当たり前になったぐらいだな」

 薄く血が滲んだ唇をわずかに引き上げ、薄青の瞳がを映した。その言い草には小さく苦笑を浮かべ、『バカ』と唇だけで呟いた。
 雄猫の呼吸が急速に弱くなっていく。開き始めた瞳孔に並んだつがいを映し、雄猫は力なく目を閉じた。


「一撃で……仕留めるとは……、随分…丸くなったもんだ……。は、は……何が、お前を…変え……うな ………」





 最後まで笑みを保ったまま、雄猫は動きを止めた。
 もう、息の音すら聞こえない。がそっと隣を窺うと、ライは静かな目で雄猫の遺体を見下ろし、そして瞳を閉じた。

「もし、昔のまま俺が生き長らえていれば……行く末は、こいつのようになっていただろうな。血に飢え、血に囚われた……愚かな末路を辿っていたかもしれん」

「……ライ」

 自嘲するような言葉には憂いを帯びた視線を向けた。『そんなことはない』…そう言おうとしたは、ライが思いのほか静かな表情をしていることに気付き、その口を閉ざした。

「だが……こいつのことなど何一つ知らんし知りたくもないが……その腕だけには、感服した。奴と意味合いは違うが、俺ももう一度やり合いたいとどこかで思っていたのかもしれんな」

 そう言いきったライの目に、狂気の影は見当たらなかった。もまた雄猫を見下ろすと、静かに頭を垂れる。だが次の瞬間視界の端で動く影を捉え、は瞳孔を引き絞った。


「まだ、残ってたか……」

「……ヒッ!?」

 そこには、歌の受け取り手を失った無力な賛牙が怯える姿があった。鋭い二対の視線を向けられ、賛牙が竦み上がる。だがその手がおもむろに懐を探った瞬間、ははっと顔を上げた。

「…ッ! ライッ!!」

「!」

 賛牙が取り出したのは――短剣!
 激闘による疲労で、ライは咄嗟に反応できない。その大柄な身体を無理やり押しのけ、は素早く太腿に手を掛けた。

 滅茶苦茶に振りかぶられた短剣が空を切る。その凶悪な切っ先は奇跡的にの頬をすれすれで掠め――代わりにの投げた剣が、軌道こそ安定しなかったが賛牙の腕を抉った。

「ギャアッ!!」

「往生際が悪いわよ! 死にたいの!?」

「……ひ…っ!」

 ぐらりと体勢を崩した賛牙に、は怒髪天を衝く勢いで怒鳴った。それにますます怯えた賛牙が後方に逃げようとたたらを踏んだ、その瞬間。森の茂みから大きな影が飛び出した。


「――おっと……そこまでだ。これ以上の抵抗は無意味だぜ」

「! ……アーク!」


 賛牙の細い身体を羽交い締めにしたのは、アークだった。後ろからフォウも息を切らして駆け寄ってくる。

さん! 良かった、無事だったんですね!! もー、先行っちゃうからすごく心配したんですよ!!」

「外にいた奴らと小屋から逃げてきた奴らは、取りあえずおおむね倒しておいたぜ。何匹が逃がしちまったが……悪ぃ、遅くなったな」

 賛牙を締め上げながら、アークが申し訳なそうに眉を下げる。はしばらくぽかんとしていたが、我に返ると慌てて首を振った。

「そんな…! ありがとう……本当に助かったわ。ふたりとも、本当にありがとう…!」


 アークもフォウも、見れば見るほど酷い有様をしていた。所々に血が滲み、フォウに至っては綺麗な顔の半分が真っ赤に腫れ上がっている。だがふたりともどこかすっきりしたような顔で、に向かって「いいよ」と首を振った。

 一連の出来事を見守っていたライが、の前へと進み出た。ライは二匹とわずかな合間視線を交わし合うと、アークに羽交い締めにされた賛牙の前に立った。


「こいつ、どうするよ。ボス猫の首級に合わせて突き出せば、いい賞金になるんじゃねぇか?」

「賞金首になっていたのはそこのボス猫と闘牙の夜盗たちだけで、賛牙は対象に入っていなかった。あえてつき出す必要はないが……そうだな――」

 スッと、ライの周囲の温度が急に下がったような気がした。
 今現在祇沙で最強とも謳われる闘牙の凍える視線を浴びて、賛牙はもう声も出ないようだ。罰を言い渡される罪猫のように、尾を縮こまらせてライの言葉を待っている。


