紅玉 - Punishment -






 あの二匹と遊んだ日から、もう何日が経ったのだろう。
 自らの領域へと戻ってきた は、『仕事』をする気にもなれず豪奢な寝台の上で日がな怠惰に臥せっていた。

 こんな時ならいつでも呼び出しに応じてやれるのに、 の主はあれ以来全くこちらに語りかけてはこない。
 呼び出されれば応じるが、自分から出向くには少々時間が経ちすぎた。無視を重ね続けた手前一応気まずいという感情もあり、こうして何をするでもなく時間を浪費しているのだが……。



、苛々してるな。早くラゼルんとこ行って謝っちゃえばいいのに」

「……別に、謝るようなことしてないもの。用事があれば向こうから呼ぶでしょ」

「ははっ……可愛いなぁ 。そんな顔して言っても、気にしてるのが丸分かりなのに」


 同じく寝台に伏せていたコノエが、 の金髪を指に絡めながら笑った。
 久しぶりの二人きりでの情事の後なのに、他の男のことを話すコノエは楽しげだ。汗が引いてきた身体を寝台に沈め、コノエの湾曲した角をいじりながら は毒づいた。


「私、コノエがいればそれでいいもの……。私がアイツのところへ行っても、コノエはいいんだ?」

「ぶ…よく言う。可愛いこと言ってみても、全然説得力ないなアンタ。これで妬いてたら身体がいくつあっても足りないって」

「くっ……あはは。うん、言ってみたかっただけ」


 苦笑を浮かべたコノエにつられ、 も思わず吹き出した。……まったくだ。今さら貞操を繕っても、コノエとあの主には の行動など筒抜けなのだから。
 いくら距離を置いていようと、身体のどこかで常に意識している。心だけでなく、存在そのもので。

 大勢の他人と交わって一時肉欲が満たされても、この二人の存在を感じられなければ は飢えて死ぬ。コノエもきっとそうだ。だから、いつまでも無視して生きることなどできるはずがないのだ。
  は諦めのような溜息をつくと、のろのろと身体を起こした。


「しょうがない……。行ってくる」

「ああ、俺はここで待ってるから。―― 、俺は妬かないよ。だってアンタは俺のところに戻ってくるって知ってるから」

 寝台の中で、コノエが余裕の笑みを浮かべた。半身が見せた静かな自信と大人びた表情に、 は頬を染めると濃厚なキスで応えた。







   +++++   +++++







 軽く目を閉じると、ふわりと髪が舞い上がる。気配を探るまでもない、既に己の一部となっている『気』のある場所へと戻る。
 そして目を開けると、 の支配者が悠然とした佇まいで待っている――はずだった。


「……ッ」

 憤怒の領域の最奥。紅蓮の壁に囲まれたその空間で、 は息を呑んだ。
 目の前には漆黒の玉座があり、確かに主はそこにいた。ただし一人ではない。その腕の中に、華奢な肩をした女悪魔を侍らせている。

 白い髪の女はラゼルの胸への愛撫に夢中なのか、こちらの気配に気付いてもいない。思わず は緞帳の奥へ身を翻そうとしたが、ゆったりと向けられた青灰の視線に絡め取られ、踏み止まざるを得なかった。

 激しい愛撫を受けているであろうに、悪魔は顔色一つ乱していない。紅い髪の悪魔…ラゼルは、 に向けて薄く笑みを浮かべた。その瞬間、身体の奥でカッと得体の知れない炎が閃いた。

(こいつ……分かってて気配を消してた……!)

  がやってくることなど百も承知だったろうに、あえて女悪魔の気配を悟らせなかったのだ。知っていたら、こんな時にノコノコ出向いてこなかった。こんな――悪趣味な趣向にはまるくらいなら。

 なぜ怒りを感じるのかなど考えたくもない。ラゼルを睨みつけて姿を掻き消そうとした は、見えない力に阻まれてその目的を失った。


「……挨拶もなしに退散か? 随分薄情なことだ」

「…ッ! ……あなた……」

 白い髪の悪魔が、ハッとしたように振り返る。……この女、知っている。確かヴェルグのところの下位眷属だ。最近こちらの領域に出入りしているとコノエから聞いたことがある。

