Omnes una manet nox.

 
私たちすべてを、同じ夜が待つ――





 1.旅路


 


 藍閃は暗冬が近い。そろそろ街中も、その準備や観光客やらで混み合ってくる時期だろうか。


 そんなことを考えて は足を止めた。頭上を見上げると、相変わらず鬱蒼とした木々の向こうに陽の月の光が頼りなく見える。それを目を細めてぼんやりと見つめ、次いで大きく頭を振った。

 現実逃避だ。まだ着いてもいない街のことを考えてどうする。今の状況をなんとかしないと。

 鳥唄から夜陰に潜むように抜け出して7日。通常の道程ならば藍閃、少なくとも藍閃付近には辿り着いていい日数だった。しかし現在、 は明らかに藍閃付近ではない森の中で迷っていた。


「どこで迷ったかなあ?」

 不安を紛らわすように、小声で呟いてみる。地図と月の方向で大体の位置は掴めるものの、どうやら藍閃に向かう筋からは外れてしまったようだ。以前に藍閃へ行く際にはいつも父が一緒だったため、熱心に道を覚えようとしていなかった。そんなことを今更のように後悔する。

 行商猫の使う道を来ているため、魔物に襲われるという心配がないのが不幸中の幸いだった。藍閃の方向に来ているのは確かだから、高台でもあれば位置が掴めるはずだ。

 遅れたとしてもせいぜい数日だ。目的のある旅でもないし……。

 そこまで考えて、 は暗い気分になった。
 そう、この旅に目的などない。ただ鳥唄にいられなくて、逃げてきただけだ。
 


   +++++



 祇沙の猫を急速に蝕んでいる「失躯」という病気。その脅威は鳥唄でも例外でなく、村人は次々と病に倒れていった。
 村に弔いの歌が響く中、父の金の耳が欠けているのに気付いた。その時の恐怖と絶望を は今でも忘れない。

 錯乱する の肩を抑え、父は静かな声で言った。「逃げろ」と。
 近々、雌が徹底的に管理され、ただ「産む」ために生かされる環境になる。その前に逃げろと。

 病の父を置いてそんなことはできないと縋る に向かって、父は何度も繰り返した。その脚が欠け、剣を鍛えた火傷だらけの腕が欠け、瞳が色を失ってもなお。やがて意識もなくなり、最期は眠るように息を引き取った。


 弔いを済ませて深い喪失感の中、家に蹲って一巡りの月。父の死を待ちかねていたかのように「その日」は来た。

「明日、雌は全員長の家に集まるように」

 やってきた幼馴染の高圧的な口調にムッとしてなぜかと問うと、長い沈黙の後に「適切な相手を選び、交配して子を残すためだ」と告げられた。
 その時の、真っ白に染まった思考が忘れられない。

 ――交配? 誰かと自分が? なぜ?

 ただ産むために捕らえられるのか。産んで産んで、そこに自分の意思などあるのか?
 衣食住は保障される……という幼馴染の言葉も耳を通り過ぎていく。      

 保障? 違うだろう、産むために生かすだけだろう?

 激しい怒りと裏腹に、尾の先まで身体が冷えていく。やがて意図せず、 の口元に笑みが広がった。

「……分かった」

 幼馴染はホッとしたように尾を立て、悪いようにはしないから……などと告げて去っていった。
 姿が消えた瞬間、笑みが凍りつく。暗い床を見つめ、先ほどの激情を鎮めようと息をついた。


 鳥唄の猫は、本来温和な性質のものが多い。
 よその村の中には食糧不足に耐え切れず、生きた猫を生贄に捧げるところもあるというから、雌を一同に集めて子孫を絶やさないようにしよう、などというのはまだ理解できる範疇なのかもしれない。
 現在の状況では、いきなり家に押し入られて無理やり組み敷かれてもなんらおかしくはないのだ。しかし鳥唄の猫達はそれをしなかった。

 それでも、日々向けられる執拗な視線に苛立ちを感じていたのも事実だ。それに加えて今日の通達。
 雌ならば子を産め、と迫られているようで息苦しい。このままではいずれ嫌でもそうなってしまうだろう。


 ――ならば。

 出よう、この村を。


 どこに行っても同じ状況かもしれないが、少なくともここにいるよりはマシだろう。男装して、あまり他の猫と交わらなければそう簡単にはばれないはず。

「藍閃……そうだ、藍閃に行こう……」

 あそこには行ったことがあるし、身も潜めやすいはずだ。

 ふっと息をはいて決意すると、少し心が軽くなった。
 村を抜けるなら、暗闇の中がいい。 は急いで支度をした。最低限の荷物と、剣と、そして最低限の鍛冶道具。荷物にはなるが、これだけは手放せない。父と自分の魂の詰まった道具だ。
 丈の長いコートを羽織り、荷物を持つ。そのまま出ようかと思ったが、ふと振り返った。




「…………」

 がらんとした部屋に、父の幻が見える。
 嘘だ。見えるはずがない。父はもういない。

 生まれてから育ってきた家には、今はもう自分だけしかいない。二度と戻れないかもしれない。暗い室内を心に焼き付けるように、 はゆっくりと目を閉じた。
 そして、踵を返して静かに走り出した。

