【間に合わない……! コノエを抱きすくめる】
13、散華
「……ッ!! ぐ……っア――!!」
「
!?」
ズブリと、身体が引き裂かれる音がした。コノエを咄嗟に抱きすくめた
は、背中に灼熱の痛みを感じて倒れ込んだ。 急速に、腰から下の感覚が抜けていく。足がそこにあるのかどうかすら分からない。
「
! 大丈夫か……!?」
呼吸すら忘れた
の腕から這い出たコノエが、危険も顧みずに
を覗き込む。だがその声は、鋭く息を呑む音に取って変わられた。
「……アンタ――」
――分かってる。きっと、酷いことになっているのだろう。 ただ背中を斬られたのではない。まともに太い爪を受け、背骨を砕かれるような感触がした。 なぜ今もこうして思考ができるのか不思議なくらいだ。即死でもおかしくなかった。
(ああ……そうか)
死んでいないという事は、まだなすべき事があるということだ。 だが吐き気にも似た悪寒が身体を這い回り始め、呼吸すらままならない。
はぐったりとした視線を震えるコノエに向けると、その瞳をじっと覗き込んだ。
「アンタ、なんで俺なんかかばったんだ!! 俺を殺せばアサトは鎮まったかもしれないのに――なんで、よりによってアンタが……ッ!」
――そんなの、なんでなんて分からない。身体が動いてしまっただけだ。 ……泣かないで、コノエ。君にはまだやり遂げてほしい事がある。
「コノ、エ……アサトを――連れ戻して……。きっと……苦しんでる――」
「
……」
コノエが目を見開く。その背に向かって、再び鋭い爪が振り下ろされた。 だがその瞬簡にコノエとアサトの間に割って入った青の悪魔を見る事なく、
の意識は深い闇に覆い尽くされた。
+++++ +++++
――死とは、なんと静寂に満ちているのだろう。 たゆたう意識の中で、
はぼんやりと思った。
(アサトは、戻ったかな……)
暗闇の中に、あの黒い猫はいない。
を呼び、笑った猫はこの空間にはまだ来ていない。それは
にとって喜ばしい事だった。
本当は、共に逝きたいという気持ちもあった。だけどそれは許されない。 アサトは生きて――幸せな生を掴むのだ。
この闘いで、今まで得られなかったものの片鱗をきっと手に入れたはずだ。受け入れてくれる仲間がいる事も、十分に分かっただろう。 その過程で傍らにいられただけで……自分には過ぎた幸福だったと
は思った。
ただ一つ悔いるならば――誓いを破り、これから共にいられない事を。 アサトと作る未来を、見てみたかった。側で、死ぬまで、生涯をかけて。
(ごめんね……)
目の前にはこの空間よりも暗い、真の暗闇が迫っている。後はもう呑み込まれるだけだ。 だがその暗闇は、爆発的な白い光によって
から突然遠ざけられた。
「……?」
ペロペロと、頬をくすぐる感触。
は血の気の引いた顔で、努力して瞼を押し上げた。そして目を見開いた。
「……ッ!」
――アサト。……黒い獣が、目の前に膝をつき
の頬を一心に舐めていた。
「な……んで……」
自分は死んだはずじゃないのか。いやむしろアサトはどうなったのだ――? 呆然とする
の声に気付いたのか、側にいたらしいコノエが覗き込んできた。
「
……良かった……!」
顔を上げる。コノエは先程より幾分か傷の増えた顔で、眉を下げて笑った。アサトの横に並んでも、逃げる素振りも見せない。 再びアサトを見上げた
は、その瞳に青い光が戻っている事に気付き――声を失った。
「アサト――」
掠れた声で呼び掛けると、アサトは
の頬にまた舌を這わせた。温かい舌が、血に汚れた
の顔を拭っていく。
は唇を震わせると、声にならない呻きを漏らした。目から熱い涙が零れ落ちる。
「アサト……ッ」
抱き締めたかった。黒い獣の胸に飛び込んで、思うさま額を擦り付けたかった。 けれど足は――やはり少しも動かなかった。
はうつ伏せに倒れたまま顔だけを上げ、必死にアサトに微笑みかけた。
アサトの奥に、なぜかカルツが倒れている。ぴくりとも動かないその姿は、既に事切れているように見えた。 カルツが、何かしてくれたのだろうか? そっと視線を向けると、コノエは複雑な表情で頷いた。
『良かった』と、コノエは言った。けれど本当はそうではない事を、
は正確に感じ取っていた。
これは奇跡だ。どこかの誰かが起こしてくれた、一時だけの奇跡。その証拠に
の背はいまだ血を流し続け、迫り来る暗闇はとどまる事がない。 本当はやはり、自分はあの時点で死んでいたはずなのだ。それをほんの少しだけ永らえさせて、結局これから死にゆく運命にある。しかし――
(誰だか分からないけど――ありがとう。今ならきっと……勝てる)
は深く感謝した。そして一度だけ目を閉じると、強い瞳でアサトとコノエを見上げた。
最後の闘いは、もう
の目にはぼんやりとしか映っていなかった。 コノエが歌う。
はその音なき旋律を拾い、心の中で光を重ねるように歌を紡いだ。
白い光に、うっすらと赤が混じる。光が炸裂してそれに包まれたアサトが吼える。
の歌はまばゆい光の本流に押し流され、天まで昇華していった。
