14、共鳴
「ア――ッ! う、ああ……ッ!!」
「貴様……ッ!!」
高く長く悲痛な悲鳴を漏らして、
が岩壁に打ち付けられる。白い手のひらを醜悪な緑の刃が貫くと、鮮血が噴き出した。
は身を強張らせて絶叫すると、次の瞬間ガクリと項垂れた。
ライが叫んでいる……だけど、頭がガンガンとうるさくて聞こえない。 痛いというよりも、熱かった。灼熱が手に宿ったようだ。
ボロボロと涙が零れる。開きっぱなしの口からはただ、掠れた呻きが漏れた。 足場を失った身体を動かそうとすると、激痛が脳天まで突き抜けた。
はもうどうする事もできずにそろそろと視線だけを動かすと、フラウドに対峙するライを見遣った。
「ああ……いい声だったね。高くて甘くて……デザートみたいだよ。いや、甘い食前酒かな? 彼女にはあそこで見ていてもらおうね」
「貴様……よくも――!」
うっとりとした声で語る竜を、ライが射殺しそうな目で睨む。フラウドは
を打ち付けた鎌はそのままに、あっさりとそれを己の身体から引き千切るとクククと笑みを漏らした。
「でも、いい声だったけど……水を差されるのは好きじゃあないな。今だけは――塞いでしまおう」
「……ッ!」
スッと下がった声音に背筋が凍る。
がハッと顔を上げると、今度は緑の突風が
に向かってきた。
「――やめろ!!」
「イヤだよ」
……死ぬ、と思った。誇張でなく、心の底から。圧倒的な衝撃を予期して思わず目を瞑った
は、だが命を奪われる事はなかった。――しかし。
「!! ――ッカ、は……っ!」
真綿で首を絞められるような感覚。一瞬何が起こったのか分からず、
は疑問の声を発しようとした。けれどそうするたびに、無理な圧迫で喉が軋むように痛んだ。 呼吸だけはかろうじて許され、ハッ、ハッと浅く短い嗚咽を
は繰り返す。
「貴様――何をした!」
「声を封じただけだよ。もっとも、無理に喋ろうとしたら喉を痛めるだろうけどね。……歌うのなんて、もってのほかだ」
「……ッ!!」
ライが静かに激怒する。
は涙に滲む目で、ライをまっすぐに見下ろした。
「……っ、ラ……、や……」
「ホラ、愛しい子が何か必死に訴えてるよ? 助けたいなら、僕を倒さないと。――そこの剣を取って振りかざせば、僕らは今すぐあの日に戻れるよ! あの最高の日に!!」
「――殺す……!」
ライが躊躇なく錆び付いた剣に手を掛ける。そんな剣でまともに闘える訳がないのに…! 突き刺さった刃を引き抜くと、ライは今までの激怒の顔をスッと掻き消し――口元に愉悦の笑みを浮かべた。
(ライ! 駄目――!! 引きずられないで!)
が胸中で叫ぶ。だがその願いも虚しく、狂気の剣戟は始まってしまった。
「ラ……、――って、もど……て……!」
「ほらほらほら!! まだ解放されてないんじゃないかい!? もっと本能と衝動に任せてごらんよ! 君の力はそんなものじゃないだろう!」
愉悦が止まらない。狂気が止まらない。
の目下で、激しい攻撃の応酬が繰り広げられた。 硬い殻と金属のぶつかる共鳴音。魔物が哄笑し、絶叫する不快な声。
の掠れた声は掻き消され、ライまでは届かない。
――いや、それとも聞く側にもうその気がないからだろうか。 ライは爛々と笑っていた。一太刀を浴びせるごとに薄青の瞳が狂気を宿し、一太刀を浴びるごとに鮮血が歓喜を告げるように飛び散った。
は目を見開き、食い入るようにその闘いを見つめていた。
もう、呑み込まれてしまったの? もう、戻ることはできないの? もう、アンタが私を見ることはないの……?
――連れて行ってしまう、暗く遠い場所まで。黒い竜が、白い猫を――!
「……だ、や……め……、――イ…ッ」
絶望が胸を灼く。
は自由にならない喉を動かして、必死で呼び掛けた。
――連れて行かないで。呑み込まれないで。こっちを見て……!
