15、掴み取る未来






(…! コノエ……!!)

 空間を越えた直後、 は目前の光景に目を見開いた。コノエに向けて、フィリが短剣を振り翳している。
 ライが駆ける。その手は間一髪のところで、白い手から凶器を叩き落した。



「死ぬ気か? 馬鹿猫が」

 曇りのない声を掛けられたコノエは呆然として、瞬きをした後に――息を吹き返したかのように立ち上がった。立ちはだかるライと、追いついた に目を向ける。
 だが安堵したのは一瞬で、三匹は広間に響いた低い声に揃って振り向いた。


「酷いざまだな。フラウドに呑まれなかったのが意外ではあるが……少々遅かったようだな」

「…! ――リークス……?」


 声は、闇の魔術師のものだった。だが今日は仮面ではなく、素顔を晒している。その顔は――コノエと同じだった。
 息を呑んだ からコノエが苦しげに目を背ける。だがライの一言で、その緊張は跡形もなく消え失せた。


「なんの因果で同じ顔をしているかは知らんが……間抜けな面を晒すのは、俺の賛牙ひとりで十分だ。全く、おちおち放っていく事もできんな」

「な――」

「………ッ、ク……す、素直じゃない……」


 あまりな言葉にコノエは絶句し、 は小さく吹き出した。本当に……素直じゃない。
 『心配していた』なんて絶対に言わないところが、なんともこの猫らしい。だがすました顔の裏にある真意にぐらい、もうとっくに もコノエも気付けるようになっているのだ。全く本当に、
愛しい猫だ。

 リークスがなぜコノエと同じ顔をしているのかは分からない。
 薄々感付いていたように、おそらく何らかの強い繋がりがあるのだろう。けれど――『コノエ』はここにいるただ一匹だ。他の何者も代わる事はできない。今この世界に存在しているのは彼だ。

 だったらもう、それでいいじゃないかと は思った。ここにいる事……それだけが にとっての真実だ。


 コノエとリークスが問答を繰り返す。厳しい声で答えるコノエに耳を傾けていた は、突然リークスの矛先がライに向けられて眉をひそめた。

「そこまで言うのなら試してやろう。心、絆……そんなものが、本当にあるのかどうか」

 低い呟きの後――耳に響いた美しい歌に、 は総毛立った。





「何、これ……っ……」

 頭の中を侵すように、邪悪な歌が精神を掻き乱す。だが やコノエよりも、ライの方がよほど歌が効いているようだ。右目の眼帯を押さえ、苦悶の声を上げている。
 すると突然広間が白い光に覆われて、 は一瞬視界を失った。



「――! ……ふたりに、何をしたの……っ!」

 目を開き、 は目前の光景に声を詰まらせた。ライとコノエが目を見開いたまま、固まっているのだ。……まるで、ふたりの周りだけ時間が止まってしまったかのように。
 瞑想するように目を閉じたリークスに向かって は叫んだ。リークスが一瞬だけ に視線をやり、再び瞳を閉ざす。


『何か……? まるで罪悪のように言われるのは心外だな。彼らは今、狂気の芽生え始めた頃の白猫の過去を見ているのだ』

「………。なんですって……?」

 頭の中に、直接リークスの声が響いた。 は眉を寄せ、疑問の声を投げ掛けた。


『まあ待て。別に過去を悔やませようと思っての事ではない。むしろ――忌まわしき過去を消し去り、輝かしい未来……いや現在を選択してもらうために、特別に思い出させてやっているのだよ』

「……? どういう意味――」


 リークスの言い分は、こうだ。狂気と殺戮に満ちているライの過去をやり直す…新たな生を歩ませる事が、自分にはできる。コノエを助けるために結んだ、闇を貰い受けるという契約も破棄して。
 だがその代償として失うのは、今の時間。……つまり、 やコノエと出会い過ごしたという事実だ、と。

  はその正気の沙汰ではないが魅力的ではある取引内容を、意外に冷静な気持ちで聞いていた。ライがそれに応じるとも思えないが、聴くだけの価値はあると思ったのだ。
 だが魔術師の話が終わると、 は醒めた目でリークスを睨み付けた。


「……ライは、そんな取引には応じないわ」

『……ほう? 随分と、自分の存在価値に自信があるようだな』

「違う。……そんな事をして過去をやり直しても、『ライ』が生きてはいられない事をアイツは知ってるからよ。……過去の自分を否定した瞬間に今の『ライ』は死ぬわ。自分を殺してまで生き長らえたいと思うような、そんな弱い猫じゃない。ライは!」

 
 ――信じている。過去を悔いても、己を憎んでも……今ある危機や絆を捨て去り、最初から全てなかった事にしてしまうような選択を採る猫ではないと。
  は叫んだ。その答えを反芻し、リークスは分からないとでも言うかのように首を振った。


『だが、お前にとってはその方が都合が良いのではないか? ただの雄と雌として出会い、暴力を振るわれる事も犯される事も殺される恐怖に怯える事もなく……穏やかな関係を築けるかもしれない』