「…………」
目を開ける。視界はますます暗くなっていた。だが肌で、陽の月が昇っている事を
は感じ取った。これで……終わったのか。 本当に、よく命がもっているものだ。
は唇に力ない笑みを刻んだ。
「アサト……アサト……!」
コノエの声がする。近くにいるのか遠くにいるのか、距離感も掴めない。だがその声は嘆くように切迫する響きを帯びていた。
は力を振り絞って上体を起こした。霞む目を細めて、ふたりの姿を探す。――いた。
コノエは黒いアサトに縋り、嗚咽を堪えているようだ。アサトの身体が震える。鉄臭いにおいが漂ってきて……血を吐いたのだと
は悟った。 コノエの顔が一瞬こちらを向く。
の安否を確かめると共に、何か縋るものを求めている瞳だった。
――ああ、分かった……。最後に自分がすべき事が――。
なんのために今まで生き長らえたのか、
はこの時はっきりと理解した。
は目をしっかり開くと、胸の中に炎をイメージし始めた。 激痛と間断なく襲い来る暗闇に引きずられ、炎が消えそうに揺らめく。だが決して途切れさせる事なく、
はアサトを見据えたまま歌を紡ぎ始めた。
かすかな朱の光が、
の指先に灯る。それは草を伝い、アサトの方へと糸のように流れていった。
これは、浄化と癒しの炎。自分の中に残るわずかな命の火を、アサトに移す。……アサトの黒い炎は、自分が闇まで持っていこう。
(届け……。……届け――)
もどかしい速度で、だが確実にアサトへと炎が向かっていく。それは
以外にしてみれば一瞬の出来事だったのかもしれないが、
にとっては永遠にも感じられるほど長い時だった。
(届いて――アサト…………)
ようやくアサトへと辿り着いた穏やかな薄紅の光を、
が見る事はなかった。
+++++ +++++
何が起こったのか、分からなかった。突然アサトが薄紅の光…いや炎に包まれ、炎上したのだ。
コノエは驚きに身を引こうとしたが、思い止まってアサトを抱き込んだ。せめて
の代わりに――何があっても側にいてやりたい。
の背中の傷は酷かったが、それでも顔を上げコノエ達の姿を捉えていた。だから取りあえずは大丈夫だと思った。 それならば
の望むだろう事を、今は代わりにしようとコノエは思った。
だがふたりを包み込んだ温かな炎は突然消滅し、次の瞬間コノエは目を疑った。 アサトが――元に戻っていたのだ。
「アサト……!」
呆然とした後、声に喜色が混じる。見慣れた褐色の横顔はいまだ目を閉ざしていたが、コノエは疲労した身体も忘れて飛び起きた。
の方を振り返る。
「
! アサトが――!」
金の雌を見る。
は先ほどと同じ姿勢のまま、横たわっていた。 だが全くコノエの声に反応しない。聞こえなかったのかともう一度声を上げようとしたコノエは、そのとき異変に気が付いた。
「……
……?」
はやはり動かない。コノエの背中を冷たいものが伝う。 アサトをその場に横たえ、コノエは
のもとに駆け寄った。そして愕然と目を見開いた。
「――あ……、ア……ッ!! な、んで――」
は、目を開いたまま絶命していた。
血の気のない身体を抱き起こす。すると弾みで蒼白い瞼が落ちた。 触れた身体は温かく、いまだ流れ続けている血もやはり温かかった。だがその瞳を閉ざした顔は――既に
がこの世のものではない事を、ありありと物語っていた。
「なんで……! なんでだよ――! どうして、アンタが……ッ」
押さえきれぬ呻きが漏れる。瞳からは勝手にボロボロと涙が溢れ始めていた。 ――全て、終わったのだ。闘いも恐ろしい闇も去り、これから
は幸せになれるはずだったのに。アサトと――!
歌うたい。……いや、父さん。どうしてこの猫も救ってくれなかった!? 既に命が尽きていたからか。闘いを見届けるまで、命を伸ばすのがやっとだったのか。 けれど、なぜ――。あまりの理不尽さに、コノエは
を抱きしめて吼えた。
「う、あああアアア――ッ!!」
「――う……、コノエ……?」
「ッ!!」
いま、一番聞こえてはならない声が聞こえた――。 コノエはハッと振り向いた。すると、まだぼんやりとした様子のアサトが目を開けたところだった。
コノエは咄嗟に
を腕の中に隠した。そんな事をしても無駄だと分かっているのに、その時はそうしなければならないと身体が勝手に動いていた。
「
……!?」
アサトが目を見開き、駆け寄ってくる。強く抱き込んだコノエの腕を払い、アサトは
を奪い取った。
「駄目だアサト、見るな!!」
「――ッ!! ――あ……、あ……ッ」
青い瞳が凍り付く。
の背から流れた血が、アサトの裸身を濡らしていく。 ごくりと鳴った喉が、鋭く息を吸った。見開いた目から熱い雫がこぼれ落ちる。
あまりの痛ましさに、コノエは目を背けたくなった。けれど、視線が凍り付いたように動かない。
コノエはその時はっきりと、一組のつがいが永遠に世界を別たれた事を……感じ取った。
「……
――ッッッ!!!!!」
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