――どこからが、罪だったのだろう。

 この猫の手を取った時から。
 記憶を凍らせた時から。
 息子たちに正体を明かした時から。
 妻を死なせ、息子をひとり残してしまった時から。
 悪魔に転化した時から。
 カヤと出会った時から。
 猫として生まれた時から。

 ……この猫を、愛しいと思い始めた時から――?


 私の罪は消えることなく、今日も愛しい者たちを裏切り続ける。






2、廃墟の村






「――私、記憶を取り戻したい」

  がそう言ったのは、冥戯に向けて歩みを進め始めた頃の事だった。



 冥戯に行こうと が告げた時、カルツは訳もなく胸が熱くなった。その時の雌猫の顔が、非常に本来の らしい表情だったからだ。


 アサトを喪って旅に出てから、回復しつつはあってもどこか薄い哀しみの空気を は常に纏わせていた。
 一時期のように花を見て泣く事はなくなった。深い『哀』を感じさせる事もない。しかしそれは が『アサトの死』という哀しみを乗り越えたためではなく、感情を上手く封印したにすぎない事をカルツは知っている。不可解であるはずの哀しみを押し込めた上で、 は笑っていたのだ。

 それでも記憶の融解が止まる訳ではない。時折ひどい頭痛に悩まされたり夢の中でうなされている事も、カルツは知っていた。……記憶が、戻り始めているのだ。
 けれど苦しむ がカルツに縋る事はなかった。「助けて」とも「戻して」とも言わない。だからカルツは静観するほかなかった。 が自分から望まない限りは。

 そうした日々の末にあの日 が向けた――決意の表情。少し思い詰めたようでありながらまっすぐに前を見据える視線は、とても らしかった。
  は決めたのだと、カルツは悟った。そしてその瞬間心のどこかで喪失感が湧いた事に、カルツは気付かぬふりをした。



「……なぜ」

 歩みを止めて告げた に習いカルツも足を止めると、呆然と呟いた。だがすぐに何故そんな疑問を口にしてしまったかと慌て、表情をわずかに乱してしまった。
 ――なぜ? ……己に関することで不明瞭な部分がある。それを知りたいと思うのは何もおかしい事ではないだろうに。

  は一瞬だけ切なげに目を眇めると、毅然とした口調で告げた。


「それを知らなければ……私は前に進めないから」

「…………」

 ふたりの視線が交錯する。 の真意を探るようにその双眸を見下ろしていたカルツは、やがて根負けしたように目を逸らした。
  は発していた薄い「哀」の感情が、言葉と共に霧散したのを感じ取ったからだ。哀しみを越えた、強い決意がその眼差しには宿っている。


「……後悔、しないか」

「分からない。思い出そうとするだけでこれだけ苦しいなら、きっとするんでしょうね。でも……気付かないフリをするのは、もう嫌なの。あなたに甘えて、縋って、何も考えずに流されるのは――許されない事のような気がする」

「……っ……」
 
 それは、決別にも等しい言葉だった。 はもうカルツの手を必要としない。全ての記憶を受け止められるかどうかは分からないが、少なくとも受け入れる準備をしている。この生活を――断ち切りたいと思っているのだ。
 カルツは小さく溜息をつくと、重い口を開いた。


「……そうか。ならば私が話そう。君は――」

「待って。――それじゃ駄目なの」

「……?」

 だがカルツの言葉を遮って、 は首を振った。言葉を探すように逡巡し、ぽつりぽつりと口を開く。

「あなたに教えてもらうんじゃ、駄目だと思うの。……あなたはきっと、全てを知ってるのね。だけど私が……自分の力で思い出さないと。苦しくても、どれだけ時間が掛かっても」

「…………」

 怯えと決意を込めた口調に、言葉を失う。――思い出さないほうが、幸せかもしれない。そんな息子にとっては裏切りのような想いを心の底に沈め、カルツはゆっくりと頷いた。
 すると は顔を伏せた後にそっとカルツの袖を掴み、囁いた。


