「 ……無事でいてくれ……!」 コノエは暗い回廊を走りながら、突如として消えた雌猫の無事を祈り続けていた。 12、命を賭して 「ライ……!」 が消えたと気付いた後、コノエはすぐに仕度を整えてライの部屋に飛び込んだ。 ノックもせずに押し入り、ちょうど仕度を終えていたライにじろりと睨まれる。 「お前……昨日はどこに行っていた! 早く仕度を―――」 「 が、いないんだ!」 ライの言葉を遮って叫ぶと、薄青の瞳が怪訝に細められる。コノエは息せき切って異常な事態をライに告げた。 「最後にあいつを見たのはいつだ」 神妙な顔をしたライが問い掛ける。コノエは視線を落とすと口を開いた。 「深夜だ。昨夜はずっと一緒で―――」 「ずっと……? 一晩中か」 「ああ。……あ、その……そうじゃなく…もないんだけど……」 ……やばい。焦って余計な情報まで漏らしてしまった。 コノエは途端にしどろもどろになって言葉を濁したが、ライはコノエをじっと見つめただけで特に何も言わなかった。そんな場合ではないと分かっているが、正直ありがたい。 「状況から見て、リークスが何か仕掛けてきた可能性が高いな。……それに空がおかしな事になっている。いよいよ奴が動き出したというところだろう。屋根へ上るぞ」 「空が……? あ、おい待てって……!」 言いざま、ライが窓から部屋を出て行く。コノエは慌ててその後を追い、屋根へと上がった。 屋根の上には、悪魔とバルドが揃っていた。アサトとフラウドの姿だけがない。 「何があったんだ?」 「見てみろよ、あれ」 いつになく真剣なヴェルグの口調につられ、コノエは空を見上げた。そして、信じがたい光景に絶句した。朝の空に輝いているはずの陽の月が……まるで侵食されるように、欠けていっているのだ。 その現象は「蝕」と言うらしい。陰の月が陽の月と一緒に上って、陽の月を覆い隠してしまうのだとバルドが語った。 そしてまさに今、陽の月の全てが隠されると―――空は一面の赤に染まった。 再び声を失ったコノエは、その時響いた道化の声にハッと顔を上げた。 「いよいよだね。―――時が来た」 唐突に現れたフィリは「あの方が待っている」と告げた。そしてくるりと掻き消える寸前に、意味深な言葉を口にした。 「あの猫も……待ってるかな? もう、待ってないかもしれないけどね」 「な――― の事か……!? は、お前たちのところにいるのか!」 「さあねぇ……」 どうとも取れる口調だけを残してフィリは消えた。そしてその直後。 邪悪な歌の訪れと共に、大勢の死猫が藍閃へと押し寄せてきた。 「あの村と同じだ……。くそっ、なんて数だ!」 死猫たちは、邪悪な歌に操られてゆっくりと、だが確実に藍閃に近付いてきていた。 この歌を止めなければ、死猫たちは止まらない。けれど今は の安否の方が気になる。もしもリークスに囚われているならば……一刻も早く助け出さなければ。 意見を求めるように悪魔を見ると、この歌は蝕の月を利用して魔力を祇沙中に振り撒いているとカルツが告げた。今ならば―――リークスの居場所も分かると言う。 いきり立ったヴェルグが瞬間移動をしようと姿を揺らがせる。それをコノエは引き止め、同行を願い出た。 『一人一匹』と告げるヴェルグに、コノエが周囲を窺う。バルドは申し訳なさそうに首を振った。 「すまんな。俺はこれでも宿を守らなきゃならん。あんたと が安心して帰ってこれるように、ここで待ってるよ」 「バルド……。ああ、絶対に帰ってくるから……」 首を振ったコノエは、バルドに向けて頷いた。首を巡らしライを見る。ライは仕方ないというように溜息をつきつつも、頷いてくれた。 「アンタ……」 「仕方あるまい。お前のような馬鹿猫を藍閃に連れて来たのは俺だからな。その結果あいつに会い、いま敵に奪われて取り返しに行くと言うなら―――闘牙がいなければ話にならんだろう。……保護者がわりだ」 「な……っ。アンタな……!」 