8、贖罪





……!」

 空から雌猫が落ちてきた。凶器と化した枝を、現れた が渾身の力で食い止める。
 剣と木がぶつかる硬い音が響いた。細かく震える背中を見遣り、カルツは驚愕の声を上げた。


「……やめろ! 君の敵う相手ではない!」

「……大丈、夫……! それよりカルツは――」

『お前……!! お前など呼んでいないわ! わたくしの邪魔をするつもり!?』

「……くッ!」

 苦しげな の声を遮り、ナタリアが叫んだ。バキリと音がして伸ばされた枝を叩き落し、 は叫んだ。

「邪魔するに決まってるで、しょっ!!」

『おのれ……!!』

 意表を突かれたナタリアが一瞬にして矛先を へと変える。鞭のように迫った枝を再び剣で食い止め、 はカルツを一瞬だけ見遣った。
 カルツが助けに入ろうにも、あまりにナタリアと の距離が近すぎて入り込めない。そうこうするうちに の剣がナタリアに押し負け始めた。 は無理のできる身体ではないのに――!


「絶対に殺させない! もう、大事な相手が死ぬのはまっぴらよ!!」

『黙りなさい小娘が! たかが猫が今のわたくしに勝てると思うの!?』

「……勝てなくても! 傷付いても! 守りたいから闘うのよ!!」

「! ――小癪な!!」

 いっせいに葉がざわめき、空気が揺れる。剃刀のような葉が の肌を髪を切り裂いた。
 ナタリアは太い枝を動かすと横なぎに払い、 の身体を叩き付けた。

「――ぁぐ……ッ!!」 

!!」

 投げ飛ばされた がカルツの足元に倒れ込む。カルツは を素早く抱きかかえると、後方に飛びすさった。そのままナタリアの枝の届かない場所まで駆ける。




「―― ! 大丈夫か!?」

 安全な地点まで退いてようやく を地面に下ろしたカルツは、開口一番叫んだ。わずかに顔をしかめた が、カルツを見上げる。

「あ……うん――。ぃたた……くらっちゃった。やっぱ腕が鈍ってたわね」

「『くらっちゃった』ではない! ……なぜ来たのだ! 来てはいけないと――」

「いけなくないよ。私、守られに来たんじゃないし……私が来なかったらカルツがやられてた。……そうでしょ?」

「……っ……」

 自分の激昂に真顔で返した に、カルツは一瞬言葉を失った。そんな悪魔を見つめ、 は言葉を重ねる。

「私の知らないところで、あなたが死ぬところだった……。それを防げただけでも来た意味はあるわ」

「……君は……」

  がまっすぐに自分を見ている。強い意志を感じさせるその瞳は、もう絶望や悲哀の影に覆われてはいなかった。それらを乗り越えた深い決意が、カルツを内側から揺り動かす。
 だが駄目だ。 にこれ以上無理はさせられない。


「……助けてくれたことには礼を言う。だが、君はもう闘えない。ここで待って――」

「いいえ。……確かに私は剣ではあの猫に敵わない。でも、できる事はあるわ。あなたと一緒に私も闘う」

「なに……?」

  が立ち上がる。つられて立ち上がったカルツは、 の言葉に今度こそ目を見開いた。


「あなたのために、歌うわ。私にあなたを――守らせて」
 




『――安心するのは早くってよ!!』

「!」

「! ナタリア……ッ」

 カルツが の言葉に何かを返そうとした、その時。村の奥から順に木々がざわめいて、 たちの周囲の木からナタリアの声が発せられた。
 ――呼んでいる。 が振り向くと、カルツも頷いて走り始めた。





『最後の逢瀬は終わったの……? まずは、そちらのお嬢さんから殺してあげましょうか』

 再び二匹が大木の前に辿り着くと、ナタリアは待ちかねたように枝を地面に叩き付けた。 に後ろに下がるように目で合図して、カルツが剣を構える。


「……これ以上、この猫を傷付けさせはしない。この命を差し出すつもりもない」

『……フフ……戯れ言を。いつまでその娘を守っていられるか、見ものだわね……!』

 ザワ…と空気が歪み、枝が伸び始める。カルツは呼吸を整えながら、背後から流れ始めた の歌に意識を集中させた。

『……ぼんやりとするには早いわよ!』

「……ッ……!」

 だがナタリアの攻撃の方が早い。カルツは飛んできた枝を剣でねじ伏せ、葉を冷気で凍らせた。何としても を傷付けさせるわけにはいかない……!
 だが小手先の術では通用しない。まずはあの無限の触手のような枝を何とかしなければ――そう考えた、そのとき。

