「……ちっ……。また、この季節か……」

 ――暗く冷たい、洞窟の中。魔術師は舌打ちをしてその身を寝台に横たえた。
 見上げれば露出した岩の天井が、どこか歪んでいるように見える。……否、歪んでいるのは己の視界か。

 乾いた唇を薄く舐め、ひとりきりの空間でリークスは荒い息を吐き出した。





    紅玉 - Temptation -





 『発情期』。全ての猫に等しく訪れるその生理現象は、いかに不老不死と称されるリークスといえど避けては通れないものだった。

 いくら魔術を極めようとも、いくらただの猫が望むことすらおこがましいような力を有していても、リークスの肉体もまた猫であることには変わりない。ゆえに年に一度、こうして不要な衝動に身を苛まれるのだった。


(くだらぬ……。忌々しいとしか言いようがない)

 己の肉体に幾度となく魔術を施したことで、とうの昔に生殖機能は消失した。もとより子孫を残したいなどと思ったこともない。それなのにこの衝動だけはこうして身体に記憶され続けたまま、律儀にも毎年発現してくるのだ。

 身体の不調は精神の調和を乱す。疼きが頭の中を支配して、身も心も獣になりさがれと引きずり降ろしてくる。それでもリークスは、自らを慰めて衝動を解消しようとは思わなかった。
 そんな動物的でみじめな行為は、己のプライドが許さなかった。かといって他の猫と交わったりするのなど、考えるだけでもおぞましい。精悍な雄だろうが柔和な雌だろうが、誰かの肌がこの身に触れるのは我慢がならなかった。

(触れられても良いと思ったのは――。………。ちっ……)

 身体の熱に浮かされて、埒もない考えが頭によぎりそうになった。舌打ちをしてそれを消し去る。
 ともかく獣としての自分を他者に見られるのは、耐え難い屈辱のように感じた。だからリークスは毎年、隠れ家でただうずくまって不快な波が過ぎ去るのを待っていた。


(気を紛らわせるか……。さて、刹羅に蒔いた呪詛の種はどうなったか……)

 ゆっくりと半身を起こし、リークスは枕元に置いた大きな水晶を覗き込んだ。ここからリークスは、憎悪と炎に彩られた祇沙の滅びを毎日のように眺めていた。

 村であったはずの場所に、赤い火が踊っている。その下で虫のように蠢いているのは原型をなくしつつある猫どもだ。片耳や片腕をもがれた猫たちが、狂気を目に宿し互いに殺し合っている。
 それはいつもの光景だったが、舞う炎が鼓動のようにゆらゆらと明滅し、奇妙な感覚が身体を駆け巡った。炎の動きに呼応して、体中の血液が波を打つ。不快な熱が下肢に集まりそうになり、リークスは水晶から目を逸らそうとした。――しかし。

(…っ。……なんだ?)

 赤い炎がふいに猫の形を取った。偶然かとリークスが目を凝らしたそのとき。炎が突然弾け、リークスは視界を奪われた。


「…っ! ……何事だ……!」

 服の袖で咄嗟に双眸を覆い、誰もいない部屋でリークスは叫んだ。
 腕を離してそっと目を開くが、眩しさに眩んだ瞳は視覚を得ることができない。それでも幾度か瞬きを繰り返すと、部屋の中央に忽然と赤い影が立っていることに気が付き、リークスは驚愕した。

「……っ…お前、は……」

 今まさに天から降り立ったようにスッと立つその姿は、決して大柄なものではない。むしろほっそりしていると言えよう。それでも、圧倒的な存在感をたたえたその侵入者――悪魔に、リークスは一瞬気圧された。

 金の髪、赤と黒の衣服、曲がった角。赤い唇と、そして輝石のような紅い瞳。
 記憶にある面影を宿していながら、全く異質の印象を抱かせる悪魔。その顔を、忘れたはずもない。


「……久しぶり。アンタが呼んだんじゃなさそうね。……ふふっ……可愛い顔」


 嘲笑を浮かべた美しい悪魔を、リークスは瞬きもせず見つめていた。






 コノエともども悪魔に転化したことは、どこかの悪魔から話しついでに聞いていた。
 その時はさしたる興味もなく、というかその悪魔が鬱陶しかったため聞き流していた。だからこの目でその姿を見るのは初めてだった。

