13、ただ一つの願い






「……ッ!! ぐ……っア――!!」

!?」


 ざっくりと、身体が引き裂かれる音がした。コノエを咄嗟に抱いて飛んだ は、背中に灼熱の痛みを感じて倒れ込んだ。
 完全には、避けきれなかった。右肩から左腰に掛けてばっさりと斬られ、溢れた血が尾を濡らしたのが分かる。


! 大丈夫か……!?」

 前方に押し倒されたコノエが、危険も顧みずに駆け寄り を覗き込む。 
 うずくまって顔を歪めた は、それでもなんとか小さく頷いた。

「だい…じょぶ……」

「……どこがだよ……! アンタ、こんな酷い傷――!」

「死にゃ……しないわ……、ハハ……」

 酷い傷……確かにそうなのだろう。これはきっと、痕が残る。
 けれど何とか足は動くし、骨を断たれた訳でもない。こんな怪我よりも今はもっと大事なことが――


「アンタ、なんで俺なんかかばったんだ!! 俺を殺せばアサトは鎮まったかもしれないのに――なんで、よりによってアンタが……ッ!」

 ――そんなの、なんでなんて分からない。身体が動いてしまっただけだ。
  はコノエの手を借りて起き上がると、手当てを施そうとするのに首を振って告げた。


「コノエ……アサトを、連れ戻そう……。お帰りって、言ってあげなきゃアサト……きっとつらくて落ち込んじゃう……」

「…… ――」

 コノエが目を見開く。その背に向かって、再び鋭い爪が振り下ろされた。――避けられない…!



「え……っ」

 だが、アサトの爪がふたりを再び切り裂く事はなかった。
 コノエの肩越しに、 は透明な氷が地面に突き刺さる瞬間をはっきりと見た。――それは、青の悪魔の来訪を告げていた。







「カルツ……」

 現れた悲哀の悪魔に、コノエが呆然と呼びかけた。透徹とした眼差しをちらりと向けたカルツは、コノエの腕にかばわれた を見て痛ましげに目を細めた。

「すまない……。君にまで、傷を負わせてしまった」

「え……」

 呟いたカルツがアサトを見上げる。その目は哀しみと慈愛に溢れていた。
 カルツは何かを思うように瞳を伏せると、静かに剣を構えた。


「私の力が及ぶかは分からないが――君たちとあの子が安寧である事を、いつまでも願っている」

 そう呟いたのを最後に、カルツはアサトへと立ち向かっていった。






 


 何度となく爪を受け、何度となく地に叩き付けられ、カルツはとうとう地面に沈んだ。
  『これでいい』と呟いたきり、二度と動かなくなった。

 
「カルツ……ッ」

 傷付いた身体を引きずり、その亡骸に歩み寄る。穏やかな表情を認めた は、だが無理が祟ってフッと意識を飛ばした。
 その直後に白い光が沸き起こり――カルツの遺した言葉と死が、アサトの目を青に染め変えた。








 +++++   +++++








「…………、……っ」

 ペロペロと、頬をくすぐる感触に覚醒を促される。 は血の気の引いた顔で、努力して瞼を押し上げた。そして目を見開く。


「……ッ!」

 ――アサト。……黒い獣が、目の前に膝をつき の頬を一心に舐めていた。


「……アサト……、……ッ」

 呆然とする の声に気付いたのか、側にいたらしいコノエが覗き込んできた。

……大丈夫か」

 顔を上げる。コノエは先程より幾分か憔悴した顔で、眉を下げて笑った。
 アサトの横に並んでも、逃げる素振りも見せない。再びアサトを見上げた はその瞳に青い光が戻っている事に気付き――声を失った。


「アサト――」

 掠れた声で呼び掛けると、アサトは今度は の肩口に舌を這わせた。裂けた服の下の傷にまでは触れないが……まるで詫びるかのように、温かい舌が の首筋に触れる。
  は唇を震わせると、声にならない呻きを漏らした。目から熱い雫がこぼれ落ちる。