「……!」

 紅い光が身体に降り注ぎ、カルツは目を見開いた。



  から流れ込んでくる――歌。それはかつて経験した事のない衝撃をカルツに与えた。
 猫であったときも、その後も、賛牙と組んで闘った事はない。 が賛牙と知ってはいても、その力を使う機会もなかった。

 だがこれはなんだ。この力が漲る感覚は。魔力が無尽蔵に湧いてきて、ナタリアの動きが急にゆっくりと見えるようになった。……これが賛牙の力か。
 そして何よりも呼吸を重ねるように伝わってくる の感情が、カルツに同調する。強く、激しく――温かい。

(いける……!)

 カルツは剣を構え直すと、金の目を光らせた。




『この光は何……!? 小娘、何をした!?』

「止まれ……!」

 ナタリアが憤怒の感情を滾らせる。その力が再び の方に向こうとしたその時。カルツは魔力をセーブするのを控え、強大な氷柱を生み出すと深々とナタリアの枝を地面に縫いとめた。

『くっ…!?』

 矢継ぎ早に氷柱を繰り出し、枝を地に周囲の木に縫いとめていく。
 魔力は尽きる事がない。あっという間に周囲には巨大な氷柱が立ち並び、ナタリアは全ての枝の自由を失った。



『この……!! なぜ! なぜ魔力が尽きない!? いくら悪魔といえこんな――!』

 ナタリアが悲鳴を上げる。それは今までの傲慢なほど自信に満ちたものではなく、憐れさを誘うものだったがカルツは戒めを緩めはしなかった。

「……この子は、賛牙だ。猫には何もできないと甘く見たのが、敗北を招いたな」

『賛牙!? まさか……! それでは貴方たちは、つがいだったと言うの……!?』

「いいや。そうなる事を、互いに恐れていた。だが今日を境に――変わるかもしれない」

『……くっ……!!』


 ナタリアは必死に枝をバタつかせるが、食い込んだ氷柱は容易に抜けはしない。カルツは無数の氷柱を起点に、絶対零度の凍気を吹き込んだ。葉脈・道管を辿って枝が葉が凍り、ボロボロと崩れ始める。


『――何をするの!? やめて! そんな事をしたら……!!』

「ナタリア……。君には、本当に申し訳ないことをした。知らなかったとはいえ――君に悲劇を招いたのは、私の行動が原因だ」

『謝罪など……! ぐ、アア……ッ!!』

 幹に凍気が達し、バリバリと轟音を上げて木が凍り付いていく。そして完全に木が生命活動を停止したとき、大木から弱々しい魂が押し出された。



『あ……、あ………』

 見るも無残な、雌猫の影。その姿は先程よりもずっと薄れ、揺らめいていた。カルツは雌猫が魂の力を振り絞って闘っていた事を、この時になって気付いた。
 もう が歌う必要もない。ナタリアを見つめ、カルツは沈痛な面持ちで口を開いた。


「もう、そうやって姿を保っているのが精一杯なのだろう? 力の源を探さなくても……君はじきに消滅する」

『…………』

「許してくれとは言えない。だが、お願いだ……。私は君を、輪廻の輪に戻したい。消滅すれば君の魂は永劫に闇を彷徨い続ける。そうなる前に、私に引導を渡させてくれないか」

『引導……源を、砕く――。ふふ……、ふふふ……わたくしがそんなもの、受け入れると思うの!? まだ寄り代は残っていてよ! このお嬢さんが……!』

「……! よせ、もういい加減に…!!」

「…!!」

 呆然とした表情から一転したナタリアが、牙を剥き に体当たりをかける。
 だがその魂が、 の中に入り込むことはなかった。



『な――なぜ!? この前は受け入れてくれたじゃない!! なぜ入れないの!?』

 悲鳴を上げたナタリアが、顔を歪ませた。憎悪というよりは行き場のない子供のような表情に、 は胸が詰まる思いがした。

「たぶん……この前は私が、迷っていたからだわ。迷いがあったからあなたを引き込み、同調してしまったんだと思う」

『そんな――。ならば貴女の中の迷いはもう晴れたというの? 哀しみは消えたというの!?』

 狂気を削ぎ落とし、ナタリアは縋るように に問い掛けた。 はナタリアを見つめると、小さく首を振った。

「迷いは消えても、哀しみがなくなったわけじゃない。罪も後悔も、きっと消える事はないわ。だけど……生きている限りはそれを抱えたまま前に進まないとって、ようやく気付いたの。そうやって生きる事が、彼らを想う事に繋がるって……やっと、答えが見つかり始めたの」