 それはあくまでも――自分に都合のいい妄想だ。 は眉を歪めると鼻で笑った。

「ハッ……それは無理ね。アイツがああじゃなければ、私は今頃こんな場所に突っ立ってたりしなかったでしょうよ。それに今だってただの雄と雌に変わりないわ。……仮定なんて無意味だわ。私は今のライを、ありのままに受け入れるだけ」


  は淡々と告げた。言葉を紡げば紡ぐほど、己の中の迷いが解けていくのが分かる。
 ――そう。ライが今のライでなければ、 はきっとライと出会う事もなかっただろう。お互いの過去があったからこそ はライと会い、ライを知ってその内側に……触れる事ができた。

  の透徹とした眼差しに、リークスは目を閉じたまま口端を引き上げた。


『そう言って…本当にこの猫が闇に呑まれた時も、同じ台詞を逃げ出さずに吐く事ができるかな……?』


 その言葉に、 は己の覚悟がとうに固まっていた事をはっきりと実感した。
 一度だけ目を閉じると、 は射抜くような眼差しでリークスを見据えた。


「見くびらないでよ。闇に食い荒らされたその時に、私がすべき事なんてもうとっくに決まってんのよ。腹くくってんのよ。……怪我なんてどうでもいい。血が欲しいって言うなら捧げてもいい。私はもうそんな事に……恐れなんて感じていない」




 白い光の中で足を踏みしめ、昂然と顔を上げる雌猫にリークスは苛立つ反面どこか高揚するものを感じていた。
 金糸が煽られても緑の瞳は揺らぎがない。……美しいと、珍しく素直にそう思った。


「……そうか。――聞こえたか? ライ。この雌の覚悟はお前の答えと同じようだぞ。……ならば契約の履行といこうか。その心の闇を、貰い受ける」

 そう言ってリークスは、白猫に歌を突きつけた。




 邪悪で美しい歌が聞こえた。それはライへと流れ、その青い瞳を暴力的に染め上げた。

「ライ! しっかりしろよ……どうしたんだよ!」

 コノエが叫ぶ。次の瞬間、開かれた隻眼のどこにも青の光がない事を認めても、 はもう驚かなかった。



「……ライ……」

 ――恐れはない。ただ、とうとうその時が来たのだと思った。
 ライが哂う。剥き出しにされた爪を、あやまたずコノエと に向けて振り払った。それを飛び退いて避け、 はライを静かに見遣った。


「見ろ、あの愉しそうな姿を。猫をしての葛藤を捨てて欲望に順じれば、これほどに純粋な力を得る事ができるのだ……!」

 リークスが愉しげに哂う。 はそちらを振り向かないまま、ライを何とか止めようとするコノエを制して告げた。

「コノエ、待って。――ここは、私がやる」





 ――約束した。狂気に呑まれても共にいると。そして、ライを殺すのだと。
 この場に居合わせられたのが幸運だと、 は思う。『ライ』の最期に側にいられた。それだけで十分だ。

 コノエにさせる訳にはいかなかった。それは何も自分の歪んだ切望のためだけではない。
 迷いがあれば仕留め損ねるし、何よりそんな暗い罪をコノエが背負う事もない。堕ちるのは……自分だけで沢山だ。


 惑うコノエを脅して手首に固く巻きつけさせたのは、ライが『一応護身用に』と交換してくれた短剣だ。
 ライは の剣を構えている。互いの剣で殺し合うとは、なんとも皮肉な巡り合わせだ。……だが、それもいいと思った。



「……コノエ、ありがとう。絶対に運命に打ち勝ってね」

「……ッ。何するつもりなんだ、アンタ……。――ッ! やめろ、何考えてるんだ!」

 コノエの叫びを振り払う。その声に申し訳なさを感じながらも、 は身を翻しライの懐へと真っ直ぐに飛び込んだ。


「……やめろ――ッ!!」


 
 






 ――何が起こったのか、分からなかった。コノエの叫びの中、 はライの懐に切り込んだ。
 ライの構えた の剣が身を貫く。それと同時に、ライの剣で もライを貫いたはずだった。――しかし。

 突如沸き起こった真っ白な光に、ライも もリークスも……その場の全てが包まれて、押し流された。そして は数分の後に――


「……本当にお前は馬鹿で阿呆で向こう見ずで……どうしようもない――」

 貴い声の、呆れたような呟きに覚醒を促された。





「シュイめ……、余計な悪あがきを」

「……な、に……? ――ッ! ……ライ……」

 リークスの憎々しげな声が聞こえた。二つの声に目を開けると、 はなぜか逞しい腕の中にいた。……ライだ。
 すぐに解放されて立たされる。その青の目には、澄んだ光が戻っていた。


「お前の腕と、あいつの声か……。もう駄目だと思ったんだがな」

 ライの目がコノエを捉える。『ライ』の存在に目を丸くしていた は、その胸に傷がない事と、自分の手の傷までもが塞がっている事に気付き、絶句した。どういう事だ……!?

