「ん……」 翌朝、 は屋外の喧騒に刺激されてぼんやりと目を覚ました。 横たわったまま目を開き、視界を得ると―― 「…ッ!?」 そこは、アサトの寝顔で埋め尽くされていた。
(そ、そ、そっか……。昨日――) 驚愕に思わず噴き出しそうになった は、パッと昨夜の出来事を思い出して一気に覚醒した。頬に朱がのぼる。 とりあえずそっと身体を起こそうとすると、アサトの手足が絡みついていて身動きが取れない事に気付いた。これではアサトが覚醒するまでどうする事もできない。 アサトはまだ眠りの淵にいるようだ。穏やかな……というよりは少々子供っぽい顔で、静かに寝ている。その褐色の寝顔をくすぐったくも穏やかに見つめていた は、ふと邪な考えを思い付いてしまった。 (ちょっとだけ、なら――) 外の異変を気にする心は少しの間どこかへ飛ばし、 はそっと唇をアサトの顔へ寄せた。そのまま規則正しい寝息を立てる唇へと押し当てる。 温かなぬくもりを感じた は、すぐに顔を離した。――だが。 「……わぁッ!」 肩に手が掛かったと思った瞬間、 はアサトに押し倒された。突然覚醒したアサトが、何が起きたか良く分からないという目で を見下ろしている。 「…… ?」 「うん……。ゴメン、驚かせちゃったわね」 がくすりと笑うと、アサトは一瞬呆けた顔をした後にほんのりと頬を染めた。いい加減に起きようと思った は、その身体をそっと押し退ける。 「……? アサト?」 「…… ……」 だが、アサトが身体の上から退いてくれない。訝しんで見上げた は、次の瞬間唇を塞がれて目を丸くした。 「……ッん!」 「 ……っ」 「ちょっと、アサト……! ダメだってば……、ン……っ。……コラッ……!」 アサトは唇を重ねたまま の裸の身体に……昨夜散々触りたおした身体に、手を這わせてきた。快楽の名残が残る身体はあっという間にその情景を思い出し、容易く熱を灯らせる。 は危うく流されそうになるのをこらえて、アサトの背中をバシバシと叩いた。 「外……! 変なのよ!」 「外……?」 の必死な声に、アサトもようやく顔を上げてくれた。耳を傾け、様子を探る。するとその顔が徐々に張り詰め、アサトは の上から身を起こした。 悪魔が集まっている、という事でふたりは慌てて仕度した。これは異常事態だ。 放り投げられた服を拾って身に着ける。ちなみに下穿きは、かろうじて残っていた予備を着用した。 が窓枠に手を掛けると、その後ろ髪をアサトがふいに引っ張った。ガクリと顎が仰け反る。 「痛ったぁ! ……な、なに!?」 「あ、すまない……。ただ……髪が、乱れている」 「え……?」 申し訳なさそうに耳を下げたアサトが、 の頭に目をやる。つられて手をやった は、ハッと目を見開いた。……確かにスゴイ事になっている。故意に乱しましたと言わんばかりの頭だ。 ――でも、櫛はどこにしまっていただろう? 咄嗟の事に頭が巡らない。そんな時間はないのにと逡巡した を、アサトが引っ張って寝台に座らせた。 「……俺がやってやる。すぐに済む」 「え……!」 振り返った の頭を押さえ、アサトが落ちていた髪紐を拾い上げた。そのまま櫛も使わず、スッスッと爪で器用に髪を梳いて纏め上げていく。手馴れたその仕草に、 は心地良さを感じながらも戸惑った。 「なんで、こんな事できるの……?」 「カガリに何度かやった事がある」 「……そっか」 ある意味予想通りの答えだった。 はほんの少しだけヤキモチめいたものを感じたが、それ以上に何か吉良のふたりの間に温かいものを感じてそっと笑んだ。その間にアサトは仕上げとばかりに花瓶から一輪花を取って結い終えた髪に挿し、 から手を離した。 「できた」 「ありがと。……スゴイわね……」 そっと頭に触れた は、紐一本できちんと纏め上げられている髪に感嘆した。しかもこの短時間で編み込みなどの細かいアレンジまで入っている。カガミがないので確認できないが、間違いなく自分でやるよりも綺麗に仕上がっている事だろう。 は振り向いてもう一度礼を言うと、アサトと共に宿の屋根へ上がった。 屋根の上には、悪魔とバルドとコノエが揃っていた。なぜかライとフラウドの姿がない。 ふたりの到着に気付いたコノエが振り返り、ふと目を見開いた。 「アサト……と、 ……? なんで――」 そこまで口にしたコノエが、ハッと口をつぐむ。頬が朱に染まり、ふたりの間に何があったかを感じ取ったようだった。 