「……ッグ、ふ……っ」
「……!」
だが
は、ライの呻き声を聞いてハッと我に返った。 左腿を押さえたライが、息も荒く竜を睨み付けている。その目はやはり異様な狂気を宿してはいたが、いつしかその身体は血まみれになっていた。そしてフラウドも。 ……互いに徐々に消耗してきているのは、明らかだった。
(何を……やってるの――。祈るだけなんて、何もしないのと同じじゃない!)
わずかな剣戟の合間に、
は唇を噛んだ。
――何のために、ここまで付いてきたのだ。祈るため? 縋るため? 助けを求めるため? ……違う。共に闘うためだ。そして万一の時は、最愛の猫の命を奪うために。
けれど剣を握るべき
の手は、今は深々と縫い止められている。ならば今自分に出来ることなんて、一つしかない。
(歌を――)
……歌う。そう決意した瞬間に、しかし同時に迷いが生まれた。 今のライに、歌を送って良いのだろうか――?
まともな声が出せなくても、いつぞやのように思念を送ればおそらく力は届くだろう。 けれど、それでライの狂気を増幅させてはしまわないだろうか……?
(でも……迷ってる時間はない……!)
は腹に力を込めると、あの日空き地でうたった歌を強く想い描いた。
・喉が潰れてもいい。声に出して歌う
・力を全て想いに。強い思念を届ける
【喉が潰れてもいい。声に出して歌う】
「……ッ! ……ライ――ッ!」
「!!」
「何…!? まさか――」
は自由にならない喉で精一杯空気を吸うと、絶叫した。 喉で押し潰された声は奇妙に歪み、掠れていた。しかし悲痛な叫びはライの手元を一瞬だけ狂わせた。
一撃を決めそこね、剣が滑る。すると高い音を立ててライが振るっていた錆びた剣が……過去の残像が、折れて地面に突き刺さった。 ライがハッとして手元の剣を見つめる。その一瞬だけ、狂気の衝動が弱まった。
(今しかない……!)
は再び喉に力を込めると、震える声で旋律を紡ぎ始めた。 弱々しい紅い光が生まれてライに降り注ぎ始める。その朱が触れた瞬間、ライはハッとして
を振り仰いだ。
「お前……ッ、喉が……! やめろ!」
錆びた剣をかなぐり捨てて、ライが叫ぶ。その視線には既に狂気の影は見当たらなかった。なんの未練もなく過去を手放したライに、
はうっすらと眼差しだけで笑った。
「だれ、が……。……れより……アン、タのけん――れじゃ、ない……しょ……」
「……ッ」
ライが瞠目し、打ち捨てた剣を見つめる。そして己の身体に視線を戻すと、ライは今まで忘れていたかのような長剣と短剣を引き抜いた。
「そうだ……。もう、あれは俺の剣じゃない。貴様を倒すのは――この剣だ。馬鹿猫どもの歌が宿るのは、手に馴染んだ二本だけで充分だ」
ライが
に背を向ける。だがその低い声は濁りなく
の心に届き、
は血の気の失せた唇でかすかに笑った。 震えるその唇で息を吸い、腹の底から歌を搾り出す。徐々に濃さと輝きを増したその光がライに降り注ぎ、手にした双剣を赤く染め上げていった。
「それは……温かいものを他に見つけたって事かい? ――でもそれじゃあ困るんだよ! 君にはもっと相応しい温もりがあるだろう! 狂気と血にまみれた愉悦がさあぁぁ!!!」
休止を切り上げて、フラウドが威嚇するように叫ぶ。怒りと狂気に染まった絶叫は、そのまま
への攻撃に転じた。
「僕たちの愉しみを邪魔するなぁぁァ――ッ!!」
「……ッ!」
緑の刃が再び
に向かう。
は目を見開いたが、歌を止める事はなかった。 どうせ逃げようもないのだ。ならば一秒でも早く、一分でも長くライに歌を届けたい。
だがその攻撃が、
のもとまで届く事はなかった。ライが長剣で鎌を叩き付けたのだ。ライは身体を翻し、次なる攻撃を受け止める。
は歯を食い縛ると、言霊を吐き出すように声を張り上げた。
「――ッ! ……っ!!」
口内に血の味が広がる。どこかが切れたのかもしれない。内から溢れ出す歌に引かれるように身を乗り出すと、貫かれたままの手が裂けて新たな血が溢れ出した。 痛みが全身を突き抜けたが、それすらも歌に乗せる力へと変えて。
はライに歌を送り続けた。
灼熱に染まった斬撃が竜の身体を灼いていく。ライはフラウドの懐に飛び込むと、その喉元へ真下から切っ先を突き上げた。 下顎から縫い止められ、深く開いた傷口が発火する。巻き上がった炎に包まれたフラウドの眉間に、ライは更に短剣を叩き付けて一瞬で引き抜いた。
(仕留めた……!)
