終章 最愛の刻






「な、んで……」

 暗い暗い洞窟の中で、 は掠れた呟きを漏らした。
 目の前の光景が――あまりにも の想像の範疇を超えていて、実感が湧いてこない。


 ライが、フラウドを倒して……

 フラウドがライの左目をも奪って……

 ライが……悪魔、に――



「……ッ、なんで……! なんで、アンタが…っ!!」


 ――なんで? そんな問いは、もはや何の意味も持たない。

 予兆はあったはずだ。狂気に侵される時がくるかもしれないと。それに対して自分が誓った事を、忘れた訳ではない。
 けれどどこかで楽観はしていなかったか。ライなら乗り越えてくれる、未来を共にいけると――期待して、信頼して、最悪の想像には蓋をしていた。

 だから、馬鹿みたいに繰り返す事しかできない。――なぜ、と。



。お前は、なんでなんでと泣き喚くだけの非力な雌ではないだろう……?」

「……ッ!」

 ライが喋った。だがその声は酷くざらついていて、今までのライとは明らかに異なっていた。あの怜悧でよく通る声も失われていた。

「失望させるな。そんな事のためにここまで来たのか」

「……っ」

 失われた二つの瞳が を責めるように射抜く。 は口をつぐむとわずかに冷静さを取り戻した。
 今の叱責するような声には以前のライとどこか通じるような響きを感じたからだ。もっとも、ただ自分がそう思いたかっただけかもしれないが。


「そうだ……コノエを、助けに行かなきゃ……」

 自分に言い聞かせるように告げると、 はライから視線を逸らして奥の暗闇に目をやった。
 だがコノエの姿が見えない。 は目を疑った。

「無駄だ。……手遅れだ」

「な……、――ッ!」


 ――見えた。だがその光景に は目を見開いた。
 コノエが……何か赤い矢のようなものに胸を貫かれている。


「コノエ!!」

  は走った。ライの横を駆けて、コノエのいる場所へと続く空間に。
 だが異空間に足を踏み入れようとした は、突然腕を掴まれて洞窟に押し戻された。

「い…ッ、ああッ!!」

 貫かれたまま手当ても何もしていない手に衝撃が伝わる。一瞬顔をしかめた は、それでもライを強く睨み上げた。

「放して! コノエの所に行かないと!!」

「無駄だと言っている。――見ろ」

「コノエ……!!」

 
 コノエが倒れていく。血の海に身体が沈み、生気を失った瞳が閉じられた。その映像を最後に異空間へと続く道はプツリと掻き消えてしまった。
  はその数秒の出来事を、瞬きもせずに見つめていた。――絶望と共に。



「あ……、あ……ッ」

 唇が震える。出血が続いたのも相まって血の気の引いた の腕を、ライが再び掴んだ。

「他の雄のことなど考えるな。……お前は俺だけ、見ていればいい」

「なに、を――」

 こんな時に、何を言っているのだ。のろのろとライを振り返った は、突然強く腕を引かれて地面に引き倒された。






「……ッ、あ――!!」

 乱暴に硬い地面に押し倒され、衝撃に は叫んだ。だがそれに追い討ちを掛けるようにライが にのしかかり、両手を片手で押さえ付けた。


「ひ……ッ、キャアアアッ!! 痛い! やめて…ッ!!」

 傷口が地面に押し付けられ、絶叫が迸る。だが はライの不穏な手の動きにハッと息を呑んだ。

「なに……」

 ライが の下衣に手を掛ける。覚えのある動きにその意図を悟り、 は蒼白になった。


「な……に考えてんのよ! いや…ッ! 絶対いや!!」

 乱暴に下衣が剥かれていく。 は激しく足をばたつかせて抗ったが、抵抗など物ともせずにライはそれを取り去った。


「いやっ! やめてよ……! ライ、嫌よ!! ――ッん……!」

 叫ぶ口にライの唇が押し付けられる。滅茶苦茶に舌を含まされて声を封じられると、 はきつく目を瞑った。
 唇の感触は何一つ変わっていないのに、昨夜の激しくも優しかった口付けの面影はどこにもない。ただ口と舌という『武器』を使って の悲鳴を封じただけだ。恐怖と屈辱と羞恥で の目に涙が滲んだ。


