……?  ッ!? どこだよ……!!」


  が消えた。草むらには、コノエとライ以外の姿はどこにも見あたらない。
 ひっそりと、まるで初めから誰も存在しなかったかのようにその場所は静まり返っていた。


……!  ――ッ!!」


 わずかな痕跡すら残さず、雌猫はコノエの前から永遠に姿を消した。……魔術師と共に。








終章 闇の果て







 
「…………、ん……」

 深い闇の中、 は目を覚ました。だが周りが暗すぎて、目を開いても起きたのかどうか判断がつかない。とりあえず顔を擦るとようやく自分がそこに『存在』している事が確認できた。


「ここ……どこよ……」

 呟いてみても、答える声はない。周囲を見回しても永遠に闇が続くばかりで、ここが現実の世界でない事を は思い知った。
 ……そう。まるでリークスの術中にいた時のような――

「……!」

 そう思った瞬間、わずかに暗闇の色が変化した。紫のような青のような色彩が生まれ、闇に溶ける。その見失ってしまいそうな色はある方向に向かってたなびいていた。

 深く考えずに、色に導かれて歩く。そのうち周囲に小さな光が生まれ、 は思った。……ここは、空なのかもしれない。
 足場も何もない夜空の中を歩いているような光景に、 は状況も忘れて感嘆した。だがその感動は、闇の果てに佇む影を捉えた瞬間に衝撃へと変わった。


「リークス……」





 呼ぶ声が掠れたのは、それが自分たちが倒したはずの猫だと気付いたからではない。――その姿があまりにも、 の知っている魔術師とはかけ離れていたからだ。
 顔かたちが変わった訳ではない。服が変わった訳でもない。ただ、纏う気が以前とはまるで違ってしまっていた。

 闇色の椅子に腰掛け、項垂れたその姿は今までよりもずっとずっと小さく見えた。
 疲労しきったような顔の中で、力なく開かれた瞳はただ黒色を映している。

 本当にあの猫なのかと が一瞬疑ったのも無理のない話だった。


 
「……リークス!」

  は一度だけ唾液を飲み下し、その名を叫ぶと一歩を踏み出した。そんな事に驚いている状況ではないのだ。
 さすがにリークスも顔を上げる。リークスの前に立った は、その憔悴した顔を見下ろした。

「ここはどこ。お前、今度は何をしたの……!?」

 リークスがこんな場所にいるという事は、まだ闘いは終わっていないのか。それとも自分たちこそが敗北したという事なのだろうか。
 焦燥に駆られ憎悪を込めて見下ろした に、リークスは吐息を漏らすように告げた。


「……どこだろうな。……お前は私と、死んだようだぞ」






「……は……」

  は呆気に取られた。リークスが何を言ったのか、にわかには理解できなかったのだ。
 言葉を反芻しても、腑に落ちない。だがリークスから発せられていた魔力……というよりは生ける者が持つ力(リークスのそれは憎悪や怒りに彩られてはいたが)がほとんど感じられなくなっている事に気付き、愕然とした。
 魔術師は、すでに生者ではなくなっていた。


 リークスの魂の大半はコノエに吸収されたらしい。わずかに吸収しそこねた欠片が、この闇へと飛んできてしまったのだとリークスは告げた。

「じゃあ……私は……?」

 目の前にいる者の死を確信した は、掠れる声で問い掛けた。
 魔術師だった猫は目を閉じてかぶりを振った。

「お前もだ。……私の消滅に、巻き込まれたようだな」

「……ッ。なにそれ……! お前が一緒に引き込んだの!?」

「違う。今更そんな事をして何になる。……たまたまお前が私の近くにいて、更に術が切れたとはいえ、いまだ発動の痕跡が身体に残っていたがために巻き込まれたのだろうな。……つくづく運のない猫だ」

「……!!」

 投げ遣りな言葉に は一瞬カッとなったが、次第に衝撃的な事実が頭に浸透してきて蒼白になった。



(私…死んだ……)

 視界が暗くなっていく。足元が揺れ、 は口を押さえて地に倒れないようにと踏ん張った。
 倒れる……? 倒れるべき地面は、遙か下方にあると言うのに?



(…………。私、本当に死んだんだ……)