「だから――だから、あともう少しだけ……側にいて……」

 祈るような呟きに、カルツは雌猫の細い肩をそっと抱き寄せた。






 
 

 ――なぜ、この猫の手を取ってしまったのか。
 最初は多分、憐れみだった。悲嘆に暮れる雌猫の記憶を封じ、それでもなお息子の影に怯える姿に行き場のない哀しさを感じた。

 全ての哀しみと罪の根源は自分にある。ならば自分の罪によって不幸になった者の面倒を見るのは、自分の責務であると思った。……息子と妻には果たせなかった償いを、この猫に投影していたのかもしれない。そうする事で己の罪も少しは晴れるのではないかと、馬鹿な期待を抱いて。

 ――さらなる過ちを重ねる事になるとは、夢にも思わずに。


 最初はどこかぎこちなく自分に付き従っていた が、次第に自然な笑顔を向けるようになってきたのが嬉しかった。心の平穏を取り戻せば、やがてくる記憶の融解にも耐えられるようになる。そう思った。

 やがてさり気なく肩や背に触れられるようになり、いつしか自分も何も考えずに に触れるようになっていた。悪魔に転化してからこれほど長く誰かと行動を共にした事などなかったから、気を許していた。猫であった頃のようにごく自然に。友愛を込めてその身体に触ってしまっていた。


 ここで止めておけば、 も自分も悩むことはなかったのだろうか。
 いつしか憐れみは消えていた。代わりに沸いたのは――久しく抱いた事のない、親愛。


 いつからか、ふと が考え込むことが多くなった。記憶に翻弄される苦しい表情とはまた違い、何かを堪えるような物憂げな顔をカルツに向けてくるようになった。
 そして触れてくる指に込められた熱に、わずかな情が透けて見えるようになり――カルツはやっと理解した。 が何を押し殺しているのかを。

  が口に出した訳ではない。けれど向けられる視線は、少しずつ変化していったその感情をありありと伝えるようになっていた。時折 は恥じるように視線を振り切ることがあったが、一度伝わってきてしまった想いはカルツの心を動揺させた。


 ――なぜ。なぜ私などに、よりによってこの猫が……。

 雌として見ていた訳ではない。自分は悪魔で、 は猫で、何よりアサトの恋猫で――。


 受け入れる訳にはいかない。記憶を失った拠り所に、身近にいる者に情が移っただけだ。
  が決定的な言葉を口にしないのをいい事にカルツはそう割り切り、 がそれ以上に踏み込んでくるのを無言で退けた。
 

 向けられた視線に心が動いた事を気付きながら。
 いつしか雌猫を『愛しい』と思い始めていた自分にやっと気付きながら。
 それでも雌猫から離れる気にはなれなかった、自分の狡さに苦いものを感じながら。







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「……そろそろなの?」

「ああ。もうこの辺りは冥戯の領域だ。昔の爪痕が木に残されている」

「そっか。……大丈夫? 顔色悪いわよ」


 歩き続けて七日月。カルツと は冥戯の村跡の付近に差し掛かっていた。
 冥戯へと歩みを変えてから、 は目に見えて生き生きとしてきていた。目的のある旅が、表情を変えさせたのだろう。夜ともなれば記憶を探るのに苦しみ、またいまだかんばしい成果も得られていなかったが、カルツよりよほど明るい顔をするようになった。

 それに対しカルツは、冥戯に近付くにつれ嫌でも足が重くなってきていた。これまでの召喚では上空から様子を伺うだけだったが、この足で冥戯に踏み込むのはまさに猫であった頃以来なのだ。

 カルツが死んでからこの村の猫たちはリークスの傀儡となり、見るも無残に滅んだ……というのはあの闘いの折にかつての同胞から聞いた話だ。カルツも上空からその有様を眺めてはいたが、実際に村中へ踏み込むとなると重みも違う。
 滅び荒れ果てたに違いない故郷に乗り込むのは、正直なところかなり気が重くはあった。