「藍閃に帰って、そいつの雇い主に伝えろ。俺のつがいに手を出せば――生きては帰さん、とな。地獄をたっぷりと見せてから、そこに送ってやろう」

 ほとんど脅迫のように言い放ったつがいの姿に、は何とも言えぬ複雑な表情を浮かべた。




 賛牙はよろめきながら、必死に逃げ去っていった。その怯えた後姿を見送ったふたりは、アークたちが倒してくれた夜盗を捕らえるべく小屋を背にして歩きはじめた。
 金の髪が揺れる背に向かい、白猫はかすかに呟いた。


「……お前のどこが歌姫だ。お前など――山猫で十分だ」


 陰の月はいつしか薄れ、森には朝が訪れようとしていた。








「――本当に本当にありがとう。ふたりがいなかったら、とても助けには行けなかったわ」


 それからさらに数時間後。ボス猫の遺体と縛り上げた夜盗たちをとりあえずギルドに引き渡した四匹は、ようやく環那の町へと戻ってきた。
 夜が明けたばかりの町は、さすがにまだ静まり返っている。町の入り口で、は改めて環那の二匹に頭を下げた。


「いいって、気にするな。元はと言えば、俺たちが巻き込んだようなものだったしよ」

「そうですよ。みんな大きな怪我もなかったし、お互いもう言いっこなしです。それよりさんの歌、もう一度聞いておきたかったなぁ……」

「馬鹿、お前それどころじゃなかっただろうが。やられそうになってたところを俺が何度助けたと思ってる」

「うるさいなぁ。俺はね、一応は闘牙だけど、全然戦闘向きじゃないの! 戦闘に役立つ剣を作ってれば幸せなんだよ。適材適所だって」

 の感謝の言葉に、雄猫たちは照れたように互いをけなし合った。それが微笑ましくてはもう一度頭を下げた。そして隣でそっぽを向いている自分のつがいを小声で突っつく。


『……ちょっと! アンタもちゃんとお礼言いなさいよ。こんなにお世話になったんだから!』

「…………」

 のつがいは、町に入る前からどことなく機嫌が宜しくないようだった。
 戦闘で疲弊したためかとあまり気にしていなかったが、さすがに成猫としてその態度はどうだろう。がじとりと睨み続けると、ライは根負けしたのか大きな溜息をついた後に二匹に視線を向けた。


「今回は……助かった。礼を言う」

「えっ! いや、あの、だからそんなに気に――」

「ああ、気にするなよ」

「そうか。だが――」

 大変珍しく感謝の言葉を述べたライが、一旦言葉を区切ってをじろりと横目に見る。
 次の瞬間は強く引き寄せられ――突如として、唇を塞がれた。




「…!? ――ッ!! んっ……、ちょ……んんッ!? あ…ッ!!」


 激しく、深く、喰らいつかれるような――濃厚な口付け。
 雄猫の暴挙には目を剥いた。……息ができない。声すら出せない。髪に手を差し込まれて、逃れることも叶わない。何よりいったい自分たちはどこで、誰の前で、こんなことをしているのだ……!?

 しばし呆然として為すがままになっていたは、我に帰るとライを押しのけた。

「……ぷはッ! ――な、な……、何考えてんのよっ! アンタ…!!」

 目を白黒させてライから離れようとしたは、腰を取られてさらに引き寄せられた。抵抗を封じられ、がっちりとライの腕に囲われる。そしてのつがいはのたまった。


「こいつは俺のものだ。他の誰にも、無論お前達にも、渡す気はさらさらない」







「…………」

「…………」

 沈黙が、その場を支配した。アークもフォウも目を見開いたまま、固まってしまっている。
 は衝撃に呆然としながらも――自分の尾がこれ以上ないというぐらいに逆立っていく様を、どこか遠くに感じていた。

「…ッ!!」

 物凄い勢いで顔が熱くなっていく。ライの顔はおろか、アークとフォウの方を見ることもできない。はたまらず両手で顔を覆った。
 なんということをさらりと言ってくれるのか、この猫は…!

