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繰春の迫った街に、ゆっくりと足を踏み入れる。 懐かしい宿屋の猫たちを思いながら、アサトは花開く夕暮れの空を見上げた。
「ああ、
。そこの皿そろそろ持って行ってくれるか」
「これ? もう前の食べ終わっちゃったの!? あーもう祭は明日からなのに、なんでこんなに忙しいのよー!」
――その頃。藍閃の宿屋の厨房は戦場のような様相を呈していた。 祭を控えて満室になったのはいいが、さらに食事目当ての客が押し寄せててんてこ舞いなのだ。
髪をまとめ、バルドと揃いの衣装に身を包んだ
は大皿を抱えて歩き出した。数歩行ったその身体がふいにバランスを崩す。
「わっ!」
「うお!――っとぉ。おいおい、あっぶねーな」
「ゴメン。下が見えなくて……」
「気を付けてくれよ? 今はあんたひとりの身体じゃないんだからよ」
つまづいた
を寸でのところで抱きかかえたバルドは、妻の大きくなった腹部をそっと撫でたのだった。
最終章 陽だまりの宿
『結婚しよう。
』 ――そうバルドが言ったのは、あの闘いから二度目の春が過ぎた頃の事だった。
それは厨房での出来事で、しかもお互い夕食の準備中で、さらに『そこの調味料取ってくれ』と言うのと同じぐらいさらりと言われたため
は思わず『はいはい』と返してしまいそうになった。 それをなんとかこらえると、数秒固まってから
は呆然と口を開いた。
「……なんで?」
「な……なんでってコトはねーだろ。ひとの一世一代の告白をよ!」
「どこがよ! どう聞いても思いつきでサラッと言ったとしか聞こえなかったわよ!」
調理台を挟んで向かい合った二匹は、どう見ても結婚するかしないかという真剣な話し合いをしているようには見えなかった。
はお玉と鍋を持ち、バルドに至っては野菜と包丁を握っている。 我に返ってそれらを置いた
は、困惑した顔で問い掛けた。
「なんで、今になって……」
「そんな事もないだろ。一緒に暮らし始めて一年半。……自然な流れだと思うが」
「そりゃそうかもしれないけど……」
が困惑するのも無理のない話だった。 あの闘いの後、
は悲惨な状態になったバルドの宿の後片付けを手伝い、そのまま住み込みで働き始めた。常にバルドの隣に寄り添い、ふたりで宿を切り盛りしてきたのだ。
そんな雌雄が(雌でない場合も往々にしてあるが)一つ屋根の下に暮らしていれば、普通はつがいとか夫婦だと見なされる。二つ杖の頃には『コセキ』などという面倒くさいものがあったらしいが、祇沙にはそんな制度は存在しない。
とバルドの関係はそう周りに受け止められていて、
もいつしか『そう』なのだとなんとなく思っていたのだ。
「とっくにそうなんだって思ってのは、私だけだったんだ……」
がしゅんと呟くと、バルドは口元を緩めかけたあと慌てたように手を振った。
「違う違う! 俺もそう思っているけどよ。ほら、けじめはつけたいと思って」
「……? 別に、今までと何も変わりないじゃない」
生活する上で何か変化があるとは思えない。そう
が首を傾げると、バルドは目を細めて笑った。
「変わるさ。気持ちがより強まるし、何よりあんたを独占できる。あんたも俺を、独占できる。……俺の妻だと宣言して、誰にはばかる事もなくあんたを生涯守り続けたいんだ」
「…………」
告げられた言葉に
は赤くなった。あの頃はあんなに迷っていたくせに、ここに来ていきなり直球すぎる。……けれど、死にそうなほど嬉しい。
「俺とつがいになってくれるか?」
再び問い掛けられた言葉に、
は潤む瞳で頷いたのだった。
