罪を知らずにその悪魔に惹かれ
忘却と恋情と、雌猫は二重の罪を重ね続けた。
交わらぬはずだった二つの魂は――光を求めてもがき続ける。
贖罪の道
1、さよならを告げるために
「――すまない。また、呼ばれたようだ」
申し訳なさそうに呟いた蒼の悪魔は、何度目とも知れぬ召喚に応じて暗闇へと消えていった。
「お帰りなさい。……また同じ猫だったの?」
「そのようだな。今日も姿を捉える事はできなかったが」
数刻後、森で見つけた洞窟の中で
はカルツの帰りを迎えた。 すっかり暗くなった洞窟内でランプを灯し、悪魔を待ち続けるのは多少寂しくはあったが、カルツが残してくれた結界のおかげで心細くはなかった。それでも、無事に帰ってきたのを見るとホッとする。…しかし。
「――疲れた顔、してる。……気にかかってるのね」
「………そうだな。冥戯のあたりからの呼び出しだったからな……」
『仕事』が終わったはずのカルツの顔は、いつになく陰鬱だった。あからさまにそんな態度をしている訳ではいないが、穏やかな微笑を浮かべる奥に隠しきれぬ憂慮が見え隠れする。
「……大丈夫? ……無理、しないでね」
「ああ。心配をかけてすまないな」
が思わず白い頬に指を伸ばすと、それをそっと握ってカルツは苦笑するように目を細めた。猫よりやや体温が低くとも、その指には確かに熱が宿っている。 握られた指はそのままに、
は悪魔の肩に軽く額を押し当てた。
ここ最近のカルツの沈んだ感情は、そろそろ
にも見過ごせないところまで来ていた。 故郷からの不可解な召喚が続いていて、しかも行ってみればその召喚相手が見つからない。それだけでも憂いに値するのに、カルツはその理由を十分に探る事ができていない。それほど長い時間は、召喚先の冥戯に滞在していないからだ。――
をひとりにしないために。
己を呼び出した猫と対面する事も契約する事もできずに帰ってくるカルツは、段々と重い空気を纏うようになってきた。本当なら存分に真相を探る能力も時間もあるはずなのに――。 足手まといにしかなっていない自分の存在を省みて、
は申し訳なさに肩を落とした。『ごめん』と、カルツに告げれば嫌がる言葉を、心の中でそっと呟く。
しかしカルツは憂いや苛立ちを言葉に出す事はもちろん、表情に示す事もほとんどなかった。
も昔ならその機微になど気付かなかったかもしれない。けれど表面に出ない感情を読み取れるようになるぐらいには、二匹は長い期間を共に過ごした。――いや、違う。時間の長さではなく……カルツに向ける
の視線こそが、その心情を追えるまでに変化したのだ。
(……悪魔、なのに――)
猫が悪魔に恋をするなんて聞いた事がない。昔の自分が聞いたなら一笑に付しているような状況だ。 それでも
は、最近ようやく自分がカルツに惹かれているのだと自覚できるようになったきた。
カルツに同行する事を願ったのは、硝子細工に触れるような皆の態度に居心地の悪さといたたまれなさを感じていたからだ。それは間違いない。 だがなぜカルツを頼ったのかが分からない。頼るのはトキノでも良かった。いや、誰に頼らなくとも藍閃で働くとか鳥唄に帰るとかいう手段もあったはずだ。それでもあの時、カルツを見た瞬間に『彼だ』と思ったのだ。
カルツが旧知であるのは分かっていた。だがいつどこで別れたのかがどうしても思い出せない。どうやら記憶が飛んでいるようなのだ。 それを思い出そうとしたら、頭痛と吐き気が込み上げてきてたまらない恐怖に襲われた。だから
はあえて深く考える事を放棄してしまった。そんな中途半端で不安定な状態の自分を、カルツは多くを問わずに受け入れてくれたのだ。
それからふたりで祇沙をゆっくりと旅してきた。互いに『どこへ行こう』とか決めた訳ではない。定住する気もなく、ふたりは流れるままに巡り歩いた。
カルツは無食でも金銭がなくても生きていけるがが、
はそうはいかない。 路銀が尽きたら村々で剣を研いだ。たまに歌って小金を稼ぐ事もあった。そのうちどこかでカルツが弦楽器を調達してきた時にはさすがに
も驚いたが、若干照れたように演奏した悪魔の腕前は、十分賞賛に値するものだった。 どこか寂しくも流麗な音色に歌を合わせると、周りに集まる猫の数が驚くほど増えた。今ではちょっとした歌うたいのように思われているようだ。そんな生活を、愛しく思う。
カルツの側は居心地が良かった。近付きすぎず離れすぎず、絶妙な距離を保って接してくれる悪魔の態度は
に安堵を与えてくれた。 カルツは優しかった。それは押し付けがましいものではなくさり気なく与えられるものだったけれど、何故だがひどく疲れていた自分の心に沁み入るものだった。――けれど。
その優しくもどこか一線を引いた態度を、物足りないと感じるようになったのはいつからなのか。
優しくて、自分を思いやってくれて、ほとんど共に行動して自分を見つめてくれる相手に、好意を抱くなと言う方が無理な話だ。 見つめられればもっと側に来て欲しいと思うし、触れられれば抱きしめて欲しいと思う。……多分、それは雌が雄に抱く感情としてはごく普通の事だと思う。
けれどカルツは
を踏み込ませてくれない。指で触れれば握り返してくれるし、額を寄せれば肩を抱いてくれる。それはただの友愛にしては親密にすぎる態度だったが、
がそれ以上を望もうとするとやんわりと押し退けられるのだ。――今も。
「冥戯の村跡で何度も『悲哀』を召喚する……。冥戯の生き残りかしら? だけどあそこは――」