「お前に教えてやろう。痛みすらも、最高の快楽になることを」

「――!? な……、馬鹿言ってんじゃないわよ! 絶対に嫌!!」

 ライの手が上着をも剥ぎ取っていく。抵抗すればするだけ手が痛むと分かっているのに、 は抗う事をやめなかった。絶対に許容できない。

 ライだから、と百歩譲って犯される事に耐えられたとしても、こんな時にこんな事をする神経が には理解できなかった。コノエが死んだのに。
 すると追い討ちをかけるように、ライがうっすらと笑って告げた。


「コノエは死んだ。俺の賛牙はもうお前だけだ。お前だけに、最高の甘さを味わわせてやろう」

 ライが の強張った膝を開く。ベルトを外す音がして、熱い塊が乾いたそこに押し当てられた。
  は血の気が引いた。――まさか。


「いッ……、いやあああぁぁぁ――ッ!!!」









「いたッ! あ、アッ……痛…っ! ――いやーッ!!」


 準備も何もなされていない壁を、ライが突き進んでいく。灼熱のコテを押し付けられるような感覚に は身を捩った。ひだを巻き込み、ギシギシと熱が埋められる。
 最奥まで強引に捻じ込みライは停止した。薄く息を漏らした は、だが続く痛みに強く呻いた。


「う…ッ、ア……ッ! 痛……ッ、やあッ!」

 間髪入れずにライが動き始める。乾いた粘膜を引きずられる痛みに、 は力の入らない腕でライの胸を叩いた。だが が叫べども叩けどもライは律動をやめてくれない。

「あ……ッ、うう…ッ……、やぁ……」


 ――壊れていく。優しい思い出が、苦しくも心を寄せ合った日々が音を立てて。
  はライの律動をなすすべもなく受け入れながら、ボロボロと涙を零した。



「う……、う……ッ」

 そのうち、ライの動きには何か濡れたような響きが混ざり始めた。昨夜のライの残滓か、もしくは身体を防御するための悲しい生理的な反応なのかは判別がつかない。
 感じているわけではない。そんなはずがない。身体は今も絶望と羞恥に竦み、強張っている。
 だが格段に抽送は楽になってきた。そして繰り返される淫らな水音は、耳から を深く犯していった。


「……ッ、あ……! ――くッ……」

 滑らかなぬめりを帯びて、内壁が擦られる。ふいにある一点を突かれて は高い声を上げた。
 すぐに唇を噛んだが、その時襲われた感覚はまぎれもなく快感を帯びていた。

 身体は覚えているのだ、昨夜のどうしようもなく甘い感触を。忘れられる訳がない。
 同じ匂いが熱が肌が、 を揺さぶっている。ただ違うのはふたりの未来だけ。


  は強く口を閉ざした。だが痛みを厭う身体は、苦痛の中から何とかして快楽を拾い上げようとしていた。
 ――もう駄目だ。ライの動きに、痛みよりも甘さを強く感じてしまう。
 口をつぐんでも、頬が紅潮するのと顔が歪むのはどうしようもなかった。



 胸を叩く。髪を掴まれる。腕に噛み付くと、手のひらの傷を抉られた。

「や……あ……、ア――……ッ!」

 ライが動きを速める。 を暴力的に追いつめ昂ぶらせ、達せさせる。強く腰を叩き付けるとライは最奥に熱を放った。






「――ッ!? く……ア……あああッ!!!」


 精が放たれた瞬間、 は目を見開いた。

 身体の中に激痛が走った。何か毒を含まされたかのような恐ろしい感覚だ。
 体内に沁みていくそれは細胞レベルから を侵食していく。ライを振り切った は絶叫して転げまわった。

「あ……、ア……ッ! ――ッ!!」

 身体が焼けるように熱い。己の身を掻き抱いた は、身体を……いや種族すらも変えていく熱に耐え切れず意識を手放した。


「立て。……剣を取れ。……お前の誓いを果たせ――


 その瞬間に囁かれた言葉は、睦言のように の脳裏に焼き付いた。












「う……」

 数刻の時を経て、 は目を覚ました。横たわったまま暗い洞窟内を見回すとライは既に立ち去った後のようだった。
 でも分かる、側にいる事が。五感ではない感覚で はライの存在を感じ取った。


