暗いその部屋には、金の雌猫が隠れている。

 部屋の隅にうずくまり、床の一点を見つめている猫は微動だにしない。けれど時折見える瞬きで、かろうじて生きているという事が窺えた。……身体だけは。


(また今日も、食べない……か)

 部屋の入り口に立ったコノエは、足元に残された手付かずのままの食事を見て溜息をついた。だが漏れた吐息にも雌猫は反応しない。

 痩せ細った身体にこけた頬。痛々しいその姿を救ってやりたいと思うのに、自分には何もできない。コノエはそっと皿を持ち上げると、階下に向かって歩き出した。



 ――泣き叫んでいた頃はまだ良かったと、今となっては思う。

 厨房の作業台に皿を置いたコノエは、溜息と共に頭を抱え込んだ。


 ……あの時。放心した をあの場から引っ張ってこられたのは、奇跡にも等しかった。悪魔たちの若干の助けはあれど、コノエだってボロボロに疲れ果てていたのだから。
 荒れ果てた藍閃に辿り着き、暴れ始めた を無理やり寝かし付けたのが翌日。背の傷が原因で発熱した は、それから昏々と眠り続けた。

 傷がようやく落ち着いてきた頃、雌猫は目を覚ますようになってきた。
  は起きるたびに泣き叫んだ。泣く をなだめて寝かし付けるまで、コノエは片時も から離れられなかった。
 コノエとてアサトが死んだ……自害した事に深い衝撃と哀しみを感じていたが、 を置いて自分が哀しみに暮れている訳にはいかなかった。その点では、 はコノエの心を救ったとも言える。



(どうして――)

 コノエは冷めた食事を見下ろし、もう何度目とも分からぬ問いを繰り返した。


 ――なぜ、アサトは死んだのか。


 正気に返ったアサトが傷付いた と息絶えたカルツを見て、衝撃を受けたのは間違いない。
 自分の父も、想いを寄せる猫も血まみれで……アサトはきっと後悔した。絶望した。

 そして衝動的に――自らの命を絶つ事を選んだ。


 アサトの気持ちも分かる。もし自分が同じ事をしたのなら、きっとコノエだって同じ道を選んだだろうと思う。

 アサトはきっと、 を生かしたかった。闘いは終わったけれど自分は魔物の姿のままで、いつまた闇に心を奪われるか分からない。だからその可能性を、自ら断ち切ったのだ。


(だけど………)


 それを の目の前で行ったのは――裏切り以外の、何ものでもない。

 あの、 の瞳が凍り付いていく瞬間を……コノエは一生忘れないだろうと思った。






  の身体は何とか快方に向かっていったが、心はそうはいかなかった。
 いつからか叫ばなくなった は、閉めきった部屋の隅にうずくまるようになった。

 ぼんやりと目を開けたまま一日中を過ごし、誰が声を掛けても反応しなくなった。
 排泄や毛繕いなどの最低限の動作以外には動かなくなり、一切の食物を口にしなくなった。


  の心は――死んでしまった。



 コノエはずるずると宿に留まり、 の様子を見守っていた。
 バルドが代わりを申し出てくれたり、戻ってきたライに「共に来い」と誘われたりしているけど、今はどこにも行く気がしない。…… が、元気になるまでは。

 けれどこのままでは、いずれ身体が朽ちていくのも時間の問題だった。


「……どうすれば……いいんだよッ……!」

 コノエは拳を机に叩き付け、どうにもならない現状を呪った。――その時。


 ふわりと花の香りが鼻先を掠め、コノエは目を見開いた。この香りは――


「――ッ、アンタ………!!」

 振り向いたコノエは、突如として現れた者の姿に声を失った。








終章 蒼の墓標









「アンタ、なんで……!」

 厨房に現れたのはなんと悲哀の悪魔、カルツだった。
 なぜ、ここにいる。というか、死んだはずではなかったのか……!?