「……なんとか言ったら? 久しぶりだなとか、綺麗になったね、とか。……また会おうって言ったのは、確かアンタだったように思うんだけど」

 小首を傾げて悪魔… が笑う。その邪気のない様子にリークスは大きな違和感を感じた。
 無邪気さを装った下に隠された、鋭い棘。リークスに分かるように中途半端にそれを隠しながら、 はにっこりと笑う。

 ……違う。この猫は、こんな笑い方をする猫ではなかった。この猫が自分に向けていたのは怒り、憎しみ、悔しさといった負の感情で、笑みを自分に向けたことすらほとんどなかった。


「刹羅に、出向いていたのか。だがなぜこちらに飛んできた?」

「仕事だったのよ。あそこの『怒』をあらかた食べ尽くしたら、なんかどこかかから美味しそうな『怒』の匂いがしてね。呼ばれた気がして来てみたの」

「……呼んでいない。帰れ」

「あら、つれないのね」


 今の からは、リークスに向かう負の感情は感じ取れない。ただあるのは強者が弱者をいたぶるときに浮かべる、優越の笑みだけだ。

(――弱者? 私がか…!?)

 微笑を棘だと思うのは、己の立場の方が よりも弱いと肌で感じるからか。無意識下で との優劣を測っていた自分に、リークスは屈辱感を覚えた。そんな葛藤などいざ知らず、 は勝手に室内を歩き回り始めた。


「最近は誰かさんのおかげで仕事も忙しくってねえ。でも、刹羅は久々に質のいい獲物だったわ。さすが大型の戦闘種族。発散する怒りの度合いも他とは比べ物にならないわね。その分かなりグロかったけど」

 高いヒールをコツコツと鳴らし、 はゆっくりと洞内を動き回る。悪魔が衣を翻すたびに白い脚が露わになり、ふわりと淫靡な香りが周囲に漂った。

「ふーん。結構いい洞窟じゃない、空気も澄んでるし。ちょっと陰気くさいのが玉にキズね」

「…………」

 最初の衝撃が去ると、その直前まで煩悶としていた衝動が再び身体に蘇ってくる。 の香りを払うように寝台に腰掛けると、冷静さを装ってリークスは悪魔に声を掛けた。


「刹羅の仕事は終わったんだろう。ならば、奴が呼んでいるのではないか? お前の主人が。こんなところで暇を潰してないで、愛奴らしくコノエと侍っていたらどうだ」

 あからさまな侮蔑を込めて、唇を吊り上げた。 はきょとんとした後、くっと吹き出した。


「愛奴。愛奴…ねぇ。随分可愛らしい呼び方ね。なんだかすごく愛されて可愛がられてるみたいに聞こえるわ」

「違うと言うのか。『楽』のあいつなど、お前を淫魔と呼んでいたが」

 ここまで言えば、誇りのある猫なら多少なりとも憤りを見せる。しかし は気にした様子もなく、うんうんと相槌を打ってきた。

「ああ、ヴェルグ。まぁ外れてはいないわね。……そうね、私はラゼルの何かしら。同属、眷属、愛奴、奴隷。…愛玩対象、嗜虐対象、所有物……玩具」

「玩具……」

「そう、玩具。アイツにとってはみーんなオモチャよ。この世界も、猫も、眷属も、もちろんアンタも。……長い長い生の中で、目に留まったら一時遊んで捨てていく。アイツより長く生きてる悪魔を私は知らないし、知りたいとも思わない。私にはアイツとコノエが全てよ。だから、ひとからどう思われていようが関係ないわ」