勝敗は決した。最後の空気を吐ききって歌を終えた
は、脱力感を感じてフッと眩暈を起こした。 ――駄目だ。気を失っている場合じゃない。最期まで見届けないと。
は頭を振ると、目下で魔物の命が絶たれていく瞬間を瞬きもせずに見つめた。
フラウドが絶叫もできずに激しくもがく。危うく炎に呑み込まれそうになったライは一歩飛び退いて、竜の絶命する様を見遣った。 轟音を上げて、真紅の炎がフラウドだけを舐め尽していく。その劫火の中でふいにピタリと動きを止めたフラウドは、勝ち誇るように狂った笑いを漏らした。
「はは……フハハハハ……!! この炎、この痛み……! これを僕は求めていたんだ! 最高だよ!! さあ臓腑を焼いて、骨すら残さずに呑み込んでくれ! 最高に甘美な死が、僕を待っている……!」
フラウドは焼かれながら、最期の雄叫びのようにライに呼び掛ける。ライはそれに激昂することもまして同調する事もなく、静かにその様を傍観していた。
「この時を、ずっと待っていた……。ライ、君にもこの悦びが分かるといいね……。向こうで、僕は先に、待ってるよ……」
ゴウ、と炎が赤から白に変わり、巨大な黒い影が縮んでいく。そして轟音を立ててそれが崩れた瞬間、炎は勢いを失ったかのように急速に小さくなっていった。 『二度と会うことなどない』とライが呟いた気がした。それを最後に、
の意識は限界を迎えてふつりと途絶えた。
最後の熾火のようだった炎が、焼くべきものを失って消えていく。その瞬間
を貫いていた緑の刃もフッと消え失せ、力を失った雌猫の身体が中空に投げ出された。
「……ッ!」
間一髪、地面に激突する寸前でライが
の身体を抱き止める。深手を追った身体にそれはかなりの衝撃だったが、落とす訳には行かなかった。
ぐったりとした
の顔はハッとするほど青白い。刃の抜けたばかりの両手の傷からは、新たな鮮血が溢れ始めていた。 沸き上がった激情に駆られて頬をはたく。すると、
は眉を歪めてうっすらと目を開いた。
「この……阿呆猫が!! 考えなしもいい加減にしろ!」
「……ラ、イ……」
一瞬だけ落ちていた
が目を開けると、ライの激怒した顔が目前にあってギョッとした。だが
が起き上がるよりも早く、ライはコートの裾を引き千切ると
の手を手早く止血していった。
「……ッう、ア……!! アアーッ!!」
忘れていた激痛に
が強く顔を歪める。しかしライは暴れる
を押さえ付けると、両の手をグルグルと巻いてしまった。 脳天を突く刺激がやみ、
は震える息を吐き出すとよろよろと立ち上がった。ライを見上げる。
「ありが、と……」
声が掠れる。フラウドによる圧迫が止んだとはいえ、傷付いた喉はそのままだ。ただ一言を発しただけで、灼かれるような痛みが
を苛んだ。 ライはそんな
から視線を逸らすと、洞窟の奥に……魔物が焼き尽くされた跡に、身体を向けた。
もつられてそちらを見る。
「……何も……残らないのね……」
そこには、骨はおろか灰すらも残っていなかった。 最初から何もなかったかのようなその場所には、ただ奥にポッカリと映像を映す空間だけが残っている。
はなんとも言えぬ虚無感を味わった。
暗闇の中にはやはりコノエが映っていた。だが、どこかに場所を移動したようだ。 先程よりもその顔は力を失い、絶望と諦観に覆われている。……一体何があったのか。
今すぐに行かなければ。
が見上げると、ライは足早に歩き出して焼け跡の地面に突き刺さっていた長剣を引き抜いた。……だが。
「……! 剣が――」
「……チッ。使い物にならんな」
引き抜いた瞬間、あの鈍く輝いていた剣がボロリと折れ、地面に当たって砕け散った。斬撃で傷付いた上に猛火で焼かれ、強度を保てなかったのだろう。 その原因の一端を自分の歌が作った事に申し訳なさを抱いた
は、異空間に向かおうとするライの背中を呆然と見遣った。短剣だけで、リークスに立ち向かえる訳がない。
「……何をしている。置いていくぞ」
「え? ……ああ、ええ――」
振り返ったライが苛立たしげに告げる。てっきりまた『来るな』と思われているのかと考えていた