「…………」

 女の素性などどうでもいい。ラゼルが誰と交わっていようが関係ない。正直なところ、 はそう思った。
 それでも今までは、 の前でラゼルがそういった行為に耽る姿を見せたことはなかった。自分といるときにラゼルが見るのは、自分かコノエだけだったのに――。 は無言の抗議をラゼルへと投げた。


「ちょっと、早く飛んでくれない? いつまで突っ立ってんのよ」

 きつい視線と鷹揚な視線の交錯を断ち切ったのは、鈴を転がすような高い声だった。幼さの残るその甘い声には、隠し切れない棘が滲んでいる。その声色を裏切らない可憐な顔立ちをした悪魔は、はっきりとした敵意をもって を睨みつけていた。

「邪魔なの分からない? どうして平気な顔していられるのかしら」

「…………」

 こっちだって、できるものなら早々にこの場所を立ち去りたい。顔に出た苛立ちを何か誤解したのか、白い悪魔はふいに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。心もち胸を反らしつつ、見せ付けるようにラゼルへと張り付く。

「ふふっ……眷属って言っても、可愛がられてるわけじゃないのね。さっさと帰ったら? あたしの方がよっぽどラゼル様を満足させて――きゃあッ!?」

 乾いた音の後、金切り声を上げて女が吹っ飛んだ。しどけない格好で倒れ込んだ悪魔は、信じられないような表情で己の頬を打ち据えた男を見やった。


「ラ、ラゼル様……?」

「……去れ。邪魔だ」

「! な…んで……」

「ヴェルグがこちらに踏み込むために放った駒かと思って、しばらく遊ばせていたが……いい加減目障りだな。奴も馬鹿だが、お前のような女を寄越すほど落ちぶれてはいないだろう。過ぎた自意識は存在を更に安くするぞ。――消えろ。消されたくなければ、今すぐに」

「……ヒッ……」

 頬を腫らした女が憐れなほど大きく肩を波立たせた。そのままあたふたと数歩下がると、姿を掻き消す。それでも白い悪魔は、最後に を一瞬ねめつけるのは忘れていなかった。




「……なんていうか……色々最低ね、アンタ。お取り込み中に失礼したわ」

 悪魔の姿が完全に消えた頃、ラゼルは をこの場にとどめる拘束の力を緩めた。自由に動けるようになった は、しかし今さら飛ぶのも馬鹿馬鹿しくなったのか、玉座に座ったラゼルに醒めた視線を向けた。


「……ふっ。鼠と遊ぶのも一興かと思ったが、子供すぎて相手にもならんな。時間を浪費した」

「……最初から本気で相手をする気なんかなかったくせに。よく言うわ」

「そうだな。……だが、お前の珍しい嫉妬が見れただけでも収穫はあったな」

 髪をかき上げたラゼルが薄い笑みを へと向ける。その意味を理解したのか、 は思い切り眉をしかめた。

「……冗談じゃない。誰があんな安い挑発で嫉妬なんてすると思うの」

「ほう。それにしては、怒りの感情が俺にも伝わってきたようだが?」

「馬鹿言わないで。……そうね、確かにイラッとはしたわ。けどそれはあの子に嫉妬したからとかそういうのじゃないわ。アンタに向けて苛立ったのよ」

  が淡々と反論を返す。紅の目はラゼルを真っ直ぐに見下ろし、その視線の強さにラゼルは内心で笑みを深めた。
 ゆっくりと立ち上がって の元へと歩み寄る。今度は至近距離から、暗い光をたたえた美しい瞳を鑑賞した。


「アンタ、私を怒らせたかったの? だとしたら、あんな女を使う程度で私の怒りを引き出せると思われたのが屈辱だわ。あんな安っぽい芝居で嫉妬なんてしない。随分見くびられたものだわ」

「……なるほど。安く扱われるのは我慢がならない、か」

 きっぱりと言い切った が顎を反らす。沈黙は、問いかけへの肯定を意味していた。
 高慢な物言いでありながら、その態度には一種の誇り高さすら感じる。 がどの種類の『怒り』を抱いていたかなど、今からでも少し探れば分かるものだが、ラゼルはあえてそれをしなかった。代わりに が聞いていることを承知で、苦笑まじりの溜息を漏らす。

