「コノエ――?」


 パキンと、頭の中で何かが高い音を立てて砕け散った。 は一瞬気をやった直後に、呆然と目を見開いた。
 腕の中に、血まみれの塊がある。それは――猫。見覚えのない細い剣に貫かれたコノエが、ぐったりと に寄り掛かっていた。


「……ッ、……コ、ノエ――?」

 剣の柄に絡みついた手は――誰のものだ。冷たい地面に座り込んだ はゆっくりと手元を見下ろすと、大きく息を呑んだ。

「……な…んで――。あ……、ア……ッ……! いやアアァ……ッ!!」





   13、君だけの強さ






「感情が、溶けたか……。所詮お前も、胸を乱す感情には逆らえないという事か。 よ」


 混乱する。ドクンと早鐘を打った心臓から急激に血が巡り、視界が赤く染まる。
 コノエを抱き留める一方で凶刃を手にしていた は、身動きも取れずに唇を震わせた。


「コノエ……ッ、コノエ……!」

 ――どうすればいい。どうすれば、いい……!


「おい 、落ち着け……!」

 誰かの声が聞こえる。だけど、その内容がまるで分からない。
 コノエを抱いた左手がその肩を握り締めると、震える右手は剣を取り落とした。

 真っ赤な胸から濡れた刃が落ちていく。途端にゴボリと嫌な音を立てて、ぬめる血液が傷口から溢れ出した。 は咄嗟にそこを手のひらで塞ぐと、半狂乱になって叫んだ。

「コノエ!! 目を覚まして……コノエ…ッ!! ――っ!」


 ――その時。蒼白いを通り越して既に土気色になりつつあるコノエの唇が、わずかに動いた。
 重たげな瞼が震えながら上がる。 は息を呑み、その様を見守った。


「…………、 ……」

「……ッ……、コノエ……。コノエ……ごめん、私……ッ、私が……!」


 腕の中のコノエが、掠れた弱々しい声で自分の名を呼んだ。 は唇を震わせると搾り出すように叫んだ。
 鼻の奥が塩辛い。視界がひどく歪んで、大量に涙を零しているのだと気付いた。――そんな資格などないのに……!


「良かった……。戻ったん…だな……。……泣くなよ――」

「コノエ……コノエ――、ッ……」



 ――もう、闘いの行方もリークスの存在も気にならない。
  は泣き崩れたまま、コノエの声に必死に耳を傾けていた。だが紡がれる声は一息ごとに小さくなっていく。薄く開いた唇に耳を寄せると、コノエが切れ切れに告げた。


「なんか……悔しいけど……、そんな顔しててもやっぱりアンタ、綺麗だな……。だけど――」

「……っ……」

「笑ってる方が……やっぱりいい――……」


 その言葉を最後に――コノエはぱたりと、瞳を閉じた。



「……コノ、エ――? ……あ――」

 そして の瞳が色を喪いかけたその瞬間に――奇跡は起こった。











「――ッ、……!!」


 白い白い、この世の何よりも清浄な光が広間を埋め尽くしていく。コノエを抱く力を咄嗟に強めた は、真っ白な空間の中にコノエともども投げ出された。

 呆然と目を開く。視界は白一色だ。腕の中のコノエはやはり色を喪いピクリとも動かなかったが、その全身を濡らしていた赤い血はどこにも見当たらなかった。


「ここは――」

「……私の世界だよ、

「――ッ!! ……あなた……!」


 穏やかな声に振り向いた は、目を疑った。白い空間の中、鮮やかな衣をなびかせた緑の双眸の猫は――

「シュイ……おじさん――」

 歌うたい、だった。





「ああ……いいね。私は君にそう呼ばれることが、ささやかな夢だったんだよ」

 既にフードを取り払ったシュイが、穏やかに微笑んだ。その顔は少し寂しげでありながらもどこか懐かしく、 の胸を締め付けた。


「どうして、ここに……?」

 意図せずに口から呟きが漏れた。その質問に、シュイはそっと目を伏せて答えた。

「私は……コノエを、ずっと影から見守ってきたんだ。けれど私はもう魂だけの存在だから、コノエと言葉を交わす事はできなかった。それでも――この闘いでは何か手助けをさせて欲しいと思って、こうして君たちに語り掛けた」