 赤い爪を弾きながら、 がうっとりと笑う。はっきり玩具だと言い切られたことに怒りを感じ、リークスは口を開いた。

「お前もいつか捨てられると、そう思っているのか」

「……ふ。私とコノエはお気に入りだもの。飽きられるはずがないじゃない。でも、そうね――もし捨てられたら、今度こそ死んじゃおうかな」

 さらりと呟かれた言葉は、冗談のようでいて同時に本音であるようにも聞こえた。気だるい視線で水晶を見下ろした に、リークスは侮蔑を込めて吐き捨てた。


「……猫としての誇りさえも捨てるとは、愚かな」

  の視線が上がる。暗い洞内の微かな光を反射する瞳が、はっきりとした嘲笑を形作った。

「馬鹿じゃないの? アンタ、誰と話してると思ってるの? ……もうとっくに猫の はいないのよ。悪魔に誇りなんてあるわけないじゃない。あるのは欲望だけよ」

 コツコツと靴音を響かせて、 がリークスの正面に立った。すっと指を突き出し、胸の中央を小突かれる。リークスは容易く上体を揺らした。


「ねぇ、つまらない話はそろそろやめにしない? 何をそんなに憤っているの…?」

 ぎしりと寝台を軋ませて、 が膝の上に乗り上げる。振り払おうとしたリークスの抵抗を難なくかいくぐり、悪魔は魔術師に口付けた。そしてその唇をペロリと舐めると、黒い耳元へ囁いた。


「その『怒り』――粉々に砕いて飲み干してあげるわ」








 下敷きにした魔術師が、瞬時に身体を強張らせた。突き放そうと伸ばされた腕をかわし、逆に黒衣に包まれた肩を押さえ付ける。発情に弱りきった肉体は、実にあっけなくシーツの上に沈んだ。


「……貴、様…ッ! なんのつもりだ……!」

「……ふふっ……、分からないの?」

 リークスが牙を剥き出して唸り声を上げる。即時に の目の前で火花が弾けたが、ろくに集中することもできない今の状態では、悪魔にダメージを負わせることなどできるはずもなかった。

「あら、危ない。こんな時に魔術なんか使ったって疲れるだけよ。無駄な抵抗はやめたら?」

 仰向けた魔術師の腰にまたがり、 はリークスを傲然と見下ろした。鞭のような硬質の尾で軽くその太腿を叩く。
 嫌悪感を露わにした顔は、それでも隠しようがないくらいに紅潮し始めている。 はその変化を食い入るように眺め、微笑んだ。


 リークスが発情に身を苛まれているのは、ここに飛んできた瞬間に分かった。ここに来たのは全く偶然のつもりだったが、純度の高い感情に惹かれてきたら最高の獲物が を待っていた。

 ずっと会いたかった。最初は憎しみと怒りがゆえに。しかしいつしか負の感情は薄れ、今度はこの傲慢で潔癖な猫が今の自分たちを見たら、どんな顔をするかを知りたいと思うようになった。

 ずっと会いたかった。この堕落した祇沙の中で、唯一綺麗な光を放つ魔術師の猫。その最後の誇り高き猫を――屈服させるために。




「…………。――?」

 甘美な晩餐への期待に酔った へ、そのときふいに呼びかけるものがあった。
 リークスではない。怒りに満ちた真下の猫は、気付いてもいない。遠い異空間から呼び寄せる思念は、慣れ親しんだあの悪魔のもの。だが は眉を寄せてその念を頭から遮断した。
 ――うるさい。後で応じるから、今は目の前の食事に集中したい。


「……悪魔だけでは飽き足らず、猫を漁りに来たのか。……帰れ。貴様の汚れた身体など触れるのも汚らわしい」

 いくらか冷静さを取り戻したリークスが、嘲りを浮かべて頭上の を睨み付けた。だが太腿で引き締まった腰を押さえつけて体重をかけると、リークスの眉は苦痛に歪んだ。

「はっ……嫌だと言う割には、身体は期待してるみたいに見えるけど? やあねぇ、別に取って喰おうなんて思っちゃいないのに。ちょっと遊ばせてもらうだけ。アンタのココも…待ってるんでしょ」

「……っ」

 後ろ手を伸ばして、 はリークスの股間に手のひらを押し付けた。手触りの良い生地を撫でさすると、その下の雄がビクリと震えてわずかに膨らんだ。

「貴様…ッ、ふざけるな!!」

「…ッ」

 その瞬間、剥き出しになったリークスの爪が の頬を襲った。空を切る音の後に、熱い感覚が頬を走る。一拍遅れて、 の顎に真っ赤な液体が伝い落ちた。

「…………」

 体重を真下の身体にかけたまま頬に手をやり、 は指先を濡らしたそれを見やった。次いでリークスに視線を向けると、なけなしの攻撃を仕掛けた魔術師は唸り声を上げて を睨みつけていた。