『……生きる事が………。……だけど、わたくしはもう死んで――』

 ナタリアの目が呆然と見開かれる。震えるように呟かれた言葉に は目を伏せると、静かに口を開いた。

「ナタリアさん。……あなたは、本当にカルツを憎んでいるだけなの? 私に同調したという事は、本当は――哀しかったのではないの……? あなたの想いは、きっとカルツにも――」

『ちが……!』

 ナタリアが咄嗟に否定を口にする。あまりに正直な反応に が返そうとした、そのとき。凍りついた幹の裏を探っていたカルツが、何かを握り締めて たちの前に立った。


「……これが、君の魂の源だな」

『……!』

 開かれた手の上に乗っていたのは、この前と同じように美しい輝石だった。今度は金色だ。
 ナタリアは目を見開いたが、今度は抵抗しようとはしなかった。だが受け入れもせず、キッとカルツを睨み付ける。カルツは真摯な眼差しでナタリアを見つめた。


「……今生の君を救うことはできなかったが――せめてもの罪滅ぼしに、これからの『君』を見守り続けさせてはくれないか。『君』が哀しまず幸福に生きられるよう、私は全身全霊を尽くす」

『…………。一つ、答えて下さる
? ……貴女はこの子を――愛しているの? 奥様以上に』

 カルツの言葉に声を失ったナタリアは、ふいに全く予想外の質問を口にした。
 背後で聞いていた がギョッとする。カルツも虚を突かれたようだが、やがて神妙に頷いた。


「カヤと比べることはできない。 だし、比較するのはどちらに対しても失礼だ。だが、私は私なりに…… を愛している」

「……っ……」

  の息が止まる。だがそっと伺い見たカルツの視線を辿って、 は目を伏せた。


『……本当に……嫌な方……! わたくしに尽くすとおっしゃったその唇で、直後に他の雌への愛を囁くなんて。……幾多の猫を惑わせ、破滅に追い込み、また追い討ちをかけるのね。悪魔にふさわしいわ。なんて残酷なの……!』

「…………」

 カルツを罵りながら、ナタリアは泣いていた。泣きながら笑う。純粋な感情が剥き出しになったその表情はハッとするほど美しかった。
 カルツが輝石を握り締める。冷気が石に染みるほどに、ナタリアの姿は薄くなり声もだんだんと小さくなっていく。


『貴方が……わたくしの前に現れたとき――今度こそ、結ばれると思ったのに……。貴方を殺して、わたくしも死ねると…思ったのに……どうやっても無理なのね……』

「……ナタリア……」

『そうやって……呼んで欲しかった……。どうして……わたくしを置いていってしまったの……。貴方がいれば、こんな事には……。貴方が……貴方が――』

「…………」

『……貴方を……愛して……いた…のに―――』

 
 ピシリと輝石が砕ける。それと同時に既に陽炎のようだったナタリアが、冷たい空気に霧散した。
 カルツは顔を伏せると、輝石の欠片を握り締めて胸に押し当てた。



「ナタリア……すまなかった………」















 雪が、降り続ける。既に地面は真っ白だ。
 肩を白く染めた悪魔は大木の前に立ち尽くしている。背後から が視線を投げ掛けると、空気に溶けてしまいそうなかすかな声が耳に届いた。


「私は――なぜ、繰り返してしまうのだろうな……。関わった猫たちを不幸に追いやり、君もまた傷付けてしまった……。分かってはいたが、存在するだけで罪を重ね続けるしかないらしい」

「カルツ……そんな事は――」

「いいや。……君も、君の道に戻った方がいい。全てを思い出したのなら、もう私といる必要もないだろう。きっと私は繰り返す。そうなる前に離れた方が――」

「……やめてよ!」

 告げられた別離の言葉に、 は思わず叫んでいた。シンとした空気が震える。思わぬ大きな声に、カルツがこちらを振り向いた。


「そんな事はない。あなたの存在が罪だなんて、そんな事はない! 少なくとも……少なくとも私が死にかけてたのを救ってくれたのは、あなただわ! ……私もナタリアさんと何も変わらない。アサトが死んだことを嘆いて、私は私を滅ぼそうとした。アサトが死んで、私も一緒に死んだ! それをあなたは生かしてくれたじゃない!」

「…………」

「確かに、私も冥戯に来たら離れなきゃいけないような気がしていた。あなたとこれ以上一緒にいるのは罪だと思った。でも違う! アサトの事を思い出しても――やっぱり私は、あなたと一緒にいたい……!」