「あんまり無理しない方がいいんじゃない……? あ、この辺りで待っててくれれば、私が行って探ってくるけど……」

「いや、大丈夫だ。君をひとりで行かせる訳にはいかない。――行こう」

 心配げな視線を向けた に静かに首を振り、カルツは村に向けて歩き始めた。






「…………」

「静かね……」

 村の入り口たる二本の大木を通り過ぎると、陰鬱とした家々の様子にふたりは自然と口を閉ざした。空が暗いのも相まって風景はどこまでも暗く、重い。
 二十数年ぶりに地に立って見る、故郷の景色。もともと決して明るい村ではなかったが、今の村にはそれでも過去には息づいていた、生きるものの気配が全く感じられない。

 自然と寄り添い歩を進めた二匹は、転々と転がった白い塊に気付き目を見張った。あれは――白骨だ。


「――冥戯にも……失躯が出たのね……」

 掠れた声で呟いた の顔は強張っていた。親を失躯で亡くしたと聞いたから、無理もない。だが 以上に自分が蒼白になっている事に、カルツは気付かなかった。

 村ごとリークスに加担……いや力を利用されていたとは言え、一匹残らず闘いに赴いた訳でもなかっただろう。だがその残ったわずかな猫さえ、忍び寄る病の猛威には勝てなかったのか。
 ……もしかすると、過去に知っていた猫であるのかもしれない。だが近付いて確かめる事もできずにカルツが固まっていると、 がそっと手を引いて促した。


「何か、感じる? いつも呼ばれるのはこの辺りからだったの?」

「あ、ああ……。もっと村の奥の方だったな。……行こう」

 悪魔たる自分が自失してどうする。カルツは苦い笑みを弱く浮かべると、 に先立って歩き出した。映りゆく景色に昔日の光景が重なるが、荒れ果てた家と転がる白骨が気を塞がせる。
 そんなカルツに付かず離れず従っていた が、歩きながらぽつりと声を漏らした。


「前に火楼に――コノエの村に一緒に行った時も、こんな感じだったわ。失躯が起こって間もなかった分、もっと悲惨だった。コノエが落ち込んで……何とかして慰めたくて、無理やり抱き込んだりしたわ。あとですごく恥ずかしがられたけど」

「……そうか」

 語尾にわずかに苦笑が混じる。振り向かなくてもきっと穏やかに眉を下げているのだろうとカルツには察せられた。気分を変えようとしてくれているのだろうか。相槌を受けて、 が再び口を開く。

「それから藍閃に帰って、―――。……あ……」

「……?」

 不自然に言葉が止まった。カルツが怪訝に振り向くと、立ち尽くした が口を覆っていた。眉を歪め、何かに耐えるような顔をしている。

「それで――、誰、かが……。……う……っ」

 カルツの記憶の中では、確かあれはアサトに真実を告げた日の出来事だ。花畑に来る前、アサトは とコノエを迎えたはずなのだ。それを は思い出しかけている。


「……つらいなら、無理をするな。自然に思い出す日が来る」

「……誰かが、迎えてくれたわ……。温かい目をした、誰か。そのあと私は怒って――――ああ、駄目だわ。今はこれ以上は思い出せないみたい。……ごめんね、立ち止まらせちゃって」

  が頭を振る。汗を拭った雌猫は再び足を踏み出した。
 ……泣き言を言わない。かと言って諦める訳でもない。葛藤しながらも記憶に挑む の姿勢は、カルツの胸をくすぶらせた。
 手助けしてやりたい。その半面で思い出させたくないとも思う。 はきっと苦しむから。


(……本当か……?)

 理由はそれだけか。アサトを思い出して、 が離れていく事を恐れているのではないか。

(馬鹿な……)

 それで が再起したら、静かに送り出してやるのが当初の願いだったはずだ。今さら引き止めたいとでも思っているのか。


「…………」

 カルツは深く溜息をつくと、今度こそ村の奥に向かって足を進めた。

 









   

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