「…………。それは……私が、コノエの従姉弟だから……?」

  はもう疑いようのない事実を確認するように問い掛けた。シュイは の顔を静かに眺めると、そっとかぶりを振った。


「それも少しはあるけれど………君が、コノエの大切な相手だと思ったからだよ」

「……っ……」

「……コノエが火楼を出て、藍閃で君に出会った時は――とても驚いたよ。すぐに君だと分かった。……運命は、誰にも予想がつかないものだね」

 シュイがコノエに視線を向ける。蒼白かったその顔にはどこか血の気が戻ってきているようで、 は目を瞬いた。


「コノエは、どうなるの……!?」

 パッと顔を上げシュイを見上げる。縋るような の声に、シュイは穏やかに頷いた。

「……大丈夫だ。この子は、強い。こんな所で君を残して死んだりはしないよ」

 そう告げたシュイは、一瞬だけ痛ましげに眉をひそめた。そのまま に視線を戻し、同じ色を湛えた双眸が結ばれる。


「全て、私のせいなんだ。…君にもすまない事をした。姉さんが死んで、君と義兄さんを哀しませ――君を闘いに、巻き込んでしまった」

「…………」

 瞳を伏せたシュイを、 は無言で見つめた。――すまない? 何が……だろう。
 父も自分も、あるがままに歩んできた。そこに他者の思惑が介入した事はないだろう。自分で選び取った生を、思うがままに生きた。そしておそらく……母も。


「私……謝られる事なんて、されてないわ。闘いに巻き込まれたのは……ううん。闘いに自分から赴いたのは、コノエを守りたいからで――私はここに、コノエの大事な岐路に、一緒に来られて良かったと思う。だから……謝らないで」

  はシュイを真っ直ぐに見つめて告げた。一瞬虚を突かれたような顔をしたシュイは、やがて照れたような優しい笑みを浮かべた。

「君は本当に……姉さんに、そっくりだ。優しくて――強い」

 シュイが手を差し出す。引かれて立ち上がった に、歌うたいは表情を改めて問い掛けた。


「一つだけ、言っておきたい。……私が想像した道をコノエがこれから選択するのならば――この先あの子は、とても重い運命を背負う事になる。……もしかしたら今の呪いよりも、つらい事かもしれない。それでも君は……コノエの側に、いてくれるかい?」

 その言葉を聞いた は一瞬言葉を失い――次に、眉を下げて笑った。


「――もちろん。ずっと……側にいます」

「……そうか。……それなら私は、君たちがいつまでも穏やかに生きていける事を願っているよ。君の力ならもしかすると――闇を、天に上げてくれるかもしれない」

「……え……」

 不思議な言葉だった。だが が問い返すよりも早く、優しい笑みを湛えた歌うたいの身体は周囲と同じ白色に透け始めていった。


 ――さようなら、 。金色の夜明けに生まれた、希望の子。


 ただ一言だけを残し、歌うたいは真白き光に消えていった。 


 










「……あ……」

「……おのれシュイめ……、余計な悪あがきを……!」


 何が……起こったのだろう。光が去り、 はゆっくりと目を開けた。
 ようやく落ち着いた視界が周囲の景色を捉え始める。顔を歪めたリークスを認めた は、次にハッと腕の中のコノエを見下ろした。

「……ッ! ……あ――」



 奇跡が――起きた。


 
「―― ……。あれ…? 俺、どうして……。歌うたいは――?」

「――ッ、……コノエ……!」

  は一度だけその名を叫ぶと、血に濡れながらも……命を取り戻したコノエを強く抱きしめた。






「……こいつらの力を計り損ねたようだな。結局は、貴様の思い通りにはならなかったという事だ」

 術が解け、足を解放されたライが歩み寄ってくる。コノエと をかばうようにリークスに向かって立ちはだかると、ライは静かに剣を構えた。


「……フィリ。歌え」

 表情を消したリークスが重々しく命じる。その言葉を発端に、闘いの幕は切って落とされた。






 最後の闘いは、どこで命を落としてもおかしくないほど激しいものとなった。
 既に爆死したフィリの亡骸からおびただしい量の黒霧が溢れ、猫たちを威嚇する。だがその中で、突然コノエから清浄な白い光が放たれて は目を見開いた。


(これ……歌うたいの――)

 それは――歌。まばゆいばかりの光の奔流に、 はふと心が軽くなるのを感じた。


  怒りではなく、大切な想いを歌に乗せて――大切な者のために。


 これはきっと……誰かのために作られた歌だ。大切な相手のために、歌われる歌。


「……その歌は……」

 リークスがわずかに顔色を変える。 は押し流されるように口を開いた。


 主旋律をコノエが。その澄んだ音色を裏打ちして支えるように、 が副旋律を絡めていく。
 ふたりの歌声は共鳴し、鮮やかな光を織り上げるように空間へと響き渡った。

 白の光と赤の炎が混ざり、薄紅の美しい光がライに降り注ぐ。
 その夢のような光景をコノエと並んで見つめていた は、まるで闘牙と組んでいる時のように……いやそれ以上に、コノエと隅々まで感覚を共有している事を感じ取った。