 ゆっくりと起き上がる。手のひらはいまだ血を流し続けていたが、痛みに耐えられない程ではなかった。
 そんなものよりも今は、胸を熱く満たす闘志と絶望が を動かしていた。

 その時、カツンと場違いに高い音が洞窟内に響いた。見るとライに貰ったプレートの鎖が切れ、 の胸から滑り落ちていた。
 冷たい輝きを放つ板と切れた鎖は、まるでふたりの『絆』のようだと は思った。


「……ッ」

 衣服は荒々しく剥かれ、ライを受け入れさせられたそこは擦り切れていた。生々しい陵辱の痕にグッと喉が詰まる。
 ……終わってしまった。優しい時間も、夢のような幸福も、すべて過去になった。


「うっ……う……、うああああ……ッ!!」

  は顔を伏せるとたまらず慟哭した。しゃくり上げ、嗚咽を漏らす。
 ――つらかった。ライに犯された事がではない。変わってしまったライが、変わらぬ誓いを求めた事が。それを叶えられるのは しかいない。ふたりの未来を悟って は泣いた。

 誓いを違えるつもりはない。それがライの望んだ事であるなら、最愛の猫の願いを自分は叶えよう。
 だからライを愛した猫としての自分も、涙と共にここに置いて行こうと は思った。残るのは、躊躇わずにライを仕留める獣の自分だけでいい。



  はひとしきり泣くと、牙を使って服を裂き手のひらに意味のない手当てをした。
 服を着て立ち上がると、足がもつれて壁にぶつかる。……血が足りないのだ。でも、行かなくては。
 剣を握り締めると、 は洞窟の出口に向かって歩き始めた。

 投げ捨てようと思ったプレートは結局手放せず、口付けと共に懐に仕舞い込んだ。











 洞窟を出て、赤い月が照らすカガミ湖に足を踏み入れる。コツコツと硬質な音を響かせた の足は、月を見上げている悪魔の姿を捉えて止まった。

 シンと静まり返った湖面で月を見る悪魔は、例えようもないほど美しかった。
 世界の異変など、どこで起こっているのだろう。静謐そのものの光景に は目を眇めた。


「――こんばんは。いい月夜ね。……と言っても、もう見えないか」

 いつか掛けた言葉を悪魔に向かって投げる。すると、血の止まった白い顔が を振り返った。
 鏡面の上で、喜悦の悪魔と対峙する。 はなんとなく懐かしい気持ちを覚えて微笑んだ。


「私、ね――なりたいものが、三つあったの」

「…………」

 ポツリと は呟いた。脈絡のない戯言にライは無言で返したが、多少は興味を覚えたように薄く笑みを浮かべた。 はライに近付くと口を開いた。

「子供の頃は……お嫁さん。優しくて格好いい雄と恋をして、綺麗な服を着てつがいになるの。……前半は少し叶ったかな。あまり優しくはなかったけど」

「…………」

「物心ついてからは、鍛冶師。私の剣が猫達の役に立つように。……これはそれなりに叶ったわ」

  は薄く笑んだ。ライはやはり反応しないが聞いてくれてはいるようだ。ライから数歩離れた所に立ち、 は瞳を閉じた。

「最後は……アンタの賛牙になりたかった。つがいとしてアンタと共に闘い、共に生きる……そんな生き方をしてみたかった」

 目を開く。ライは の顔を見下ろし、口を開いた。


「……それは、叶ったのか?」

「……っ」

 ――意地悪。 は心中でそう呟いた。答えなど分かっているだろうに、わざわざ聞いてくるあたり何も変わっていない。
  は首を振ると、おもむろに剣の鞘を落とした。ライも双剣を引き抜く。


「いいえ。……もう、そんな事はどうでもいいの。私には……もっと、したい事ができたから」

「ほう。……言ってみろ」

 ライが挑発するように笑った。 は幾分かムッとした。……言わせるつもりか。
 ロクに力の入らないはずの手で柄を握ると、口端を無理やり吊り上げる。


「ほんっと、性格悪いわよね。……いいわよ、最後だから言ってあげる。――未来なんて欲しくない。私と……死んで!」


 

