山の稜線に陽の月が沈んでいく。
 穏やかな残照を眺めていたアサトは、木の実を拾う手を止めて背後の大木を振り返った。

 ちょうど良い高さにあるその幹の窪みには、一匹の子猫が収まっている。手を伸ばして抱き上げると、幼子は青緑の目をパチリと開いた。


「――カナタ。そろそろ帰ろう。母さんが待っている」

 アサトがそう告げると、言葉を覚え始めたばかりの愛息子は手を振って笑った。

「あー!」





最終章  花束を君に







 あの闘いから、五年の歳月が過ぎた。
 虚ろが消え失躯の発症も見られなくなった祇沙では、徐々に穏やかな営みが取り戻されつつある。藍閃に行けば、そこかしこを走り回る子猫の姿を目にする事ができるだろう。


 アサトは闘いの後、 の背中の傷の回復を待って二匹で祇沙中を旅するようになった。コノエがライに付いていき、若干しょげていたアサトに が提案してくれたのだ。


  の背には、やはり痛々しい傷痕が一直線に残ってしまった。
 わずかに動きが鈍り、剣は振るえても激しい剣戟には耐えられない身体になった。それをアサトが詫びるたびに『気にしてないから謝らないで』と は笑ったが、アサトの気持ちは治まらなかった。

 けれど に触れ、その傷に触れ、温もりを感じるうちにその生々しい傷痕すら、 の生き様の一つなのだとアサトは次第に思うようになってきた。
 手の火傷と同じように の勲章なのだと、そう思えるようになったのは誰よりも の近くで過ごしたがゆえか。己の罪を遠ざけるのではなく、罪ごと抱きしめて生きる覚悟をアサトは決めた。


 それから二匹は様々な土地を流れ、様々な景色を見てきた。
 それは海に沈む月の姿だったり、真白い雪に覆われる鄙びた村であったり、鮮やかな花が咲き乱れる草原であったりして、二匹は何度も息を呑んだ。

 美しい景色が沢山あった。しかしそういった景色を見るにつれ、心の中では花の季節の吉良の光景が思い出されてアサトは郷愁に駆られた。


 戻りたいと思った。祇沙を…様々な猫の暮らす姿を見てきた今こそ、吉良に帰ってできる事があるのではないかと思った。
 それを に話すと、一も二もなく はしっかりと頷いてくれた。


 そして闘いから二年を経て、ふたりは吉良に戻ってきたのだった。







 吉良に戻る前に、アサトは に聞いた事がある。『吉良で一緒に住んでくれるか』と。 
 ――本当は、聞くのは怖かった。拒否されたらどうすればいいか分からなかった。

 だが は一瞬だけ目を丸くした後に頬を染め、『当たり前でしょ』と笑ってくれた。


『一緒に暮らそう、アサト。つがいもいいけど……私、アンタの家族になりたいよ』

 そう言って握ってくれた手の温かさを、アサトは死ぬまで覚えていようと思った。






 住み始めた当初は、 にとって吉良は決して居心地の良い場所ではなかったはずだ。アサトに向けられる嫌悪や畏怖がそのまま にも突き刺さり、たぶん影では苦労していたのだろうと思う。

 けれど は諦めなかった。カガリや長の尽力もあるが、持ち前の気安さで吉良の猫たちと交流を深め、ついにはその猫たちの手を借りて剣の工房まで建ててしまった。
 鳥唄で鍛えた技術と吉良の伝統の技術を混ぜ合わせ、 は全く新しい剣を作り出していった。一年に何度かそれを藍閃に卸しにいくと、結構な高値がついてふたりは喜んだ。


 そして穏やかに時は過ぎて、昨年、家族がひとり増えた。





  が妊娠したと分かった時、アサトは頭が真っ白になった。

 子供。……子供。自分と の――子供。

 自分にそんなものができる日が来るとは思わなかった。家族が、二匹も。
 呆然とするアサトにすり寄り、 は目を閉じて『ありがと』と呟いた。それを言うべきは自分であるはずなのに。