「……冥戯の猫は、全滅したはずだ。誰に呼び出されているのかが解せぬが……呼ばれる以上は応じなければな。あまり長くは滞在できないが。……正体はともかく、私を呼ぶ力は強大だ。あの感情は力になる。――欲しいな」
カルツが思案するように瞳孔を絞る。それは
が滅多に目にする事のない悪魔としての表情で、
はスッと心胆が冷えた。だが続くカルツの言葉に目を見開く。
「それに契約にこぎ着けば――しばらくは召喚に応じなくてもやっていける。君の側を、離れなくていい」
「……え……」
は悪魔の肩に押し当てていた顔を上げ、至近距離で整った顔を見上げた。金色の瞳の中に自分の顔が映る。悪魔は照れる事もなく
をじっと見下ろしていた。 ――意外にも、さらりとこういう事を言ってのける性格だったのか。
(……ずるい……)
悪魔だとか、そんな事どうでもいい気持ちになってしまう。意図せず頬が熱くなる。 けれど高揚する感情の裏で、同時に冷静な声が響いた。 カルツが自分に向けているのはきっと――恋情などではない。
「……カルツ」
「……っ」
それが分かってしまうからこそ、逆に求めたくなる。
は視線を合わせたまま、カルツに顔を近付けた。だが一瞬見開かれた瞳をふいと逸らし、カルツは
をそっと遠ざけた。
(どうして……)
いっそ突き放してくれれば諦めもつくのに、惜しむように肩に置かれたままの手が中途半端な距離を保つ。俯いた
は、カルツに見えないように唇を噛んだ。
(痛い……)
一緒にいてくれるのは何故だろう。成り行きか。同情か。ただの庇護なのか。 今ならひとりで生きていく事も鳥唄に帰る事だってできるのに、なぜカルツはそれを勧めないのか。そして自分はなぜぐずぐずと彼に付き従っているのだろう。 想いが届かないのならば、離れればいい。そう思うのに決別の一言が言えない。
――いや違う。それ以前に、好意を伝える言葉すら自分はまだ言えていないのだ。何度か態度で示しても、口に乗せる事はどうしてもできなかった。それは羞恥のためなどではなく。
彼を好きだと自覚したその時、胸にひどく重いものが走った。……罪悪感、という言葉がぴたりと当てはまる。 なぜだかは分からない。けれど種族が違うとかそんな理由ではなく、大罪を犯しているような感覚に
は囚われた。
怖いのだ。この想いを自覚した事が。そしてこの関係を発展させる事も後退させる事も。 カルツと離れる事は怖い。けれどそれ以上に――これ以上距離を縮める事の方が、恐ろしい事のように思える。それを望んでいるのにもかかわらず、だ。
失った記憶の中にこの訳の分からない恐怖の理由が潜んでいる事を、さすがに
も気付きつつあった。それを取り戻せば、どう進むかは分からないがきっと新しい一歩を踏み出す事ができる。 けれど痛くてたまらない。怖くてたまらない。一体自分は何を忘れてしまったのか。
「……っ……、いた……」
過去を思った瞬間走り抜けた鈍痛に呻き、
は思わず額を押さえた。ズキズキとした痛みはやがて呼吸までも乱れさせ、涙が滲み始める。
「どうした。……苦しいのか」
「……っく……あ……。大丈、夫……」
憂慮を滲ませて、カルツが
を覗き込む。
はその手から逃れて視線を逸らすと、強くかぶりを振った。
――違う。こんな表情をしてほしい訳じゃない。心配を掛けたいのではない。 そう思うのに、最近カルツが
に向けるのは憂いを含む顔ばかりだ。自分がそうさせている。
(……何を臆病になっているの……!? 私、そんな猫じゃなかったじゃない……!)
全く最近の自分は、らしくない。頭の中にもやがかかったようで、ともすれば安心する方へ楽な方へと思考が流される。 カルツとの旅は穏やかで楽しい。けれどそれは何かが違うのだと、どこかで警鐘が鳴っている。
好意を持つのはどうしようもない。感情は止められるものではないから。しかし『感情』で全てを許せる訳でもない。今の自分の状態は――カルツに甘えて依存している以外の何ものでもない。 ぬくぬくと与えられた場所にいつまでも居座って。そんな生き方を、自分は望んでなどいなかったはずだ。
(そうだわ……。私、いつから自分が見えなくなってたの――?)
思考が段々とクリアになってくる。
は深く息を吸うと、ぎゅっと目を瞑った。
――断ち切らなければ。この関係を、生き方を。その先にあるのが別離だとしても、ここで踏み止まっているよりはいい。優しい悪魔に別れを告げて、ひとりで立たなければ。
それをするには、向き合わなければいけないものがある。どうすればいいのかは分からないけれど、とりあえず今できる事は――
「……ッ!」
「――
……?」
はばちんと両手で頬を叩くと、カルツをまっすぐに見上げて告げた。
「決めたわ。――冥戯に、行きましょう。契約をするしないはあなたとその召喚者の問題だけど……いつまでも中途半端な状態でいるよりは、乗り込んだほうが話が早いわ」
彼の助けとなり、彼が憂えている事を少しでも解決へと導く事――。役に立たないかもしれないが、とりあえず自分も冥戯へと赴けばカルツは時間を気にせずに真相を探ることができる。 『気にしないで』と送り出しても、彼はきっと戻ってきてしまうから。ならば自分がかの地へと赴けばいい。それだけが、いま自分にできる唯一の事だ。 そして自分と向き合うためにも――いつまでもここにいてはいけないと、
は思った。
雌猫は初めて強い意思を持って、悪魔と共に行動する事を選択した。 彼の憂いを絶つために。記憶を取り戻すために。そしておそらく――彼に別れを告げるために。
(2007.11.18)
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