少し冷えた空気と、黎明の薄明かりが瞼を揺らす。
  は小さく震えて瞳を開くと、片割れの姿を求めて身体を起こした。


「……コノエ?」

「――ああ。 、起きたのか。……おはよう」

  のただ一匹のつがいは、薄紫色に染まる空を背に優しく微笑んだ。







最終章   金色の夜明け 








 あの闘いから、三回目の春を迎えた。
  とコノエは今、剣を卸しに鳥唄から藍閃へと向かう旅の途中にあった。

 あの時は先が見えない暗い気持ちで通った道を、今はかけがえのないつがいと共に歩いている。まさかそんな未来が待っているとは、当時は夢にも思わなかった。




 闘いの後、 はコノエを誘って鳥唄へと帰ってきた。
 『故郷に帰って鍛冶がしたい。でも、ずっと一緒にいたい』 ――幾ばくかの不安と共に がそう告げると、コノエは一瞬泣きそうな顔になった後『それ、俺が言おうと思ってたのに』と苦笑した。


 鳥唄に帰ってきた直後は、 に対してもコノエに対しても村猫からの風当たりが強く、コノエは常に気を張っていた。
 けれど元々鳥唄の猫は温和な性格のものが多い。 がコノエ以外にはもう目を向ける気がない事を悟ると、村猫は態度を改めて他の村からはるばるやってきたコノエをむしろ歓迎するようになった。鳥唄の民はもてなし好きで、細かい事にはこだわらないのである。

 当初はそんな村猫の良く言えばおおらかな、悪く言えば大雑把な態度にコノエも戸惑っていたようだが、徐々に村に慣れていった。

 そして は鍛冶の仕事を、コノエとふたりで再開したのだった。




 コノエは最初こそ火に近付く事ができなかったが、やがて少し離れた場所から が鉄を鍛える姿に見入るようになった。生まれては消える火花を熱心に見つめ、感嘆の息を漏らす。
 できた剣を研いだり鞘や柄を作ったりと、剣を鍛える以外にも作業は山ほどある。 も初めは炎を使わない工程をコノエに教え、任せていたのだが最近ではコノエも火を恐れなくなってきたようだった。

 赤々と燃える炎を見つめる瞳は穏やかだ。リークスから密やかに受け継がれた恐怖心も、やがてこうして昇華されていくのかと は思った。忘れるのではなく、リークスを抱いたままコノエはコノエとして生き始めている。


 喜ばしい変化は他にもあった。あの闘いからしばらくは真夜中にうなされて飛び起きる事の多かったコノエだが、最近はそれが減ってきたのだ。
 コノエが苦悩するたび、 はコノエを抱きしめて溢れる涙を拭ってきた。 にとってそれは負担でも何でもなかったが、せめぎ合う記憶や感情はコノエにとってはやはり胸を重く塞がれるものであったようだ。

 しかし苦悩も、かの魔術師の罪も、かの猫の孤独と哀しさも、コノエは全てを受け入れたまま手放さなかった。涙を流した後の静かな笑顔を、 は何よりも尊く愛おしいと思った。


 そうして感情を受け止め制御できるようになってきたら――あのシュイからの過酷な宣告も、やがては覆される日が来るかもしれないと は思っていた。



 そういえばふたりで暮らし始めて少しした頃に、大きな発見があった。ようやく整理する気になった父親の遺品から、コノエの母からの書簡が見つかったのだ。
 慣れない筆跡で書かれたその文面には、 の父親の身を案じる言葉やコノエの成長ぶりが細やかに綴ってあった。

 書簡のやり取りはコノエの母の不調に伴いいつしか途切れてしまったようだが、鮮やかな筆致で語られる記憶は、確かに自分たちの親が生きていたという事をありありと物語っていた。
 それを見つけたふたりは驚き、笑い、そして涙した。


 そんな日々が繰り返され、気付けば三年の歳月が流れていた。







  +++++   +++++







「……もうすぐ陽の月が昇りそうなんだ。 も見るか?」


 ふたりの寝ていた木の根元から少し離れた所に立ったコノエは、幾分か弾んだ声で呼び掛けた。
 硬い地面から身を起こした は、ふたり分のマントに包まれていた事に気付いて苦笑した。……いつの間に、こんな気遣いが自然にできる雄になっていたのだろう。

 マントを持った はコノエに近付いた。コノエが振り返り、それを受け取る。
 昨夜は暗くて気付かなかったが結構な崖の上にいたらしい。木立が途切れると、そこには朝もやをまとわせた絶景が広がっていた。

 薄くなっていく暗闇の下、おぼろに見えるのは藍閃の街並みか。
 そこかしこに薄紅色の花を纏った木が立ち並び、街じゅうが浮かび上がるように見えた。



「すごいわね……」

  がそう呟いた瞬間、薄闇の向こうに金色の光がちかりと瞬いた。
 地平線から顔を出した陽の月が、ゆっくりと紺青の空を染め上げていく。その美しい光景に、ふたりは言葉も忘れてしばし見入った。


「…………」

「…………」


 今この時に、この光景を共に見ている事を……幸せだと思う。



  はそっと隣に立つ雄猫を見上げた。

 あの頃はあまり感じなかった身長差が、ここにきてぐんと増した気がする。わずかに見上げなければ、もう視線が合わない。 
 頬は鋭さを増し、最近まで残っていたあどけなさもいつしか綺麗に消えていた。コノエは成猫になった。

 リークスに似てきたと、時折ハッとする事がある。
 けれど時に憂いを含みながらも、その瞳は確かにコノエのものだ。深い情感を湛えたその目は、それでもあの頃と変わらない温もりを に注いでくれている。

 


  は静かに手を伸ばすと成長したつがいの指を握った。触れた指先から、コノエの温かな熱が染み入ってくる。


「綺麗ね……」

「そうだな……」


 小さく呟いたふたりは、どちらともなく身を寄せ合った。視線は空へと向けたまま、 が小さく口を開く。


「……私ね、ちょうど夜明けに生まれたんだって。……シュイおじさんが言ってた」

「父さんが……?」

「うん。だからなのかな。私、昔からこの時間が好きで……。夜も静かで安らぐから好きなんだけど、夜明けはまた特別なの。……今日も生きてるって、実感できるから」

「……そうか」




 ――生きている。自分は、今この時を生きている。
 沢山の猫の想いを受けて育まれた命は闘いの日々を切り抜け、今もこうして地を踏みしめている。

 
 別れがあった。嘆きがあった。怒りがあった。諦めがあった。

 そして旅に出て、出会いがあった。


 恋をした。まさかそんな事になるとは夢にも思わなかったけれど、惹かれ合う心を止める事はできなかった。

 そして闘って闘って、真実を掴んだ果てに――今、生きている。この猫と共に。


 辿り着いた未来を、もう決して手放しはしない。



 





「また……見ようね。どこに行っても、いくつになっても……一緒に」


 そう呟いた雌猫を、傍らの雄猫が柔らかく抱きしめた。

 重なり合う猫たちの姿は、やがて金色の朝焼けに染められていった。

 















Omnes una manet nox. 

私たちすべてを、同じ夜が待つ。


夜とはすなわち闇であり、闇は猫たちの不安や恐怖を増幅させてきた。
しかしその反面、闇はとこしえの安らぎを猫たちにもたらしてもきた。

世界の闇は今、暗黒から安寧へと姿を変えつつある。


Omnes una manet nox. 

私たちすべてを、同じ安らぎの夜が待つ。



そして私たちすべてを、同じ希望の朝が待つ。











 FIN.




 

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