あれから、二巡りの月が過ぎた。今年の雪は結局あの一夜だけで終わり、祇沙は花の季節を迎えようとしていた。
 春めいてきた丘に立ち、ふもとからやって来るはずの雌猫を待つ。カルツが花を仰いだその時、軽やかな足取りが耳を掠めた。

「――お待たせ! 遅くなってゴメ――うわぁ……。村から見上げた時より、やっぱり綺麗ね」

 感嘆の声を上げた愛しい相手に、カルツも微笑むと静かに頷いた。




終章  花に眠る






「……どうだった? カガリとは会えたのか?」

「ええ。――会うなり怒られて、引っぱたかれた。……当然よね、ものすごく心配掛けちゃったもの」


 吉良から続く、青々と草が茂り始めた森を並んで歩き、カルツは隣の雌猫を見下ろした。
  は少しだけ赤くなった頬をそっと撫で、苦笑する。それから愛しむように目を伏せると、静かに告げた。

「カガリ――泣いてた。泣きながら、私のこと抱きしめてくれた。『お前が悪いんじゃない』って言って……。私が生きていて、良かったって――」

「……そうか……。また会うことができて、良かったな」

「……うん」


 ―― は今日、初めて吉良の村を訪れた。カルツはさすがに同行できなかったため村付近のこの丘で待っていたのだが、事前に手紙を出していたおかげで無事にたどり着けたようだ。
 再会はまったく穏やかな空気、というわけではなかったようだが、 の中でまた一つ区切りが付く出来事にはなったようだ。


「……この前はコノエにも涙ぐまれちゃったし、ホントしっかりしなきゃね。今まで心配掛けたぶん……顔を上げて、進まないと」

 穏やかな口調で告げた が、一歩前に進み出た。ふわりと金糸が揺れる。
 ……その背を覆っていた長い髪は、もうない。あの闘いの最中に斬り付けられ、その後 が自ら切り揃えてしまったのだ。
 闘いの後でカルツは蒼白になったが、 は全く気にも留めなかった。あっさりと美しかった髪を切り落とし、少し照れたようにカルツの前で笑った。

 だがいまだに新たな長さに馴染めてはいないらしい。今もスイと髪をかき上げる仕草をして、「あ」という声が聞こえた。春の陽を受けて煌めく金糸に、カルツは目を細めた。

「……まだ、慣れないか」

「あ…はは……、見られちゃった。もう慣れたと思ったんだけど、癖になってるのね。やっぱり残しておいた方が良かったかしら」

「切ってしまったものは、仕方ないだろう。……その長さも、可愛らしいと思うが」

「え。――あ、そ、それはどうも………」

 カルツの口から自然と零れた言葉に、 は一瞬固まった。すぐに元通りに歩き始めるが、垣間見える頬がどこか赤い。
 ……どうやら、照れさせてしまったらしい。自身も何となく気まずいものを感じ、カルツは話題を変えるように一つ咳払いをした。


「――それで、やはりこの道で良いのだな?」

「あ……うん。ここを上りきったところで合ってるって。――もうそろそろね」

  
 吉良から程近い丘の、さらに上方に――ふたりが目指す場所はある。
 木が生い茂る森を抜けると、開けた高台に出る。花咲く大地と空が交わる場所でふたりは歩みを止めた。高台の端にひっそりと佇むのは……黒い墓石だ。


 吉良を遙か下方に見下ろすその石には、何も刻まれていない。そしてその下に骨も肉も埋まってはいない事を、ふたりはもう知っていた。ただ墓の前にそびえ立つ錆びた剣が、ここが誰の眠る場所であるのかを静かに示す。



「ずっと――ここで待っててくれたのね……」

 立ち止まったカルツの前方へ、 が進み出る。肩を震わせた は、墓石の前に跪くと慈しむようにその表面を撫でた。

「……遅くなって、ごめんね……っ……。アサト………!」

 俯いた雌猫の背中を、悪魔は静かに見守り続けた。







 長い長い時間。祈るように頭を下げていた が、顔を上げた。カルツを振り向かないまま、静かに雌猫が語り始める。

「すごくいい場所に……あるのね」

「ああ……。ここからなら吉良だけでなく、藍閃まで見渡せるな。カガリやコノエが、きっと一番良いと思って選んだのだろう」

「ここなら私のことも、見えてたかな。……心配してたかもね。 、どうしたんだって」

「……そうだな」


 吉良を見下ろしながら語る の声は、掠れてはいたが確かだった。もう一度石を撫で、静かにカルツを振り返る。立ち上がった は、剣を手にしてカルツの髪をそっと摘まんだ。

「……?」

「ゴメン。ちょっとだけ……切らせて」


 ザリ、と音を立てて髪が一房切り取られた。 が懐を探り、何か包みのようなものを取り出す。広げられた紙の上には金糸が乗っていて、カルツは目を瞬いた。

「残していたのか……」

「少しだけね。アサト、私の髪……好きだって言ってくれたから」

「……私の髪などと一緒にしたら、怒りはしないだろうか」

「そんな事ないわよ。ふたり分あった方が、きっとアサトは喜ぶ」

 金糸の横に、カルツの濃紺の髪が並ぶ。それを元通りに包み直すと、 はおもむろに土を掘り始めた。






 カルツの手を借りて、 は黙々と土を掘り続けた。やがて出来た浅い穴の底に はそっと紙包みを置き、上から種を振り撒いた。旅の途中で見つけた、美しい花を咲かせる種だ。
 そしてまた黙々と土を埋め直していく。元通りに埋まった地面を軽く叩き、 は目を閉じて頭を垂れた。