 コノエの驚愕から一拍置いて、カルツは口を開いた。その控えめな喋り口も、目を伏せて佇む姿も、全くあの頃のままだ。


「……驚いただろうな。すまない……。私などが、舞い戻ってきて」

「舞いもど――アンタ、もしかして生き返ったのか……!?」

 言葉尻を取り、コノエが叫ぶとカルツはますます目を伏せた。じっと眉を寄せ、苦しげな表情を浮かべる。
 だが何かを決心したように顔を上げると、コノエに向かって静かに頷いた。


「……そうだ。私の身体はあの時ほとんど死にかけていたが――リークスから戻された力と、あの場所に充満した強い『哀』の感情により、命を繋ぐ事になった」

「……『哀』の感情……? ……それって――」

「……ああ……。 の、感情だ。――今日私が来たのも、最近ずっとここから強い『哀』の気が発せられているのが気になってな……。君がいるとは、思わなかったのだが」


 呟いたカルツが痛ましげに顔を逸らす。その顔を呆然と見つめていたコノエは、縋るようにカルツの腕を掴んだ。……この悪魔なら、もしかして――


「カルツ……。 が、大変なんだ……!」










  の部屋を覗いたカルツは、驚きもうろたえもしなかった。……予想していたのかもしれない。
 ただ痛ましげに一瞬だけ目を伏せると、カルツは室内へと踏み込んだ。

 うずくまった の前に、カルツが立つ。視線を合わせるようにしゃがみ込むと、匂いにつられたのか が小さく顔を上げた。


「…………」

「…………」

 無言で結ばれる視線。しばらくして焦点の合った の瞳が、ほんのわずかに動いた。


「………、………」

 声は発さずに、唇だけがかすかに動く。カルツが頷いたのを見て、名を呼んだのだとコノエは気付いた。


「……つらいか」

 不意に、カルツがぽつりと呟いた。ギョッとしてふたりを見下ろしたコノエは、 の反応に目を見開いた。
 ぼんやりとカルツを見つめていた が――しばらくして、無表情ながらも涙を落としたのだ。



 声も上げずに、涙を流す 。……何かに反応を見せたのは、本当に久し振りだった。

  が唇を震わせる。弱々しく掠れた声が、室内の空気をわずかに揺らした。


「……約束……したのに……。絶対に……命を絶ったりしないって――――」

「――ッ」


 アサトは――そんな事を、言ったのか。 の言葉が、コノエの胸に深く突き刺さった。
  は大きく顔を歪めると、振り絞るように言葉を重ねた。


「だけど……私……っ、守りきれなかった……! アサトを、安心させてあげられなかった……。私がアサトを――殺した………!」



「…………。 ……」

  が顔を覆う。切れ切れにすすり泣くような嗚咽が漏れ、コノエはもう掛ける言葉が見つからなかった。

 ――『死にたい』と、あれから は何度も口にしてきた。その度にコノエは首を振り、 の周囲から刃物を排除したりしてきた。
 けれど、こんなに苦しんでいるならいっそ――と、その瞬間に初めて思った。……そんな時。


 それまで黙って を見つめていたカルツが、そっと手を伸ばした。くすんだ金髪に手をやり、優しく梳く。
 わずかに顔を上げた は、カルツを怯えたように見上げた。


「……君に、選択肢を用意しようと思う」

「……? ……アンタ、何を――」


 突然告げられた言葉にコノエは疑問の声を上げた。それを首を振って静かに制し、カルツは の耳元に何かを囁いた。
 コノエにはその声は聞き取れなかったが……しばらくして、 がわずかに頷いたのだけは分かった。何かを了承したらしい。


 カルツの指が の額に触れる。そして金の目が力を持った瞬間――硝子が砕けるような高い音がして、 が後方に倒れ込んだ。



「アンタ――何したんだよ……!!」

 コノエは目を剥いてカルツに詰め寄った。外傷などは見当たらないが、 は完全に意識を失ってしまったようだ。その痩せた身体を抱き上げると、カルツは丁寧に寝台へと降ろした。

 不安と猜疑の混じるコノエの視線を受けて、カルツは静かに口を開いた。


「この猫の中の――アサトに関する記憶を、凍らせた」








「な……。それって、どういう事だよ……!」

「言葉どおりの意味だ。アサトに関する一切の記憶を眠らせた。……弊害で、君たちに関する記憶も多少は欠損しているかもしれないが――」


 カルツの言葉が――分からない。コノエは何度か頭の中で反芻すると、ようやくその意味を理解した。

「……なんで……そんな事――」

 ポロリと口から言葉が漏れる。物憂げにカルツは視線を伏せた。


「このまま放っておいて、いずれ身体が死に絶えたら――おそらくこの猫は、悲哀の眷属に転化してしまうだろう。『哀』の感情が大きすぎる。……望んでもいないのに、な」

「……!」

「そんな哀れな末路をたどる猫を……これ以上、増やす事もないだろう」


 そう言ってカルツは自嘲するように苦く笑った。カルツの歩んできた道を既に知っているコノエには、返す言葉が見つからなかった。
 その代わり、気になった事を恐る恐る尋ねてみる。