  は脱力しきった頭で、諦めと共にその事実を受け入れざるを得なかった。






 数秒か、数刻か。無言で項垂れていた は、ふらりと顔を上げるとリークスを静かに見遣った。

「お前が負けたって事は……私たちは、闘いには勝ったのね。コノエはどうしたの……?」 

「知らんな。……下界の様子など、ここから分かると思うか?」

 問い掛けた にリークスは興味なさげに呟いた。だが微妙に揺れた視線で、 は感付いた。……何かを隠している。


「……嘘だわ。お前はコノエと繋がってるって言ったわね。そんな猫が、相手の消息も分からないの?」

 目を細め、責めるように が告げるとリークスは押し黙った。しばらく見つめ続けると諦めたように溜息をつき、やがて猫は口を開いた。


「――つい先程に、生命が尽きたようだな。……すでに輪廻の輪の中へと還った」





「…………。死んだ……? なんで…!? 闘いには勝ったんでしょう!?」

 たっぷり数秒間沈黙した は、やがて堰を切ったようにリークスへと詰め寄った。襟を掴み、大きく揺さぶる。リークスはそんな の手を止めると重々しく告げた。

「そうだ。……お前の言うようにコノエは勝った。そしてその後も生き永らえ、天命を全うした」

「な……」

「つまり、下界ではそれだけの時間が流れたという事だ。我々だけが時の流れが違うのだ。……何故だか分かるか?  よ」

「…………」


 何を言っているのだろう、この猫は。呆然とした の耳を、重要であるはずの言葉がすり抜けていく。
 もうそれ以上聞きたくなくて耳を塞ごうとした に、リークスは容赦なく告げた。

「私もお前も、あるべき輪廻の輪から外れたという事だ。……つまり、未来永劫この闇の中を漂い続ける」




「……永劫」

 耳に入った言葉を、 はぽつりと繰り返した。だらりと腕が下がり、全身の力が抜けていく。
 そんな から目を逸らしたリークスは、自嘲するように笑った。

「それが私の罰……らしいな。もうどうでも良い事だが」

「…………」


 これがリークスの罰なのか。永遠に等しい闇を彷徨い、生まれ変わる事も魂が滅びる事もできずに、生身の身体を失って生き続ける事が。
 これが――自分に与えられた罰なのだろうか。術中とはいえコノエを一度殺した事に対する、罰……なのだろうか。


 もう二度と、コノエに会うことはできない。その事実は を完膚なきまでに打ちのめした。




「……もう行け。目障りだ。ここから出る方法もあるかもしれんが、探るだけ無駄だろうな。興味もない」

「…………」

 座り込んだ にリークスが冷たく言葉を投げる。のろのろと立ち上がった は、既に違う場所を見つめているリークスの背に向かい声を掛けた。


「コノエは……どんな生を全うしたの……?」

 力ない背がわずかに揺れる。リークスはしばらく押し黙ると、やがてしぶしぶ口を開いた。

「……お前を失ってしばらくは気を病んでいたようだが、あの白猫…ライと言ったか、の賛牙となり、それなりに活躍したようだ。……もっとも、死の間際までお前の事を探し続けていたようだがな」

「……っ」

 ごとん、とリークスが何か水晶のような玉を落とす。周りの星空を映していたそれは、やがて森の中のような光景を映し出した。

「コノエの墓だ。白猫も、なかなか気の利いた事をする」

「あ――」


 それは、確かに墓標だった。静かな森の中に白い石が立っている。……なぜか、二つも。
 並んで立っているそれが何を示すかを悟り、 は口を覆うと映像から目を逸らした。ボロリと視界が揺れる。


「……去れ」

 静かな言葉を受け、 はその場から駆け出した。






 +++++   +++++






 元いた領域に戻り、 はそれから三日三晩泣き喚き続けた。
 大声を上げて泣き、暴れ、転げ回った。どうせ誰も見ていないのだから体裁など気にしない。

 ――苦しかった。リークスに対する憎悪や怒り、リークスにもどうにもできなかった自らの運命への絶望、コノエへの申し訳なさやいまだ胸にくすぶる愛情など、様々な感情が混ぜこぜになってドロドロに の心を満たした。
 その激しい感情を押し流すように、 はひたすらに泣き続けた。


 そして四日目の朝、 は腫れぼったい瞼もそのままに再びリークスの元へと向かった。






 猫は、やはり先日と同じ場所で同じように項垂れていた。水晶をぼんやりと見つめ、力なく息を吐く。
 その肩にこの前は見かけなかった白いトカゲが乗っている事に気付き、 は瞠目した。だが寄り添うようなその姿にも、リークスは全く頓着していないようだ。

 白い鱗、赤い瞳のトカゲの正体を悟り内心幾分かホッとした は、その正面につかつかと歩み寄ると物言わずいきなりリークスに平手を喰らわせた。


「!? ――お前、何をする!」

「……殴ったのよ。分かるでしょ?」

 リークスは最初こそ呆然としていたが、さすがに怒りを露わにして を睨み付けた。 は平然とリークスを見下ろした。
 頬を押さえたリークスは、やがて皮肉げに笑った。

「今のは殴ったというより叩いた、だろう。……物言わずに手を上げるのがお前のやり方か? 随分と野蛮な――」

「……あら、拳の方がお好みだったかしら? なんならやり直してもいいわよ。それよりも――お前にだけは、そんな事言われたくないわ」

「……っ」
 
 リークスが言葉に詰まる。手を下ろし、 は震える拳を握って口を開いた。


「私は、お前を許さないわ」

「…………」

 リークスがわずかに瞠目する。 はじっとリークスを睨むと、続けざまに言葉を放った。

「お前は私の……コノエの、母の運命を滅茶苦茶にした……! 私の周りの猫だけじゃないわ。村の猫も、冥戯の猫も、沢山の罪もない猫たちの運命を捻じ曲げ命を利用してきた。お前の歪んだ私怨のために……! 私はそれを、絶対に許さない!」


