2.白き猫
突然の白猫の出現に
は呆然としたが、即時に剣を抜き、構えを取った。 全く気配を感じなかった。あまりの衝撃と本能的な恐怖に、低く威嚇の声が漏れる。
はまだフードを被り直していない。つまり雌だということもバレている。警戒を緩めずに、
は硬い口を開いた。
「アンタも夜盗? あいつらの仲間なの?」
臨戦態勢の
とは引き換えに、剣に手を掛けようともしていない白猫は一瞬目を開いたが、すぐに呆れたように鼻で笑った。
「ほう、俺が夜盗に見えるか」
低い、張りのある声だった。
は白猫から目を反らさずに相対する。 この猫、夜盗には見えない。纏う雰囲気こそ冷たく鋭利だが、犯罪者の持つ荒んだ気とは明らかに異なる気がした。
「そうは見えないわね。じゃあ、私に何か用? なんでこんなとこに来てるのよ」
夜盗ではないとしても、隙を見せれば危険なことには変わりない。なおも警戒して問うと、白猫は不機嫌そうに眉を顰めた。
「知らん。お前に用などないし、そう警戒されるようなことも考えていない。ただ森にこんなものが置き去りだったから来てみただけだ」
「あ、私の……」
白猫の視線を追って目を向けると、
の荷物が手に下げられていた。先ほど森に置いてから走り回っていたから、正直探しに戻るのは面倒だと思っていたところだ。
「やはりお前のものか。荷物にしては重いぞ。剣でも入っているのか」
「いや、違うけど。……でもありがとう。手間が省けた」
どうやら白猫は
に全く興味も害意もないようだ。
はようやく剣を収め、白猫へと手を伸ばした。
「悪いわ、ね……ッ!?」
荷物に伸ばした
の手が、突然強く引かれる。
を油断させる罠だったのかと身を竦ませたが、白猫はそのまま背後に
を押しやって素早く剣を抜き放った。
「このアマァァァッ!!」
白猫の肩越しに、先ほど殴り倒した若い猫が爪を振り上げているのが見えた。と思った瞬間、目前の銀の髪が舞った。 銀の残像の後に、赤い血しぶきが散る。 その流れはあまりに素早く鮮やかで、
は剣を抜くこともできずに呆然としていた。
「ぐ、があああッ……」
弱々しい猫のうめき声に、ハッと我に返る。白猫を見ると、ただ無表情に血塗れた長剣を返し、切っ先を猫の胸に付き立てようとしているところだった。
「待って!」
が慌てて叫ぶと、白猫が切っ先を止めて
を振り返る。その静かな威圧に押されながらも、なんとか口を開く。
「別に、殺すほどじゃないわ」
「なぜだ」
「今はもう戦えないでしょ。そんなことしたって無意味だわ」
戦えないと判断した相手をそれ以上は執拗に痛めつけない。それは猫の世界での暗黙のルールだったし、ここで恨みを買って後々に面倒が起きるのは御免だった。
「フン、生きていたところで意味があるかは知らんがな。……どうせ腱を絶った。いっそ死んだ方がマシかもしれんな」
「……悪趣味ね」
納得しかねる、といった様子だが白猫が渋々と剣を引く。それが鞘に納まるのを見て、
はようやくホッと息をついた。
荷物を取ってそのまま夜盗たちから離れるように、
は白猫に付いてしばらく歩いた。 礼を言おうと立ち止まって白猫を見上げると、まじまじと顔を眺められる。
「な、なによ……」
「昼も一匹で歩く馬鹿な奴に会ったが、……お前はそれ以上の馬鹿だな。いや、阿呆か。阿呆猫」
「は……な、誰が阿呆ですってぇ!?」
白猫の言葉の前半は意味が分からなかったが、いきなり阿呆扱いとは。助けてもらったとはいえ、さすがにカチンと来る。
「ただでさえ治安が悪くなっているのに……まさか一匹で出歩いているような馬鹿な雌がいるとは考えもしなかった」