しれっとライが笑う。コノエは毛を逆立てつつも、変わらぬライの頼もしさに安堵し、勇気が湧いてくるのを感じた。 「連れて行ってくれ。俺を、リークスと のところへ」 それからコノエはラゼルによる瞬間移動を経て、砦の前で襲ってきた冥戯の猫を振り切ってライと共に回廊を駆け抜けていた。 瞬間移動も、冥戯の猫から逃れるのも、苦しくて余裕がなかった。肉体だけでなく、共感の作用で精神的にも重苦しさが付きまとっている。けれど足を休めるわけには行かなかった。 が、ここにいるはずなのだ。早く早く―――行かなくては。 コノエは歯を食い縛ると、最後の扉に強く手を掛けた。 「ようやくか。待ちくたびれたぞ」 ―――そこは、見れば見るほど奇妙な空間だった。天井が高く、巨大な花が咲き乱れている。不気味な部屋だ。 その中心に立ったリークスがフィリを従えて、現れたコノエとライを見下ろした。 「 はどこだ。お前が攫ったんだろう……!」 コノエは視線を合わせざま、リークスに向かって叫んだ。リークスは数拍の後、仮面の奥でククと笑った。 「ほう……。まさか、自分の事よりも雌猫を心配する日が来るとはな……。幼い猫も、恋を知れば少しは成長する、という事か」 「ふざけるな……! 余計な言葉なんか聞きたくない。 はどこだ!」 「おい……頭に血を上らせるな。早死にしたいのか」 取り合おうともしないリークスに腹が立ってくる。ライの制止も聞かず、コノエはリークスを睨み続けた。 「短慮さは変わりがないようだがな。……まあいい。あの雌猫はこちらで丁重に保護させてもらった。傷一つ付けていないさ。後で会わせてやろう」 「やっぱりお前が……! そんなの信用できない。今すぐ を解放しろ」 「それはできないな」 聞き分けのない子猫に言い聞かせるように、リークスがゆったりと首を振る。今すぐ飛び出そうと勇んだコノエの前で、リークスは鷹揚に口を開いた。 「その前に、お前は自分の事も知りたいのではないか? …雌猫に会わせる前に、少し私の話をしようか」 お前の話なんて、と唸るコノエを遮って、リークスは滔々と己の過去について語り始めた。それはやがて己の魔術に不必要な存在は何か、という話に変わっていった。 それは、感情。感情を『器』に捨てれば魔術はより強く、力を増していくのだとリークスは言う。そしてその『感情の器』の特徴が、ひどく自分に似通っている事にコノエは気付いた。 愕然とするコノエに追い討ちを掛けるように、その器とはコノエの事であるとリークスは告げた。ゆえにコノエとリークスは『同じ』……なのだと。 「嘘だ!」 ―――嘘だ。リークスと自分が一緒なんて、ありえない。 の事も一瞬頭から飛んで、コノエは叫んだ。だがそれを嘲笑うかのように、リークスは笑うと仮面を迷いなく落とした。 その顔を見た瞬間―――コノエの世界は足元から崩れ始めた。 「お前は私から生まれた『もの』―――廃棄物でしかない。お前の存在など初めから、何の意味も持ってはいなかったのだよ」 「あ……ア……! うあああァァァ……!!」 「おい、コノエ! この馬鹿猫! あんな言葉など真に受けるな!」 混乱する。崩れていく。自分の存在が。……存在? 存在など初めからなかっただろうに。 ライが何か叫んでいる。でも何を言ってるのか分からない。それなのに、リークスの禍々しい言葉だけはコノエの耳にはっきりと響いてきた。 「真実を知っただけで精神に殺されるか。それもいい。……だが、お前にはもっと最高の死に方を用意してある」 「あ……あ……っ―――」 「――― 。……愛しい者の手で、甘美な世界に送ってやろう」 「……ッ!?」 …… ? たった一匹の雌猫の名を、コノエの切迫した精神は拾い上げた。 何もかもを手放しかけていた心が、わずかに踏み止まる。だが何を言われたのかまでは理解できない。 ゆるゆると視線を上げたコノエの前で、リークスは上空に黒い球体を出現させた。 