――こんな猫は知らない。そう思えたのは、一瞬だった。


 剣が抜け、抱きとめたコノエが の身体を滑り落ちていく。ドサリと音を立ててコノエが倒れたとき、 は目を見開いた。





    13、夢の終わり





 
――この猫は、誰。

 私が刺した猫は……私に刺されて、私を抱きしめたこの猫は……誰。

 最後に唇が何かを紡いだ。――『 』と、言ってはいなかったか。


「……ッ……、……あ―――」


 ――そう、私は 。この猫は――コノエ。






「――あ……ッ、あ……っ! ……ッ、いやーっ!!」

 金切り声を上げて、突然 が頭を抱えた。目を見開き、黒衣に包まれた身体でもがく。
 今までの泰然とした様子はどこにもない。その錯乱するさまを、ライは固唾を呑んで見つめた。


「……このえ……? 違う、そんな猫知らない……! 違う、違う!! 私は――この猫を殺、す……殺した……? ……コノエを――!?」

 混乱している。自我と術の間で板ばさみになっている様子が、ありありと伝わってきた。
 まるで要領を得ないが、確実にリークスの術は薄れつつある。だがその時、リークスが忌々しげに口を開いた。


「感情が、溶けたか……。所詮お前も、胸を乱す感情には逆らえないという事か。 よ」

「……コノエ……、コノエ……?」

  がコノエを抱き上げる。死体を抱くその顔には恐れと困惑が交互に入り乱れ、細い腕を震わせた。そんな に向けてリークスが手を掲げる。


「――ッ! 逃げろ、 !!」

 ライは叫んだ。だが身体が自由にならない。動こうにも、 に掛けられた呪縛の術が足を縫い止めているのだ。……まだ術の支配下にあるという事か。

「――ならばお前も、母親のように醜い感情に殉じるがいい!」

 ライの叫ぶその先で、爆発的な赤い炎が に襲い掛かる。
 それが重なる二匹にぶつかる瞬間、何かが砕け散るような高い音をライは聞き取った。

 
 





 赤い炎が放たれた。それを目にした時、 の身体は無意識のうちに動いていた。

 ――守らなければ。……誰を? ……腕の中のコノエをだ。もう誰にも傷付けさせはしない……!


「……ッ、あああああ……ッ!!」

 パキンと音がして頭が解き放たれた。反動で倒れそうな身体を支え、コノエを引き寄せる。
 コノエを抱きかかえた は、来たる衝撃を覚悟してギュッと目を瞑った。

 ――だが、恐れた衝撃はやっては来なかった。



「……何!? ……まさか、お前が跳ね除けるとは――」

 リークスが怯んだように叫ぶ。目を開いた は、己の周りにくすぶる炎の影に目を丸くし、そしてその意味を悟った。


 炎は確かに へとぶつかった。だがその瞬間に は……炎を、己の歌として取り込んだのだ。

 もともと の歌は炎をイメージして作られていた。そして今、激しい感情を宿した の心はリークスの力に打ち勝って、くすぶる炎を一気に劫火へと変えた。――天を衝く怒りと共に。


「う……あ………、……お前――! 許さない……ッ!!」



 





  の周囲にゆらりと炎が揺らめく。それは一気に燃え盛り、砦の中を熱風で満たした。
 ライは目を見開いていた。まさか に――これほどの力があったとは。

  は歌っていた。受け取る者のない怒りに満ちた歌を、声も出さずに。
 腹の底を灼くような怨嗟の声は、ライに一種の恐れのような感覚を抱かせた。
 

 真紅の炎が巨大な草花を舐め尽くしていく。コノエを抱いた は、瞬きもせずにリークスを睨み付けていた。

「その力……こんな所で潰えさせるのは忍びないが――自爆すると言うなら、止めはしない。せいぜい限界まで出し切ってみろ」

「……ッ、…………」

 炎に煽られたリークスが を見下ろす。だが袖で顔を覆うと、フィリを従えたリークスは姿を消し始めた。 の瞳孔が締まる。


「また会おう―― 。怒りに彩られた、美しい猫よ」

 リークスが消えていく。だが は立ち上がりもせずに、その姿を睨み続けていた。
 そしてリークスが完全に消え去っても…… の歌が止まる事はなかった。



  が憎んでいるのはリークスであって、リークスではない。おそらく―― 自身だ。
 炎が金の髪や服の裾を焦がすのにも構わず、 は歌を紡ぎ続ける。まるでその歌で、自身を焼き殺すかのように。


「……ッ、おい……」

 ――それは駄目だ。そんな事をして何になる。
 ライは熱風で焼け付く喉を動かし、自由になった足で駆けようとした。だがその腕を、突然現れた闖入者に掴まれた。

「お前も焼け死ぬつもりか? ……やめとけよ、アイツはもう戻らねぇ」

「! ……貴様……ッ。放せ……!」


 現れたのは――ヴェルグだった。いくらか様相を乱しながらも、いたって力は尽きていないようだ。そんな事はライにはどうでもいい事だったが。
 ヴェルグは に目を向けると、口端を吊り上げた。珍しくも感心したような口調で呟く。

「いい怒りだな。……あいつが喜びそうだ。『楽』じゃねーのがムカつくけどな」

「……? ――おい。貴様、いい加減に腕を……ッ」

 ライはその言葉に疑問を感じながらも、ヴェルグの腕を強く振り払った。……早く、止めなければ。
 だが予想に反してヴェルグはますます強く腕を掴み、ライを引き付けた。オッドアイがライの隻眼を見下ろす。


「お前を死なせる訳にはいかねーんだよ。アイツが後で、グチグチうっせーからな。……おら、行くぞ!」

「……ッ! 貴、様……!」

 腕を引かれ、暗い穴に落ちるような眩暈に襲われる。ライは抵抗した。しかし悪魔の力は強大だった。
 炎に包まれる二匹を見ながら――ライはその場から消え去るしかなかった。








 そしてその直後――燃える広間に、真紅の悪魔が降り立った。














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