 次の瞬間、アサトは を抱きしめて固く誓った。生涯をかけて、家族を守ると。


 背の傷や当初つわりがひどかった事や、何よりアサト自身が出生後まもなく母を亡くしているためアサトはあれこれと の世話を焼いた。当の に怒られるほどに。
 普通リビカの雄は子育てに参加しないものだが、アサトは産まれる前から世話をする気で満々だった。 と自分の子供を放っておけるはずがない。

 出産間近になるとなぜか藍閃から腕利きの産婆が派遣されてきてふたりは驚いた。その依頼主は、今でもコノエと共に祇沙中を飛び回っているらしい。
 アサトは困惑しつつもその贈りものをありがたく受け取った。


 そして産まれてきた金の髪、褐色の肌、青緑の目の子猫の姿にアサトは泣いてこの世界に感謝を捧げた。







  +++++   +++++







 夕暮れの中を、息子を肩に担いで帰る。我が家へと。
 幽谷の谷に差し掛かった頃、頭上から小さな手がにゅっと伸びてきてアサトは面食らった。


「どうした? カナタ」

「あー。う、う!」

 褐色の手は一輪の花を握り締めていた。あの幹に咲いていたものだ。
 やや萎れかけているその花を、カナタはぶんぶんと振り回した。――まさか。

「俺に、くれるのか……?」

 アサトが喜色を浮かべてそう言うと、小さな手はツンとアサトの耳を引っ張った。

「ちゃーの! ん、あーあ!」

「……母さんに、あげるのか?」

「ん!」

 カナタが得意そうに頷く。アサトは少々寂しいような嬉しいような複雑な気持ちで幼子の背をそっと撫でた。

「カナタはえらいな。母さんの好きな色をちゃんと知っている」







 

 村に入ると、村猫たちの穏やかな視線がアサトを迎えた。カナタと自分を見る目には、以前のような嫌悪は感じられない。 
 それがカナタのあどけない様子につられてのものなのか、それともアサト自身に向ける感情の変化によるものなのかは判別がつかないけれど。


 集落を抜けて、村の外れの住みかに辿り着く。すると、隣に建てた工房から一匹の猫が表に出てきた。汗を拭うその猫の名は――

!」

 最愛のつがいの姿を認め、アサトは綻ぶように笑った。



「お帰り、アサト。……カナタは寝ちゃったのね」

 アサトの前に立った は、手を伸ばしてカナタを受け取った。母親の腕に収まっても幼子は目を覚まさない。熟睡しているようだ。
 その寝顔を見つめた は、次にアサトに顔を向けると目を丸くして吹き出した。そっと細い指を伸ばし、アサトの鼻を拭う。


「土、ついてるわよ。……頑張ってくれたのね」

 カナタを抱えたまま が穏やかに笑う。その光景をぼうっと見ていたアサトは、ふいに息子ごと雌猫を抱きしめた。


「どうしたの? ……くすぐったいよ、アサト」

  が小さく笑う。その声を聞きながら、アサトは無上の幸福を噛みしめた。










 夜の帳が下りた室内に、灯りを灯す。カナタを寝かし付けた(というよりあれからずっと起きなかった) は、腕をまくってアサトの前へと座った。紋章を描き直すためだ。

 カナタは一度寝付くと、余程の事がない限り起きる事はない。その寝付きの良さを見て が『誰に似たんだか』と笑っていたが、いまだにアサトには誰に似たのかが分からない。


「まさかカナタまで、花をくれるようになるとはね……」

 アサトが準備をする間、 は窓際に飾った一輪の花を眺めて苦笑していた。先ほどカナタの代わりにアサトが進呈したものだ。
 それを は目を丸くして受け取り、嬉しそうに生けた。


