3.藍閃



 

 

「うわー、凄い猫の数ー。でもみんな雄ばっかー……」

 藍閃の混雑に圧倒されつつ、深くフードを被った旅の猫―― は溜息と共に呟いた。




 昨夜の襲撃の後、結局 は森で野宿をして昼に藍閃入りした。ライの教えてくれた道は分かりやすく安全で、その後は危険な猫と遭遇することもなかった。
 数年ぶりに来た藍閃は、暗冬直前だからか以前よりも賑わっているようだ。ただし明るいというよりは雑然としているという印象は元のままだが。
 
 長く滞在するなら、まずは宿を確保しなくてはならない。
  は以前も宿泊した一軒の宿屋を目指して雑踏を歩き始めた。

 



「こんにちはー」

 意識して低い声で、懐かしい扉を開ける。
  の目指す宿は、記憶通りの場所に今も変わらずに建っていた。
 軋む入り口を通り、受付に目をやると――これまた懐かしい、宿の主人が帳簿に向かっているところだった。

 バルドだ。

 記憶にあるよりは若干くたびれた気がするが、特徴的な虎縞の耳はそのままで、 は胸が弾んだ。
 バルドは が入ってきたことに気付いたようだったが、「ちょっと待ってくれ」とダルそうに声を掛けただけで顔を上げなかった。

 待合室に誰もいないことを確認して、 はフードを脱ぐ。バルドとは旧知の仲だから、今更隠すこともない。

 そのままバルドを眺めながら待つこと数分。一向に顔を上げようとしないバルドに、さすがに も焦れてきた。

「ちょっと……」

 幾らなんでもこれほど客を待たせていいのだろうか。控えめに声を掛けると、バルドは驚いたように顔を上げ、そして目を見開いた。

「うおっと、なんだいたのか……って、あぁ? 雌!? しかもこれまたえらい別嬪だなお嬢さん」

「は……」

「泊まりに来たのか? 部屋なら空いてるが、あまりお薦めしないぞ。鍵はかかるが何かあっても責任は取れんからな。できるだけフードは被ってた方がいい」

 バルドは を見た。だがその視線や口調は明らかに初対面の客に向けるものだったため、 は慌ててカウンターに詰め寄った。

「ちょ、ちょっと待ってよ。バルド、私が分からないの?」

  がにじり寄ると、バルドは の顔を見上げて考え込むように目を彷徨わせた。

「んん……? あ、あー、思い出した! あんた、あの時の! いや、悪いな。あれはお互い割り切ってると思ってたから、俺にはその気はないんだ」

 すると思い出したかのように手を叩いて、バルドはそそくさと告げた。視線は を向いていたが、目が泳いでいる。 は確信した。

 こいつ、絶対分かっていない。というか、どこの誰と間違えているのか。

「絶対分かってないでしょ。…… よ、鳥唄の 。それも忘れちゃった?」

 溜息をついて が告げると、バルドは目を見張り、やっと納得したように「ああ」と頷いた。

「あの か。あんまりデカくなってて驚いた。美人になったな、あんた」

「そりゃどうも。……ところでさっき誰と間違えたのかを知りたいんだけど?」

「あー、いつだかに関係を持った雌かと勘違いしてなー……て、おい、そんな目で見るなよ」

「……サイテー」

 悪びれずしゃあしゃあと告げるバルドに は冷たい視線を送った。

「冗談だよ。もうそんな歳じゃないさ。……それよりどうした。また行商か? 親父さんも来てるのか」

「あ……父は……」

 肩をすくめたバルドに問いかけられて、 は固まった。歯切れが悪くなるが、これから世話になることだし説明しないわけにはいかないだろう。
  はぽつぽつと父の死とこれまでの経緯について語り始めた。





「そうか……大変だったんだな、あんた」

 全て語り終えると、バルドがしみじみと呟いた。頷くこともできずに、 は黙って項垂れた。

「で、これからどうするんだ? しばらくゆっくりするのは構わんが、ずっとそのままではいられないだろう。かと言って村にもすぐには帰れないんだろう?」

「うん……藍閃で、仕事を探してみる。できれば鍛冶の工房がいいけど、無理だったら剣を研ぐのも出来るし……。でも、しばらくはゆっくりしたいかな」

 仕事は探さなくてはいけないが、今は色々あって少し疲れていた。この位の休息ならば、父も許してくれるだろう。

「あ……でも、もし迷惑じゃなければ、剣研ぎの看板を出させて貰えないかな。鍛冶はさすがに無理だけど、それ位なら少し稼げそうだし。需要があるかは分からないけど」

  が思いついた提案を口にすると、バルドは二つ返事で了承してくれた。

「ああいいぜ。まあゆっくりやればいい。でもそうなると、少し懐が苦しいか? 親父さんのよしみで割引してやろうか」

「そんな、悪いよ」

「いいよ。どうせ食べていけりゃいい位にしか稼いでいない。それともいらないか?」

 バルドが「ん?」と覗き込んでくる。その申し出は、 には泣きたくなるほどありがたかった。折れそうになる心を抑えて、慌てて目を反らすと は口を開いた。

「ありがとう……。あ、でもそれならせめて宿のことを手伝わせて欲しいわ。なんでもする」

「おお? 本当に? つってもあんた顔出せないから裏方だけどな。いや助かるね」

 待ってましたと言わんばかりのバルドの口調に、 は虚を突かれた。

「もしかして、私がこう言うの狙ってた?」

「いやいやまさか。だが暗冬前後はここもそれなりに混むからな。手が増えるのは有り難い」

 ニヤリと悪びれず笑うバルドに は呆れた。バルドにとっては使える駒が向こうから勝手に転がり込んできた、というところか。

「絶対狙ってたわね……。あー感動して損した。まあいいや、契約成立ね。これから宜しく」

「ああ。まあ暇がある時でいいからよ。……ホラ、部屋は右の奥から3番目だ。分かるよな?」

 鍵を渡したバルドに小さく笑って、 は階段を上り始めた。くたびれた板の軋む感触が心地良い。



 バルドが契約の形を取ったのは、おそらく好意をただ与えるのが照れくさかったからだ。それ位は にも分かった。
 こんなささやかな形でも、自分を気遣ってくれる他人がいる。それはささくれた の心に染みる事だった。

「あんた、フードは被っとけよ。襲われても知らんぞー」

 村を出て二度目の忠告を背中越しに受け、 は慌ててフードを被り直した。
 その口元は、穏やかに綻んでいた。




 


 

BACK.TOPNEXT.