「アサト……ッ」

 痛む背を一瞬だけ忘れ去り、身体を起こす。膝をついた は、アサトの巨大な身体を抱きしめた。



「アサト……、アサト……!」

 だたその名だけを呼び、 は黒い毛並みに顔を埋めた。涙が硬い毛に滲みていく。
 困惑した様子のアサトは、やがてそろそろと大きな手を上げると の髪を撫で始めた。ゴツゴツとした感触でも、その仕草はまぎれもなく――アサトのものだ。

  は一度だけ強く額を擦り付けるとコノエを見、次に真っ赤な瞳でアサトを見上げて笑った。


「コノエ……アサト……、終わらせよう。一緒に帰ろう……!」








 最後の闘いは、どこで命を落としてもおかしくないほど激しいものとなった。

 理性を取り戻したアサトがリークスに吼える。コノエの新しい旋律を支えるように も声を上げ、ふたりでアサトを援護した。

 背が痛む。血の気が引いて崩れ落ちそうになる。それでも は座り込んだまま、己のうちの炎をアサトに捧げ続けた。それは怒りではなく、深い情愛の色をしていた。





 ――なぜ、アサトに惹かれたのか。
 
 優しかったから? 純粋だったから?
 可哀想、だったから……?



 ――違う。理由なんてきっとない。
 ただ真っ直ぐにぶつかってくる心が眩しくて、うまく言葉で伝えられずに戸惑う姿が愛しくて、幼子のようにすり寄る瞳が優しくも寂しそうで……ずっとずっと、側にいたいと思うようになった。

 側にいてやるのではない。側に、いて欲しいのだ。アサトが自分を求めるのと同じだけ、自分もアサトを必要としている。


 青い瞳が好きで、無骨だけど意外に器用な手が好きで、黒い毛並みが好きで、優しい心が好きで――離れたくない。共に生きていきたい。

 吉良に追われていても構わない。どんな姿をしていても構わない。
 どんな状況であっても――優しい青の光だけで、自分はどこまでも満たされる。





 白い光に、うっすらと赤が混じる。光が炸裂してそれに包まれたアサトが吼える。
 ふたりの歌はまばゆい光を放ち、哀しい魔術師を彼方まで押し流していった。








 +++++   +++++








 光に、照らされる。うつ伏せに倒れていた は、草の葉が頬に触れてうっすらと目を開いた。

 景色は暗く、色褪せて見える。だが何度か瞬きをすると、瑞々しい緑の色彩の中にいる事に気付いた。……血の気が足りず、目が霞んでいるのだ。全身が冷たく感じる。


「ここ、は……」

 顔だけを起こした は、隣にカルツの遺骸が倒れている事に気付き、驚いた。
 黒い影が透き通り……消えていこうとしているのだ。もう、この世界には留まれないという事か。

 その時、 は向こうにふたつの影を捉えて目を見開いた。コノエと……アサトだ。
 だがコノエは目覚めた にも気付かない様子で、黒い獣に泣きそうな顔で縋っていた。
 くんと嗅ぐと、濃い血の臭いがした。――まさか。



 力を振り絞り、アサトの所まで行く。


 ・身体が動かない。カルツの側で事態を見守る。





































【力を振り絞り、アサトの所まで行く】



……、アサトが……アサトが……っ」

「アサ、ト……」


 ようようアサトの元に辿り着いた は、その黒い毛並みを濡らす夥しい量の血液に気付き絶句した。顔を歪めたコノエが、 を縋るように見上げる。
  はふらふらと、アサトの側に崩れ落ちた。その身体に触れると赤く染まった手がさらに血に濡れる。――その時。

