――暗冬、四日目。存在しないはずのその日に、ありえない事態は起こった。




Eat cookie or Die?






「ねぇねぇ雌猫ちゃん、僕と祭見物に行こうよ!」

「――はぁ? アンタ、何言ってんの。暗冬は昨日終わったじゃない」


 暗冬の騒動が終わり、食堂でぼんやりと空を眺めていた は掛けられた賑やかな声に胡乱な視線を向けた。

 振り返れどもその声の主はいない。冷静にそのまま天井を見上げると、予想通り緑の物体が――正確には緑の虫と見まごうばかりの悪魔が、ふよふよと天井近くにへばりついていた。

 今さら「本当に虫っぽいからやめろ」とか、「どうせだったらその天井のホコリ取ってよ」とかいったツッコミを入れる気にもならない。醒めた返事を返した に、フラウドは不服そうにチッチッと指を振って見せた。


「甘いよ、雌猫ちゃん。今日は裏暗冬初日だよ? 今日からが祭の本番じゃあないか」

「……裏…暗冬?」

 聞いたことのない、いやむしろ聞きたくなかったかもしれない言葉に の眉が寄る。その怪訝な様子に機嫌を良くしたのか、フラウドは の正面に舞い降りると芝居がかった仕草で一礼した。

「そう。裏暗冬はその名のとおり、裏の祭。昨日までの三日間とは出る店も違うし、雰囲気も違う。ついでに場所も…ね。裏通りでひっそりと目立たないようにやるお祭りなんだよ。でも、とても面白い」

「……嘘。そんなの、バルドやトキノは一言も言ってなかったわ。冗談でしょ」

 唇を吊り上げたフラウドの顔は晴れやかだ。 は多少興味を引かれるのを感じたが、悪魔、とりわけこのフラウドの言葉は何から何まで信用がならない。
 疑念を滲ませてプイと顔を背けると、フラウドは見計らっていたかのように の側面に回りこみ、その顔を覗き込んだ。

「疑り深いなぁ。……だから、一緒に行かないかいって言ってるんだよ。あの縞猫ちゃんはどうか分からないけど、君のお友達が知らないのも無理はないよ。なんせ、ひっそりと口伝えで開催が伝えられるくらいだから」

「…………」

 ウキウキと語るフラウドに、 の心がわずかに揺れる。そこにとどめを刺すように、フラウドは重ねて口を開いた。

「そうだなぁ……もしかしたら、君の好きそうな珍しい剣とか鉱物があるかもねぇ。めったに藍閃に来ない裏商人とかも来てるかもよ」

「……っ」

  の尾がピクリと揺れる。――珍しい剣。めったに来ない商人。
 普通に考えれば表に出てこないそれらがどれほど胡散臭いものか疑ってかかるに違いないのに、その時の は興味を引かれるあまり思考回路が鈍っていた。それで、口にしてしまったのだ。


「……そんなに言うなら、い…一緒に行ってやってもいいわよ」

 好奇心を押さえ込んで憮然と答えた に、フラウドはニッコリと笑ったのだった。








「へぇ……ホントにやってたのね。しかしまぁ目立たない……」

 一時間後、 とフラウドは裏通りでひっそりと、本当にひっそりと開かれていた裏暗冬を見て回っていた。

 ちなみに今のフラウドはあのお馴染みの全身タイツスタイルではない。その格好で行くなら絶対に一緒に歩きたくないと強く主張した に折れて、猫の姿へと擬態していた。

 蛍光緑の髪はそのままだが、衣装を変え黒い仮面は取り、代わりにえらく美形な素顔を晒して猫耳まで生やしている。フラウドはもちろん両目の傷を修正することも忘れていなかったが、 にそんな細工が分かるはずもない。ただ自分と同じ猫に化けたフラウドの、意外なほどの容姿の良さに は驚愕していた。


『……そんな簡単に化けられるんなら、どうしていつもやってないのよ』

 一瞬見とれてしまった自分を隠すように、 は恨めしく呟いた。おかしな悪魔コスプレの面々と過ごすのは、あれで結構気を使うものなのだ。何より悪目立ちしすぎる。するとフラウドは涼やかな目元に薄笑いを浮かべ、しゃあしゃあと言ってのけた。