 一度も村を振り返らず、 は夜の森へと飛び込んだ。






   +++++






「とは言ってもさあ……」

 再び、藍閃付近の森。 は何度目かも分からない溜息を吐き出した。
 はっきり言って、状況は全く好転していなかった。陽の月は既に夕暮れに差し掛かっている。
 これ以上無闇に歩き回っても無駄だ。今日はここで野宿して、明日引き返して出会った猫に道を尋ねるなり何なりしなければいけないだろう。
 そう決めて荷物を降ろそうとした時だった。

「!」

 近くに、猫の気配。
 向こうはこちらに気付いているようだ。

(しくじった! 物音を殺していなかったから……)

 耳を立てて、様子を伺う。足音は……三匹か。
 声も掛けずに遠慮なく近寄ってくるということは、こちらを襲う魂胆なのだろう。夜盗か、その類か。
 
 個々の技量がそれほどでもなければ、なんとか撒けるはず。
  は覚悟を決めて腰に差した剣を鞘ごと静かに抜くと、草むらを駆け出した。


「ちっ! 気付かれたか。だが一匹だ、追うぞ」

 野太い声の後に、追ってくる気配。このまま逃げ切れるとは思っていない。そうするには気付くのが遅すぎた。
 ならば、期を伺ってこちらから仕掛けるまで!

 身を隠しやすい大木を見つけ、身を潜める。幸い相手は途中からバラバラに追ってきているようだ。
 密かに息を吐き、荷物を置いて鞘のついた剣を握り締める。殺す気はない。少なくとも今は。

 殺気立った猫が の潜む大木の横を通り過ぎた。――今だ!

 
「……ッ!」

 声を立てずに草むらを払い、剣を振りかぶる。こういう時は先手必勝だ。まずは、一匹。

「くそッ、ドコ行きやがっ……ぐあぁッ!!」

 短い叫びを残して雄猫は昏倒した。さすがに叫びまでは抑えられなかった。声を聞きつけて残りの二匹が向かってくるのが分かる。
  は身を返すとさらに奥深い森へと走り出した。

「こっちだ!」

 大声を上げて二匹がやって来た。倒れている仲間の猫を見て、猫たちはさらに逆上したようだ。
 
(……同時に二匹。ちょっと苦しいけど、やるしかない!)

「テッメェ!」

 年かさらしい猫が、大きな鉈のような物を振り回して襲ってきた。軌道は単純だが、一撃が重い。まともに受けたら腕が痺れそうだ。
 斬撃を数度かわすと、背後にも殺気を感じた。二匹目の攻撃を咄嗟に身を捻ってかわすと、はずみでコートのフードが脱げた。
 闇夜に、金の髪と顔が露わになる。


「……ッ」

 雄たちは一瞬目を丸くしたが、すぐに警戒と怒りを欲望の気へと転じた。 を取り巻く雰囲気が粘着質なものに変わる。

「なんだよ、雌じゃねえか! こんなところで馬鹿だな!」

 ニヤニヤと笑った若い雄が細い剣を向けてきた。今度は殺気を感じない。殺すことより、生きたまま嬲ることに目的を変えたのだろう。だが、 にとってはその方が都合が良かった。

「可愛い顔してんじゃん! 悪いようにしねぇから大人しくしろよ! ヒャハハッ!」

 下卑た表情で笑いながら剣を振るう相手を冷たく一瞥すると、 は素早く剣を抜き放った。鍛え抜かれた刀身が露わになる。
 折れそうに細い剣を何度もかわすと、さすがに雄も苛立ってきたようだった。焦りが剣筋を鈍らせる。
 傍で見ていた年かさの猫が焦れて切り込んでくるのを横目に見て、 は剣の柄を思い切り雄猫の頭に打ち付けた。

「ぐがあッ!」

 妙な声を挙げて猫が昏倒したが、衝撃で剣を取り落とした。急いで拾おうとすると、大きな足で剣が蹴り飛ばされた。

「……くッ!」

 背後に殺気を感じて一歩飛びのく。今までいた場所には大きな鉈が振り下ろされていた。

「このアマ……舐めやがって!」

 怒りに燃えた年かさの猫が、 を激しく睨む。

 アンタ達なんて舐めたくないよ、とこっそり毒づきつつ、 は反撃か逃走の機会を伺っていた。
 前には雄猫、後ろは森。後ろに逃げてもすぐに斬撃が襲ってくるだろう。だが反撃しようにも、 の剣は先ほど雄猫の後ろに蹴り飛ばされてしまった。絶体絶命だ。

「うおりゃあああッ!!」

 雄猫が渾身の力で鉈を振り上げた瞬間、 は一撃を避けず、逆に相手の懐に飛び込んだ。
 重量級の武器は、破壊力と引き換えにどうしても動作時に隙が生じる。それを一か八かで見切って、反撃を仕掛けるしか残された手段はなかった。

 そして今、武器となるのは己の肉体のみ!

 渾身の力を込めて、 は雄猫の股間を蹴り上げた。


「……!!」

 声にならない叫びを上げて、雄猫は失神した。

 恐る恐る顔を覗き込むと、涙まで流していた。少しやりすぎたかもしれない。
 自分の剣を拾い上げ、念のため二匹の武器を思い切り森の遠くに放り投げると、荷物を探しに戻るべく踵を返した。
 
 その瞬間。


「なっ……」



 冷たく輝く銀の髪。
 大型種だろう、堂々とした体躯。
 そして、こちらを無表情に睥睨する色の薄い瞳。



 白い雄猫が、気配も立てずに目の前に立ちはだかっていた。













     

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