 だが深く考えている暇はなかった。リークスがフィリに『歌え』と命じ、闘いの幕を切って落とした事で もまた闘いの中へと突入していった。




 最後の闘いは、どこで命を落としてもおかしくないほど激しいものとなった。
 既に爆死したフィリの亡骸からおびただしい量の黒霧が溢れ、猫たちを威嚇する。だがその中で突然コノエから清浄な白い光が放たれて、 は目を見開いた。

 それは――歌。まばゆいばかりの光の奔流に、 はふと心が軽くなるのを感じた。
 押し流されるように口を開く。コノエの旋律を支えるように、 は完全には傷の癒えない喉で歌を絡め始めた。




 ――ライ。私、怖くはないよ。
 もしここで共に命を落とすのだとしても、私に恐れはない。悔いもない。



  は一心に歌いながら、白猫の後姿を見つめ続けた。声は掠れ、わずかに癒された喉が再び傷付いていく。それでも歌を……想いを、途切れさせる事はなかった。


 叶うなら、この先も共に生きたいと思う。たとえアンタの心の闇が消えなくても構わない。私が生涯をかけて薄くしていってみせる。けど――
 私は私の思うままに、生きた。アンタと出会い、アンタを愛して……アンタと共に、闘った。思い残す事はない。だからこの闘いに、全ての力を捧げる――!


 
の剣を構えたライに、薄紅の光が降り注ぐ。強い視線にライは一瞬だけ振り返り、苦笑を浮かべた。

「力を出すのはいいが……少しは俺のために残しておけ。あいつに全てくれてやるのは気に食わない。お前は――俺のものだ」


 ライは剣を突き出すと、一直線にリークスへと向かっていった。







 ――苦しい、苦しい。 は身を苛む苦痛に歯を食い縛った。
 視界が紅く染まる。口から血が溢れて落ちた時には、なぜか笑ってしまった。
 ライは透明な壁に剣を突き立てている。その苦悶がこちらにも伝わってきたが、 は喉を休めることなく歌い続けた。


「……消え失せろ――!!」

 その言葉を合図に、灼熱に染まった剣は壁を突き破り――リークスの胸元を、一息に貫いた。









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 ――全て、終わった。 は頬を照らす月の光に目覚め、草むらで座り込んでいた。

 目覚めた直後に何やらまたも白い光が炸裂して、次の瞬間には死にそうだった痛みが遠のいていた。疲労はあるし血の気もないし、完璧に治った訳ではないが何とか生きてはいる。これからもそれなりに生きていけそうな感じだ。

 奇跡のような出来事に呆然としていた はその時、少し離れた場所に倒れているライに気付いて目を見開いた。……ぴくりとも動かない。
 だが傍らのコノエが動いたため、 はまずコノエを覗き込んだ。


「コノエ……大丈夫?」

「ああ……。アンタも、大丈夫そうだな。――ライは……?」

「あそこに――」


 コノエは何とか大丈夫そうだ。 はふらつく足で立ち上がると、ライの元へと歩いた。
 近付くうちに胸が不穏な鼓動を刻み始める。――ライが、目を覚まさない。
  は地面にひざまずくと、ライの白い頬に手を当てた。


「……ライ……?」

 ――冷たい。 はぎくりと手を引きかけたが、思い止まってその頬をペチペチと叩いた。


「ライ……? 目を、覚ましてよ……。もう大丈夫だよ……?」

 それでもライは起きない。 は腕に力を込めると、より強くその頬を引っぱたいた。


「――ッ、ライ……! 起きなさいよ……ッ!!」

「――おい。……痛いぞ、阿呆猫」

「!!」


 ……その瞬間の感情を、なんと表現すれば良いのだろう。
 バチンといい音がした直後、 の手首はがしりと掴まれた。……力強い、雄猫の手に。
 両手を拘束され、その力の主が反動で起き上がる。 と視線を合わせたライは、ものすごく嫌そうに眉を歪ませた。


「……お前、何故また泣いている。泣きたいのはむしろ俺の方だと思うが」

「――泣いてないわよっ! ア、ア、アンタねぇ…っ、まぎらわしいのよ馬鹿……! 死んだかと……ひとりで逝かせたかと、思って……ッ……」


 蒼白い頬にわずかな手跡が浮かんでいる。憮然としたライの左目には、 のボロボロに泣き濡れた顔が映っていた。


「ほーう……随分な言い草だな。そうか、これはお前の汗か? 後から後から溢れてくるものだな」

「……ッ、知らない……!」

「――阿呆猫が。ひとりで逝く訳がないだろう。……馬鹿猫に阿呆猫に駄目猫。先が思いやられる猫が、俺の周りにはうようよいるからな。中でも阿呆猫は、手を離すとどこの雄になびくか分かったもんじゃない」

「……何…言って………。――ッ…バカぁ……ッ」





 ――闘いは、終わったのだ。本当にこれで、全て……!
  は涙に滲む瞳で、最愛の闘牙に向けて苦笑を浮かべた。




 
 耳の色の戻ったコノエが駆け寄ってくる。すると突然、ライが顔を寄せてきた。
 頬に流れた水滴を舐められた は、耳に吹き込まれた大人げない言葉に目を見開き、ゴシゴシと顔を擦ったのだった。


「そんな顔を他の雄に晒すな。……お前のどんな表情も――見るのは、俺だけでいい」





 













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