『だってこの姿じゃ僕らしくないじゃないか。こんな個性のない服、よく君たちは着ていられるね? あーあ、アソコに角がないと不安だよ……』

 そう言って股間を押さえた緑の悪魔を、 は黙殺したのだった。



「屋台っていうか、とりあえず並べてみたって感じね。それにしても暗すぎて見えないわよ」

 いつもよりも微妙に猫の通りが多い裏路地では、おおむねコートなどを目深に被った猫が道端にしゃがみ込み、足元に何か品物を広げていた。

 時折ひそひそと客と店主が会話を交わしているが、どう見ても穏やかな光景には見えない。
 『これなら一瞬で…』だの『匂いもしないから…』だのといった内容が耳に入ってきて、 は非常に居心地の悪さを感じた。

「ねぇ……これ、楽しいの? しかも武器屋も鍛冶師も見当たらないんだけど」

 心もちフラウドの側に寄りながら、 は小声で尋ねた。フラウドは薄く笑うばかりで答えない。目当ての品物がないならさっさとこんな場所から離れたいのだが、フラウドがどんどん先へと進んでいくので も仕方なく付き従った。

 やがて路地もいよいよ暗くなってきた一角で、フラウドが突然足を止めた。珍しく興味を引かれたようにしゃがみ込み、店主と言葉を交わす。
 こんな場所には不似合いな、随分と可愛らしい菓子のようなものを扱っているようだ。 がなんとはなしにその様を眺めていると、一袋菓子を買ってフラウドが立ち上がった。


「……お菓子、食べたかったの? 表でいくらだって買えるじゃない」

「ここの店、裏藍閃ウォーカーに載ってるんだよ。実は、これが欲しくて誘ったんだ。たくさん歩かせちゃってゴメンね?」

「……別にいいわよ。買えて良かったわね」

 ウキウキとしたフラウドの態度が妙に子供っぽく見えて、 は思わず笑みを漏らしてしまった。
 不覚にも可愛いと思ってしまったのだ。裏藍閃ウォーカーってなんだよ、といったツッコミも忘れ、くるりと踵を返したフラウドに も続いて歩き出した。


 冷静に考えれば、この悪魔に限ってそんな無邪気な心だけで行動するなどあるはずがなかったのに。







 そして、再びバルドの宿。食堂に陣取ったフラウドは、さっそく包みを開いて中の菓子をつまみ出した。……クッキーだ。
 サク、と小気味良い音を立てて菓子が元の姿に戻ったフラウドの口に消える。「うまーい!」と歓声を上げたフラウドを、 は微笑ましさの残る気持ちで眺めていた。


「そんなに有名なところのなら、私も今度買ってみようかな」

「ああ! もう絶品だよ。……ねぇ、せっかくだから一緒に食べないかい? 付き合ってくれたお礼だよ」

「え……」

 フラウドがずい、と袋を勧めてくる。完璧な笑みを形作る唇と袋を交互に眺め、 は迷った。……どうしよう。悪魔が勧める食べ物になんて手を出していいのだろうか。
 しかしその葛藤は、結局この数時間でほだされたのと湧いてきた食欲によって立ち消えてしまった。


「じゃあ……一枚だけ」

  が手を伸ばす。良い香りのするクッキーがその唇に消えたとき、食堂の扉がガチャリと開いた。



「――ついてくるな、鬱陶しい。貴様はどこぞで爪でも研いでいればいい。俺は忙しい」

「誰がお前になんか付いていくか! がいるから俺も食堂に入りたいだけだ。だから俺の前に来るな!」

「ああもうアサト、突っ掛かるなよ。ライも! 廊下ぐらい譲ってやればいいだろ?」

「……何だっていいが、うちの宿だけは壊さんでくれよ。あと大声は迷惑だ」



 めいめいに叫びながら雄たちが食堂に入ると、そこには――

「……ふぁ?」

 白い煙が晴れた奥に緑の悪魔と――そして金の髪の小さな子猫が、その膝の上に乗っていた。


 







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