一緒になって赤くなった は、肯定も否定もできずに平静な口調を装うとこの状況を尋ねた。ヴェルグが上空を見上げる。 「何があったの?」 「見てみろよ、あれ」 いつになく真剣なヴェルグの口調につられ、猫たちは空を見上げた。そして、信じがたい光景に絶句した。朝の空に輝いているはずの陽の月が……まるで侵食されるように、欠けていっているのだ。 その現象は「蝕」と言うらしい。陰の月が陽の月と一緒に上って、陽の月を覆い隠してしまうのだとバルドが語った。 そしてまさに今、陽の月の全てが隠されると――空は一面の赤に染まった。 再び声を失った たちは、その時響いた道化の声にハッと顔を上げた。 「いよいよだね。――時が来た」 唐突に現れたフィリは「あの方が待っている」とだけ告げて、くるりと掻き消えた。 そしてその直後。邪悪な歌の訪れと共に、大勢の死猫が藍閃へと押し寄せてきた。 「あの村と同じ……。でも、数が多すぎる!」 死猫たちは、邪悪な歌に操られてゆっくりと、だが確実に藍閃に近付いてきていた。 この歌を、止めなければ。 が叫ぶと、コノエも同じ気持ちのようだった。 意見を求めるように悪魔を見ると、この歌は蝕の月を利用して魔力を祇沙中に振り撒いているとカルツが告げた。今ならば――リークスの居場所も分かると言う。 いきり立ったヴェルグが瞬間移動をしようと姿を揺らがせる。それをコノエが引き止め、同行を願い出た。 『一人一匹』と告げるヴェルグに、コノエが周囲を窺う。バルドは首を振り、アサトは大きく頷いた。そしてアサトが視線を送ると……その眼差しを受け止めた も、しっかりと頷いた。 「行こう。コノエ―― 」 「う、えええぇぇ……」 だが、ラゼルによる目の回る瞬間移動の直後…… はその場にしゃがみ込んで、襲い来る眩暈と吐き気に耐えざるを得なかった。 「移動って…こんなモンなの……?」 「仕方あるまい。これでも余程丁重に飛んだつもりなんだが」 傍らに立ったラゼルは、勿論平然としている。紳士然としていながらこの悪魔、なかなか荒っぽい。 の肩に手を置いたかと思うと掬い上げるように抱き上げ、「飛ぶぞ」の一言で返事も待たずに飛び始めてしまったのだ。 無論この不快さはラゼルのせいではないとは分かっているのだが―― は憤怒の悪魔を睨まずにはいられなかった。 「 、大丈夫か……?」 カルツの手から離れたアサトが、 の肩に手を掛ける。 はなんとか立ち上がると、ようやく周囲を見渡す事ができた。 ……崖? 壁? ――違う、大樹だ。一行は、巨大すぎる一本の樹の前に立ち尽くしていた。 これが、リークスの砦らしい。根元に扉がしつらえられている。……という事は、あの中にリークスがいるのだろう。 だが早速と踏み出した一行は、だが湧いたように溢れてきた猫の大群に足止めをされた。 「これは……冥戯の術だ」 カルツが呟く。死体も混じったその大群は、コノエ目掛けて次々に襲い掛かってきた。 走り出した猫たちは、後を駆ける悪魔たちの攻撃によって進路を切り拓かれた。 コノエ・アサト・ の三匹が駆ける。しかしようやく扉に手が届こうとする頃、三匹は……いや は、不吉な声によって強制的に足を止められた。 「またあえたね、きんのめす。……こんどこそ、おまえのいのちをうばってやるよ」 「……キル――」 ……来ると思っていた。いつかは、決着を付けるために。 けれど彼らは強い。こんな時に(だからこそなのだろうが)現れた強敵の姿に、 は知らず唇を噛んだ。 コノエとアサトには……行ってもらわなければ。ふたりには成すべき事がある。だが がそれを口にするよりも早く、アサトが牙を剥いてキルに吼えた。 「おまえ……やはり を追っていたのか!」 「あれ? きいてないのかくろいねこ。ねこごろしのねこは、まえにもおれたちとあそんでくれたんだよ? しろいおねえさんもいっしょにね!」 「俺、たち……? 白い雌? まさか――」 「ああ、くろいねこ……。おまえにもあいたかった。きんのめすのあとで、ころしてあげるよ!」 狂気じみた叫びを上げて、キルがコートをめくった。現れたウルの生首にアサトとコノエが息を呑む。すぐに緑の旋律が生まれると、キルは に飛び掛かってきた。 「ころしてやるよ、きんのめす!!」 「……! させるか!」 鈍い音を立てて、アサトが抜き放った剣をキルの剣に突き立てた。恐ろしく速い剣戟を受け止め、キルに攻撃を仕掛ける。 もハッと我に返ると、炎の歌を紡ぎ始めた。