 
 叫びざま、剣を振り上げる。ガシンと音がしてそれはライの長剣に受け止められた。すぐに身を翻し、 は第二撃を放つ。


「……っらあああ……ッ!!」

 手は巻いた布の上からも血を滴らせ、剣などとても握れないはずだった。けれど今は、そんな事もどうでもいい。突き上がる闘志に押され、肉体はとうに精神に凌駕されていた。
  は金糸を乱し、次々とライに攻撃を仕掛けた。


「くくく……どうした、 。お前に与えた喜悦の力はそんなものじゃないだろう」

「分かってるわ、よ! ……ああああッ!!」


 剣戟の音。硬質な手応え。それらは全て自分が発しているのに、どこか現実のものと思えない。
 ライが走る。それを追って も走る。ライが愉悦を浮かべて笑っている。自分も笑みを浮かべている事に、いつしか は気付いた。



 ――楽しい? 

 ……ああ、楽しいな。

 ……そう。私も楽しいよ。アンタと本気でやり合うのは、これが初めてだからかな。



 剣戟を交わしながら、視線で語り合う。狂気を宿したライの喪われた瞳にはただ だけが映っている。
 胸を灼く独占欲が満たされ、 は高揚した。


(私を見て。……私を追って。私を殺して――!)


 銀の髪を掠める。短剣が の皮膚を切り裂く。どちらも血に肌を汚しながら、それでもふたりの闘いはやむ事がなかった。
 賛牙として歌っていた時とはまた違う、骨の髄まで重なり合うような、それでいて何も混ざらずに反発し合うような感覚に は酔いしれた。



 だがいくら喜悦の力を与えられようと、弱った身体にはいつしか限界が訪れる。
 足がもつれた。限界かと顔を上げた は、そのときライの一瞬の隙に気付いて瞳孔を引き絞った。

(もらった……!)

 剣を突き出す。ライも即座に反応して剣を構えた。
 肉を裂く感触がする。ライの剣先も に埋まって――


「……ッ。――え……?」


  の剣はライの心臓を貫いた。ライの剣は、 を貫かなかった。











「な……っ……、――卑怯者…ッ!!」

 剣を引き抜いた は、呆然としてライを見上げた。
 ライの心臓から溢れた大量の血液が に降り掛かる。 は気付いてしまった。ライが、わざと に隙を見せた事を。

 見開いた瞳から涙が零れた。ライを罵る言葉が飛び出す。だが先に膝を折ったのは、ライではなく の方だった。


「え……、あれ……?」

 何かが途切れたように、急速に視界が暗くなっていく。剣を放り投げたライは倒れ込む を抱き止めた。

「……阿呆猫が。大量に出血すれば、いつか致死量に達する事にも気付かなかったのか」

 ライがぼやく。その口調はいつものライそのもので、視界の利かない はそこに白猫がいるのかと錯覚した。



 ふたりの足元に真っ赤な血溜りができていく。それはライの身体からだけでなく、 からも流れ落ちたものだった。
 自身の失血とライの命が尽きようとしている事による影響で、 は一気に死の淵へと引きずり込まれていた。それに抗い、ライの胸元に縋り付く。


「あ……あ……、や…よ、あた……し……、ライを、殺さな…きゃ……」

「……十分だ。お前の方が先だが……すぐに俺も逝く」


 ライの顔が見えない。どんな顔をしているの。
  は最後に残った聴覚を総動員して、聞き取りにくくなっていくライの声を必死に捉えた。


「あ……や…っ、ライ……ひとりに……したくな……、っ――」

「……しない。お前ひとりでは、逝かせられんな。どこで…そそのかされるか……分かったもんじゃない…」

「……バ……ヵ……、……ぁ―――」


 フッと の指が力を失う。崩れ落ちる身体を寸でのところで抱きかかえ、ライも に重なるように倒れ込んだ。
 口元にわずかな笑みが浮かぶ。金糸を抱きしめ、ライは一度たりと信じた事のない神に向かって感謝を捧げた。



 ……神よ、感謝する。最期の時を――愛した猫と過ごせた事を。













その鏡面のような名もない湖には、伝説がある。
それはこの世界が祇沙と呼ばれていた頃の、誰も知らない昔話。





その湖には、むやみに立ち入ってはいけない。

哀しい恋猫たちの眠りを妨げてはならない。

銀の湖面に金の月の光が降り注ぐとき、その猫たちは森で逢瀬を果たすのだから。









END







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