「…… ……」


 カルツが惑う気配がする。目が熱い。喉が痛い。顎から何かが伝い落ちた。
 ――ああ……私、泣いているのか。まったく今までどれだけ涙を流したのだろう。もう枯れたと思ったのに―― はそう思ったが、頬も拭わず語り続けた。


「ずっと……怖かった。アサトを思い出すのが。罪を自覚するのが。……でもアサトを忘れていたのは、絶対に許されない事だった」

「違う。それは私が負わせたもので――!」

「いいえ。私が望んだことだわ。あなたには非はない」

 カルツが息を呑む。だが顔を俯けると、カルツは苦渋に満ちた表情で告げた。

「……だが私は嘘をついた。君を死なせてやると言って、結局さらなる苦しみを与えた」

「……そう、あなたは嘘をついた。だけど――あなたの優しい嘘のおかげで、私はもう一度生きられた。それを、あなたは忘れないで……!」

「……っ……」
 
 カルツの目が見開かれる。 は一度だけ顔を拭うと、カルツを真っ直ぐに見上げた。


「カルツ。私は――あなたが好き。あなたが言ってくれたように、アサトと比べるのでも代わりでもなくて……今のあなたを、私は愛してる」

「……!」

「……この想いは、苦しかった。自覚しても否定しようとしても、心の底に溜まっていく一方で……! ……どうして苦しかったのか、やっと分かった。あなたを好きになった事が罪なんじゃなくて――アサトを忘れたまま、その想いを抱いた事が許せなかったんだわ」

……」


 ようやく――胸のつかえが取れたようだった。 は大きく息を吐き出した。
 あと一言。それで全てが……伝えられる。愚かだった自分の、本当の願いが。


「どうか……答えて。あなたにとってこの気持ちは、迷惑でしかない? あなたは私を、受け入れてくれる……? 私に……あなたの隣を、歩かせてはもらえませんか……?」




 カルツの瞳が揺れる。互いに視線を動かせないまま、一秒、二秒……苦しいほどの時間が流れ、 が失望に目を逸らしかけたそのとき。カルツが、搾り出すように声を発した。


「今……無様にも、泣きそうになった。君にそこまで言ってもらえるような存在ではないのに……君の言葉が……嬉しいと……」

 カルツの顔は伏せられて、その表情は伺えない。だが途切れ途切れに伝えられる声音に、 は胸が締め付けられる思いがした。
 カルツは頭をゆるく振ると、静かに続けた。

「だが……私の罪が、晴れることはない。今度は君を――」

「不幸には、ならない。あなたと一緒にいる限り、私は絶対不幸にはならない。あなたと歩んで、償って、あなたと幸せになるために、私は道を探し続けるもの……!」

  は足を踏み出した。悲哀を司る、何より自身が悲哀に覆い尽くされた悪魔のもとへ。


「あなたは何も罪なんて犯していない。あなたの行動のために誰かの運命が変わったのだとしても、それはあなたが作為的にやった事ではないでしょう……? あなたの責任じゃない。……それでも、どうしても自分の事が許せないなら――」

 立ちつくす悪魔に手を伸ばす。愛しい顔を見上げると、 はその身体を強く抱きしめた。


「私が……あなたを許すわ。あなたが感じている罪を、一緒に背負う。あなたの側で、生涯をかけて」











 雪はいつしかやんでいた。冷え切った空気の中で、 は悪魔に温もりを伝え続けた。

 固くカルツを抱きしめた の頭に、触れるものがある。切り裂かれて長さもまばらになった髪を撫で、肩を辿り、背中に落ちる。まるで という存在を確かめるようにゆっくりと伝い下りてきた手は、やがて腰に辿りつくと雌猫の身体をきつく抱き寄せた。


「……っ……カルツ……」

「……私は、愚かで……猫としては無様に散り、悪魔としても非情には徹しきれず……中途半端な存在だ」

 カルツの声が直接身体に響く。 が静かに首を振ろうとすると、それを制するようにふいに顎が取られた。持ち上げられ――口付けられる。


「……カ……カルツ……」

 不意打ちすぎる情熱的な口付けに が頬を赤らめると、カルツは再び をかき抱いた。
 そして次に告げられた言葉を、 は生涯忘れないだろうと思った。



「だが……それでも君が私を必要だと言ってくれるのなら――私は君と共に行こう。私も、君と共に在りたい。君を……今度こそ幸せにしたい」



  耳に落ちたその誓いは の身体を伝い、心に流れ――雫となって、溢れていった。

 













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