は、ハッとしたように頷いた。
「どうせ来るなと言っても付いてくるんだろう? ……こんな場所に残っていても、魔力を嗅ぎつけたリークスの手下どもに襲われるのがオチだぞ。……歌わなくてもいい。共にいろ」
「…………」
前を向いたライが口早に話す。さり気なく告げられた言葉に胸が詰まった
は、それでもその場から動けなかった。 足元に落ちた自分の剣を見下ろし、決意を込めてライの背中に告げる。
「私の剣――使って」
「……何?」
ライが振り返る。
はライを見上げると、その剣を取るように促した。今の
にはそれを拾う事すらできない。ならば、少しでも有効な使い方をした方がいい。
「だがこれはお前の――」
「…………」
戸惑うように呟くライを、首を振って
は制した。正直、喉が痛くて今は温存していたい。
がじっと意思を宿した眼差しで見つめると、ライは
の元に歩み寄って剣を拾い上げた。 感触を確かめるように数度振ると、再び異空間に向かって歩き始める。
もその背を、今度は迷いなく追っていった。
(その剣が、どうかアンタを護ってくれますように――)
【力を全て想いに。強い思念を届ける】
(ライ……! 受け取って――!!)
は次の瞬間、身体の中に溜め込んだ爆発するような炎を解放した。口は開かず目も閉じたまま、白い光の塊へと歌を届ける。 揺らめく朱色の光がライに届いた。その瞬間ライが小さく笑んだのが
に伝わってきた。そしてその直後、ライは速度と力を増してフラウドの元へ飛び込んだ。
ライと同調する。目を閉じていても、フラウドが攻撃を避けきれない事が分かった。 高揚が伝わる。憎悪が流れ込んでくる。
は指の先までライと重なって、ライに満たされている事に歓喜した。
「……ぐ、あああアアア――!!」
切っ先が竜の心臓にのめり込む。竜の撒き散らす圧倒的な殺意が絶叫と引き換えにパッと途絶え、
は目を開いた。
(やった……!)
「……くくく……」
「……ッ!?」
その低く昏い笑い声は……誰から漏れたものだったのか。
がハッと見下ろすと、刺し貫かれたフラウドの震える前足がライの顔の前に掲げられた。最後の攻撃のつもりか……!
「……っにやってんのよ! 逃げ――」
「……残念だよ。君なら乗り越えてくれると思っていたのになぁ……」
「…………」
鋭い爪がライの左目に掛かった。
が上空で叫ぶが、ライは魅入られたかのように避けようともしない。
「……最後に、君の魂を開放してあげよう。君の望む姿に、おなり……」
最期の呟きを歓喜に乗せて、爪がライの眼球にめり込んだ。 血まみれになった前足が動く。ライは叫ぶ事もなくその凶刃を受け入れた。 暗い洞窟には――ただ、
の慟哭だけが響き渡った。
「…ッ! ライ――ッ!!」
フラウドがピタリと動きを止め、前足が轟音と共に崩れ落ちた瞬間、
は突然解放された。身を貫いていた緑の刃が消失したためだ。 危うく地面に激突しかけ、ギリギリで体勢を立て直して
は着地した。だがその衝撃は傷付いた手のひらにダイレクトに響き、
はしばらくうずくまって悶絶した。
顔を上げ、ライを見る。ライもフラウドの前足の先で、力を失ったように座り込んでいた。
「ライ! 大丈――、……っ!」
が駆け寄る。だがライに届く前で、
はハッと足を止めた。ライの異変を感じ取ったからだ。
ライの耳が――ない。白い尾も。最初から何もなかったかのように、白いそれらがポッカリと消えてしまっていた。
(まさか――失躯? こんな時に……!)
動揺に再び駆け寄ろうとした
は、今度こそ凍り付いたように動けなくなった。
「……え……」
ライの耳が――生えてきた。いや、耳ではない。硬くねじれたそれは……角だ。尾も、つるりとした硬質なものに変わっていく。
「あ……、あ……っ!」
ライが立ち上がる。血を流す顔がゆっくりと振り向いた。
は両目を切り裂かれた目に――黒い『悪魔』の目に、射竦められた。
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