「あの、 ……」

 くすくすと笑う に、アサトはおずおずと背後からあるものを差し出した。――小さな花束だ。
 再び目を丸くした に、アサトは少々気まずい思いで告げた。

「その、 にやろうと思って摘んだんだが……カナタに先を、越されてしまった」

「…………」

  がますます目を見開く。花束を受け取ったその顔は、やがて柔らかな笑みに崩れた。


「あは……。やだ、カナタに遠慮してたの?」

「お前が随分嬉しそうだったから、もう俺のはいいかと思って……」

 そうボソボソと呟くと、 はコツンと額をアサトの肩にぶつけて呟いた。

「そんなわけ、ないじゃない。カナタの花も嬉しいけど、アンタがくれたものは特別よ。……ありがとう」




 墨に水を混ぜ、滑らかな肌へと筆を滑らせ始める。いつものように はかすかに身体を震わせた。こればかりは、いつまで経っても慣れないらしい。


「……っ。そろそろ、剣を降ろしにいかなきゃね……」

「もうそんな時期か。……ちょうど藍閃は繰春だろう。いいんじゃないか」

「そ……ね。……っん……また、カガリのお世話になっちゃうな……」

「そうか? 昨日会ったら、『今さら一匹増えたところでどうって事ない』と言っていたぞ」

「…………。そうかも」


 筆先を離すと は小さく苦笑した。カガリの口調を真似たのがおかしかったのだろうか。



 アサトと が吉良に戻る少し前、カガリも祇沙を巡り歩いた末に吉良へと帰ってきた。……見知らぬ雄猫を連れて。
 これにはアサトも も驚愕したが、そんな二匹に向けてカガリは平然と言ってのけたのだ。

『あんまりしつこかったから「だったら吉良に来てみろ」って言ったのさ。そしたら村も仕事も捨てて本当に付いてきちまってさ……。じゃあもうあたしが責任取って面倒見るしかないじゃないか』――と。

 その言葉を聞いて、 はカガリの気風の良さにいたく感動したようだった。


 カガリに惚れ込んだ、身体こそ大きいが気の優しいその猫は初めこそカガリを奪ったと村の猫に敵視されていたが、のんびりと吉良に馴染んでいった。当事者にあまりに敵意がないため、猫たちも毒気を削がれたのかもしれない。


 そしてそれから少しして、カガリは子供を産んだ。――双子だった。


  は子猫たちを見て何か思うところがあったようだが、ただカガリの手を握ると涙を落として頷いていた。

 それからカナタが産まれ、アサトと が藍閃に出向く時はこうしてカナタを預かってもらっている。
 母を知らない と父を知らなかったアサトの子育ては疑問と驚きの連続だったが、カガリに助けられて何とかサマになってきた。


 カガリと は仲がいい。最近では母親同士意気投合して、アサトも入り込めないぐらいに盛り上がっている事もある。
 それは少し寂しいが、 の楽しそうな様子を見るのは嬉しかったし、雌同士で気兼ねない様子のカガリを見るのも嬉しかった。カガリもずっと、苦しい思いをしてきたから。

 そして今ならば、父の想いも分かるような気がした。



 

「カガリへのお土産は何がいいかしらね」

「おしめにする布が欲しいと言っていた」

「……それはちょっと、夢がないかも……。――っ、くすぐったい……」


 再び筆を滑らせると は大仰に身をよじった。やはりくすぐったくて仕方ないらしい。
 時が経ち、立場や住む場所が変わっても、変わらないこともある。



 アサトが筆を置くと、 は二の腕を覗き込み顔を輝かせた。

「綺麗……。すごいわ、今日はネイガンなのね。――いつもありがとう」


 白い指が愛しげに黒い痣をなぞっていく。吉良の墨で描く大輪の花は、日々彩りを変えて の腕に咲き続けていた。――その光景こそが、掴み取った未来。


  は沢山のものをアサトに与えてくれた。それは幸福な未来だったり、愛おしい感情だったり、かけがえのない家族だったりしたけれど、その沢山の想いに対し自分もきっと何かを に返せているはずだと今ならば実感できる。





 

 アサトは の腕を取ると、刻まれた花弁に口付けを落とした。それから顔を上げて柔らかな唇に触れる。――密やかな夜は、いつもこうして始まった。

  が目を細めるのも、花を描いて自分が煽られるのも、あの頃から何一つ変わらないままで。


「ねぇアサト。……もっともっと、幸せになろうね」


 移りゆく世界の中でも、この猫への想いは決して色褪せる事がない。

  を抱きしめたアサトは、柔らかな体温の中で今ひとたび誓いを新たにした。






 何度でも何度でも、あふれるほどの花を――お前に贈る。



 










FIN.




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