――しかし。 「……!? なんで――」 歌が――アサトに届かない。コノエも歌い始めていたが、同様に跳ね返されてしまうようだった。アサトを注視した二匹は、次の瞬間顔を強張らせた。 「……ぐ、あああァァあア……! 黙れ、うるさい……!」 「アサト――変だ……」 アサトが、叫びながら剣を振るっている。どれだけ歌を送ろうとも全く聞こえていない様子だ。 その目は既に正気を失っていた。獰猛な光を湛えた瞳が獲物を睨み、滅茶苦茶に襲っていく。加減も何もない爆発的な攻撃に、さすがのキルも怯んだようだった。 「めいぎのちだろう、くろいねこ! おまえはまものにそっくりだ!」 遠くに飛んだキルが、体勢を立て直して攻撃してくる。前ばかりを見つめていたアサトは気付かない。致命傷ではないが深手を負わせる太刀が数度閃き、アサトはたまらず倒れ込んだ。 「ぐ……!!」 「アサト!!」 が飛び出す。咄嗟に剣を抜いてアサトの前に立ち塞がった は、強い衝撃を予測して剣を構えた。受けられるかどうかは分からない。でも、アサトを守らなければ――! 「!! ……え……っ?」 「なにやってんだい。そんな構えでアサトを護ろうなんて、お門違いもいい所だよ!」 目を開いてキルの剣を受け止める……はずだった は、目の前に立ちはだかった灰色マントの猫に目を見開いた。 「――カガリ!」 コノエが叫ぶ。突如現れたカガリは三叉の武器を構えると、攻撃をかわされたキルをねめつけた。 「またお前らかい。雌猫の尻を追うなって言ってんだろ! いい加減しつこいんだよ!」 「おねえさん、また来たんだ……。おれたちのじゃま、しないでよ!」 キルが殺気をカガリへと転じる。カガリが攻撃態勢を取るのを見て、 もすかさず歌を育て始めた。その合間にコノエに視線を送る。 「コノエ、行って! 私はここに残る!」 「え!? でもアンタ達――」 アサトを介抱していたコノエが戸惑う視線を向ける。その返答を聞く余裕はなく、 はカガリに向き合うと歌を紡ぎ始めた。 「歌なんていらないよ! お前は敵だろうが!」 「目的は一緒でしょ! 一緒に闘った仲じゃない。黙って受け取ってよ!」 「……馴れ馴れしく言うんじゃないよ!」 言葉とは裏腹に、わずかに唇を歪めたカガリがキルに向き直る。次の瞬間カガリは赤の光を纏い、緑の本流の中へと飛び込んだ。 「う……。 ……? ――カガリ……!?」 アサトは苦痛に顔をしかめた後、うっすらと目を開いた。すると目の前で展開される熾烈な闘いに、ハッと声を失った。 「カガリ、どうしてここに……」 大切な雌たちが、目の前で闘っている。 の発する赤い光に包まれたカガリが、厳しい目でスッとアサトに視線を向けた。 「早く行きな!」 目が合ったのは、ほんの一瞬だっただろう。カガリは顔を向きなおすとあの冥戯の猫へと突っ込んでいった。それと入れ替わりに、 がアサトとコノエを強く捉える。 「大丈夫だから。先に行って! 私は後から追いかける!」 歌いながら、睨むようにじっと見つめられる。雌猫の目は強い意志を宿していた。 「――コノエ。頼んだわよ……!」 コノエにふっと視線を逸らしたのを最後に、 もまた闘いの中へと戻っていった。 「……行こう。アサト」 コノエに促され、アサトは雌二匹を振り切って扉の向こうへと走り出した。 「そろそろへばってきてんじゃないかい? 顔が歪んでるよ」 「おねえさんこそ、あしがもつれてきてるよ!」 一方、残された雌たちは――苛烈な剣戟を交わしていた。 の紡ぐ真っ赤な歌を、カガリが目を見張る速度の一閃へと変える。二度目の共闘は、前回よりも更に深くふたりを結び付けていた。 だがその力にも限界がある。激戦を重ねた結果、両者とも……もちろんキルも、限界に近付いてきていた。 「これで、決まりだよ……!!」 「……! ぐ……ッ!!」 血に塗れたカガリが、鋭く叫ぶ。その次の瞬間、重い一閃でカガリはキルの上体を切り裂いた。 ――決まった。力尽きたように膝を折ったカガリの前に、キルがゆっくりと倒れていく。脱力した も膝を折りかけたがしかし……カガリに手を伸ばすキルを見て、その目前へと駆けた。 「させない……!」 剣を抜き、キルの爪を退ける。全ての攻撃の手を失ったキルは、呪い殺すような眼差しで を睨みつけてきた。――低く地面に這いつくばりながら。 「きんのめす……おまえだけは、ゆるさない……!」 