パチンと指を鳴らすと、何かがそこから進み出てきた。 「……?」 コツコツと硬質な音を立てて、まるで階段がそこにあるかのように影が降りてくる。 最初に見えたのは、黒い長衣。身体のラインに沿うようなその衣服の上部を、金糸が彩っている。黒衣の上に現れた白い顔に、コノエは息を呑んだ。 「…… …………」 黒づくめの が、リークスの横に並んだ。リークスの言ったとおり、怪我などはしていないようだ。コノエは大いに安堵を感じた。 壊れかけていた心がほんの少しだけ浮上する。だがコノエが呼びかけても、 はチラとも視線を上げなかった。 「 ……?」 「…………」 は沈黙を貫いている。リークスに喋るなとか言われているのかとコノエはふと思ったが、全く違う。 の緑の瞳からは―――感情という光が、全て削げ落ちていた。 「なんで―――」 コノエは意図せずに声を零していた。隣でライも目を見張っているが、振り返る余裕もない。 の瞳は開いている。瞬きで生きている事も確認できる。だがその瞳はコノエではなく、どこか遠くを見ていた。 白い顔の中で、赤く色付いた無言の唇だけが印象的だ。揃いの黒衣で並ぶリークスと は、まるで一対のつがいのようだった。 「……美しいだろう? 愚かだったこの雌も、感情を葬っただけでこれほどに研ぎ澄まされた光を放つ」 リークスが の髪を一房持ち上げる。金糸がサラサラと落ちる感触を、味わっているかのようだ。 はそれでも動かない。無表情にコノエを睥睨しているだけだ。コノエは呆然とした中にも無性に苛立たしい気持ちになった。 「触るな! から離れろ……! ――― 、どうしたんだ! そいつから離れろよ……!」 叫び、ふたりの元へ駆け寄る。だがコノエの身体は、リークスが張り巡らせた透明な壁に阻まれた。リークスがゆったりと を引き寄せる。 「無駄だ。この猫の感情は、再生不能なレベルにまで凍らせた。そう簡単には溶けまい」 「な……っ」 「これが私の魔術の完成形だ。この猫の母親は術に抗って醜く死んだが、 は心の葛藤も身体の痛みも感じる事はない。無音の安らぎの中で、ひたすらに殺戮を繰り返す美しい獣になったのだ」 「お前……何を言ってるんだ……。なんて事を―――!」 リークスの言葉が、理解できない。先程自分の正体を知った時は衝撃と絶望に心が呑み込まれそうになったが、今は違う。 への信じがたい仕打ちに、コノエは湧き上がる怒りを抑える事ができなくなっていた。 確かに今の は美しかった。まるで精巧に作られた人形のようで、生き物の生臭さを感じさせない。 けれど……コノエが好きになったのは、感情のない人形などではなかった。笑い、怒り、涙する、生に満ちた猫をコノエは愛したのだ。 その瞳から顔から奪われたものの尊さを、コノエは無表情な を見ながら痛感していた。―――取り戻さなければ。 「 を元に戻せ……!」 「……これだけ言っても理解できないとはな。お前にこの猫を会わせたのは、感傷に浸らせる為ではない。―――行け、 」 「……!?」 ―――何が起こったのか、にわかには理解できなかった。 ヒュンと風を切る音がして、次の瞬間頬に熱い衝撃が走った。手をかざしてみると……血だ。頬を一瞬にして斬られた。その傷を付けた相手を振り返り、コノエは絶句した。 「 ……」 「…………」 数歩先に、 が静かに佇んでいる。―――いつの間に壁を越えて、コノエの元に踏み込んだのだろう。 の手には細身の剣が握られていた。あの愛用の剣ではない。あれは藍閃に置いてきてしまった。針のように細く長い剣を携えて、 はコノエを見ていた。 「なんで、だよ……」 「…………」 掠れた声が漏れる。だが次の言葉を発する前に、 が再び動いた。剣を構え、コノエに向かってくる。コノエは咄嗟に剣を抜いて の刃を受け止めた。 「なんでだ、 ! ……やめろ! 目を覚ませよ!」 殺気も何も感じなかった。感情の自制を解いてみても、 からは何も流れてこない。 