『ライ。……私、鳥唄に帰りたい。一緒に来てくれる…?』


 そう が告げたのは、あの闘いが終わってから初めての繰春を二匹で屋根から眺めていた時のことだった。

 ――来るべき時がきた、と思った。白猫は目を閉じ、金の雌との別離を静かに覚悟した。







最終章  魂、重ねて






 炎の燃え盛る窯の前で、金髪の猫が一心に槌を振るう。その後姿を眺めながら、ライはこれまでの自分たちについてを考えていた。


 あの決戦の後、ライとコノエと は荒れ果てた藍閃に帰り着き、身体を癒しながら不本意ではあるが宿の修繕を手伝ったりしていた。

 コノエはそのまま宿に従業員として残る事になった。あの親父の元にいると思うと癪だが、コノエが決めた事だからライに異論はなかった。
 ちなみに黒猫は祇沙を巡る旅に出たらしい。『いつか吉良に帰れる日が来るといい』と言っていたと が話していたが、ライにとってはさして重要でもない話だった。


 自室が使えなくなった はライの部屋へと身を寄せた。それをライは自然と受け入れた。
 最初はぎこちなく、次第にごく当然のように が側にいる事が当たり前になっていった。
 馴染み始めた互いの気配を『なんだか恥ずかしい』と笑った猫は、ライの心を乱しもしたがそれ以上に安堵を与えてくれた。

 ふたりはいくつかの夜を、共に過ごした。重ね合わせた肌は温かく、いまだ慣れる事のない雌猫の言動はライを幾度も楽しませた。
 ……満たされていた。それと同時に溺れていた、とも思う。


 けれど熱を分かち合うよりも多くの回数、ライは狂気に翻弄された。


 闘いを経て、衝動が出現する頻度はそれ以前に比べると激減した。欲望を自身で押さえ込めるようになったというのもあるが、何より の存在が大きいとライは思っていた。
 狂気に覆われそうになると、雌猫の真っ直ぐな眼差しに引き止められた。『ここにいて』『大丈夫』――そう告げる手に瞳に唇に、何度となく現実へと引き戻された。

 しかしそれでも、抗えない衝動の波に覆い尽くされる夜もあった。


 目覚めた時に待っていたのは、頬を赤く腫らした 。首に指跡を付けた 。無残に衣服を剥かれ――陵辱された
 痛めつけられた雌猫の姿は、ライを心の底から打ちのめした。

 衝動から醒めると、 は少しだけ困ったように笑ってライを抱きしめた。抱きしめる力は強く揺るぎがなかった。傷付けられてもなお、雌猫はライから距離を置こうとはしなかった。

 それでもそんな夜を繰り返した果てに、ライは から離れる決意をした。


 
 このまま共にいれば、自分は際限なく を襲い続けるかもしれない。
 そしていつかこの手で、命を奪う日が来るかもしれない。

 仮定に怯えるのは愚かな事だと思っていた。想像に怯えて動けなくなるのなど、愚かな猫のする事だと。
 闘いを経て自身の内に巣食う闇は小さくなったと思った。実際に衝動の頻度も減っている。


 それでもライは、恐ろしかった。
  をこの手で殺す事が。 をいつか喪う事が。

 それならば――今のうちに離れておくべきだと思った。永遠に を喪う前に。



 だが結局のところ、別れを切り出したのは の方だった。口にする事ができなかったのは己の弱さゆえか。
 少し目を細めて決意を口にした に、ライは黙って頷く事しかできなかった。









 虚ろが消えた、薄紅の花びらの舞う森を七日月ほど歩き続け、辿り着いたのは中規模の集落だった。……鳥唄だ。
 入り口に立った が緊張した面持ちで足を踏み出す。それに従い、ライも村へと分け入った。