 藍閃で出会ったのは、自分よりも年下の猫で。
 黒い耳と尾と紋章を負った猫は、いつもどこか胸を塞ぐような顔をしていた。

 苦難の道を行くその猫を、いつしか見守っているような気分になっていた。
 けれど――違うのだ。

 自分などよりもコノエのほうがずっと強くて、揺らぎがなかった。
 鳶色の瞳は諦める事を良しとしなかった。出会った猫たちを引き付けて、悪魔すらも味方に付けて、闘い続けた猫は……迷子のようだった の手を、そっと握ってくれた。


 闘う事を決めたのは、自分のためではない。コノエと共に在る、未来のためだ。

 迷い照れる顔が愛しくて、他愛無い会話が楽しくて、穏やかな時間が尊くて――取り戻したかった。 
 全ての闘いを、越えて。



 ライが駆ける。透明な壁に突き立てた剣は、やがてじりじりと内側の猫へと迫っていった。

「在るべき場所へ――還れ………!」

 そして壁が崩れ、目を見開いた魔術師に刃が突き立てられた瞬間―― とコノエは驚くほどに脆く、透明な感情の欠片をそれぞれの手に受け止めた。








   +++++   +++++









 ――草の音。陽の月の光。冬の空気の匂い。そんなありふれた自然の息吹の中で、コノエはぼんやりと目を開いた。

 先程目覚めた時は今にも死にそうな状態で、正直ここまでかと思ったが二度目の奇跡により何とかそれは免れた。

(……父さん……)

 今なら、全てが分かる。歌うたいとリークスの関係も、リークスと自分の関係も……全て、 と共に見た。


「……ッ、 ……?」

 ふとその大切な名前を思い出し、視線を巡らせる。ライは向こうの木の根元にいて起き出している。 は――




 ・コノエの背後に倒れていた


  が――いない……!?






































【背後に倒れていた】


「……ッ……」

 目を閉ざした黒衣の雌猫は、口から血を流していた。見るとその胸元も真っ赤に染まっている。
 そのほとんどはおそらくコノエの血なのだろうが……嫌な予感にコノエはぞくりとした。

「――おい。 ……大丈夫か……ッ」

 雌猫に手を伸ばす。白い頬に触れたその瞬間、 はゆっくりと目を開いた。


「…………。…………、―――。……ッ!? コノエ……ッ!」

 何度かぼんやりと瞬きをした直後、 はバチリと目を覚ました。
 ガバッと起き上がり、突然胸倉を掴まれる。――どう見ても、大丈夫そうだ。

「な、何だよ……」

「傷……! 胸、大丈夫……!? 私が……ッ――」

 叫んだ が身をかがめ、胸を覗き込む。近すぎる距離に動揺したコノエは、そっと の肩を押しやって頷いた。

「大丈夫。大丈夫だから……」

 何度もそう言い聞かせると はようやく震えるように息を吐き出し、「ごめんね……」と呟いた。





 それからは、結構色々なことがあった。自分と の呪いが消えた事を確認した後に、まずは悪魔が賑やかにコノエの元から去っていった。

 そしてリークスの感情に……痛みと哀しみに、コノエは一瞬翻弄されそうになった。そんなコノエを呼び戻したのは だった。
 目を開けて最初に見た の瞳は、切ないような寂しいような、複雑な感情を湛えてわずかに潤んでいた。


「リークスは……」

「……うん。……コノエの中に、いるんだね。……分かるよ」

「そうか……」


 理解してくれる猫がいてくれる事。それがこれ程に嬉しい事だとは、思わなかった。


「愚かで……純粋で……とても、寂しい猫――。だけど……もう一度会えたなら…いいわね」

  がぽつりと呟く。……誰に、とは言わなかった。分かりきっている事だったから。
 すり、と がコノエの肩に額を寄せる。その温もりを受け止めて、コノエは近く…そしてどこまでも遠くなった猫の姿を、想った。



 
「胸――大丈夫……?」

  がそっと心臓の上に手を当てる。その言葉は先程と同じようでいて、異なる響きを内包していた。
 震える指先をそっと握り、コノエは笑みを浮かべた。

「大丈夫だって。……でも、そんなに気になるなら――アンタがいつまでも側で、見張ってたらいい」


 その言葉に虚を突かれたような雌猫の顔が、段々と赤く染まっていくのを見て――コノエは内心で小さく拳を握ったのだった。

















 

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