 包み隠さず は怒りを叩き付けた。リークスはじっと を見つめている。

「本当は、殺してやりたいって思ってたわ。けどそれはもう無理だから、殴る事にしたの。こんなのじゃ収まらないけど――私が今ここにいるのは、別にお前のせいではないから」

 きっぱりと言い捨て、 は押し黙った。ふたりが無言で見つめ合う。
 厳しく唇を結んだ を見上げていたリークスは、ふいにフッと笑った。


「……お前が、全ての猫の怒り恨みの代弁者だとでも?」

「まさか。……私の怒りは私だけのものよ。抱えた想いは猫それぞれ違うから、私が代弁できるはずがない。まして殺された猫の気持ちなんて、私には抱えきれないわ」

「…………」

「だけど……私、考えたの。こうして怒りをぶつけたり、泣き喚いたりすれば少しは気分がすっきりするけど、私がすべき事は怒りや哀しみに浸る事じゃないのよ。……私は多分、ここで生きていく事ができる。だけどここから解放される方法を探し続けるわ。たとえ望みがなくても、会いたい魂がいるから。だけどお前は――、アンタはどうなの?」

「……ッ。何……?」

 ふいにくだけた口調にリークスが眉を上げた。訝しむように を探り見る。
  はリークスの双眸をじっと見下ろすと、静かな瞳で問い掛けた。

「ここでそうやって『後悔してます、ヘコんでます』って項垂れて、無為に過ごすだけなの? 何も思う事はないの? 心を閉ざして、ただ漫然といつか終わりが来るのを待ち続けるだけなの…!? ――そんな下らない時間を過ごす猫だとは、思ってなかったけど」


「貴様……言わせておけば……!」

 リークスが立ち上がる。怒りを閃かせた双眸を真っ向から見つめ、 は続けた。

「何よ! 言っとくけどもう条件は同じなんだから、怖くないわよ! アンタの方が腕っぷし弱そうだし、やられたらやり返してやる!」

「……なんだと!? 見た事もないくせによくもそんな事が言えるな!」

「分かるわよ! だって攻撃とくれば遠隔か猫を操ってかの二択だったじゃない! アンタ実は滅茶苦茶打たれ弱いんでしょ!」

「そんな事はない! というかお前、その目で私を見るのはやめろ! 奴と同じで不快だ!」

「はぁ!? そんなん知ったこっちゃないわよ。何を勝手に重ねて苛ついてんのよ!」


 一触触発。いや既に手遅れか。 が仕掛けた攻撃に、リークスは面食らうほどに喰い付いた。 でヒートアップしてしまったため、その場には非常に険悪な空気が漂い始めた。
 だがあまりに次元の低い口論に二匹は我に返ると、少し顔を赤くして口を噤んだ。仕切り直すように咳をした が真顔でリークスを再び見上げる。


「そうじゃなくて。……別に後悔しろとは言わないわ。操った猫に詫びろとも言わない。そんな事を言ってもアンタは絶対にやらないだろうから。ただ――考えて。考えるのをやめないで。傷付けた猫の事を、操った猫の事を、……信じた猫の事を――忘れないで」

「…………」

 リークスの顔から怒気が削げ落ちる。残ったのは、間が抜けたような呆然とした顔。そんな顔もできるのかと は思った。

「考えて考えて…考えた末に少し余裕が出てきたのなら、私と出口を探して。……そうやって後ろを振り向きつつ前向きに考えてりゃ、いつか闇が晴れる日も来るでしょうよ。……それまでは、仕方ないから付き合ってあげてもいいわよ」

 そう が締めると、リークスはたっぷりと呆然自失した後に思い切り顔をしかめた。


「……いらん。というか、何だその恐ろしく根拠も証拠もない想像は」

「希望的観測よ。ま、アンタみたいな元引きこもり魔術師様には関係ない言葉だったでしょうけど」

「…………」

 リークスが更に顔をしかめる。だがそれがある時ふっと緩み、諦めのような薄い笑みを一瞬だけ浮かべた。それはすぐに消え、リークスは再び皮肉な笑みを唇に刻んだ。



「しかし随分と懐が広い事だな。平手一発で、お前への罪は放免か」

 その言葉に は目を少し見開くと、ただの猫となった彼と同じ笑みを浮かべて告げた。

「あら、誰が『これで終わり』なんて言った? 一日一発よ。そうすりゃ日にちも数えられるしね」

「……!」


 その時の猫の表情は見ものだったと、後になって は回想するのであった。
 
  














水晶に映るのは、繁栄を謳歌する祇沙の未来。

求めた魂の行く末を追いながら、雌猫は猫たちを見守り続ける。

いつかまた巡り逢える事を願って。



彼が赦されるその日まで――祈りは続く。









END



 



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