 村は虚ろの被害を免れたようだ。穏やかな空気の流れる集落をしばらく進むと、屋外に出ていた雄猫がふと足を止めた。 がわずかに身を竦める。

「お前…… か…? 今までどこに行ってたんだよ……!」

 駆け寄って来た雄猫は困惑した顔でライを見遣り、 の不在を詰った。声高に罵らないだけまだマシな方なのかもしれないが、ライの不興を煽るには十分な態度だった。
 しつこく追求する雄猫に冷えた一瞥を喰らわせると、猫は急におとなしくなり後ずさった。そんな事を繰り返し、二匹は の家へと辿り着いた。


 がらんとした家に入ると は大きく息を吸った。そして手招きしてライを招き入れた。

「泊まってって。……最後に、アンタの剣を鍛えたいの」

 その言葉に、すぐに立ち去ろうとしていたライは引き止められたのだった。

 
 フラウドとの闘いで失った長剣の代わりは、荒れ果てた藍閃ではなかなか手に入らなかった。
 取りあえず目的に足るだけの代用品を携えてはいるが、これから各地の武器屋をあたってまともな剣を手に入れるつもりでいた。

 いつかライの剣を鍛えたいと、あの夜 は言っていた。それがこんな形で叶うとは思わなかったが、ライはその申し出を受ける事にした。
 最後くらい、この猫の望みを叶えてやりたいと思った。


 


 +++++   +++++





 それから は剣を鍛え続けた。どこからか道具を持ち出し、窯に火を入れ、鉄を溶かし槌を振るう。赤々と燃える炎の前で生まれては消えていく火花を、ライは飽きもせずに見つめていた。

 時折鳥唄の猫が の様子を見にやってきたが、明らかに 目当ての雄は睨みを効かせて追い返した。……やはり、まだ雌にとっては生きづらい村のようだ。一応忠告を与えておこうとライは思った。


 この剣が出来たら、また賞金稼ぎの仕事に戻る。そこに が伴う事はない。……そう決めた。
  が打った剣を携えて生きる。それだけでも、自分には過ぎた幸福だと思った。


 昼間は剣を鍛える も、夜になればライに寄り添い穏やかな表情でこの村での思い出などを語った。触れる指先は甘く、誘惑に駆られたがライは自分からは決して に触れなかった。それは別れを決意した時に決めた事だった。
 一度でも抱いたら――離れられなくなる。

 そんな穏やかながらもどこかよそよそしい日々が続いた末、七日月目の満月の夜に はライを呼び出した。




「できた……! お待たせ。――あ、ちょっとやりたい事があるのよね。……そこに座って。できるだけ偉そうに」

「……?」

 告げられた言葉は意味が分からなかった。出来上がったならさっさと渡せば良いものを、 はもったいぶって剣を抱え込むとライに床を指し示した。しぶしぶそれに従う。
  はライから一歩離れた所に片膝をつくと、照れたように笑った。

「あのね、昔から大事な猫に剣を捧げる時にする儀式みたいなものがあってね……。ちょっと恥ずかしいんだけど、それをやりたいの。実は初めてなんだけど」

 そう言った は次に真顔になり、丁寧に拵えられた鞘を静かに取り払った。
 ランプの揺れる光よりもなお強い月光の下で、鍛え上げられた抜き身の長剣が露わになる。その輝きにライは息を呑んだ。


 それはかつての長剣をベースにした、しかし全く新しい剣だった。
 ライの使いやすいようにと同じ形を取ってはいるが、所々に の剣と同じ意匠が使われている。それはライの剣であり、同時に の剣でもあった。

 両手で剣を捧げ持った の頭が沈んでいく。月光に照らされた一振りの剣と雌猫の姿は、まるで一枚の絵のようだ。そんなガラでもない事を思う。
 金糸が下がり完全に顔が伏せられると、 は低く口上を述べ始めた。