「…………」 もう何度叩き付けられたともしれない呪詛の言葉を、 は唇を噛んで受け止めた。 ウルを殺した。それは覆しようもない事実だ。だが には、それをどうやって償ったらいいかが分からない。キルは自分が死ぬ事を望んでいる。しかしそれはできない。ならば―― 「おれたちを、ひきはなした――! ふたりでひとりのおれたちを、おれひとりにした! ……どうしておれも、いっしょにいかせてくれなかった!!」 「……ッ」 死にかけたキルの、血反吐を吐くような叫びに はハッと目を見開いた。するとキルに押し潰されてこちらも虫の息のウルが、キルに語るように呟く。 「おれたちは……いつもいっしょだ……。いっしょにいこうよ、キル……。だれも、リークスさまも、てのとどかないところへ……おまえとふたりで、いきたいよ……」 「ウル……。――ああ、いきたいな……」 それきり、ウルが言葉を紡ぐ事はなかった。もう を見る事をやめたキルの声も、段々と小さくなっていく。苦しげにゲホゲホと血を吐くキルを見下ろし、 は悟った。 償えないのならば――せめて、残された者が望む事を。 「い…しょに……」 「……ッ、……送って――あげる………」 は剣を振り翳すと、キルの心臓に向かって一息に突き立てた。 突き刺した背からは、血が溢れ出すと思った。けれどふたりの身体からは赤い血ではなく、優しい夜のような闇が溢れてきた。黒色が静かにキルを包み込んでいく。 穏やかな顔をしたキルが、徐々に消えていく。そして風が吹いた瞬間、二輪の花だけを残して猫の姿は跡形もなく消えてしまった。 「…………」 足元に残されたのは、寄り添う花たちだけ。 は剣をしまうと、たまらず天を仰いだ。 『ごめんね』と言えば良かったのだろうか。『許して』と請えば良かったのだろうか。……どれも言うことすら、憚られるような気がした。 嗚咽してしまいたかった。絶叫してしまいたかった。だけど、それは許されない。時間も――立場も。 それでもこらえ切れぬ呻きを涙と共に押し流すと、 は涙に滲む視線をカガリへと向けた。 「……大丈夫? 傷は深くない?」 「ああ……闘うのは無理だけど、少ししたら歩くくらいは大丈夫だろ」 「そっか……。……ありがとう……」 はしゃがみ込むと、カガリの身体にざっと目をやった。言うとおり疲労も怪我もしているが、命に別状はなさそうだ。安堵する を見遣り、カガリがぼそっと口を開いた。 「別に……気にする事ない。アイツらは、きっとあれで満足だったんだろうよ。あたしにはよく分からないけど、アイツらの望み……叶えてやれたんじゃないの」 「…………」 そのぶっきらぼうな言葉に…… は、弱い部分を突かれたような気がした。 全てに頷くことはできないが、カガリの言葉が心に深く沁みていく。また歪みそうになる顔を慌てて締めると、 は服のポケットを探った。 「手当て、しないとね――」 「いい。お前は、アサトの後を追いかけるんだ」 申し出た に、カガリは毅然とした視線を返した。迷う の背を押すように、肩を押し退ける。 「追ってやって。あの子には、お前が必要なんだ」 「カガリ――」 その強い言葉に、 が首を振ることなどできる訳がなかった。 は立ち上がると踵を返した。その背に向かい、カガリがポツリと問い掛ける。 「……一つ、聞かせな。お前、どうしてよりによってアサトを選んだ? 他にもマシな雄がいただろうに、なんであんな世間知らずを選んだんだ。……変な猫だね」 「…………」 カガリの疑問に、 ははたと足を止めた。目を丸くして振り返る。 世間知らずに育てたのは誰だ……と思わないでもなかったが、それは黙っておく事にした。 「それ、アサトにも言われたけど……別に変じゃないわよ。アサトは祇沙いち格好いいし、素敵だし、優しいわ。……私はアサトが好き。もうアサト以外の猫なんて、考えられない」 「……ッ。…………本気かい?」 「? ……本気よ?」 きょとんと答えると、カガリは何かが喉に詰まったような顔をした。盛大に溜息を吐き、早く行けと言わんばかりにヒラヒラと手を振る。 「お前……馬鹿だね。付き合ってらんないよ、早くお行き!」 「? う、うん……」 圧された が走り始める。その背後で『あたしもようやく子離れできるのかねぇ……』とカガリが呟いた事には、 は気付かなかった。――しかし。 「……吉良の猫と、賛牙か……」 「!?」 「――お前……っ!」 数歩走った は――現れた黒づくめの雄猫に、行くべき進路を塞がれた。 |