「……!」

 アサトの身体から、突然黒い炎が立ち上った。驚き離れようとしたふたりは、だが顔を見合わせると再びアサトに触れてその身体を抱きしめた。

 たとえ炎の中であっても――共に生きたいのは、この一つの魂。もう、絶対に離れない――!
  は渾身の力でアサトを抱きしめ続けた。








 アサトは暗い空間に立っていた。足元には今にも呑み込まれそうな深い闇だ。
 瞬きをすると、身体が落ち始める。だが浮遊した身体はその時、両手を掴まれて光の下へと引っ張り上げられた。



「……う……、……あ――」

 目を開くと―― が覗き込んでいた。顔は蒼白く、疲労を刻んでいる。その中で、見開かれた目だけが溢れるほどの生を纏っていた。


「アサト……」

 掠れた声が名を……自分の名を、紡ぐ。言葉が発端になったように が顔を歪ませた。そして緑の両目から、大粒の涙が零れ落ちた。

「アサト……アサト……ッ! う……あぁ……ッ、あ……アサト……っ」


 初めて見た雌猫の泣き顔は――グシャグシャで、ボロボロで……可愛かった。
 見るとコノエも、傍らで涙を流して笑っている。その耳は元の色に戻っていた。


「…… ……」

 自分も――猫の姿に、戻っていた。うまく動かない唇でその猫の名を呼ぶ。すると は、感極まったようにアサトに抱きついてきた。
 反射的に柔らかな身体を抱き返したアサトは、その背に切れた布の感触と温かなぬめりを感じ取り、目を見開いた。


……お前――ッ!」

  の身体を離し、背中を覗き込む。白く滑らかだったその場所は……痛々しく、一直線に切り裂かれていた。


「すまない……ッ! すまない、 ……!」

 崩れそうな背に手を添え、謝罪の声が飛び出す。 は青い顔で、きょとんと目を瞬いた。
 申し訳なさと、後悔と、己への怒りが胸を灼く。だがその葛藤は、頬にそっと添えられた の手によって打ち切られた。


「……平気。アサトのせいじゃないよ。これは私の……勲章だから。それに………お揃い、だね」

「……ッ」

 優しい笑顔が、目が唇が――柔らかな言葉を紡ぐ。
  はコツンと額をぶつけると、そっと瞳を閉じた。そのまま顔を傾け、唇を押し当てられる。


 ぽつりと零れた声に、アサトは心が溶けていくのを感じた。


「……お帰り。アサト――」

 










BACK.TOP.NEXT.



































【身体が動かない。カルツの側で事態を見守る】



「アサト……」

 その場に佇んだまま呼び掛けた の声に、黒い獣が反応した。
 アサトがゆっくりと起き上がる。慌てて縋ったコノエをやんわりと押しやり、こちらに視線を向けたアサトは と目が合うと――打たれたように固まった。


「……アサト?」

 アサトはカルツの亡骸を見下ろしている。そしてまた に目を向けると、低く低く唸るような咆哮を上げた。

「……ッ」

 ビリビリと、絶叫のような悲鳴が肌に響く。思わず瞼を閉じてから再び目を開けた は、次に見えた光景に目を見開いた。




「――アサト!? やめろ……!」


 コノエが叫ぶ。それが音になるより早く、黒い腕が動いた。


 爪が空を斬る。獲物を狙って目に見えぬ速度で振り下ろされる。



 鋭い爪が太い腕をもって貫いたのは――





 魔物の……心臓。






 
(……なに……?)


 鮮血が溢れ出す。真っ赤な血しぶきを上げて黒い獣が倒れていく光景が、スローモーションで の網膜に焼き付く。



「アサト――ッ!!」

 またコノエが何か叫んだ。轟音を立てて巨体が地に沈む。
 急速に色を失っていく青の瞳は、探るように の顔を捉えた。その瞳は―― に何かを告げていた。




『これで……いい――』





「…………、あ……」


 まるでその父親と同じ想いを遺し、瞳がゆっくりと閉じられていく。


 そして完全に……永遠に青い光が喪われた時――

 の精神は、軋みを上げて砕け散った。




「……ヒ……あ……ッ、……いやああぁぁぁ――ッッ!!!」

















BACK.TOP.NEXT.