 死にそうなほど恥ずかしい。死にそうなほど――心が揺さぶられた。


 手で顔を隠したまま、は何度となく深呼吸を繰り返した。もう、どうすればいいのか分からない。どんな顔をして皆を見ればいいのか分からない。
 ただ一つ確信できるのは、こんなことを言ってもライはきっと平然としているのだろうということだけだった。いつのもように涼しい顔をしているに違いない。それが少し苛立たしく、さらにの羞恥を煽る。

(こいつ……私のこと、殺す気じゃないでしょうね……。なんなの? 怒るところなの? それとも喜ぶところなの…!?)

 なんだかもう自分がどうしたいのかも分からなくなってきた。
 は泣き笑いのような表情をどうにか引き締めると、ようやく赤みの収まってきた顔でちらりとフォウとアークを窺い見た。



『ねぇ……君さ、何か余計なこと言わなかった?』

『余計なこと? ……いや、特には……』

『本当に? さんのこと、必要以上に褒めたりしてない? なんか誤解されてるみたいなんだけど……』

『あーん? そりゃ褒めたが…………あ、そういや……』


 フォウとアークは、こそこそと何かを話しこんでいた。その内容がとライの耳にもかすかに届く。


『一度組んでみたいって言ったな。別にそんな下心は――』

『あああ……ほら見ろ、それだよ! めちゃめちゃ誤解されてんじゃん!』

『……そうか? それよりお前な、いきなり手を出すのはやめろと言っただろう』

『「それより」、じゃないだろ!? ていうか君だってよく俺の頭叩くだろ。これぐらい当然だと思うね!』


 フォウがアークの頭をぱしりと叩いた。大したダメージを受けたとも思えぬが、一応その箇所を押さえたアークがたちに向き直る。アークは常と変らぬ淡々とした様子で、口を開いた。



「あー……、悪ぃな、闘牙の兄ちゃん。なんか、誤解させた…らしい」

「誤解…?」

 アークの声にライははっきりと眉を寄せた。その不穏な気配には産毛を立て、恥ずかしさも忘れて横のつがいを窺った。……どう見ても、臨戦態勢に入っている。

「だからな、あんたのつがいと組んでみたいっつったのは本心だが、それはあくまで仕事上のパートナーとしてでだな。そういう意味で言ったんじゃねぇんだ」

「…………」

「一緒に生きるって意味でのつがいなら……もういるからな。なぁフォウ」

 穏やかに言葉を切ったアークが、隣に立つフォウを見下ろす。溜息をついたフォウは、それでも確かに頷いた。

「……そうだね」

「闘牙としちゃあまり役にも立たねぇが、ま、つがいってそんなもんじゃねぇしな。隣にいるのは、こいつ以外には考えられねぇ」

「君ね……役に立たないは余計だろ。俺は他のことで役に立ってるからいいんだよ。荒事は君みたいな筋肉馬鹿がやってればいいんだ」

「……ふん」




 今度は、たちふたりが瞠目する番だった。
 は衝撃の事実に目を丸くしていたが、二匹のこれまでの様子を思い出すと確かに納得できる節がいくつもあった。は大きく息を吐き出すと、ゆっくりと頷いた。

「なるほど……。全然気付かなかったけど……そうよね、発情期、大丈夫だって言ってたものね。そういうことだったんだ……」

 の言葉にフォウがうっすらと顔を赤らめた。
 「紛らわしくてすみません。ホントこいつ、鈍いから」と苦笑いする雄猫の姿に、の口も緩む。「だいたいあんたらの間に入り込むのなんざ、どう考えても無理だろうが」…そうぼやいたアークには、肩をすくめて答えた。

 だがふと、無言で突っ立ったったままのつがいの存在を思い出し、は恐る恐る隣の長身を見上げた。


「……あ……」

 が声を掛けるよりも早く、ライはさっと踵を返すと町の中へと歩き出してしまった。荒っぽい足取りの後に、太く逆立った白い尾が続く。
 常ならばよりもよほど白いその頬が、うっすらと赤く染まっているのを見て――は思わず相好を崩した。


「ごめんなさい。あの、ふたりとも本当にありがとう! じゃ、また…!」


 慌ただしく感謝と別れを告げると、はつがいの背を追って足取りも軽く駆け出した。









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(2008.12.21)