 ――まるで手負いの獣だ。大魔術師といえど反応はただの猫と大した違いもない。
 毛を逆立てて睨んでくる過去の敵に、 はぞくぞくと嗜虐心を掻き立てられた。


 この猫は、世界や猫たちの堕落と破滅を見ることで何らかの快感を得ているのだと思っていた。他者を虐げることに喜びを感じているのだと。
 ……だが、違う。復讐に彩られた感情は確かにそれを望んでいるのかもしれないが、実際のところリークスは虐げるよりも、虐げられることによって生来の魅力が際立つと、今の は思うようになっていた。

 その研ぎ澄ましたような顔が屈服するのを見たい。欲望にひざまずくのを見たい。嫌がる身体を押さえつけて、身も心も征服してみたい。その瞬間に放たれる怒りは、どれほど甘美な味がすることだろう。

  はゴクリと唾を飲み込むと、うっすら笑ってリークスを見下ろした。


「雌に手を上げるなんて、最低な奴のすることよ? ……まだ立場が分かってないみたいね」

 言い聞かせても分からないのなら、身体に教え込まなければならない。 が血に濡れた指を弾くと、リークスはぎくりと身体を強張らせた。

「…ッ、ぐあ…!」

「少し大人しくしててちょうだい」

 魔術師の四肢の上で、軽く炎を発火させた。正確にはそう思わせる暗示をかけた。
 今のリークスにとっては、抵抗を封じ込められるのに十分な刺激だろう。力をなくした身体の上から身を引き、 はリークスの足の間に滑り込んだ。

「なぜ、抵抗するの? 一時の快楽に身を任せるだけだわ。しかも非常時っていう大義名分もあるのに、よくもまぁそれだけお固く我慢できるわね」

 言葉で嬲りながら、長衣に隠された熱を暴いていく。晒された腹筋に力が入るのが見えたが、リークスはそれ以上抵抗しなかった。いや、したくてもできないのだろう。魔術師はただ、射殺しそうな目で の手馴れた行為を見ていた。


「ふ……、あっけないものね」

 ほどなくして、 は黒衣の隙間から白い手を差し込んだ。躊躇せず、リークスの熱にじかに触れる。ツ、と爪でなぞると雄猫の喉仏が上下に動き、息を呑み込んだのが伝わってきた。

「……ッ、く……」

 眉を寄せる雄猫の顔を見つめながら、熱を外に引き出す。外気に触れたそれは、抑えを失ったようにふるりと勃ち上がった。
 浅黒い色をした熱を根元から爪先でなぞり、先端を軽くこね回す。 は顔を上げると、強く歯を食い縛ったリークスに嫣然と微笑みかけた。

「悪魔になって後悔したことはないけど、唯一勿体無かったと思うことがあるわ。コノエが成長した姿を見れないってこと。だから、アンタが代わりに見せてくれる? どんな顔をするのか。――ねぇ。どうしてほしい…?」

 リークスは勿論答えない。 が返答を促すように幹をやんわりと握り込むと、ますます眉を寄せたリークスは真っ赤な顔をして口を開いた。


「…ッ……、復讐の、つもりか……?」

「……?」

 憎々しげに吐き捨てられた言葉の意味が、一瞬分からなかった。 はしばらくポカンとした後、「ああ」と頷いた。そして握り込んだ手を上下に動かし始めながら、こらえきれぬ苦笑を漏らした。