それから少しして、宿でささやかな披露目会を行った。
は『そんなの恥ずかしいからいい』と言ったのだが、ノリに乗ったバルドの勢いを止める事はできなかった。 なんとアサトが白い晴れ着を作ってくれて、ごく親しい猫だけで祝宴を挙げた。
料理を作るのも運ぶのも結局いつもと同じように自分たちがしたが、照れくさいながらも
は幸せだった。バルドが悪ノリしたおかげで、後々までかなり恥ずかしい思いをするはめにはなったけれど。
+++++ +++++
それから更に一年半の時が過ぎた。 雑踏を避けて屋根を渡り、アサトは宿へと辿り着いた。猫の少なそうな待合室の窓から室内に入ると、ちょうど厨房から出てきた
と鉢合わせた。
「アサト! ――いらっしゃい。やっぱり登場は窓からなのね」
皿を抱えた
が柔らかく微笑む。既にフードは被っていなかった。宿にバルドがいる時は、面倒だから被らないと決めたらしい。 綺麗になったと、アサトはもう何度目とも知れぬ感情を抱いた。
に促され、食堂の隅に腰掛ける。果実水を出してくれた
にアサトは自分の剣を差し出した。
「これ、また頼む」
「あ、研ぐのね。明日やっとくから任せて」
は藍閃に残った事で鍛冶こそできなくなったが、こうして細々と剣を研ぐ仕事を続けていた。『やっぱり剣を触りたくて。諦めが悪いんだけどね』と
は笑うが、その腕はなかなかのもので藍閃ではちょっとした話題になっている。 ちなみにあの白猫も研ぎを依頼しているらしい。鉢合わせた事がないのが幸いだが。
剣を受け取った
は一旦それを置いてくると、再びアサトをそっと見下ろした。
「コノエはトキノの所に寄って来るんだっけ?」
「ああ。
に会えるのを楽しみにしていた」
「そっか。……あ、そうだ。なんとね、明日はライもここに寄るんですって。さっき手紙があったの」
「……アイツか。顔を見たくはないが、会うのは本当に久しぶりだ」
「もう。相変わらずねー」
コノエは現在、アサトと共に祇沙中を旅している。 当初は吉良に帰れないアサトを心配して来てくれたのかと思ったのだが、コノエはコノエで『自分の目で祇沙を見てみたい』という願いがあったらしい。あちこちの景色を眺めるコノエはとても生き生きとしている。
それでも最近の一番の関心事は、
のお腹がどうなっているかという事であるようだ。産まれたら真っ先に会いに行くのだと楽しそうに言っていた。
「でもここの所アイツも藍閃に寄ってなくて、まだこの子のこと知らないのよ。明日来たらきっとビックリするわね」
「……そ、そうか……」
回想に浸っていたアサトの横で、クスクスと
が笑う。アサトは白猫の衝撃を予想してほんの少しだけ同情めいたものを抱いた。――その時、
がピクリと身じろいだ。 見ると、その臀部を無遠慮に撫でる手がある。後ろで酔っ払った猫がヘラヘラと笑っていた。
「なぁ女将ー。その腹が空いたら今度は俺の子を産んでくれや。きっといいのが出るぜー」
「お前……ッ」
ささいな暴言にカッとなり、アサトは席を立ちかけた。それを目で制し、
は笑顔で雄猫の手をぴしゃりと払いのけた。
「やーよ。うちの旦那よりアンタがいい猫だってんなら考えてもいいけど、壁は高いわよ? ――顔、腕っぷし、ついでに料理と家事! これが全部完璧じゃなきゃ駄目ね」
「だっはっは! そりゃ無理だわ! アンタの亭主にゃ敵わねぇな!」
雄猫が降参、と両手を上げる。それを見遣った
はアサトに向き直った。腹を撫で、苦笑する。 ――本当に強くなった。眉を下げたアサトは
の膨らんだ腹部を見て目を細めた。
「ずいぶん大きくなったな。……触ってもいいか?」
「え? ……ああ、どうぞ」
許容に甘え、アサトはそっと