「ではそういう事にしておこう。真相はどうあれ、な」

 からかわれたと思ったのだろうか、 の波長がわずかにぶれる。それでも表に出すことなく、長い金の髪を翻して はラゼルに背を向けた。今にもこの場から立ち去っていきそうな肩を、ラゼルは咄嗟に掴んだ。


「何よ。用事がないなら帰るわよ。コノエが待ってるんだから」

 振り返った は冷えた口調で言い放った。
 ――さすがは元猫だ。どれほど手懐けたつもりでも、次の瞬間には全く興味を失ったように主人から離れていく。ラゼルは を引き寄せると、尖った耳に唇を押し当てて優しく囁いた。


「こちらにはまだ用事がある。……命令と召喚には絶対服従。それが契約の条件だったな…? ―― 。最近少々おいたが過ぎるようだな」







 背後で、空気が凍りついたのが分かった。
 肩を掴んだ悪魔が特に怒りの感情を見せたわけではない。今までだってその片鱗すら感じられたことはなかった。それでも、触れられた肩から不穏な感情が入り込んできて は総毛だった。

「おいたって……なに、随分可愛らしいこと言って――、…ッ!」

 本能的に感じた恐怖心を押し込め、 は歪んだ笑みを浮かべて振り返った。だが次の瞬間、大きな手で口を塞がれて は目を見開いた。


「……! ン…、んうッ……! …ッ!」

 口、鼻…空気が出入りする全ての器官を封じられ、 は眉を歪めた。咄嗟に振り解こうとするも、男の指は頬に喰い込むばかりで全く揺らがない。勿論魔力の行使も封じられて、もがいた はあっという間に酸欠状態に陥った。

「――ッ! ん、……!!」

 手の甲に爪を立てる。鋭いそれに男の皮膚から血が滲んだが、全く力は弱まらない。
 ――殺される、と思った。ひねり潰すように、これほどあっけなく。

 酸素を求める脳がガンガンと警鐘を鳴らし始め、冷や汗が伝い落ちる。生理的な涙がぶわりと瞳を覆い、思考が段々薄くなっていく。
 やがて意識を手放すその寸前で、 は突然解放された。


「……は……ハァ…ッ、うっ……! ゲホッ…、はぁっ……」

 支えを失って崩れ落ち、 は無様な姿でその場に伏せた。涙と咳にまみれながらも、身体が貪るように荒い呼吸を求める。血が素晴らしい勢いで体内を駆け巡り、ようやく視界から赤い色が消えてきた。
 へたり込んだ は乱れた髪越しに、悠然と立つ己の主人を見上げた。無意識に、喉の奥から唸り声が漏れる。


「……なんの……つもりよ……」

 紅い髪の主人は無表情に を見下ろすばかりで何も答えない。その様子にますます恐怖と怒りが煽られて、 は牙を剥いた。

「どういうつもりよ、ラゼル! アンタ何がしたいのよ!?」

 金糸を振り乱し、 は吼えた。座り込んで視線を合わせたラゼルは、 の肩を掴んで冷酷に笑った。

「言っただろう。――仕置きだ」





「……!」

 ラゼルが指を一つ鳴らした。足元が崩れるように揺れ、 は一歩後ろに下がった。するとその直後、闇の天井から槍のような棒がいくつも落ちてきて は目を見開いた。
 ……違う、棒ではない。これは――


「何これ――。檻……?」

 正面、横、上方、後方…… の周囲が、全て頑強な鉄格子で囲われた。まるで見世物にするかのように、 はラゼルに捕らえられた。


「……っ……」

 両手で柵を掴み、揺さぶってみる。予想はしていたが、太いそれは の腕力程度ではビクとも揺らがなかった。試しに魔力をぶつけてみたら、力がそのまま自分に跳ね返ってきて は呻き声を上げた。

「……ぅあ…ッ!」

「やめておけ。中からの攻撃は全て跳ね返るようになっている。しばらくそこで頭を冷やすんだな」

「………。冗談じゃない…っ。出しなさいよ!」

 檻の上から降ってきた声に、 は牙を剥いて叫んだ。
 全く余裕がない。自分らしからぬ態度に は内心困惑したが、訳の分からぬ怒りと恐怖に押されて敵意を露わにしていた。


 こんな風に捕らえられる状況は以前にもあったし、嗜虐趣味を持つ猫や悪魔を相手にした事も一度は二度ではない。けれどそれはあくまで情事のオプションでしかなかったし、他者から見れば惨めでしかない振る舞いをしていても、その場の支配者は常に の方だった。