「ふふっ…、あは……。やだ、そんなわけないじゃない。そんなの今さらだわ」

「…ッ、は……っ。そうでなければ……、こんなことをする、意味など…ッ」

 喘ぎを漏らさないように歯を食いしばりながら、リークスが切れ切れに呟く。隠しようのない熱い吐息を頬に受けて、 はますます笑みを深くした。

「だからたまたま来たって言ったでしょ。で、ちょっと手伝ってあげたくなったの。……リークス、一ついいことを教えてあげるわ」

「…ッ、……く、あ…ッ。なん、だ…!」

 鈴口から透明な汁が滲み始め、手の動きが滑らかになる。 は強く幹を扱きたてると、ふいに手のひらを解放して雄猫に囁いた。


「復讐ってのは、弱者が強者に向けてするものよ。だから――今の私には、そんなの必要ない」






  の吐息が、耳の繊毛を揺らした。だが告げられた言葉に反応するよりも早く、リークスは中途半端な状態で解放された下半身に目を向けてしまった。
 無意識下の行動のあと、ハッと我に返る。続きを期待するようなその仕草は――プライドを守ることよりも、肉体の解放を第一に望んでしまったことを如実に表していた。

 厳しい視線を に送っても、時すでに遅い。 は慈愛に満ちた微笑をたたえ、再び幹を握り直した。そして顔を伏せて足の間にかがみ込む。フッと充血しきった先端に吐息を吹きかけ、 は静かに呟いた。


「ねぇ。本当は、誰かにこうして欲しかったんじゃないの? そうねえ――例えば、私にそっくりだとか言った母親の、弟さん…とか」

 暗い愉悦を語尾に滲ませ、 が告げた。その意味を解し、リークスの頭にサッと血が上った。なぜ、そんなことを言われねばならない…!

「……何を言っているのか、全く分からんな」

「ふふ…冗談よ。……怒ってるのね、リークス。アンタの中から感情が流れ込んでくるわ。……羞恥、諦め、困惑、期待……全部を無理やり怒りに変えて、怒りと思い込むことで、アンタは心を守ってる」

「……怒りを感じずに、何を感じろというのだ……! なぜ、貴様なぞに私が振り回されなければならん…!」


 リークスは衝動的に叫んでいた。思い通りに動かない身体がもどかしい。腕だけでも解放されるなら、今すぐにこの悪魔を振り払ってここから叩き出すのに。いやそれよりも腹立たしいのは、腹の底から込み上げてくる不快感にも似たマグマのような衝動だ。

 屈辱と共に、抑えきれぬ奇妙な快感が鎌首をもたげさせる。牙が唇に喰い込むほど歯を軋ませ、リークスは を睨み付けた。しかし はリークスを一瞬ねめつけた後に大きく口を開き、リークスの熱をその唇へと迎え入れた。


「…っ!!」

 瞬間――喰いちぎられるかと思った。
 反射的に震えた腰を押さえつけ、 が口内に欲望を呑み込んでいく。一瞬だけ牙が触れたが後は滑らかに舌が密着し、リークスの熱はぴったりと に包み込まれた。


「……む、……ン、ん……」

「……よせ……、やめろ……っ」

 柔らかな舌の感触をダイレクトに粘膜が感知し、ぞくぞくとした疼きが腰から沸きあがった。喉が奇妙な音を立てて、己でも情けないと思うほど掠れた声が知らず漏れる。
  は視線を上げてリークスの双眸を捉えると、目を細めて軽く笑った。その直後、抉るように の頭が動き始めた。

「……う…、くッ……、う、あ……っ」

 濡れた音を立てて、熱が滑らかに摩擦されていく。舌を押し付けて上下したかと思うと、裏筋をチロチロと攻め立てる。歯を食い縛っても声を押し殺すことはできず、リークスは濡れた呻きを上げた。

  の動きは的確だ。雄が感じるところをダイレクトに突き、限界に達しそうになると小休止に入る。時折口を離して乾いた唇をぺろりと舐め、再びこちらを見据えたまま熱を呑み込んでいく。

 怒りを感じるほどに淫靡だ。怒りを感じるほどに――焦らされている。


(くそ……! 早くいかせろ……っ!)