「うっさい! 最初は一匹でも切り抜けられたんだからいいじゃない!」
「最初は、な。だが詰めが甘い。油断したからまた襲われたんだろう」
「う……それは、そうだけど……」
がぐっと詰まると、白猫は腕を組んでせせら笑った。腹が立つが、この猫の言うことは事実だ。
は反省した。
「フン、だがまさかああ戦うとは思っていなかった。出て行こうかと思ったが無駄足だったな」
「え?」
白猫は
を見るとにニヤリと笑った。そんなに大層な戦い方をしただろうか、自分は――そう考えて、先ほどの戦闘に思い当たった。まさか――
「み、見てたんなら助けなさいよ!」
「巻き込まれるのは御免でな。しかしあの夜盗にもいささか同情する――」
「剣がなかったんだから仕方ないでしょ! あーもう放っといてよー!」
さすがに今思い出すとあの一撃は恥ずかしい。だがまだ件の夜盗が目覚めないところをみると、相当に効いたのだろう。
は頬に手をあてて顔の火照りを鎮めようとした。
それにしても―― この雄、なんと強い猫なのだろう。あの一撃で一瞬にして致命傷ではなく、腱を選んで絶つなどという芸当をやってのけた。もしも敵であったならば、
など一刀の元に斬り捨てられていただろう。 名のある剣士か何かだろうか。そんなことを思って、先ほどとは逆に
は白猫を凝視した。
「なんだ」
鍛え上げられた体躯は、全く無駄がなく美しい筋肉に覆われている。銀色の髪とふさふさとした白い尻尾が柔らかそうだ。白い肌を辿ると、怜悧とも思える整った顔が自分に向いている。 薄い水色の瞳。右目は隠されて見えない分、そのただ一つの色が美しいと思った。
そう、この猫はなんて美しいのだろう。 思わず見惚れるほど、こんなに綺麗な猫は見たことがない――
「おい! 何をじろじろ見ている」
ただし性格はかなり難がありそうだ。そう思いながらも不機嫌そうな白猫に遮られ、
は顔を上げると笑って言った。
「アンタ……すごく強いのね。それに、いい猫だわ」
「……何を言っている」
「思ったことを言っただけよ。いい猫って、分かる? 綺麗ってことよ」
「……綺麗などと言われて嬉しいと思うか」
「あ、嫌だった? えーと、じゃあ格好いい? いやそれもちょっと違うような……」
「………」
なおも
が言葉を続けると、白猫は背を向けて歩き始めた。
「付き合いきれんな」
「あ、ちょっと待って!」
「なんだ」
慌てて白猫のマントの裾を引くと、白猫がガクンと後ろに仰け反った。怒りに満ちた目で睨まれる。だが負けず、
は藍閃への道のりを尋ねることにした。ここで教えてもらえないと、また彷徨う羽目になる。それは出来れば避けたかった。 道に詳しくもないのに一人旅をする
に白猫は驚いたようだが、呆れながらも意外に丁寧に教えてくれた。
が納得すると、白猫はさっさと歩き出した。遠くなったその背に、再び声を掛ける。
「待って!」
「今度はなんだ!」
怒りも露わに白猫が振り返る。短気だなーと思いながら、
は叫んだ。
「ありがとー! 私
。アンタの名前は何ー?」
「言う必要があるのか?」
「いや別にないけど。私が知りたかっただけ」
「……ライだ。大声で叫ぶな! それから顔を隠せ阿呆猫!」
白猫――ライは呆れたように告げると、夜の森へと消えていった。
はまた一人、深い森に残された。
ライ。 尊大で冷たくて、でもきっととても強い猫。 藍閃に行けばまた会うこともあるだろうか?
「ご忠告、痛み入ります……」
突然の白猫との奇妙な出会いを思い出しつつ、フードを深く被りなおして
は小さく笑った。
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