へと手を伸ばした。丸いそこに触れた瞬間、内側から蹴り飛ばすような衝撃が伝わる。
「……あ」
「あっ……。動いた……」
「わね。最近ほんとに盛んなのよ。……もうすぐ、会えるわね」
腹に手を当てた
がうっすらと笑う。その手に光るのは金の腕輪と、あつらえたような金の指輪。……バルドからの贈り物だ。 細い指から顔を上げ、アサトは
に問い掛けた。
「……
。今、幸せか…?」
その問い掛けに一瞬きょとんしたした
は、やがてはにかむような笑みを浮かべた。
「――うん」
+++++ +++++
暗い寝室に、灯りをともす。大きく息をついて寝台に腰掛けた
にバルドは果実水を手渡した。
「疲れただろ。先に上がっていいって言ったのに、頑張りすぎだ。あんた」
「大丈夫よ。動いてた方がいいって言うし、第一あんな量をアンタひとりでさばいてたらいつまで経っても寝られないじゃない」
雌猫が視線で「ね?」と問い掛ける。いつまで経っても相変わらずなその無自覚さに、バルドは顔を覆いたくなった。……ちくしょう、可愛い。
結婚なんてものに興味がなかったはずの自分が、笑えるくらいこの随分と年下の妻に溺れている。 寝台を軋ませると、腹部を圧迫しないようにバルドは顔を近づけた。
「……愛してるぜ」
「……っ……。ん……んッ………、……っ……」
妊婦にするにはいささか濃厚な口付けを交わし、そっと唇を離す。覗き込んだ妻の顔は真っ赤になっていた。
「な、なに……?」
「いや、最近言ってなかったと思って。……それより、見てたぞさっき。アサトに腹を触らせてただろ」
「……ああ。別に減るモンでもないし」
「減るっつーの! まったく、なんであんたはいつもそうなんだよ」
ブスッと寝転がると
は唖然とした顔でバルドを見下ろし、次いでプッと噴き出した。
「何それ、嫉妬? 父親になろうって雄がなんて顔してんのよ」
「父親になろうが爺さんになろうが関係ない。……あんたの旦那は俺だろ?」
「あーはいはい、そうね。悪かったわよ。じゃあアンタもめいっぱい触れば?」
「そうじゃなくてよ……」
が手を上げ謝罪する。……まったく悪いとは思っていなさそうだが。 バルドはしぶしぶ起き上がると、
を膝の中へと抱き込んだ。腹に置かれた小さな手に自分のそれを重ねて握り込む。確かに息づく鼓動が、そこにはあった。
「そろそろ名前、考えなきゃだなぁ……」
の肩に顔を乗せて呟くと、振り返った
がきょとんと瞬いた。
「え? 別に生まれてからでもいいんじゃない? 性別も分からないし」
「……遅いっての。こういうのは普通あらかじめ準備しておくモンだろう。……多分」
バルドにだって『普通』がどうなのかよく分からなかったが、呆れて告げると
は視線を泳がせた。……ようやく考え始めたらしい。
「ま、一応候補はあるんだけどな。雌だったら――」
「――シェリル! 雄でも勿論シェリル。それ以外は認めません」
「…………。おい……」
得意げに口を開いたバルドを遮って、
が声を上げた。その目がにやりと細められる。
――そう。結婚した後か前かは忘れたが、
にバレたのだ。自分の本名および昔の姿が。その時の
の『弱みを握った』と言わんばかりの顔は、今でも脳裏に焼き付いている。
「それだけは勘弁してくれ……」
バルドがガックリと項垂れると、
は楽しげに腹を押さえて笑った。
それから一巡りの月後。藍閃の宿屋夫妻に元気な子猫が誕生した。 ますます賑やかになったその宿は、今日も活気に満ち溢れている。
――陽だまりの宿へ、ようこそ。
FIN.
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