 寝台に縫い止められたかのように動かない腕の先で、白くなった指先がわなわなと震えた。わずかに自由を取り戻した腰を浮かすと、 の口内に熱を押し込むような形になる。
 一瞬目を見開いた は、すぐにこちらの要求を解したようにくびれに強く吸い付いた。解放を促すよう鈴口を何度も舐められる。腰に圧倒的な熱が集まり、それはすぐにやってきた。


「……ッ、離れろ…!」

「ん…っん、……んふ……。い、や」

「…馬鹿が…! …っく……、あああ…ッ!」


 一瞬の灼熱感。その後に続く爆発的な快感。長く焦らされたそれは、白濁となって悪魔の口内へと注ぎ込まれた。
 放出が終わっても、真白に濁った頭からモヤが晴れない。力を失ったリークスが寝台に崩れ落ちた後、 はゆっくりと身を起こした。


 瞼を閉じても、脈打つような赤い残像が頭から消えていかない。頭を振って薄く目を開いたリークスは、こちらを食い入るように見つめている とばんやりと視線を重ねた。

「……っ……」

  は無表情だった。その顔には先程までの嘲笑も、サディスティックな笑みも刻まれていない。ただそこにある物を見るかのごとく、何の感情も宿さぬ瞳で はリークスを見つめていた。
 だがそれも束の間。再びあの笑みを瞳に浮かべると、 はまだ嚥下していなかったリークスの白濁を喉を鳴らして飲み込んだ。


「……貴、様……」

 掠れた声で、呪うように悪魔に呼びかけた。
 リークスはふらつく腕を動かし、ゆっくりと身体を起こした。四肢に掛けられていた暗示という名の術があっさりと解け、発情の衝動が過ぎ去ったことを知る。それでももう強く抵抗する気力も体力も削がれ、惰性で乱れた衣服を整えると、疲弊した身体を抱えて魔術師はただ悪魔を睨み付けた。

「…………」

 唇に残った白濁を指で拭い、 が音を立てて舐め取る。リークスが屈辱の眼差しでその様を見ていると、ふいに が笑みを掻き消した。そして今までの淫らな行為が幻だったかのように、底冷えするような表情で はリークスを見下ろした。


「こんな事で怒りを感じられるなんて、お手軽でいいわね。……何が腹立たしいの? 何が悔しいの?」

 威圧感のある問いかけに、リークスは口を開きかけた。だが答えなど求めていないかのように、 は続けて畳み掛けた。

「大切な誰かが目の前で死んだ? 大切な誰かをこの手で殺した? それとも、そのひとを得るために自分の全てを投げ出した? 欲望と汚辱にまみれて、それでも唯一の願いのために生にしがみ付いてみた?」

 淡々とした口調が、逆に空恐ろしく感じられる。気圧されたリークスが無言で見やると、 は小さく苦笑を浮かべた。

「なぁんだ、何にもないのね。……つまらない」
 
 
 ――今までの行動が、一言で切り捨てられたような気がした。
 呆然としたリークスをよそに、 が身軽に寝台から降りる。衣服の乱れも全くなく、来たときと同じように美しい姿勢で立った はふっとリークスを振り返った。


「帰るわ。なんだか冷めちゃった。…とりあえずはご馳走様。すっごく美味しかった」

 言葉の終わりと共に、 の姿が朱色に揺らぎ始める。すると皮肉でない微笑を浮かべ、 はリークスに呼びかけた。


「リークス。……その怒り、でも大事にしたほうがいいわ。私の中にはもうないものだから。……探しても、見つからないのよ。だから――取っておいてね。また貰うから」


 最後だけ鮮やかな笑みを浮かべ、悪魔の姿がかき消える。

「……っ……。冗談ではない……!」

 リークスはそれを苦々しい思いで見送った。毒づいた口調は、腹立たしいほどに弱々しかった。








 探しても見つからない――それはつまり、怒りに溺れて今では怒りという感情そのものに存在が変わってしまったということなのか。


 真っ直ぐな目をしていたあの誇り高い猫は、もういない。
 近親者を追い落とし、当人すらも追い詰めて道を踏み外させた。それから先はリークスには関わりなき事ではあったが、その切っ掛けを作ったのは己の所業以外の何ものでもない。

 その結果を見せつけられ――それ以上は何も考えたくなくて、リークスは再び寝台にうずくまった。


 枕もとの水晶には既に炎はなく、ただ暗黒のような夜の闇が広がり始めていた。












  END



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(2008.5.17)