その場所は、藍閃に程近い森の中にあった。


 花に囲まれたそこは常に月の光が降り注ぎ、吹き渡る風は穏やかに澄み切っている。足元を覆う花は年々種類と本数が増えつつあった。

 甘い花弁を散らして、そのとき一匹の精悍な雄猫がその地に足を踏み入れた。



「少し、間が空いてしまった。……久し振りだな、 ――」



 黒猫が花畑を進む。アサトは微笑むと、静かに佇む墓標に向かって語りかけた。






 終章 花咲く頃に








「……うおおォォォ――ッッ!!  ……!  ーッ!!」


 ――あの時。アサトは息絶えた を抱いて咆哮を上げた。
 思考が真っ赤に染まる。動悸が激しくて、ただでさえ疲労した胸がとうとう張り裂けそうになった。

  を揺さぶる。白い顔を叩く。それでも雌猫が二度と目を開ける事はなかった。
 ぬめる血が の背中を汚し、アサトの身体をも真っ赤に染めていった。


「あ……あ、ああ……ッ……!!  …… ……っ、すまない……ッ!」

  を抱き締める。血に濡れた の顔に、いくつもの水滴が零れ落ちた。
 透明な雫が の顔を洗い流していく。最後にそれは目のふちに溜まり、スッと静かに流れ落ちた。まるで が泣いているかのようだった。


  は永遠に、アサトの手の届かない世界へと行ってしまった。








 それから後のことは、正直よく覚えていない。思い出そうとしてもおぼろげで、いまだに息が止まりそうになる。


 かすかに覚えているのは、棺に入った の姿だ。

 荒れ果てた藍閃でなんとか形を整え、ごく少ない知り合いだけで葬儀をあげた。
 清められ薄く化粧を施された は、眠るように横たわっていた。花に囲まれたその顔はゾッとするほど綺麗だった。 


 コノエが泣いていた。 の幼馴染だったという雄猫も泣いていた。
 いつの間にか戻ってきていたあの白猫ですら、何かを思うように顔を歪めていた。

 それでもアサトは、泣けなかった。






 亡骸を鳥唄に帰そうかとコノエたちが話し合っていた。しかし当時の状況が状況だけにそれは叶わなかった。
 埋葬にこの地を選んだのは、この場所が藍閃から近く、また闘いなどなかったかのように静まり返っていたからだ。


 本当は行きたくなかった。それでも白猫に引きずられ、アサトも埋葬に立ち会わざるを得なかった。

  を入れた棺が土に埋もれていく。コノエは嗚咽しながらも弔いの歌を歌った。
 その歌は柔らかく森へと溶けていったが、それでもアサトは泣けなかった。









 一年目は、とにかく死にたくて死にたくてたまらなかった。


 宿の部屋の隅にうずくまり、吉良の追っ手を追い払うとき以外は暗闇を見つめていた。


 ――なぜ は死んだ? ……決まっている。自分が殺したからだ。

 守れなかった。……守れなかった。守れなかった――!


 最後に感じた薄紅の光の温かさをぼんやりと覚えている。だけどその時 は、どれほど痛い思いをしていたのだろう。苦しかったのだろう。
 それを考えると自分がいまだに息をしている事がたまらなく厭わしく思え、拭えぬ新たな罪のようにアサトを苛んだ。



 何度となく自害を試みた。けれどそれはいつも、宿に留まっていたコノエや無事だったカガリや時にはあのトラ猫によって阻止された。
 だがそれで止められたという事は、つまりアサトも本気ではなかったのだろう。
 アサトを何よりも押し止めたのは、 の遺した言葉に他ならなかった。


『もう二度とあんな事しないでね。……約束よ』


 ――約束。 と交わしたその言葉は、呪縛のようにアサトを縛り付けた。
 
 一時は を恨んだ事もあった。なぜあんな事を言ったのか。あれさえなければ今すぐ死ねるのに…許されるのに……消えられるのに………、死にたい……!


 アサトは幾日も、応える声のない問いを虚空に向けて叫び続けた。










 二年目は、変化の年だった。

 宿から出たアサトは藍閃近くの森を転々としていた。吉良の追っ手はいつの間にか諦めたらしく、アサトの周囲は静けさを取り戻した。

 コノエはライに付いていった。バルドもほぼ元通りに宿の営業を再開している。
 猫たちは新しい生活を徐々に営みつつあった。その中で、アサトだけが を喪った世界に取り残されていた。――そんな時。


 ふいに、アサトは既視感を覚えて歩みを止めた。見上げると高い空から森の木々を抜けて月の光が降り注いでいる。その淡い金色の光にアサトは目を見開いた。



『名前?  よ。アンタは?』

『花、貰ったわよ。二つとない大きな綺麗な花。アンタと吉良につながる花。――ありがとう』

『大切なのよ。生きていてほしいの…! アンタに何があろうと構わない、私はもう決めたから。だから、アンタも私を見てよ……!』

『……アサトは、私のものね。それなら私も……アサトのものに、なりたいよ』




「あ――」

 声が掠れる。意図せず視界が揺れ、目から涙が滑り落ちた。

 何か特別なことがあった訳ではない。唐突に、ポロリと何かが落ちるようにアサトの世界は色を取り戻した。 との煌めく記憶と共に。


 罪の意識に呑み込まれ、想いを凍らせる事はいつだってできる。
 けれど思い出の中で輝く まで殺してしまう事は誰にも許されない。

 アサトはその事にようやく気付いた。そして心の中の に深く詫びた。閉じ込めてしまってすまない――と。







 そして三年目に の墓を初めて訪れたのを最後に、アサトは藍閃から姿を消した。






 
 あれから、片手では足りないほどの年月が過ぎた。
 アサトは祇沙中を旅し、様々なものや猫や景色を見てきた。

 各地で花を探し、種や苗を藍閃に持ち帰った。それらは全て、ただ一つの場所へと運ばれた。



「この前の花も、ちゃんと根付いたんだな。……良かった、お前の好きな色が出て」

 アサトが植えた花々は森に根を生やし種を落として、途切れる事なく咲き続けている。
 静かだが寂しかったその場所は、今では穏やかな色彩に満たされていた。


 石の前に座り、目を閉じて語りかける。こうすればアサトの目の前にはいつでも が現れて、笑ったり怒ったりしてくれる。
 アサトは降り注ぐ金の光に尾を揺らし、風を受けるように空を仰いだ。



 ――生きていこう。それがどんなにつらい事であっても。

 アサトが 自身に償うことは、永遠に叶わなくなった。
 ならば、 が最後に望んだ事を叶えてやる事こそがせめてもの贖罪になると信じたい。

『アサト……生きて――』


 いつか息絶えるその瞬間まで――アサトは を想い続ける。






「次は……この花が咲く頃に、必ず来る」


 黒猫は跪くと、白い墓標に口付けを落とした。











END 





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