 ――これは我の力の結晶にして我の魂。

 汝が闘う時も、汝が癒える時も、汝が苦難にある時も、汝が幸福である時も、常に傍らに置き続ける事を汝、誓いたまえ。

 さすれば我は我のすべてを持って、いつ如何なる時も我の力・心・体、全てを汝に捧げん。

 この剣、我の魂と思いたまえ。




 金糸がゆっくりと上がっていく。顔を上げた は、静かな瞳で真っ直ぐにライを射抜いた。

「これが、私が鍛える最後の剣よ。この剣は私の分身だけど、私はそれだけじゃ満足しない。剣だけじゃなくて……私を一緒に連れて行って」

「……っ」


 ――緑の光に射抜かれる。声を失ったライは剣を取る事もできずに呆然と を見遣った。

「ここで、別れようとしてたでしょ。でも、アンタが納得してても私はそんなこと全然考えてないんだから。……あの時の誓いは、今でも変わってないわ。アンタを止めるのは私だけ。他の誰にも渡さない」

 剣を掲げた がライを見つめる。『共に行きたい』と言われているのに、傍から見れば脅迫されているようだとライは頭の隅で思った。
 そんな事で冷静さを取り戻し、 の瞳を見つめ返す。


「……お前には、賞金稼ぎなど似合わない。闘いの中に生きる猫ではないはずだ」

「そうかしら。私は結構似合ってると思うけど。……どっちにしてもそれは私が後から思う事で、アンタが決める事じゃないわ」

「…………。鍛冶はどうする? ここまで積み上げた技術をみすみす捨てるのか」

「捨てないわ。いつか闘えなくなった時にまた戻る事もあるかもしれない。……けど、それは今じゃなくていい。一番作りたかったものを…アンタの剣を打つ事ができたから、私にはもう悔いはない」

 
  の答えは澱みない。言葉に詰まったライは眉を寄せた。――決心が揺らぐ。


「……俺はお前が血に濡れるさまを、見たくはない」

「私としてもあまり怪我はしたくないところだけど、そんな事になる前にアンタが守ってくれるんでしょう? でも、アンタを守って流れる血なら私は構わないわ。それでアンタを守れるのなら」

「……っ、馬鹿かお前は……! なぜそんな事を――」

「――言えるわ。アンタのために流す血なら、私はちっとも惜しくない。それがアンタの心の闇によるものでも……! アンタを絶対ひとりにはしない。私は私に誓ったわ!」

 
  が強く言い切り、鋭い眼光でライを射抜く。 は一度剣を掲げ直すと、挑むようにライを見上げた。


「細かい事を悩むのは後でいいわ。私はアンタの心に聞いてるの。――私が欲しい? 欲しくない? 欲しいならこの剣を取って! 私を抱きしめて! アンタがいれば、他には何も欲しくない!」

「――ッ!」

 
 ――思考など、とうに投げ出していた。ライはかすかに唸ると衝動的に手を伸ばした。
 剣を持った細い手首を掴み、剣ごと引き寄せる。ぎりぎりで切っ先をかわした雌猫の頭を掴むと、その唇を思うさま貪った。

  が背中を抱き込む。噛み付くような口付けを一旦途切れさせると、ライは一度だけその耳に向かって吹き込んだ。


「生涯、共にいろ。何があっても離れるな。……お前だけが、俺のつがいだ」



 目を見開いた が頬をサッと染める。ライの顔を見つめ返した雌猫は、『反則……』と呟いた後に告げた。――誓う、と。




 求めた絆は今、この手の中にある。




  が綻ぶように笑う。その顔を眺めていたライは、しかし数秒後に雌猫を硬い床へと押し倒した。

「うわ……ッ、きゃあ! ――いった……いきなり何!?」

「……限界だ。細かい事は後だと言ったな。さっそく付き合ってもらう。――抱くぞ」

「…! ……ッ、ア、アンタね……」


  の唇が震える。だが性急な手付きに声を上げかけた雌猫は、一度大きく息を吐いてから突然ライの唇にガツッと唇を重ねてきた。そして挑むように笑ったのだった。

「……望むところよ!」




 






 きっと、一目惚れだった。

 初めて森で会った時から、その白い髪に薄青の瞳に、少しばかり素直でない心に……惹かれていた。

 その猫と出会えた事は、きっと生涯で一番の幸運な出来事。





 そして金の賛牙は高らかに歌う。

 最愛の闘牙のために

 ――魂を、重ねて。











FIN.



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