12、獣




「冥戯か……。あたしらが弱るまで出てこないなんて、腐った根性してるじゃないか」

「…………」


 現れた冥戯の猫に、カガリが後方から吐き捨てるように呟いた。震える足を叱咤し、立ち上がろうとする。 は慌ててその側へと駆け戻った。

「カガリ、まだ傷が……!」

「お前、なんで戻ってくるんだ! ……いいから行きな。コイツはあたしが何とかするよ」

「無理よ!」

 見るからに後がないその様子に、 はカガリを後ろにかばうと剣を引き抜いた。腕も足も歌の反動で震えていたが、ここでカガリに闘わせる訳にはいかない。


「私が相手よ……!」

「……そうか。――勇敢な賛牙よ」

 剣を構え、じりじりと近付く。冥戯の猫は冷たい目で を一瞥して、スラリと剣を抜いた。
 雌だから手加減しようとか遊んでやる、などという甘さは一切ない。ただ を殺すための剣が、そこにあった。


 冥戯の猫が動く。思ったよりも速く、重い斬撃に が衝撃を予測して剣を翳したその時――

「……ッ! ――え……」

 敵の剣は、飛んできた氷の柱によってせき止められた。



「お前……!」

「……カルツ――」

  とカガリが同時に目を見開く。現れたカルツは猫の攻撃をかわして間合いを取ると、剣を構えたままの に向けてわずかに顎をしゃくった。
 何故か冥戯の猫も次の攻撃をせずに、カルツをじっと見つめている。


「……行きなさい。ここは、私が食い止める」

「……ッ」

 一体…何事だ。突然の事に頭が回らない。混乱する を見て、カルツはわずかに声を荒げた。

「早く! 手遅れになる前に……」

「……? ――あ、ええ……」

 手遅れとは……何が? ふたりの命のことか――?
 カルツの言葉の意味は分からなかったが、再度促されて は足の向きを変えた。それでも不安げに見上げた に、カルツが視線を向ける。そしてわずかに微笑んだ……ような気がした。


「あの子を愛してくれて――ありがとう」

「え……」

 それは、 に向けたものだったのか、カガリに向けたものだったのか。
 ふわりと耳を掠めた言葉に は呆然とした。視線を前方に戻し、カルツは続ける。

「君に頼みたい。どうか、できる事なら……息子を幸せにしてやってくれ」

「……どういう――。……ッ!」


 ――意味だ。 の疑問の声は、その瞬間再開された戦闘に掻き消されてしまった。氷のつぶてを纏ったカルツが、冥戯の猫に向かっていく。
  は逡巡したが迷いを断ち切ると、カルツの横を抜けて砦の中へと駆け抜けていった。







『息子もいる。もう昔の話だが』

『悪魔? ……違う、猫だ。褐色の肌をした気の強い猫だった』

『どうか、できる事なら……息子を幸せにしてやってくれ』


 カルツの言葉の端々が、頭に甦る。 は走りながら、やっと辿り着いた真実に電流を受けたような衝撃を感じていた。

 カルツは――アサトの父親だ。もう間違いない。あの見守るような視線も、憂う視線も……全てわが子を案じていたがゆえか。

 なぜ悪魔の姿をしているかは分からない。アサトが真実を知っているのかどうかも分からない。
 けれどカルツはいつも、何かを語りたいような瞳をしていた。息子に……何かを伝えるような、懸命な眼差しを。

(どうして――?)

 数々の疑問が胸に膨らむ。けれどそれらを凌駕する、一つの強い思いを は感じていた。 


(何かを告げたいなら――ちゃんと、伝えなさいよ。態度で、言葉で……。それまでは、絶対に死なないでよ……!)


  は歯を食いしばると、弱音を吐く身体を叱咤して砦の中を走り続けた。








 
「――コノエ! 良かった。まだ無、事――、……っ」


 いくつもの回廊を通り、最後にあった開きっぱなしの扉をくぐる。やっと辿り着いた。だが一瞬の安堵の後…… は声を失った。
 巨大な花が咲き乱れる薄暗い部屋の中に、コノエがいる。今のところ無傷のようだ。それは良いのだが――前に立つ二つの影に、目が釘付けになった。


「……ほう、ようやくお出ましか。愛しい猫の変貌には、間に合わなかったようだな」

「な――」

 影の一つは、黒い耳をした猫の姿だった。勝ち誇ったように笑むその顔は――なぜか、コノエの顔をしている。

「まさか……リークス……?」

「ああ……。ゴメン、ちょっと俺にも説明できないけど――」

 駆け寄った に、コノエが苦渋の表情で告げる。しかしその言葉は、もう一つの影の咆哮によって遮られた。
 それは――魔物。いびつな様相の黒い魔獣が、リークスの横に従っている。