予兆がないから次の手も読めないし、いつ攻撃してくるかも分からない。 と競り合いながら、コノエはライが向かってくるのを視界の端で捉えた。 「この阿呆猫! 誰を攻撃してる! ―――ぐ…っ……!」 「ライ!」 ライが急に立ち止まった。 がライを一瞬強く見据えたのだ。魔術を掛けられたかのように、ライの足が地面に張り付く。 コノエは呆然としながらも、 の攻撃を受け止めるので精一杯だった。 「コノエ。お前は先ほど『誰かを愛するという気持ちは神にも否定できない』と言ったな。……ならば今の心境はどうだ? 愛しい猫の殺戮の対象になっても、その気持ちが大切だなどとまだ言えるか?」 「……ッ」 リークスが勝ち誇ったように問い掛けてくる。 否定したい。大切だと言い返したい。だが の攻撃は予想以上に苛烈で、そんな余裕はどこにもなかった。 コノエは防戦一方だ。 の身体を傷付けまいとすると、どうしても剣筋が鈍る。 ただでさえ、純粋な剣の技量で言ったら と自分は大差ないくらいなのだ。しかも は、我が身が傷付くのも顧みずコノエに攻撃を仕掛けてくる。身を守ろうという概念が全く欠如しているようだった。 「 ……目を覚ましてくれ……!」 「……っ、…………」 攻撃を何とか受け止めてはいるが、どうしても細かい傷を にも負わせてしまう。 コノエの一撃で の腕がわずかに切れた。思わず剣を引いたコノエの隙を狙って、再び が容赦なく攻め込んでくる。 ―――何故、こんなことに。 一番闘いたくない猫と、傷付けたくない猫と、どうして自分は斬り合っているのか。コノエは分からなくなってきた。 傷を負わせる以外に止める方法はないのか? 気持ちばかりが焦る。 猛攻に押され、息が上がってくる。だがそれは も同様のようだった。 リークスの術は力を増幅させた訳ではないようだ。無表情ながらも息を荒くした が、少々危うい手付きで剣を握り締める。―――互いに限界だと、その手はコノエに告げていた。 いずれコノエも手元が狂って、 を決定的に傷付けてしまうかもしれない。 ( ……) 傷付けたくない。ならば、どうすればいいのか。 が動く。その鋭い切っ先は、躊躇いなくコノエの心臓へと向けられた。 金糸が揺れる。綺麗な色に彩られたその表情を見て―――コノエは思った。 (そんな哀しい顔じゃなくて……もう一度、笑顔が見たかったな……) 「……っ、ぐあ……ッ!」 「―――コノエ!!」 コノエは剣を放り捨てると、 を正面から抱き締めた。 肉を貫かれる。細い剣が背中に達し、視界が赤く染まった。 最初は衝撃だけで、激痛は後から襲ってきた。 「それほど早く生き絶えたかったか? 自ら地獄に飛び込むとは……愚かな―――」 ライが何か叫んだ。リークスが忌々しげに呟いている。だけど、雑音が酷くてもう聞こえない。 コノエはわずかに残る感覚だけを頼りに、腕の中の身体を深く抱き締めた。 「アンタに……殺されるなら……それもいいかなって、思うけど……アンタ、今のままじゃ苦しいだろ……?」 震える唇で、切れ切れに言葉を紡ぐ。 は無言を貫いていたが、その攻撃の手はコノエを刺し貫いたまま止まっていた。 (ああ……あったかいな、アンタ―――) 実際に温かいのは、胸から血が溢れ出しているためだ。腰から下が痺れるような温もりに包まれ、眠りに引きずり込まれそうになる。けれどまだ逝けない。 コノエは の顔に手を伸ばすと、透明な瞳を覗き込んだ。 「戻ってくれ……! 俺のことは、いいから……『アンタ』を取り戻せたなら、俺は…満足だから―――――もう一度、笑って…くれ……」 「…………」 急速に身体の力が抜けていく。唇の動きだけで を呼んだコノエは、ゆっくりと瞳を閉じた。意識を失った身体が崩れ落ちる。 貫かれたままのコノエを、 は自然と抱き止めた。そして次の瞬間、緑の目を見開いた。 「コノエ―――?」 (……こんな猫は知らない) |