「アサト……ごめん。約束、守れなかったね――」

 静かな呟きに、カルツがハッと息を呑む気配がした。 は瞼の奥で、在りし日の黒猫の姿を思い浮かべた。


 ……共に生きる事はできなかった。そしてその存在までもを、最近まで長いこと忘れ去っていた。
 ここで謝っても、彼に届く日は二度と来ない。それでも は頭を下げ、そして誓わずにはいられなかった。


「本当にごめん。まだそっちに行く事もできないけど……もう二度と、忘れたりはしないから。ずっと――祈り続けるよ。アンタが、今度こそ安らかでいられるように」

「…………」

 錆び付いた剣の柄に口付けを落とし、立ち上がる。 は振り返ると、無言で墓標を見下ろしていた悪魔と静かに向き合った。



 ――今、ここに、彼と共に来られて良かったと思う。
 
 最初に会った時は、敵だった。個人的な感情はどうあれ立場上は決して仲間にはなりえず、共通の目的のために一時的に手を組んだ間柄でしかなかった。
  には愛する相手ができた。だがその相手を喪った。失意の中で、ふたりは再び出会った。

 彼に惹かれたのは必然かもしれなかった。アサトが向けてくれた激しく切ない想いとはまた違うけれど、穏やかに包み込まれるような想いに は癒された。それと同時に己の罪を感じ取って苦悩した。
 けれど今、長い葛藤の果てに――ようやく互いに向き合うことができた。罪を隠すのではなく、内包したまま顔を上げて。罪深いふたりはこの場所でやっと、道の始まりに立つことができた。


 ――彼と生きる。その上で、一つだけ言っておかなければならない事がある。

 猫と悪魔は、生きる時間が異なる。悪魔の時間に比べれば、猫である が共に生きられる時間はあまりにも短い。それを解消する手段はただ一つ。――悪魔への転化だ。
 いつかカルツが、言いづらそうにその事を話していた。その時ははっきりとした返答はしなかったが、おそらく もカルツも既に答えは分かっていたのだと思う。

 それを今、ここで伝えたい。 はカルツを真っ直ぐに見据えると、静かに口を開いた。



「……カルツ。私ね――悪魔には転化しない。猫として生きて、猫として死ぬ」

「…………」

 カルツの瞳は、揺れなかった。 は一度口をつぐむと言葉を続けた。

「年老いていつか息絶える日まで、猫として生き続ける事が……アサトが生きていた、証になると思うから。アサトが生きるはずだった時間を、私が一緒に重ねて生きる。……だから――」

 続く言葉を口にしようとして、声が詰まる。眉を寄せた を、カルツが優しく促した。

「……いいんだ。分かっているから、続けてくれ」

「…………。だから――私の方が先にお婆ちゃんになって、あなたを……残していく事になるけど、あなたはそれでも、いい……?」


 ――我ながら、酷いことを聞いている。いたたまれず口をつぐんだ は、それでもカルツを必死に見つめ続けた。カルツはしばらく を見返していたが、フッと微笑を浮かべると静かに頷いた。


「……勿論だ。歳を重ねて、やがて土に還る――それは私にも、カヤにもアサトにも成し得なかった願いだ。まだ先の事にはなるだろうが……君が息絶える瞬間まで、君と共に在ることを私は誓おう。そしてその時が来たら――君はここで眠るといい」

「…………。……ありがとう………」




 ――生きていく。いつか眠りに付くその瞬間まで、猫として……彼らを想いながら。

 花の香りと共にもたらされた誓いは、 の心の一番深いところへ静かに染みていった。

 





「また――その種が芽吹く頃に、一緒に来るね」

 墓標を振り返り、雌猫と悪魔が歩き始める。並んだ足跡を追うように、野の花が優しく風に揺れた。














……泣いているのか。俺が死ぬのが、哀しいのか。


俺はつらくはない。哀しくはない。
生涯の最後にお前やコノエと出会えたし、たくさんたくさん想ってもらえた。
だから俺は、幸せだった。不幸ではなかった。

唯一悔しいのは――最後にお前に、そんな顔をさせてしまった事だけだ。


お前を哀しませるつもりじゃなかった。お前を置いていく俺を、どうか許してくれ。

お前を傷付けてしまった俺を、あいつを傷付けてしまった俺を、どうか許してくれ。


俺のことは、忘れてしまっても構わない。
お前が忘れないと言ってくれたのが嬉しかったから、寂しいけれど……
俺はあの言葉だけで、もう十分幸せだった。

お前が新しく一緒に生きる相手を見つけて、笑えるようになるなら――俺は、それでいい。


お前が笑ってくれるなら――
       

『これで……いい――』











FIN.





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 (2007.12.27)