「なに……」

  は最初、その獣をリークスの呼び出した魔獣だと思った。あの獣で自分たちを食い破るのだと。という事は――


「――アサトは!? まさか、もう……!」

 最悪の想像に振り返った に、コノエが泣きそうな顔で首を振った。そして告げられた言葉に…… は、足元がスッと冷たくなるのを感じた。

「あれが――アサトなんだ……」









「嘘……」

「嘘じゃない。信じられないと思うけど、あれがアサトなんだ……!」

 呆然と漏らした に、コノエが再度苦しげに叫ぶ。 は黒猫の面影も残らない魔獣を見上げると、衝動的に駆け寄った。


「……アサト……!」

! 駄目だ……!」

「く…っ!」

 だが見えない壁に阻まれ、途中で立ち止まる。 は壁に爪を立てると、黒猫の言葉を思い出して声にならない呻きを漏らした。


 
『生きる時間が……残されていないと言われた。全て失う。全て傷付ける。お前も、コノエも……みんな』

『もし、俺が醜いものに変わっても……お前は側にいてくれるのか』

……俺と今日、こうした事を……忘れないでくれ。覚えていてくれ』



 アサトは――知っていたのだ。自らの哀しい運命を。だから やコノエから離れようとした。自らの命を絶とうとしてまで。
 なぜ言わなかったかなんて……分かりきっている。口にするのが恐ろしくもあったのだろう。けれどそれ以上に――自分たちに、心配を掛けまいとしたのだ。 

(アサト――!)

 そんなアサトに対して自分は、何を分かってやれた? 知ったフリをして、一体何をしてやれた?
  は沸き上がる後悔に身を焼かれ、涙が滲みそうになった。だが思い止まってアサトをまっすぐに見上げる。

(悔やむのも泣くのも今じゃなくていい。今すべきことは――)



「アサト……こっちに、来て……」

「ほう……。これがあの猫だと、認めるのか。こんな醜い化け物が!」

「私はコノエを信じるわ! どんな姿でも…側にいるって言ったのよ。あれがアサトだって言うなら――私は絶対に離れない!」

 壁越しに呼び掛けた に、リークスが面白いものを見たとでも言うかのように笑う。 は強く叫ぶと、見えない壁を叩き付けた。

「アサトに会わせろ! 俺たちはまだ、諦めてない!」

 コノエが同調するように重ねて言ったのに勇気を貰い、 はじっとリークスを睨み付けた。二匹分の強い眼差しを受け止め、リークスが片手を翳す。


「……そこまで言うなら、良かろう。後で後悔する事にならなければ良いがな」

 リークスが哂う。その瞬間、ドンと強い衝撃がして地面が揺らいだ。
 思わず目を瞑った二匹は、次に目を開いた時にアサトの姿がない事に目を見張った。



「……!  、後ろだ!」

「!!」

 ザッと空気を切り裂いて、巨大な爪が振るわれる。 は髪一筋を犠牲に間一髪で逃れると、信じられない気持ちでアサトを見上げた。
 ――襲われた。凶暴な殺意を持った瞳で、躊躇することもなく。

「アサト! 私よ!! 分からないの……!?」

「無駄だ。その獣はすでに身も心も闇に囚われている。お前たちが呼びかけたところで、猫であったときの感情や記憶を取り戻すことはありえん」

「……うるさい……ッ!!」


 アサトの攻撃を避けながら、 はリークスに向かって叫んだ。コノエともども逃げているうちに、何度となく鋭い爪が たちの周囲の地面を、服を身体をえぐっていく。

 歌を歌うとか剣で応戦するとか、そんなレベルではない。ただ一方的に二匹は嬲られていた。疲労したコノエが、ふいに足をもつれさせる。


「コノエ!!」

「……ッ!」

 ――やられた、と は思った。アサトの爪が、コノエの胸を切り裂いたのだと。
 だが が目を見張った先からは血が噴き出す代わりに、甘い花の香りが散った。……コノエの、胸から。

「え……!?」

 パッと、白い閃光のような光に包まれる。その強烈さに が思わず目を瞑ると、一瞬の光はすぐに薄らいでいった。
  がそろそろと目を開けると、同じく呆然としていたコノエがアサトの顔を見上げていた。



「アサト……戻っ、た……?」

「……! アサト……!?」

  が振り仰いだ先の黒い獣の瞳には――紺碧の光が、宿っていた。

 獣はしずかに佇んだまま、微動だにせず とコノエを見下ろしている。
 獣の衝動に猫の理性が打ち勝っている。取り戻すなら――今しかない。 はアサトに駆け寄ると、足元からその瞳を見上げた。口を開こうと息を吸う。


「アサト――」

「!  、駄目だ! また……っ!」

「!!」

 今の光は何だったというのか。掻き消えるように紺碧の光が消え――アサトの瞳は、再び猛る朱色に塗り替えられた。
 黒い腕が動く。その爪が狙う先は足元にいる ではなく――コノエ……!


「コノエ!!」

  は短く叫ぶと、咄嗟に身体を反転させた。





 ・ 少しでも遠くへ! コノエを押して自分も飛ぶ


 ・ 間に合わない……! コノエを抱きすくめる

 

 













BACK.TOP.