 肉体的に を痛めつけながらも、相手は結局 の態度に一喜一憂し、 が望むようにその身を差し出すのだ。奴隷を従えるように、 はそうやって雄たちを支配してきた。暗い愉悦と共に。
 取るに足らない者たちよりも自分が下位にあることは、プライドが許さなかった。

 そしてラゼルに対しても、いつもなら虐げられる中にも愉しさを感じることができた。
 けれど今日は、何かが違う。絶対的に自分を支配している男が纏う――冷たい空気。自由を奪われた は、今にもその手の上で息の根を止められるのではないかとはっきり恐れていた。



「どうした? 随分と怯えているようだが。何か特別なことでもしたか…?」

「…………」

 だが、一方的に責められて黙っていられるほど も寛容ではなかった。ゆったりとした笑みを浮かべる柵の向こうの主に向かい、 は己を奮い立たせて口端を吊り上げた。


「……そっちこそどうしたのよ、ラゼル。感情、隠しきれてないわよ…? 何をそんなに怒ってるの」

「…………」

 ラゼルが口を閉じる。……そう、柵越しでも分かるこの悪魔の感情。普段ならば努力しても全く読むことができないのに、今日は珍しくこちらまで流れ込んでくる。
 押し黙った悪魔の姿に は少し余裕を取り戻すと、さらに言葉を重ねた。

「こんな檻まで用意して……。なぁに? もしかして、嫉妬でもした……? 昔のお仲間とちょっと仲良くしたからって」

 檻の中でせせら笑うと、目の前の悪魔はすっと視線を冷たくした。

「思い上がるな。お前の貞操が緩いのは今に始まったことではないだろう。……どうも主人が誰なのかを忘れているようだから、教え込んでいるだけだ」

「……どうだか」


 暗い笑みを浮かべて檻の中から睨んでくる を、ラゼルは鷹揚に見返した。
 先ほどまで恐怖を顔に貼り付けていたのに、今はもうこちらを見下すような光がその瞳には宿っている。

 恐怖が全て消えたわけではないだろう。現に今も、歪んだ笑みの奥に震えが透けて見える。
 どうあがいても、 の立場がラゼルを上回ることはない。刻まれた主従の楔が逆転することはないし、またどれほど馴れ合っても畏怖を忘れぬよう、仕込んできたのだから。

 それでもこちらに歯向かう の瞳の強さに、ラゼルの心は小さくさざめいた。



 ――どれほど汚しても、汚辱にまみれても、この女が光を失うことはなかった。

 猫であった頃の健全な輝きも嫌いではなかったが、ラゼルが興味を抱くほどではなかった。
 その瞳が美しいと思ったのは、あの炎に満ちた空間で歪んだ願いをこの女が抱いた時からだ。

 請われるままにラゼルは とコノエを転化させ、手元で自由に振舞わせた。
 紅く染まった瞳は、いつしか複雑な感情を宿すようになった。それは決して澄んではいなかったが、それゆえ邪眼のように雄どもを捕らえていった。……認めたくはないが、この自分すらも。

 白濁にまみれ、血の赤にまみれ、 はどこまでも汚れ堕ちた。それでも決して輝きを失わない。
 それは主たるラゼルにとって誇りであり――同時に憎らしいものでもあった。



 強い視線で見上げてくる に、ラゼルは笑みを浮かべた。
 こうしていると、獣にしか見えない。どれほど懐柔されたように見えても、獣の本性が消えることはないのだ。今にも唸り声を上げそうな に一瞥をくれ、ラゼルは片手を仰のけた。



「……?」

 ラゼルの手のひらから出現した細長い物体に、 が目を瞬いた。鈍い銀色に光るそれは、華麗な装飾が施されたサーベルだ。
  がその名称を知っているかどうかは分からないが、用途は嫌でも分かるだろう。


「……な……、――ッ!!」
 
 くるりと手の中でそれを返すと、身を強張らせた に向けてラゼルは間髪入れずに鋭い剣先を突き出した。




 己の所有物をどうしようが、責められるいわれはない。


 その憎くて愛しい光を――粉々に砕いてやりたいと思った。












TOP


punishment = 罰

(2008.6.29)