「じゃあ…… は――アサトの事を、完全に忘れてしまったのか……?」



 ――あの二匹の、心を寄せ合った日々は……もう の中から消えてしまったのだろうか――。 

 コノエが初めてほのかな恋心を抱いた雌猫は、いつからか黒猫の姿を追うようになっていた。
 それは少しばかり残念ではあったけれど…… が幸せそうだったから、アサトといて笑っていたから……コノエもすっぱり諦める事ができたのだ。そんなふたりが――



「いや……。先程も言ったように、あくまで凍らせただけだ。私にそのような力はない。……いつになるかは分からないが、いずれ全てを思い出す時が来るだろう」

「…………」

「だが――あの子の死を悼むのは、せめて身体が癒え心が準備できた時でも……遅くはないはずだ」


 カルツは の幾分か穏やかになったように見える顔を見下ろすと、そっと踵を返した。
 部屋から去ろうとする悪魔の背に向けて、コノエは声を掛けた。


「今の術は―― が望んだ事なのか……?」


 それだけは、聞いておきたかった。 が自らアサトを忘れてしまいたいと願ったのか、という事だけは。


「……いや。私はただ『死にたいか』と聞いただけだ。……嘘を、付いてしまったな」

「…………」


 静かに呟いた悲哀の悪魔は部屋から出ると、青の炎をまとって姿を消した。










 それからの は、驚くほど順調に回復していった。

 食事も摂るようになり、少しずつだが体力も戻ってきた。生来の輝きがその瞳には見られるようになった。


 アサトに関する事はもちろんだが、記憶にはやはり色々と欠けている部分が見られた。
 それをコノエがさり気なく問い掛けても、 は首を傾げて曖昧に微笑むだけだった。


  は元気になった。――ただ一つの記憶だけを置き去りにして。



 そしてようやく元の体力を取り戻した頃――『ありがとう』と短い書き置きだけを残して、 は宿から姿を消した。









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 穏やかな風の中を、一組の雌雄がゆっくりと歩いていく。
 金糸をなびかせて進む雌猫の姿を、カルツは目を細めて見守っていた。




 ――あれから何ヶ月かして、カルツは再び藍閃の宿を訪れた。
 少しばかり の様子を見ようと立ち寄っただけなのだが、そこでうっかり と鉢合わせてしまったのだ。

 すぐに立ち去ろうとしたカルツを引き止めたのは、 の縋るような眼差しだった。
 思ってもみなかった願いを受け――カルツは を、藍閃から連れ出したのだった。



『本当にいいのか?』と街を出る前に問い掛けた。すると は、こう答えた。

『うん……。手紙も、ちゃんと出すし……。――宿は……ね、みんな優しくしてくれるんだけど……何だか逆に、居心地が悪いの。……贅沢な話だけど』


 そう言って寂しげに笑った の手を、カルツは取ってしまったのだった。






 それからはふたりで穏やかに、ゆっくりと……祇沙の各地を巡った。
 特に目的もあてもない旅だ。時折カルツは『仕事』で出掛けるが、それ以外は と穏やかな時間を共に過ごした。

 最近では、随分よく笑うようになったと思う。良い変化だと、カルツは思った。







「どうした……?」

 ふと、 が立ち止まった。しゃがみ込み、何かを熱心に見つめている。その視線の先では、小さな野の花が風に揺れていた。


「…………」

  は無言でその花を見ていた。カルツが声を掛けても反応しない。
 仕方なく隣にしゃがみ込んだカルツは、 の顔を見てわずかに目を開いた。 が――静かに泣いている。



「……どうした」

「分かんない……。だけど、なんか――哀しくって……」


 『おかしいな』と笑いながらも の涙は止まらない。そのうち顔を覆って泣き出した の肩を、カルツは静かに引き寄せた。
 身を任せるように、 はカルツに頬をすり寄せた。












――哀しい。哀しい。……だけど何が哀しいのか、分からない。




『もし、俺が醜いものに変わっても……お前は側にいてくれるのか』


……俺と今日、こうした事を……忘れないでくれ。覚えていてくれ』

『お前が覚えていてくれたのなら、俺は嬉しい』







約束は、互いに守り通す事ができず。


金の雌猫は、今日も忘却の罪を背負い続ける。












END




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